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最初の朝に神代は終わる
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「あーだりい、なんでお前なんかと」
「諦めが悪いぞ、ショロトル」
諌めながら、ケツァルコアトルも苛立ちの溜息を飲み込んだ。何故自分が、何故このショロトルと、という思いは、ケツァルコアトルとてずっと噛み締めているのだ。
本当はケツァルコアトル自身だって、嫌で嫌で仕方がないのだ。こんな下劣で穢らわしい兄弟神との道行きなど。けれど、他にどうしようもない。
人間をもう一度創るためには、洪水に押し流されて死に絶えた「かつての人間」の骨がどうしても必要なのだ。それを管理している冥界の神をなんとか宥めて、地上へと骨を持ち帰らなくてはならないのだ。それにはこのショロトルが適任の道案内だと、他の神々は口を揃えて言った。
ケツァルコアトルが知らない間にどんな妙な術を身に付けたのか、この兄弟神は時折冥界と地上を行き来しているらしい。死んだ魂を道案内する犬達にも、妙に懐かれている。だからケツァルコアトルとしては嫌で嫌で仕方がないものの、ぶつくさ文句を言う兄弟神とともに冥府に降りて行く以外にどうしようもないのだ。
「見えてきたぞ」
「ああ」
ショロトルに言われるまでもなく、冥界の神と女神の住まいは、もうケツァルコアトルの目にも見えていた。
冥界の主の出した試練はこなして骨を受け取ったものの、その神の目付きが気になったので早々に地上へ帰ることにした。あの分では、いつ気を変えて骨を取り返しに来るか知れたものではない。
「急げよ」
「分かっている」
兄弟神に急かされるまでもなく、そんなことはケツァルコアトルにも分かっている。だから足を早めたのだが、足元に穴があることに気付いてすぐにまた立ち止まった。ショロトルもそれを見て取って、嫌そうな声で言う。
「従者どもが掘ったんだろ。気を付けろよな、骨は落とすんじゃねえぞ」
「分かっている」
また答えて、慎重に歩みを進める。だがふと聞こえた声に気を取られた途端に、ケツァルコアトルは穴に落ち込んでしまった。
「馬鹿か、お前は!?」
兄弟神の狼狽えた声が遠い。深く深く掘られていた穴の底へと落ちて行くのが分かる。そして激しい衝撃と共に、ケツァルコアトルは気を失った。
あの少年神が、オセロトルと遊んでいる。樹々の間を走り回り、じゃれ合い、声を上げて笑う。その温かい明るい笑い声が、ケツァルコアトルの冷え切った胸に優しく響く。
これは夢だ。
分かっていても、つい足を進めてしまった。こちらに気付いて立ち止まる少年神へと、手を伸ばす。少年神は不思議そうな顔をしたが、嬉しげに笑ってくれた。
あともう少しで、その頬に手を触れることができるというところで。その柔らかな頬に触れる、ほんの僅かに前で。
引き摺り戻されるような感覚と共に、全てが白く塗り潰された。
「ったく、言ったそばから何やってんだ、馬鹿野郎」
悪態を吐くショロトルを茫然と見上げてから、ケツァルコアトルはひとまず身を起こした。全身が痛むが、動くことはできる。
穴の中に降りてきて何か手当てをしてくれたらしいショロトルは、呆れた顔をしながら立ち上がって土を払っている。まだ何か文句を言っているので、とりあえず詫びた。
「すまない」
「んだよ、気味悪ぃな」
怪訝な顔をしたショロトルが、勢いを削がれたように口を閉じる。その顔から目を離し、こっそり溜息を吐きながら、ケツァルコアトルは穴から出た。
見回しても、その獣の姿はない。やはり聞き間違いだったのだろうか。
あのオセロトルの声が、聞こえた気がしたのだ。遠く微かな声が、ケツァルコアトルを呼んだ気がしたのだ。
あのかけがえのない獣を死の国から連れ戻すことができたなら、元通りになる気がしたのだ。あのオセロトルとともに地上に帰ったなら、あの青年神がもう一度、あのきらきらする笑顔で笑ってくれるように思えたのだ。
けれど、それも儚い夢でしかない。死の国を見回しても、あの獣の姿はどこにもなかった。もしかしたら、ここには居ないのかも知れない。その魂はどこか違う、もっと明るい楽園に導かれ、花々の間で遊んでいるのかも知れない。
