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渇望の手は空虚のみ掴む
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大きな川が、目の前を流れている。水の音は耳に届かない。風さえも死に絶えたように、何の音も聞こえない。不気味な静寂が、辺りを満たしていた。
そうか、僕は死んだのか。あっさりと納得し、何とは無しに背後を振り返ってみる。けれどそこには何も無く、空虚で空疎な荒野だけがのっぺりと広がっていた。
ふと、自分が昔の子供っぽい姿に戻っていることに気付いた。金と黒の毛皮にすっぽりと収まってしまう、小さくて弱々しい体をしていた。
なんだか嫌だなあと思ったが、地上に帰れば元に戻るだろうと気を取り直す。ここに立っているのは自分の一部分だけなのだということも、誰に教えられるまでもなく感じていた。
自分の半分はもう地上に戻っていて、風の神やすぐ馬鹿にしてくるあの神と、何か話をしているのが分かる。耳を澄ませると、その声が遠くから聞こえているような気がする。
ならば、自分も早く戻らなければ。ぐずぐずしていたら、またあの神に馬鹿にされるかもしれないから、早く。
そう思って歩き出した時、気付いた。どうして今まで気付かなかったのかも分からないほど大切な、そのことに。
金色と黒の綺麗な毛皮。きちんと座った、しなやかで大きな体。影のようにひっそりと、懐かしい姿がそこに居た。
「……っ!」
声も出ない。考える前に、体が動いていた。駆け寄ってその大きな体を抱き締める。声も出せないままに、柔らかい毛皮に顔を擦り付けた。
大きいその体は、柔らかでふかふかする毛皮は、冷え切っていて、温かさが全くなくて。けれど確かに、大好きな、大切な、あいつだった。
ずっとお前に会いたかった。お前が恋しかった。そう訴えることもできずに、毛皮に顔を押し付ける。安心の涙が零れそうになって、堪え切れなくて、声を立てずに嗚咽した。そうしながら、自分に驚き、慄いていた。
なんで忘れていたんだろう。僅かの間でも、どうして忘れることができたんだろう。
あの高い場所に上りたかったのも、誰より強くなりたかったのも、知識と知恵をを求めたのも、何もかもはこいつのためだった。こいつに会いたくて、こいつを取り戻したくて、必死だった。なのにどうして、そんな根本的なことを忘れることができたんだろう。
けれど、もう忘れない。もう二度と、もう決して。
もう離れない。もう離さない。しっかりとそいつに抱き着いて、そいつを抱き締めて、こみ上げる幸福に唇を緩めて。けれどその時、ふと気付いた。
そいつが声も立てないことに、あの頃のように喜んで唸ってほっぺたを舐めてもくれないことに、その時ようやく気付いて、不思議に思って。どうしたんだよ、と顔を覗き込んだ。
そいつは、とても悲しそうな目をしていた。あの優しい金色の目は、見たこともないような悲しくて寂しい色をしていた。
どうしてそんな悲しそうな目をしているのかが分からない。おろおろして、そいつの首を撫でた。どうしたんだよ、もうそんな顔しなくていいんだよ、と伝えるために。
もう二度と、こいつのことを誰にも傷付けさせたりしない。今度こそ守ってみせる。この手で、何者からも、どんなに強く恐ろしい相手からも。
だから安心してくれていいのに、また嬉しそうに唸ってざらざらする舌でほっぺたを舐めて欲しいのに。そいつはやはり悲しそうに見つめるばかりで、少しも動かなかった。
どうして。どうして。困惑と混乱に泣き出しそうになっていた時、低い声が背中に掛かった。
「無駄だ」
はっとして振り返る。武器を構えそうになったが、すんでで堪えた。その声の主が誰なのかを、直感的に理解したから。
初めて会うその二柱の神々は、確かに冥府の神ミクトランテクトリと、その配偶神ミクトランシワトルだった。確かにそうだと分かる気配を振り撒いて、その二神は静かに佇んでいた。
数え切れないテコロトルがいつの間にか、周りを幾重にも取り囲んでいる。声も立てずに、丸い目を静かに光らせて自分を見つめている。その冷たい眼差しに曝されながら、くっと息を飲んだ。
「……ご挨拶できることを、光栄に思います。尊く賢き、冥府の主神どのに」
恭しく挨拶をして丁寧な礼をしながら、頭を働かせる。どうやって許しを乞えばいい。どうすれば、こいつを連れ帰る許可が貰える。必死で頭を巡らせていた、その時だった。
