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夢の彼方に安息は無く

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12の1 虚ろの家に過去は無い
 野の果てに、やがて一軒の家が見えてくる。今は神々に忘れ去られた、打ち捨てられた、空っぽのその家。その中で待っている彼を思って、ケツァルコアトルは一層足を早めた。
 きっと寂しがっている。ケツァルコアトルの帰りを待ち侘びている。だから早く戻らなければ、早く顔を見せてやらなくては。その思いのままに家に辿り着き、中に足を踏み入れた。
 床に貝殻や宝石を散らして遊んでいた小柄なその神が、顔を上げてこちらを見る。見る間にその愛らしい顔に喜びが広がり、弾むように立ち上がった。
「ケツァルコアトル、お帰りなさい!」
 嬉しげに呼んだ少年神が駆け寄ってきて、ぎゅうっと抱き着いてくる。ケツァルコアトルの胸の辺りまでしかないその小さく細い体でしっかりと抱き着いて、幸福そうに顔を擦り付けてくる。その温かい体を抱き返して、ケツァルコアトルは囁いた。
「ああ、ただいま」
 優しく答えて髪を撫でてやると、少年神は甘えた声を漏らして一層体を寄せてきた。ケツァルコアトルの胸に頬を押しつけ、うっとりとした声で囁く。
「会いたかった」
 心を許して甘えてくれる仕草に、自分の唇が綻ぶのがわかる。だからもう一度しっかりと抱き締めて、その頭頂に唇を寄せた。
「私もだよ」

 ケツァルコアトルの邪悪な兄弟神も、他のどの神々も、森の獣達ですらも、少年神がここに居ることを知らない。ケツァルコアトルしか知らないこの秘密の場所で、少年神は素直にケツァルコアトルを待ってくれる。その事に、ケツァルコアトルは言いようのない安堵を覚えた。
 ここに居てくれれば、守ってやれる。もう誰にも傷付けさせることなく、もう誰にも汚させることなく、この手でいつまでも、いつまででも、守り抜いてやれる。
 だから外には出ないでくれと、どこにも行かないでくれと、少年神にはよく言い聞かせてある。賢い目をして耳を傾けてくれた彼は、しっかりと頷いてくれた。そしてその言い付けに従い、彼はいつもここでケツァルコアトルを待っている。今までも、これからも、いつまでも。
 その少年神は今、ケツァルコアトルの腕の中で嬉しげに笑っている。きらきらするあの笑顔を惜しげも無く花開かせ、何の憂いもなく微笑んでいる。辛い記憶も、苦しい過去も、全ての痛みを忘れたように。
「貴方が居なくて寂しかった」
 安心し切った、甘えた声。独りきりで放って置かれたことを無邪気に詰るその声には親しげな恨みがましさが込められていて、けれど本心から責めているのでは無いのがよく分かる。ケツァルコアトルは思わず笑い、その滑らかな頬に触れた。
「寂しがらせてすまない」
 温かな頬を包み込んで謝罪すると、少年神はうっとりとした表情で手に顔を擦り寄せてくる。安堵に満ちたその表情で、少年神は甘やかで傲慢な言葉を紡いだ。
「いっぱい一緒に居てくれるなら、許してあげる」
「ああ、そうしよう」
 少年神の腕を取って導き、隣り合って床に腰を下ろそうとする。少年神が遊び道具にしていた小さな品々を目に止めて、また謝罪した。
「すまない、新しい貝殻や、綺麗な石は見付からなかった」
「ううん、要らない」
 ふるふると首を横に振った少年神が、また笑う。きらきらするあの美しい笑顔を、惜しげも無くケツァルコアトルだけに向ける。その笑顔のままで、少年神は小鳥のように囀った。
「貴方が居れば、何も要らない」