また溜息を吐いた時、後から穴を出てきたショロトルが何かを見ているのに気付いた。視線を追う前に、その手が何かを指差す。
「ところで、どーすんだよ、それ?」
「何がだ? ……っ!」
何のことだと尋ねる前に、ようやくケツァルコアトルも気付いた。大切な骨がそれを包んでいた布から飛び出し、啄まれるか囓られるかして、無残に砕けている。
慌てて拾い集めても、それは手の中でまた崩れる。どうすればいいと泣き出したくなった時、ショロトルが面倒臭そうな声を出した。
「もう仕方ねえだろ。とりあえず持ってけば、地上で他の奴らがどうにかすんじゃねーの?」
ショロトルが言った通りだった。他の神々と約束していたタモアンチャン「もやの多い土地」へと持ち帰った砕けた骨は、「どうにか」なった。
シワコアトル「蛇の女」がつき砕いた骨は神々の血と混ぜ合わされ、新たな人間として産声を上げた。彼らのために食物を探しに行く支度をしながら、ケツァルコアトルは最初に目についたショロトルに頼んでいくことにした。
「ショロトル、彼らに何か食べさせておいてくれ」
「はぁ? 何で俺が……」
「任せたぞ」
「待てっての!」
見かけた赤蟻に案内されて辿り着いたトナカテペトル「食糧の山」には、人間が食べるべきものが豊富に詰まっていた。その中から選んで持ち帰ったトウモロコシを噛み砕いて赤子に含ませると、赤子達は喜びの声を上げてすくすくと育ち始める。その様子に神々が胸を撫で下ろしていると、不満げな声が横から混ぜ返してきた。
「んだよ、俺がやったアザミの汁よりそれがいいってか?」
「うるさいぞ、ショロトル」
ぶつぶつと不満げな兄弟神は放っておき、トナカテペトルをどうするかを他の神々と協議する。もっと便利な場所に運んでみようかという話になったので担ごうとしてみたが、重すぎた。
考えてばかりいても、何も始まらない。既に老齢の域に達している二人の人間「オショモコ」「シパクトナル」に占ってもらうと、弱々しい神ナナウアツィンにならばできるとの答えだった。ケツァルコアトルや雨の神々も手伝いながらそれをさせると、山はあっさりと割れ砕けた。
「ケツァルコアトル、それを風に乗せて大地に振り蒔いてくれ。雨の神々が水を遣れば、豊かに育つだろう」
「承知した」
民は生まれ、食糧は得られた。だが、まだ空には光がない。
どの神があの王座に相応しいか、どうやって選ぶのが適切か。また協議を始めたものの、話はなかなか纏まらない。その時、澄んだ声があらぬ方から掛けられた。
「輝くものになりたいのか?」
涼やかな声に、はっとして振り返る。そこに居たのは、やはり彼だった。
いつからそこに居たのか、青年神は岩の上に腰を下ろして面白そうに神々を眺めていた。その失われた足の代わりのように、イツトリの鏡は黒々とした妖しい煌めきを振り撒いていた。
ぞっとするほど妖艶な彼の気配に飲まれて声も出せない神々を見回し、青年神は喉を震わせて笑った。気軽な口調で言う。
「手伝ってやるよ」
あっさりと言った青年神が、何か道具を取り出して身を屈める。眼差しの呪縛が解けてやっと息をすることを思い出したケツァルコアトルは、何か奇妙な匂いに気付いた。それの出所を辿る前に、青年神の手元に光が生まれる。
「っ!」
ざわめきが細波のように広がる。怖々と遠巻きに見る神々へと、青年神は自慢げな顔をしてそれを差し出した。神々の驚きを楽しむように笑う。
「この『火』で燃やせば、天の王座に相応しくもなれるさ」
新たな「太陽」そして「月」は選ばれ、ケツァルコアトルの起こした風で天へと吹き送られた。なのに傲慢なその光は、犠牲を欲しがって動きもしない。その傲慢さに憤ったトラウィスカルパンテクトリ「曙の主」が槍を投げつけたが届かず、逆に仕返しをされて終わった。
「別にいいだろ。欲しがるなら、やれば」
どうしたものかとまた協議が始まろうとした時、それを遮ったのは青年神だった。当たり前のことを言うような、あっけらかんとしたその口調。
「しかし、誰を……」
「僕たち神々でいいだろ」
あっさりとした口調に、神々がざわめく。うるさそうな顔をした青年神は、面倒臭そうに言葉を付け足した。