「無駄だ。その獣は、地上へは帰れない」
無感動な声に、はっと顔を上げる。やはり無感動で暗い落ち窪んだ目に、思わず尋ねていた。
「どうして」
自分にはこいつが必要なのだ。こいつを取り戻すために、それだけのために、力を得たのだ。なのに、どうしていけないのだ。
困惑しながら言葉を探していると、ふ、と冥府の主は溜息を吐いた。それとももしかしたら、笑ったのかもしれない。
「お前は、その獣の皮を剥いだな」
「はい」
思いがけない質問に、戸惑いながらも頷く。今も身に付けている、大切な毛皮。くじけそうな時は勇気をくれた。寂しい時はそれにしがみついて目を閉じた。ずっと自分を支えてくれた、この宝物。
なのに。冥府の神は、思いがけないことを言った。
「皮を剥いで着るのは、それに成り代わることだ。お前はその獣の皮を剥いで、その獣になった。地上にはお前が成り変わった獣がいるから、この獣は二度と地上には帰れない」
言われたことを、初め理解できなかった。理解したくなかったのかもしれない。
けれど、じわじわと理解が追い付いてくる。血の気が引くのを感じた。足元が崩れ落ちるような感覚に、思わずよろめいた。
嘘だ。嘘だ。叫びたい言葉が喉までこみ上げる。それを見透かしたように、冥界の神は静かに答えた。
「残念ながら、嘘ではない。それが、その獣が地上に帰れない唯一の理由だ」
嘘だ。弱々しく胸の声が呟いても、それが嘘でないことは分かっていた。
今度こそ立っていられなくなって、いつの間にかへたり込んでいた。震える手で、無意識に毛皮を握りしめる。
これを着ていると、大切なあいつがまだ傍に居るように感じられた。あいつが傍で見守ってくれているように思えた。あいつを取り戻すと決めてからは、その決意を忘れないために縋り続けた。
なのに、自分がそんなことをしたせいで、あいつは二度と地上に帰れないのだ。もう二度と、一緒に暮らすことができないのだ。
この自分が依代を求めるほどに、愚かで弱かったせいで。自分が孤独を怖がったせいで。この自分の、せいで。
「……なら」
泣き出すのを堪えながら、言葉を押し出した。震える足で、よろよろと立ち上がる。
「なら、僕もここに残る。僕も地上に戻らない!」
「駄目だ」
「どうして!」
それさえもあっさりと封じられて、地団駄を踏みたいようなもどかしさに襲われる。何故分かってくれない。自分にはそいつが必要なのに、そいつがいない地上になんて何の意味もないのに。
悔しさに涙が流れる。涙に歪む視界で、冥府の神は憐れむような顔をした気がした。けれどその声は相変わらず、淡々としていた。
「お前の一部は、既に地上に戻った。お前も戻らずにはいられない。自分の半身に呼ばれているのを、感じるだろう」
「嫌だ、帰りたくない! 帰らない! もうこいつと離れたくない!」
もう自分を抑えられずに叫び散らしながらも、それが真実なのも分かっていた。自分の半身はずっと自分を呼び続けている。そんな不要な繋がりなんて、断ち切ってしまいたいのに。地上になんて、大切な獣の居ない場所になんて、二度と帰りたくないのに。
もう、涙も出ない。打ちのめされて、打ちひしがれて、いつの間にかまた座り込んでいた。
冷たい柔らかいものが寄り添ってくれて、ぼんやりと目を向ける。涙に歪んだままの視界で、大好きで大切なそいつが悲しい目をしていた。
こいつも帰れないと分かっているんだと、それを理解しているんだと、それを受け入れているんだと、分かってしまった。だから自分が未練を残さないように、優しくしないんだと。諦めて帰れと、その目は言っていた。
けれど、そんなことはできない。したくない。こいつの居ない地上でずっと暮らすくらいなら、自分の喉を掻き切って冥府に降りた方がずっといい。いっそ今そうしようと、無意識に武器に手が伸びた。
「馬鹿なことは考えるな」
「っ!?」
呆れた声で手を押さえられて、はっとする。呆然と見上げると、冥府の神はいつの間にかすぐ近くに来ていた。
落ち窪んだ暗い目が、確かめるように目を覗き込む。そして、ふぅと溜息を漏らすのが聞こえた。
「会いに来ることは、許してやろう。いつでもとはいかないが」
「……え」
思いがけない提案に目を見開く。やはり暗い目をしている神は、淡々と言葉を継いだ。
「代わりに、働いてもらう。こちらとしても、地上を行き来する使者が欲しい」