 並んで床に座ると、少年神は当たり前のように膝に手を置いてきた。期待に目をきらきらさせて、無邪気に尋ねる。
「してくれないの?」
「っ!?」
 思わぬ言葉に息を飲む。遠くへ置いて来た筈の忌まわしい過去に、追い付かれそうになる。言葉も出ないケツァルコアトルに、少年神は不思議そうな顔をして繰り返した。
「ねえ、お話は? お話、してくれないの?」
「あ……」
 きょとんとした邪気のない表情に、やっと我に返る。安堵の息を吐きながら、ケツァルコアトルはぎこちなく微笑んだ。
 そうだ。自分は、何をくだらないことを考えたのだ。この少年神は、そんなことを自分に求めたりしない。もう、あんな淫らで罪深い遊びになど興味を持ってはいない。この清らかで無垢な少年神は、もう決して。
「何の話がいいかな?」
「鳥の話!」
 弾む声音でせがむ少年神の声こそが、鳥の囀りのように愛らしく美しい。その心地良い響きをしっかりと胸に刻みつけながら、ケツァルコアトルは語り始めた。

 不吉は、音もなく忍び寄る。
 色取り取りの羽を持つ鳥達のことを語ってやるのに、つい夢中になっていたのだろうか。少年神の体が出し抜けによろめくまで、ケツァルコアトルは気付くことができなかった。
「どうした!」
 咄嗟に細い体を抱き留めて、はっとする。何故、今まで気づかなかったのだろう。すぐ隣に座っていたのに、こんなにも近くに居たのに。滑らかな肌は触れているのが痛いほどに熱く、少年神の吐息と表情は苦しげだった。
「あつ、あつい……」
 譫言のように漏れる呟きを、茫然と聞いている事しかできない。悩ましく歪む愛らしい顔を呆然と見下ろしていると、苦しげに目を開けた少年神が消え入りそうな声で請うた。
「さわ、って……」
「っ!?」
 息も絶え絶えに呟かれた言葉に、背筋が凍る。遠く遠く置いて来た筈の忌むべき過去が音もなく襲いかかり、ケツァルコアトルを、少年神を、飲み込もうとする。二度と清らかな魂を蝕まないように遠く引き離した筈の淫猥な遊戯が、開始の合図を待ち構えている。
 身動きもできないケツァルコアトルの腕の中で、少年神は苦しげに身を捩った。いつの間にかその華奢な体は腰衣さえ身に付けていなくて、滑らかな肌が余さず曝け出されていて、細い脚の間では淫らな蜜が滴っている。
「やだ、さわって、くるしい……っ」
 くるしい、たすけて、けつぁるこあとる。泣き出しそうな声に呼ばれても、縋るように細い指が装束を掴んでも、体が動かない。身動きもできない。腕の中でがたがたと震える細い体を、抱き締めてやることさえできない。
 できない。できない。恐怖に似た感覚が頭の芯を痺れさせ、手足を冷たく凍て付かせる。少年神は苦しげに泣き声を上げて、涙に濡れた目で見上げてきた。
「して、たすけて。おねがい……」
 できない。
 どんなに請われても、どれほどこの少年神が苦しんでも、それだけはできない。決してできない。禁忌の意識が体を支配し、身動きもできない。
 思うように動かない体で、ケツァルコアトルはやっとの思いで少年神を掻き抱いた。細い細い体を抱き締め、薄い肩に額を寄せる。早くその体を蝕む淫らな熱が冷めるようにと、祈りながら。
 だが。細い指に、肩を押し返された。
 はっとして顔を覗き込んで、背筋が凍る。恐ろしいほどに冷たく無関心な瞳が、ケツァルコアトルを見上げていたから。
「なら、もういい」
 素っ気なく言い捨てた少年神が、全く未練もなさげに立ち上がる。もうケツァルコアトルには興味を失ったように、すたすたと戸口へと向かい始める。茫然と目で追ってから、ケツァルコアトルは我に返った。
 行かせてはいけない。そのことを、やっと思い出した。
 家の外には、あの邪悪な兄弟神が、下劣な欲望でこの少年神を穢そうとする神々が、手ぐすねを引いて待ち構えている。行かせるわけにはいかない。この家から、少年神を出してはいけない。
「待ってくれ!」
 恐怖に縺れる舌で呼んでも、少年神は振り返りもしない。震える足でなんとか立ち上がったケツァルコアトルは、華奢な背中に駆け寄って細い腕を掴んだ。
「なに。離して」
 冷徹な瞳に見上げられてまた体が竦むが、黙って行かせることなどできない。必死で言葉を探して、押し出した。
「行かないでくれ。頼む」
 懇願しても少年神は気に留めた様子もなかったが、少しだけ思案するような顔をした。それからにこっと笑い、こちらに手を伸ばす。
「じゃあ、してくれる?」
 細い指が、明確な意図を持ってケツァルコアトルの胸板をなぞる。その冷えた感触に、悍ましいほど淫蕩な手付きに、その指を振り払ってしまいそうになる。必死で堪えて、言葉を重ねた。
「何でもする。だから……」
 だから行かないでくれ、ここに居てくれ、お願いだから。懇願すると、少年神は満足げに笑った。あの花の咲くような笑顔で、傲慢に命じる。
「じゃあ、して?」
 逆らうことなどできない。もはや声も出せずにケツァルコアトルが頷くと、少年神は嬉しげに笑った。早くと甘い声で囀りながら、ケツァルコアトルの腕を取って寝床に導こうとする。
 何も言えないまま、腕を引く少年神に導かれて寝床に腰を下ろす。当たり前のように膝に乗り掛かってきた少年神は、また花のように笑った。
「口付けがしたい。して?」
 甘くせがむ唇は花弁のように愛らしく清らかなのに、そこから漏れる声の響きははあまりにも淫猥で、淫蕩で。目眩を覚えながら、絶望と恐怖に打ちひしがれながら、それでも口付けを与える以外にはケツァルコアトルに道はない。
 滑らかな頬を掌で包んで、顔を寄せる。嬉しげに笑った少年神が、目を閉じて口付けを待つ。その花弁のような唇に、自分の唇を重ねた。
 そこで目が覚めた。