「別に、本当に死ぬわけじゃないよ。神々は冥府に行ってもまた戻れる。この大地での命を捨てるだけだ」
「しかし……」
「なんだよ、怖いの?」
美しい顔にありありと浮かぶ嘲笑が、反論しようとした神の威勢を削いだらしい。ふんと鼻で笑った青年神は、身を寄せ合って不安げに神々の協議を見守っている人間達へと目を向けた。
「これからはこの国は、こいつらのモノだから。僕らは、地上には居ない方がいい」
なんでもない事を言うような口調は、神々の考えさえも変えさせる。そうしようと話が纏まりかけたが、また混ぜ返したのはやはりあの不作法な神だった。
「はぁ? 嫌に決まってんだろ。やりたきゃ、お前らだけでやれよ」
言い捨てたショロトルが、さっと獣に身を変じて駆け去っていく。ケツァルコアトルは驚いてその後を追おうとしたが、青年神の呆れた声に制された。
「別にいいよ、ほっとけよ」
「だが……」
「犠牲はこれだけ神々が居れば足りるだろ。あいつだけ地上に置き去りってだけだろ」
だからいいよ、ほっとけば。あっさりと言い切る青年神を、ケツァルコアトルはつい見つめた。尋ねなくてはならない言葉が、胸の中で鬩ぎ合う。
あの邪悪な兄弟神を、この美しい青年神は頼りにしているのではなかったのか。傷が疼くから傍に居てほしいと、ケツァルコアトルに呼び出させるほどに。
君はそれでいいのか。思わず、そんな言葉が口を突きそうになる。汲み取ったらしい青年神は、興味もなさげに呟いた。
「いいよ、あんな奴。居ても居なくても」
青年神の言葉に押し切られたわけではないが、結局はショロトル抜きでそれを始めることになった。ぬらぬらと黒いイツトリのナイフを渡されたケツァルコアトルが、神々の心臓をひとつ、またひとつと、抜き出していく。
地上での命を終えた神々の骸は、それぞれに袋に詰められた。袋はひとつ、またひとつと増えていく。噎せ返るような血の臭いに目眩を覚えながら、ケツァルコアトルはひたすらに手を動かした。
「僕で最後?」
さらりとした声に、血の香に半ば朦朧としていたケツァルコアトルははっと我に返った。顔を上げると、もうすぐ傍にその青年神がいる。
青年神はあっさりと石台の上に横たわり、目を閉じた。端正なそのかんばせは安らかに眠ったようでもあり、けれど花のような命の色を色濃く宿している。
何かを言わなければならないような気がした。血と汗に滑るナイフを握り直し、ケツァルコアトルは言葉を探した。
「怖くないから……」
言ってしまってから、それが馬鹿げた言葉であることに思い至る。目を開けた青年神は、やはり呆れたような顔をした。
「別に怖くないよ」
「だ、が……」
「早くしろよ」
急き立てた青年神が、また目を閉じる。ケツァルコアトルの手を、その心臓を取り出す無慈悲な手を、静かに待っている。眩暈と絶望を感じても、他にどうしようもない事も分かっていた。
閉じられた瞼の上に自分の手を翳してやりながら、覚悟を決めてその胸に刃を沈みこませる。自分が刺し貫かれるような痛みが、ケツァルコアトルの胸を襲った。
びく、と青年神の体が震える。だがそれに臆する隙さえ、ケツァルコアトルには与えられなかった。
「早く、やれよ。さっさと」
苦痛を堪えていると分かる声に急かされれば、他にどうすることもできない。泣き出したい思いで、ケツァルコアトルはナイフを動かして青年神の胸を切り開いた。
僅かに寄せられる眉、苦しげで切れ切れの吐息。僅かな苦痛の声に手が止まりそうになるが、もう後戻りはできない。始めた事は、終わらせなくては。
「ぁ、……ぐ、……っ」
「あと少しだから、直ぐに終わらせるから」
囁き掛ける声はきっと届いていないと分かっていても、言わずにはいられなかった。他の神々の心臓を取り出す間は努めて聞かないようにしていた苦痛の声が、胸を締め付ける。青年神の苦痛が、それを与えているのが自分なのだということが、苦しくて堪らない。
姿を現した心臓を取り出そうと手を伸ばして、また躊躇った。これを抜き取ってしまえば、もう戻れない。二度と、彼に命を返してやれない。けれど、彼が、彼自身が、それを望んでいるのだ。
きつく目を閉じ、その心臓を掴み出す。青年神がびくっと体を震わせ、そしてその体から力が抜けた。
吐息だけで、ケツァルコアトルではない誰かを呼んだのが、聞こえた。