それがこの神の「思い遣り」でも「計略」でも「罠」であっても、なんでも良かった。他に、選ぶべき道なんてない。
「わか、った」
声を絞り出して頷くと、冥府の主も頷いた。指先でテコロトルの一羽を招き寄せる。
テコロトルが自ら引き抜いて差し出した羽根を、冥府の主はこちらの装束につけてくれた。ぞっとするような、冷たい指だった。
「それが使者の証。役目を決して忘れるな、チャルチウテコロトル」
「……はい」
それが使者として与えられた名前なのだと分かったから、深く礼をした。涙を拭って、ゆっくりと立ち上がって、装束を直して。そして最後にもう一度、大切な獣を抱き締めた。
「また来るから。絶対、会いに来るから」
だから忘れないで。僕ももう忘れないから。言葉にもできずに、きつくきつく抱き締める。
冷たい舌が、頬を舐めた気がした。
「おい、何ぼーっとしてんだ?」
「っ!?」
声を掛けられて、はっと我に返る。呆れた顔のその神は、いつもの嘲りの笑みを浮かべた。
「んだよ、立ったまま寝てんのか?」
「……馬鹿言うなよ」
反射的に言い返しながら、ぼんやりする頭を軽く振った。ついさっきまで自分が何をしていたのかが、よく思い出せない。
暗い場所で、知らない神と話していた気もする。ずっとここで、こいつと居たような気もする。自分が二柱いるような気分だった。
「おいおい、マジで寝ぼけてんのか? あいつに心臓掴み出された時に、頭も殴られたか?」
「……そうかも」
「違えよ、馬鹿。お前がぼんやりしてるだけだよ」
呆れた声は聞き流して、もう一度頭を振る。少しはっきりしてきた意識で、周りを見回してみる。あの風の神が何か言いたそうにこちらを見ているから、嘲笑を向けてやった。
「なんだよ、何か用?」
「い、いや……」
狼狽えたように風の神は目を逸らす。ふんと鼻で笑って、もう気にしないことにした。つまらなそうに様子を見ていたその兄弟神にねだる。
「なあ、したい。しよう?」
◯補足
・チャルチウテコロトル神
「テスカトリポカ神の別名のひとつが『チャルチウテコロトル:尊い梟』」「梟(テコロトル)は地下の冥界ミクトランと地上とを行き来し、ミクトランの主ミクトランテクトリと関連深い鳥だとされた」の二つは事実ですが、チャルチウテコロトル神の神格はまだ確かな学説がないようなので、「チャルチウテコロトル神は冥府と関係がある」というのはこの小説での独自設定です。
そうか、僕は死んだのか。あっさりと納得し、何とは無しに背後を振り返ってみる。けれどそこには何も無く、空虚で空疎な荒野だけがのっぺりと広がっていた。
ふと、自分が昔の子供っぽい姿に戻っていることに気付いた。金と黒の毛皮にすっぽりと収まってしまう、小さくて弱々しい体をしていた。
なんだか嫌だなあと思ったが、地上に帰れば元に戻るだろうと気を取り直す。ここに立っているのは自分の一部分だけなのだということも、誰に教えられるまでもなく感じていた。
自分の半分はもう地上に戻っていて、風の神やすぐ馬鹿にしてくるあの神と、何か話をしているのが分かる。耳を澄ませると、その声が遠くから聞こえているような気がする。
ならば、自分も早く戻らなければ。ぐずぐずしていたら、またあの神に馬鹿にされるかもしれないから、早く。
そう思って歩き出した時、気付いた。どうして今まで気付かなかったのかも分からないほど大切な、そのことに。
金色と黒の綺麗な毛皮。きちんと座った、しなやかで大きな体。影のようにひっそりと、懐かしい姿がそこに居た。
「……っ!」
声も出ない。考える前に、体が動いていた。駆け寄ってその大きな体を抱き締める。声も出せないままに、柔らかい毛皮に顔を擦り付けた。
大きいその体は、柔らかでふかふかする毛皮は、冷え切っていて、温かさが全くなくて。けれど確かに、大好きな、大切な、あいつだった。
ずっとお前に会いたかった。お前が恋しかった。そう訴えることもできずに、毛皮に顔を押し付ける。安心の涙が零れそうになって、堪え切れなくて、声を立てずに嗚咽した。そうしながら、自分に驚き、慄いていた。
なんで忘れていたんだろう。僅かの間でも、どうして忘れることができたんだろう。
あの高い場所に上りたかったのも、誰より強くなりたかったのも、知識と知恵をを求めたのも、何もかもはこいつのためだった。こいつに会いたくて、こいつを取り戻したくて、必死だった。なのにどうして、そんな根本的なことを忘れることができたんだろう。
けれど、もう忘れない。もう二度と、もう決して。