 身を起こし、震える息を吐く。震えている手で自分の首筋に触れると、嫌な汗が指に絡みついた。
 何と、酷い夢だろう。初めは確かに幸福だった夢は、どうしてあんなにも歪んでしまったのだろう。
 花のような愛らしい笑顔で淫らな命令を下した、夢の中の少年神。その毒々しさに、胸の奥に大切に抱いているきらきらした笑顔までもが塗り潰されそうで、ケツァルコアトルは思わず自分の胸を押さえた。
 あの少年神は今頃、どうしているのだろう。森の奥で、彼も眠りについているだろうか。それとも森や野を伸びやかに歩き回っているだろうか。淫猥な独り遊びや、ショロトルとの淫蕩な遊戯になど、耽ってはいないだろうか。
 ショロトルに組み敷かれて甘い声を上げたあの姿が、瞼から離れない。忘れてしまいたいのに、覚えていたくなどないのに、消すことさえできない。
 頭を振って、嫌な想像を追い払う。もう何も考えまいとしながら、また身を横たえて目を閉じた。
 眠りはまた、すぐに訪れた。

「どこに行ってたの?」
 愛らしい不満を眼にありありと浮かべて、少年神が咎める。その親密な不機嫌に唇が綻んだ。
「すまない、ちょっと」
「ふうん。まあいいけど」
 口を尖らせる少年神の手元には、ちらちらと光を跳ね返す小石や優美な貝殻が幾つも散らばっている。次はそれらを綴って装身具を作るやり方を教えてやろう、きっとそれらはこの少年神を一層美しく彩るだろう。そう考えたケツァルコアトルが口を開くより僅かに早く、少年真が笑顔で見上げてきた。
「しようよ、早く」
「え……」
 いとけない笑顔で、あどけない声で、ねだられた言葉を理解できない。愕然として少年神に目を注ぐケツァルコアトルを、愛らしい声は残酷に急かした。
「してくれないなら、出て行くよ」
 花のような笑顔、残忍な命令。目眩と共に、理解した。
 悪夢はまだ、自分を逃がしてはくれない。