よろめく手足で青年神の心臓も太陽に捧げ、崩れ落ちるように青年神の骸の傍に膝を着いた。
涙が止まらない。いつから流れていたのかも分からない涙は、後から後から流れてとめどなく頬を濡らす。ケツァルコアトルはただ泣きながら、茫然として青年神の死に顔を見つめていた。
苦痛の影にすら汚されていない、美しいかんばせ。まだ血の色の残っている滑らかな頬、微かな微笑みの漂う形の良い唇。
けれど彼の命は、もうここには居ないのだ。ケツァルコアトル自身の手が、その命を摘み取ったのだ。
震える手で、台から垂れ落ちていた青年神の手に触れる。その手にはまだ、温もりが残っていた。
「マジでやったのかよ」
呆れた声に我に返る。まだ泣き止むことができないままに、ケツァルコアトルは顔を上げた。
逃げ出した筈の兄弟神が、呆れた様子で歩み寄ってくる。青年神の、その骸の横たわる台の向こうに立ち、兄弟神は青年神の姿を眺め渡した。
「どうせお前、グズグズしたんだろ。傷がすげえ痛そうだな」
「っ!?」
反論もできず、自分が与えてしまった苦痛の大きさに慄く。そんなケツァルコアトルには構わず、ショロトルは青年神をひょいと抱き上げてしまった。
「ぁ……」
「終わったなら袋に入れてやれっての。お前がやらねえのに他の誰がやるってんだよ」
呆れ返った口調で言いながら、ショロトルは驚くほど優しい手付きで青年神を運び去ってしまう。空いている袋を見つけ出してそっと中に骸を収め、口を丁寧に閉じて、そして戻ってくる。その同じ手が、ケツァルコアトルの握ったままだったナイフを指差した。
「早くやれよ」
「……え」
不意を突かれるケツァルコアトルを尻目に、ショロトルがさっさと台の上に横たわる。天の光を忌々しそうな顔で睨みながら、何処か言い訳めいた口調でショロトルは言った。
「俺が居てやらねえと、寂しがる奴が居るからな」
その言葉に、ケツァルコアトルは胸を殴られるような衝撃を受けた。薄々察していた、気付かないふりをし続けた、青年神とこの兄弟神の間の絆。それをはっきりと言い示されて、胸は刺し貫かれるような痛みを訴えた。
この手をいつもすり抜けていく、あの美しい青年神。彼が望むのは、決してケツァルコアトルではないのだ。彼はこの兄弟神のもので、自分の手には入らないのだ。
その事実に打ちのめされた心に、不意に邪悪が忍び寄るのを感じた。悪しき声が、甘やかに誘惑する。
この邪悪な兄弟神を八つ裂きにしてしまえと、二度と天に帰れない姿に切り刻んでしまえと、声が囁く。その声は優しく甘く胸に響いた。
そうすればもしかしたら、あの青年神はケツァルコアトルを振り返ってくれるかもしれない。あの遠い遠い時のきらきらする笑顔を、取り戻してくれるかもしれない。ケツァルコアトルだけを見て、明るく笑ってくれるかもしれない。
そうだ。そうしたところで、誰もケツァルコアトルを咎めはしない。この兄弟神が犠牲になるために戻ったことを知るのは、ケツァルコアトルだけなのだから。他の神々も、あの青年神も、何も知らないのだから。
声に導かれるがままに、ナイフを翳そうとする。だがすんでのところで、幻のような声が耳に届いた。
『お前なんか居なくたって、別に良いよ』
「っ!」
弾かれるように振り返った先には、やはりその青年神がいた。美しい顔に呆れの表情を浮かべ、歩くというよりは滑るようにして近寄ってくる。そして台の端に腰を下ろし、ショロトルを急かす。
『来る気があるなら、早くしろよ』
「だとよ。早くしろよ」
ふてぶてしい笑いを取り戻したショロトルが、ケツァルコアトルを急かす。まだ心臓が騒いでいるのを感じながら、ケツァルコアトルはナイフを持ち直した。
太陽が初めて東の空から顔を見せたその時を、神々は「朝」と名付けた。最初の夜明けが世界を照らしたその朝、神々の時代は終わり、人間の時代は始まった。
人間は神々の流した血によって生まれ、神々の犠牲によって生まれた大地と太陽に生かされている。だから人間は、犠牲を捧げ続けなければならない。
いつか訪れるおしまいの時に、大地の身震いは太陽を滅ぼす。滅びの時を先延ばしにしたければ、犠牲は払われなければならない。
◯プチ解説
・タモアンチャン