もう離れない。もう離さない。しっかりとそいつに抱き着いて、そいつを抱き締めて、こみ上げる幸福に唇を緩めて。けれどその時、ふと気付いた。
そいつが声も立てないことに、あの頃のように喜んで唸ってほっぺたを舐めてもくれないことに、その時ようやく気付いて、不思議に思って。どうしたんだよ、と顔を覗き込んだ。
そいつは、とても悲しそうな目をしていた。あの優しい金色の目は、見たこともないような悲しくて寂しい色をしていた。
どうしてそんな悲しそうな目をしているのかが分からない。おろおろして、そいつの首を撫でた。どうしたんだよ、もうそんな顔しなくていいんだよ、と伝えるために。
もう二度と、こいつのことを誰にも傷付けさせたりしない。今度こそ守ってみせる。この手で、何者からも、どんなに強く恐ろしい相手からも。
だから安心してくれていいのに、また嬉しそうに唸ってざらざらする舌でほっぺたを舐めて欲しいのに。そいつはやはり悲しそうに見つめるばかりで、少しも動かなかった。
どうして。どうして。困惑と混乱に泣き出しそうになっていた時、低い声が背中に掛かった。
「無駄だ」
はっとして振り返る。武器を構えそうになったが、すんでで堪えた。その声の主が誰なのかを、直感的に理解したから。
初めて会うその二柱の神々は、確かに冥府の神ミクトランテクトリと、その配偶神ミクトランシワトルだった。確かにそうだと分かる気配を振り撒いて、その二神は静かに佇んでいた。
数え切れないテコロトルがいつの間にか、周りを幾重にも取り囲んでいる。声も立てずに、丸い目を静かに光らせて自分を見つめている。その冷たい眼差しに曝されながら、くっと息を飲んだ。
「……ご挨拶できることを、光栄に思います。尊く賢き、冥府の主神どのに」
恭しく挨拶をして丁寧な礼をしながら、頭を働かせる。どうやって許しを乞えばいい。どうすれば、こいつを連れ帰る許可が貰える。必死で頭を巡らせていた、その時だった。
「無駄だ。その獣は、地上へは帰れない」
無感動な声に、はっと顔を上げる。やはり無感動で暗い落ち窪んだ目に、思わず尋ねていた。
「どうして」
自分にはこいつが必要なのだ。こいつを取り戻すために、それだけのために、力を得たのだ。なのに、どうしていけないのだ。
困惑しながら言葉を探していると、ふ、と冥府の主は溜息を吐いた。それとももしかしたら、笑ったのかもしれない。
「お前は、その獣の皮を剥いだな」
「はい」
思いがけない質問に、戸惑いながらも頷く。今も身に付けている、大切な毛皮。くじけそうな時は勇気をくれた。寂しい時はそれにしがみついて目を閉じた。ずっと自分を支えてくれた、この宝物。
なのに。冥府の神は、思いがけないことを言った。
「皮を剥いで着るのは、それに成り代わることだ。お前はその獣の皮を剥いで、その獣になった。地上にはお前が成り変わった獣がいるから、この獣は二度と地上には帰れない」
言われたことを、初め理解できなかった。理解したくなかったのかもしれない。
けれど、じわじわと理解が追い付いてくる。血の気が引くのを感じた。足元が崩れ落ちるような感覚に、思わずよろめいた。
嘘だ。嘘だ。叫びたい言葉が喉までこみ上げる。それを見透かしたように、冥界の神は静かに答えた。
「残念ながら、嘘ではない。それが、その獣が地上に帰れない唯一の理由だ」
嘘だ。弱々しく胸の声が呟いても、それが嘘でないことは分かっていた。
今度こそ立っていられなくなって、いつの間にかへたり込んでいた。震える手で、無意識に毛皮を握りしめる。
これを着ていると、大切なあいつがまだ傍に居るように感じられた。あいつが傍で見守ってくれているように思えた。あいつを取り戻すと決めてからは、その決意を忘れないために縋り続けた。
なのに、自分がそんなことをしたせいで、あいつは二度と地上に帰れないのだ。もう二度と、一緒に暮らすことができないのだ。
この自分が依代を求めるほどに、愚かで弱かったせいで。自分が孤独を怖がったせいで。この自分の、せいで。
「……なら」
泣き出すのを堪えながら、言葉を押し出した。震える足で、よろよろと立ち上がる。
「なら、僕もここに残る。僕も地上に戻らない!」
「駄目だ」
「どうして!」
それさえもあっさりと封じられて、地団駄を踏みたいようなもどかしさに襲われる。何故分かってくれない。自分にはそいつが必要なのに、そいつがいない地上になんて何の意味もないのに。