12の2 麗しの笑みに真は無い
 装束の端を引かれるので、ショロトルは仕方なく振り返ってやった。また何かに興味を惹かれているらしい物知らずの少年神が、目を輝かせて尋ねてくる。
「ねえ、あれ、何してるの?」
「あぁ?」
 細い指先が指し示す方を見ると、雨の神々が何やら青色の鳥の羽根やら緑の石やらを捻くり回していた。どうやら、また雲を生むために儀式か術かの準備をしているらしく見える。
「雨を降らそうとしてんだろ」
「どうやって?」
 ショロトルはきちんと答えてやったというのに、知りたがりの小さな神はしつこく食い下がってくる。面倒臭くなったので突き放した。
「そこまで俺が知るかよ」
「何だよ、お前も知らないの?」
 生意気な言葉を吐いて口を尖らせた少年神は、それ以上ショロトルをつつきまわすよりも直接尋ねることを選んだらしい。ふいと傍を離れて雨の神々の方へ駆けていくので、ショロトルも仕方なくその場で待ってやることにした。

 ショロトルにくっついて神の国をうろつき回ったり、自分だけででも森を出て遊び歩くようになった、その少年神。元々好奇心は強いのか、すぐに「あれは何」「これは何」と尋ねてきて、満足のいく答えが得られるまで誰彼問わず聞いて回っているようだった。
 腹の底で何を考えているのかは知らないが、浮かべる大袈裟なほどの笑顔は愛想が良く親しみやすいようにも見えなくはない。それが他の神々にも警戒を抱かせないようで、少年神は行く先々で知りたいことを聞き出しては満足げに戻ってきた。だからだろうか、その話し振りさえも以前とは見違えるほどに変わりつつある。
 ろくに言葉さえ知らなかったのが嘘のように、今ではショロトルでさえ知らないことを平然と言ってのけたり、何やら小難しい言葉を使いながら他の神々と話し込んでいたりする、その少年神。けれど底知れないほどの知識欲はまだまだ宥めることさえできないのか、すぐに新しい「知らないこと」を見つけては、首を突っ込んで尋ね回る。
 もう「名前」のほとんどは覚え込んでしまった少年神は、今は神々が操る魔術の不可思議に魅せられているようだった。好奇心に目を輝かせて食い入るように見つめて、手順も結果も覚え込んで。そしてどうやら、こっそりと自分で試しては成功したり失敗したりしている様子だった。
 ショロトルは怪しげな魔術など使おうとも思ったことはないが、うるさくせがまれるので知っている限りのことは教えてやった。それでますます好奇心を刺激されたらしい少年神は、自分だけで他の神々に話を聞いたり自分であれこれ試したりして、妙な知識を思いがけない速さで蓄えていく。
 今も気軽な足取りで雨の神々に駆け寄った少年神は、ショロトルにはうさんくさいとしか思えなくなってきたあの「親しみやすい」笑顔で懐柔し、明るい声で宥め賺して、その術を教えてもらっている。それに騙される方も騙される方だと大いに呆れながら、ショロトルはちらりと視線を流した。
 雨の神々の露払いとして雲の通り道を掃き清める役を担う「風の神」は、ショロトルの決して相容れない兄弟神は、今もそこに居る。隠し切れない苦痛と苦悩を目に宿して、その少年神の横顔を見つめている。
 雨の神々が語り聞かせる不可思議に夢中になっている少年神は、あのいけ好かない兄弟神が絶望を満たした瞳で見つめていることにも全く気付いていない。その痛快な眺めにショロトルが笑い出すのを堪えていた時、明るい声で雨の神々に礼を言った少年神が傍に戻ってきた。それをやはり苦しげに目で追う、けれど何も口出しできずにいる、ケツァルコアトルの瞳の色。
 見せびらかしてやりたくなったから、ショロトルは満足げな少年神の腰を抱き寄せた。不思議そうに見上げてくる瞳に、わざとにっこりと笑ってやる。
「何だよ?」
「気は済んだだろ? 帰るぞ」
 意図が明らかに伝わるように腰の線をなぞると、正しく意図を汲み取った少年神は大袈裟に呆れたような顔をした。だがその遊びを気に入ってもいるそいつは手を振り払うことはせず、高慢に笑って答える。
「お前がシたいなら、させてやってもいいよ」
「生意気な奴だな。泣かすぞ」
 軽口を交わしながら、ショロトルの家のある方角へ足を向ける。そのついでに目だけ動かして、兄弟神の様子を確かめてみた。
 傷ついた目をして、肩を強張らせて。風の神は、いつまでも立ち竦んでいた。