この伝説上の地名(楽園)は実はアステカの言語のナワトル語ではなく、文中の意味はマヤ語での意味合いだそうです。
「諦めが悪いぞ、ショロトル」
諌めながら、ケツァルコアトルも苛立ちの溜息を飲み込んだ。何故自分が、何故このショロトルと、という思いは、ケツァルコアトルとてずっと噛み締めているのだ。
本当はケツァルコアトル自身だって、嫌で嫌で仕方がないのだ。こんな下劣で穢らわしい兄弟神との道行きなど。けれど、他にどうしようもない。
人間をもう一度創るためには、洪水に押し流されて死に絶えた「かつての人間」の骨がどうしても必要なのだ。それを管理している冥界の神をなんとか宥めて、地上へと骨を持ち帰らなくてはならないのだ。それにはこのショロトルが適任の道案内だと、他の神々は口を揃えて言った。
ケツァルコアトルが知らない間にどんな妙な術を身に付けたのか、この兄弟神は時折冥界と地上を行き来しているらしい。死んだ魂を道案内する犬達にも、妙に懐かれている。だからケツァルコアトルとしては嫌で嫌で仕方がないものの、ぶつくさ文句を言う兄弟神とともに冥府に降りて行く以外にどうしようもないのだ。
「見えてきたぞ」
「ああ」
ショロトルに言われるまでもなく、冥界の神と女神の住まいは、もうケツァルコアトルの目にも見えていた。
冥界の主の出した試練はこなして骨を受け取ったものの、その神の目付きが気になったので早々に地上へ帰ることにした。あの分では、いつ気を変えて骨を取り返しに来るか知れたものではない。
「急げよ」
「分かっている」
兄弟神に急かされるまでもなく、そんなことはケツァルコアトルにも分かっている。だから足を早めたのだが、足元に穴があることに気付いてすぐにまた立ち止まった。ショロトルもそれを見て取って、嫌そうな声で言う。
「従者どもが掘ったんだろ。気を付けろよな、骨は落とすんじゃねえぞ」
「分かっている」
また答えて、慎重に歩みを進める。だがふと聞こえた声に気を取られた途端に、ケツァルコアトルは穴に落ち込んでしまった。
「馬鹿か、お前は!?」
兄弟神の狼狽えた声が遠い。深く深く掘られていた穴の底へと落ちて行くのが分かる。そして激しい衝撃と共に、ケツァルコアトルは気を失った。
あの少年神が、オセロトルと遊んでいる。樹々の間を走り回り、じゃれ合い、声を上げて笑う。その温かい明るい笑い声が、ケツァルコアトルの冷え切った胸に優しく響く。
これは夢だ。
分かっていても、つい足を進めてしまった。こちらに気付いて立ち止まる少年神へと、手を伸ばす。少年神は不思議そうな顔をしたが、嬉しげに笑ってくれた。
あともう少しで、その頬に手を触れることができるというところで。その柔らかな頬に触れる、ほんの僅かに前で。
引き摺り戻されるような感覚と共に、全てが白く塗り潰された。
「ったく、言ったそばから何やってんだ、馬鹿野郎」
悪態を吐くショロトルを茫然と見上げてから、ケツァルコアトルはひとまず身を起こした。全身が痛むが、動くことはできる。
穴の中に降りてきて何か手当てをしてくれたらしいショロトルは、呆れた顔をしながら立ち上がって土を払っている。まだ何か文句を言っているので、とりあえず詫びた。
「すまない」
「んだよ、気味悪ぃな」
怪訝な顔をしたショロトルが、勢いを削がれたように口を閉じる。その顔から目を離し、こっそり溜息を吐きながら、ケツァルコアトルは穴から出た。
見回しても、その獣の姿はない。やはり聞き間違いだったのだろうか。
あのオセロトルの声が、聞こえた気がしたのだ。遠く微かな声が、ケツァルコアトルを呼んだ気がしたのだ。
あのかけがえのない獣を死の国から連れ戻すことができたなら、元通りになる気がしたのだ。あのオセロトルとともに地上に帰ったなら、あの青年神がもう一度、あのきらきらする笑顔で笑ってくれるように思えたのだ。
けれど、それも儚い夢でしかない。死の国を見回しても、あの獣の姿はどこにもなかった。もしかしたら、ここには居ないのかも知れない。その魂はどこか違う、もっと明るい楽園に導かれ、花々の間で遊んでいるのかも知れない。
また溜息を吐いた時、後から穴を出てきたショロトルが何かを見ているのに気付いた。視線を追う前に、その手が何かを指差す。
「ところで、どーすんだよ、それ?」