悔しさに涙が流れる。涙に歪む視界で、冥府の神は憐れむような顔をした気がした。けれどその声は相変わらず、淡々としていた。
「お前の一部は、既に地上に戻った。お前も戻らずにはいられない。自分の半身に呼ばれているのを、感じるだろう」
「嫌だ、帰りたくない! 帰らない! もうこいつと離れたくない!」
もう自分を抑えられずに叫び散らしながらも、それが真実なのも分かっていた。自分の半身はずっと自分を呼び続けている。そんな不要な繋がりなんて、断ち切ってしまいたいのに。地上になんて、大切な獣の居ない場所になんて、二度と帰りたくないのに。
もう、涙も出ない。打ちのめされて、打ちひしがれて、いつの間にかまた座り込んでいた。
冷たい柔らかいものが寄り添ってくれて、ぼんやりと目を向ける。涙に歪んだままの視界で、大好きで大切なそいつが悲しい目をしていた。
こいつも帰れないと分かっているんだと、それを理解しているんだと、それを受け入れているんだと、分かってしまった。だから自分が未練を残さないように、優しくしないんだと。諦めて帰れと、その目は言っていた。
けれど、そんなことはできない。したくない。こいつの居ない地上でずっと暮らすくらいなら、自分の喉を掻き切って冥府に降りた方がずっといい。いっそ今そうしようと、無意識に武器に手が伸びた。
「馬鹿なことは考えるな」
「っ!?」
呆れた声で手を押さえられて、はっとする。呆然と見上げると、冥府の神はいつの間にかすぐ近くに来ていた。
落ち窪んだ暗い目が、確かめるように目を覗き込む。そして、ふぅと溜息を漏らすのが聞こえた。
「会いに来ることは、許してやろう。いつでもとはいかないが」
「……え」
思いがけない提案に目を見開く。やはり暗い目をしている神は、淡々と言葉を継いだ。
「代わりに、働いてもらう。こちらとしても、地上を行き来する使者が欲しい」
それがこの神の「思い遣り」でも「計略」でも「罠」であっても、なんでも良かった。他に、選ぶべき道なんてない。
「わか、った」
声を絞り出して頷くと、冥府の主も頷いた。指先でテコロトルの一羽を招き寄せる。
テコロトルが自ら引き抜いて差し出した羽根を、冥府の主はこちらの装束につけてくれた。ぞっとするような、冷たい指だった。
「それが使者の証。役目を決して忘れるな、チャルチウテコロトル」
「……はい」
それが使者として与えられた名前なのだと分かったから、深く礼をした。涙を拭って、ゆっくりと立ち上がって、装束を直して。そして最後にもう一度、大切な獣を抱き締めた。
「また来るから。絶対、会いに来るから」
だから忘れないで。僕ももう忘れないから。言葉にもできずに、きつくきつく抱き締める。
冷たい舌が、頬を舐めた気がした。
「おい、何ぼーっとしてんだ?」
「っ!?」
声を掛けられて、はっと我に返る。呆れた顔のその神は、いつもの嘲りの笑みを浮かべた。
「んだよ、立ったまま寝てんのか?」
「……馬鹿言うなよ」
反射的に言い返しながら、ぼんやりする頭を軽く振った。ついさっきまで自分が何をしていたのかが、よく思い出せない。
暗い場所で、知らない神と話していた気もする。ずっとここで、こいつと居たような気もする。自分が二柱いるような気分だった。
「おいおい、マジで寝ぼけてんのか? あいつに心臓掴み出された時に、頭も殴られたか?」
「……そうかも」
「違えよ、馬鹿。お前がぼんやりしてるだけだよ」
呆れた声は聞き流して、もう一度頭を振る。少しはっきりしてきた意識で、周りを見回してみる。あの風の神が何か言いたそうにこちらを見ているから、嘲笑を向けてやった。
「なんだよ、何か用?」
「い、いや……」
狼狽えたように風の神は目を逸らす。ふんと鼻で笑って、もう気にしないことにした。つまらなそうに様子を見ていたその兄弟神にねだる。
「なあ、したい。しよう?」
◯補足
・チャルチウテコロトル神
「テスカトリポカ神の別名のひとつが『チャルチウテコロトル:尊い梟』」「梟(テコロトル)は地下の冥界ミクトランと地上とを行き来し、ミクトランの主ミクトランテクトリと関連深い鳥だとされた」の二つは事実ですが、チャルチウテコロトル神の神格はまだ確かな学説がないようなので、「チャルチウテコロトル神は冥府と関係がある」というのはこの小説での独自設定です。
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