12の3 失われし獣に声は無い
 絶頂に達して、全身の力が抜けて。甘い気怠さのままに、毛皮の上に身を投げた。はぁはぁと息を弾ませながら、柔らかいそれに顔を埋める。
 上り詰めて果てたばかりの体の内側で、心臓がどくどくと脈打っている。血潮が身体中を駆け巡る感覚が心地良い。
 自分の体温で温まった毛皮は、あの懐かしい温もりにも似ている。もう二度と戻らない、遥か昔に奪い去られた、あの優しい温度に。
 この瞬間だけは、あの頃に戻ったような気がして。あの温もりを取り戻したような、あいつが戻ってきてくれたような気がして。錯覚でも、それが嬉しくて。
 毛皮に顔を擦り付けて、ふふふと笑った。ふわふわと柔らかい毛並みが頬を擽って、とても心地良い。気持ち良さに目を細めて、温かくて柔らかい感触に浸った。

 復讐の時は、もうすぐ。それが楽しくて、待ち遠しくて、嬉しくて堪らない。ずっとずっと準備してきたそれが、やっと果たせるのだから。
 あの神は全く気付いていない。あの神だけではない、他のどの神達も。今の自分がどんなに強いのか、今この手にどれほどの力があるのか。
 強く強く、誰よりも強く。誰よりも賢しく、誰よりも高みに。それだけを願って、けれど誰にもそのことは教えてやらずに、静かに密かに力を蓄えてきた。
 争いをしている神々を遠くからこっそり覗いて、その身のこなしや力の使い方を覚えた。魔術で何か不思議なことをしている神々には、笑顔で近付いて秘密を教えてもらった。
 もう、自分の知らないことなんてほとんど無い。できないことなんて、何もない。
 この身を慰み者にしたあいつらより。優しい温度を永劫に奪い去ったあいつより。今の自分は、ずっとずっとずっと強いのだ。
 もう二度と、誰にも、何も、奪わせない。奪うのは自分であって、他の誰でもない。この手の中からは、この手が届く場所からは、誰にも、何ひとつとして、奪わせたりしない。 
 そっと毛皮を撫で、唇を寄せた。大丈夫だ、と言い聞かせてやる。
 今度は、ちゃんと守るから。もう、守られるばかりの自分ではないから。今の自分はとてもとても強くて、誰も、何も、敵わないほどだから。
 だから、大丈夫。心配は要らない。優しくて温かいあいつがいつ帰ってきてくれても、もう誰にもあいつを傷付けさせたりしない。
 死の国から連れ戻す手立てを、いつか必ず見つけるから。そうしたら、今度こそ守り通すから。
 だから、あと少しの辛抱だ。きっとまた一緒に暮らせる。もう二度と離れ離れになんてならないで、ずっと一緒に居られる。いつまでも、いつまでも。
 それが嬉しくて、幸せで。心から満ち足りて、安心と安堵が身体中に満ち溢れて。
 甘い気怠さの中で、目を閉じた。穏やかな闇に、意識が吸い込まれていくのを感じる。
 悲しげな鳴き声が、聞こえた気がした。

◯プチ解説
・宝石について
 アステカ社会で珍重されていた数々の「宝石」の中で最も価値あるものとされていたのは、鮮やかで濃い緑色の「チャルチウイトル」です。大部分はおそらく「翡翠」だろうと考えられていますが、実物の多くは散逸してしまっているので、実際のところははっきりしないそうです。征服者側の記録では、「質の悪いエメラルドに似ている」宝石だと書かれています。
 他にもトルコ石「シウイトル」、水晶、紫水晶(アメシスト)、オパール「蜂鳥の石」、琥珀、血玉髄(ブラッドストーン)などが周辺の被支配国から貢納され、アステカに集まっていたそうです。
 なお「チャルチウ(翡翠のor貴重な石のor宝石の)」「シウ(トルコ石の)(多義語なので年や草の意味もあり)」は神々の名前にもよく現れている、貴重なものの代名詞でもあった宝石です。尾辞「-tl」が「石」という意味だそうです。ここまでにも名前の出ている雨の神トラロック様の配偶神であるチャルチウトリクエ女神は「翡翠のスカート(の婦人)」と訳されます。
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