「何がだ? ……っ!」
何のことだと尋ねる前に、ようやくケツァルコアトルも気付いた。大切な骨がそれを包んでいた布から飛び出し、啄まれるか囓られるかして、無残に砕けている。
慌てて拾い集めても、それは手の中でまた崩れる。どうすればいいと泣き出したくなった時、ショロトルが面倒臭そうな声を出した。
「もう仕方ねえだろ。とりあえず持ってけば、地上で他の奴らがどうにかすんじゃねーの?」
ショロトルが言った通りだった。他の神々と約束していたタモアンチャン「もやの多い土地」へと持ち帰った砕けた骨は、「どうにか」なった。
シワコアトル「蛇の女」がつき砕いた骨は神々の血と混ぜ合わされ、新たな人間として産声を上げた。彼らのために食物を探しに行く支度をしながら、ケツァルコアトルは最初に目についたショロトルに頼んでいくことにした。
「ショロトル、彼らに何か食べさせておいてくれ」
「はぁ? 何で俺が……」
「任せたぞ」
「待てっての!」
見かけた赤蟻に案内されて辿り着いたトナカテペトル「食糧の山」には、人間が食べるべきものが豊富に詰まっていた。その中から選んで持ち帰ったトウモロコシを噛み砕いて赤子に含ませると、赤子達は喜びの声を上げてすくすくと育ち始める。その様子に神々が胸を撫で下ろしていると、不満げな声が横から混ぜ返してきた。
「んだよ、俺がやったアザミの汁よりそれがいいってか?」
「うるさいぞ、ショロトル」
ぶつぶつと不満げな兄弟神は放っておき、トナカテペトルをどうするかを他の神々と協議する。もっと便利な場所に運んでみようかという話になったので担ごうとしてみたが、重すぎた。
考えてばかりいても、何も始まらない。既に老齢の域に達している二人の人間「オショモコ」「シパクトナル」に占ってもらうと、弱々しい神ナナウアツィンにならばできるとの答えだった。ケツァルコアトルや雨の神々も手伝いながらそれをさせると、山はあっさりと割れ砕けた。
「ケツァルコアトル、それを風に乗せて大地に振り蒔いてくれ。雨の神々が水を遣れば、豊かに育つだろう」
「承知した」
民は生まれ、食糧は得られた。だが、まだ空には光がない。
どの神があの王座に相応しいか、どうやって選ぶのが適切か。また協議を始めたものの、話はなかなか纏まらない。その時、澄んだ声があらぬ方から掛けられた。
「輝くものになりたいのか?」
涼やかな声に、はっとして振り返る。そこに居たのは、やはり彼だった。
いつからそこに居たのか、青年神は岩の上に腰を下ろして面白そうに神々を眺めていた。その失われた足の代わりのように、イツトリの鏡は黒々とした妖しい煌めきを振り撒いていた。
ぞっとするほど妖艶な彼の気配に飲まれて声も出せない神々を見回し、青年神は喉を震わせて笑った。気軽な口調で言う。
「手伝ってやるよ」
あっさりと言った青年神が、何か道具を取り出して身を屈める。眼差しの呪縛が解けてやっと息をすることを思い出したケツァルコアトルは、何か奇妙な匂いに気付いた。それの出所を辿る前に、青年神の手元に光が生まれる。
「っ!」
ざわめきが細波のように広がる。怖々と遠巻きに見る神々へと、青年神は自慢げな顔をしてそれを差し出した。神々の驚きを楽しむように笑う。
「この『火』で燃やせば、天の王座に相応しくもなれるさ」
新たな「太陽」そして「月」は選ばれ、ケツァルコアトルの起こした風で天へと吹き送られた。なのに傲慢なその光は、犠牲を欲しがって動きもしない。その傲慢さに憤ったトラウィスカルパンテクトリ「曙の主」が槍を投げつけたが届かず、逆に仕返しをされて終わった。
「別にいいだろ。欲しがるなら、やれば」
どうしたものかとまた協議が始まろうとした時、それを遮ったのは青年神だった。当たり前のことを言うような、あっけらかんとしたその口調。
「しかし、誰を……」
「僕たち神々でいいだろ」
あっさりとした口調に、神々がざわめく。うるさそうな顔をした青年神は、面倒臭そうに言葉を付け足した。
「別に、本当に死ぬわけじゃないよ。神々は冥府に行ってもまた戻れる。この大地での命を捨てるだけだ」
「しかし……」
「なんだよ、怖いの?」
美しい顔にありありと浮かぶ嘲笑が、反論しようとした神の威勢を削いだらしい。ふんと鼻で笑った青年神は、身を寄せ合って不安げに神々の協議を見守っている人間達へと目を向けた。
「これからはこの国は、こいつらのモノだから。僕らは、地上には居ない方がいい」
なんでもない事を言うような口調は、神々の考えさえも変えさせる。そうしようと話が纏まりかけたが、また混ぜ返したのはやはりあの不作法な神だった。
「はぁ? 嫌に決まってんだろ。やりたきゃ、お前らだけでやれよ」
言い捨てたショロトルが、さっと獣に身を変じて駆け去っていく。ケツァルコアトルは驚いてその後を追おうとしたが、青年神の呆れた声に制された。
「別にいいよ、ほっとけよ」
「だが……」
「犠牲はこれだけ神々が居れば足りるだろ。あいつだけ地上に置き去りってだけだろ」
だからいいよ、ほっとけば。あっさりと言い切る青年神を、ケツァルコアトルはつい見つめた。尋ねなくてはならない言葉が、胸の中で鬩ぎ合う。
あの邪悪な兄弟神を、この美しい青年神は頼りにしているのではなかったのか。傷が疼くから傍に居てほしいと、ケツァルコアトルに呼び出させるほどに。
君はそれでいいのか。思わず、そんな言葉が口を突きそうになる。汲み取ったらしい青年神は、興味もなさげに呟いた。
「いいよ、あんな奴。居ても居なくても」
青年神の言葉に押し切られたわけではないが、結局はショロトル抜きでそれを始めることになった。ぬらぬらと黒いイツトリのナイフを渡されたケツァルコアトルが、神々の心臓をひとつ、またひとつと、抜き出していく。
地上での命を終えた神々の骸は、それぞれに袋に詰められた。袋はひとつ、またひとつと増えていく。噎せ返るような血の臭いに目眩を覚えながら、ケツァルコアトルはひたすらに手を動かした。
「僕で最後?」
さらりとした声に、血の香に半ば朦朧としていたケツァルコアトルははっと我に返った。顔を上げると、もうすぐ傍にその青年神がいる。
青年神はあっさりと石台の上に横たわり、目を閉じた。端正なそのかんばせは安らかに眠ったようでもあり、けれど花のような命の色を色濃く宿している。
何かを言わなければならないような気がした。血と汗に滑るナイフを握り直し、ケツァルコアトルは言葉を探した。
「怖くないから……」
言ってしまってから、それが馬鹿げた言葉であることに思い至る。目を開けた青年神は、やはり呆れたような顔をした。
「別に怖くないよ」
「だ、が……」
「早くしろよ」
急き立てた青年神が、また目を閉じる。ケツァルコアトルの手を、その心臓を取り出す無慈悲な手を、静かに待っている。眩暈と絶望を感じても、他にどうしようもない事も分かっていた。
閉じられた瞼の上に自分の手を翳してやりながら、覚悟を決めてその胸に刃を沈みこませる。自分が刺し貫かれるような痛みが、ケツァルコアトルの胸を襲った。
びく、と青年神の体が震える。だがそれに臆する隙さえ、ケツァルコアトルには与えられなかった。
「早く、やれよ。さっさと」
苦痛を堪えていると分かる声に急かされれば、他にどうすることもできない。泣き出したい思いで、ケツァルコアトルはナイフを動かして青年神の胸を切り開いた。
僅かに寄せられる眉、苦しげで切れ切れの吐息。僅かな苦痛の声に手が止まりそうになるが、もう後戻りはできない。始めた事は、終わらせなくては。
「ぁ、……ぐ、……っ」
「あと少しだから、直ぐに終わらせるから」
囁き掛ける声はきっと届いていないと分かっていても、言わずにはいられなかった。他の神々の心臓を取り出す間は努めて聞かないようにしていた苦痛の声が、胸を締め付ける。青年神の苦痛が、それを与えているのが自分なのだということが、苦しくて堪らない。
姿を現した心臓を取り出そうと手を伸ばして、また躊躇った。これを抜き取ってしまえば、もう戻れない。二度と、彼に命を返してやれない。けれど、彼が、彼自身が、それを望んでいるのだ。
きつく目を閉じ、その心臓を掴み出す。青年神がびくっと体を震わせ、そしてその体から力が抜けた。
吐息だけで、ケツァルコアトルではない誰かを呼んだのが、聞こえた。
よろめく手足で青年神の心臓も太陽に捧げ、崩れ落ちるように青年神の骸の傍に膝を着いた。
涙が止まらない。いつから流れていたのかも分からない涙は、後から後から流れてとめどなく頬を濡らす。ケツァルコアトルはただ泣きながら、茫然として青年神の死に顔を見つめていた。
苦痛の影にすら汚されていない、美しいかんばせ。まだ血の色の残っている滑らかな頬、微かな微笑みの漂う形の良い唇。
けれど彼の命は、もうここには居ないのだ。ケツァルコアトル自身の手が、その命を摘み取ったのだ。
震える手で、台から垂れ落ちていた青年神の手に触れる。その手にはまだ、温もりが残っていた。
「マジでやったのかよ」
呆れた声に我に返る。まだ泣き止むことができないままに、ケツァルコアトルは顔を上げた。
逃げ出した筈の兄弟神が、呆れた様子で歩み寄ってくる。青年神の、その骸の横たわる台の向こうに立ち、兄弟神は青年神の姿を眺め渡した。
「どうせお前、グズグズしたんだろ。傷がすげえ痛そうだな」
「っ!?」
反論もできず、自分が与えてしまった苦痛の大きさに慄く。そんなケツァルコアトルには構わず、ショロトルは青年神をひょいと抱き上げてしまった。
「ぁ……」
「終わったなら袋に入れてやれっての。お前がやらねえのに他の誰がやるってんだよ」
呆れ返った口調で言いながら、ショロトルは驚くほど優しい手付きで青年神を運び去ってしまう。空いている袋を見つけ出してそっと中に骸を収め、口を丁寧に閉じて、そして戻ってくる。その同じ手が、ケツァルコアトルの握ったままだったナイフを指差した。
「早くやれよ」
「……え」
不意を突かれるケツァルコアトルを尻目に、ショロトルがさっさと台の上に横たわる。天の光を忌々しそうな顔で睨みながら、何処か言い訳めいた口調でショロトルは言った。
「俺が居てやらねえと、寂しがる奴が居るからな」
その言葉に、ケツァルコアトルは胸を殴られるような衝撃を受けた。薄々察していた、気付かないふりをし続けた、青年神とこの兄弟神の間の絆。それをはっきりと言い示されて、胸は刺し貫かれるような痛みを訴えた。
この手をいつもすり抜けていく、あの美しい青年神。彼が望むのは、決してケツァルコアトルではないのだ。彼はこの兄弟神のもので、自分の手には入らないのだ。
その事実に打ちのめされた心に、不意に邪悪が忍び寄るのを感じた。悪しき声が、甘やかに誘惑する。
この邪悪な兄弟神を八つ裂きにしてしまえと、二度と天に帰れない姿に切り刻んでしまえと、声が囁く。その声は優しく甘く胸に響いた。
そうすればもしかしたら、あの青年神はケツァルコアトルを振り返ってくれるかもしれない。あの遠い遠い時のきらきらする笑顔を、取り戻してくれるかもしれない。ケツァルコアトルだけを見て、明るく笑ってくれるかもしれない。
そうだ。そうしたところで、誰もケツァルコアトルを咎めはしない。この兄弟神が犠牲になるために戻ったことを知るのは、ケツァルコアトルだけなのだから。他の神々も、あの青年神も、何も知らないのだから。
声に導かれるがままに、ナイフを翳そうとする。だがすんでのところで、幻のような声が耳に届いた。
『お前なんか居なくたって、別に良いよ』
「っ!」
弾かれるように振り返った先には、やはりその青年神がいた。美しい顔に呆れの表情を浮かべ、歩くというよりは滑るようにして近寄ってくる。そして台の端に腰を下ろし、ショロトルを急かす。
『来る気があるなら、早くしろよ』
「だとよ。早くしろよ」
ふてぶてしい笑いを取り戻したショロトルが、ケツァルコアトルを急かす。まだ心臓が騒いでいるのを感じながら、ケツァルコアトルはナイフを持ち直した。
太陽が初めて東の空から顔を見せたその時を、神々は「朝」と名付けた。最初の夜明けが世界を照らしたその朝、神々の時代は終わり、人間の時代は始まった。
人間は神々の流した血によって生まれ、神々の犠牲によって生まれた大地と太陽に生かされている。だから人間は、犠牲を捧げ続けなければならない。
いつか訪れるおしまいの時に、大地の身震いは太陽を滅ぼす。滅びの時を先延ばしにしたければ、犠牲は払われなければならない。
◯プチ解説
・タモアンチャン
この伝説上の地名(楽園)は実はアステカの言語のナワトル語ではなく、文中の意味はマヤ語での意味合いだそうです。
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