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解放の刻に歓喜は無い
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冷たい床の上で、目を覚ました。
のろのろと起き上がる。何回も何回も殴られて蹴られて首も絞められた体は、どこもかしこも痛い。特に、すごく嫌な棒をいつも押し込まれる場所は、腰の辺りは、お腹の奥は、今もまだ痛くて、苦しくて。
見回しても、あの神の姿はない。それに少しだけほっとして、けれどまたすぐに暗い気持ちになる。あの神はイエを出てどこかに行った後、機嫌の悪い笑い方をして帰ってくることが多いから。そんな時は、いつもよりもっともっと痛くて苦しくて嫌なことを、気が遠くなるまでされるから。
それが怖くて、とても嫌で、逃げ出したくて。けれど、逃げ場なんてどこにもない。ここにしか、自分は居てはいけない。
あの神のこともこれからまた起こることも考えないようにしながら、膝を抱えて床に座る。体に巻き付けている毛皮をもっとしっかり引き寄せて、柔らかいそれに顔を埋めた。
嫌な汚れが染み付いてしまった、この毛皮。けれどとてもとても大切だから、あいつが確かに居たんだということを証してくれるのはこの毛皮だけだから、これに包まれている時だけは怖いことも嫌なことも忘れられるから。だからあの神に嫌なことをされていないときは、この毛皮に包まってあいつのことを思い出している。
なのに、思い出がどんどん色褪せていくのが分かる。あんなにいつも傍にいたあいつの声が、姿が、温かさが、どんどん薄ぼけていって、思い出せなくなっていく。それが怖くて、毛皮ごと自分を抱き締めた。
優しく喉を鳴らす声も、喜んだ時の唸り声も、怪我をさせないようにしながら飛びついてきていた大きな体の重さも、温かい毛皮の内側で脈打っていた命の温度も、少しずつ少しずつ遠ざかって、霞んで、見えなくなっていく。初めから、あいつはどこにもいなかったかのように。
あいつに会いたくて、あいつがいないのが悲しくて、けれどもう涙も出なくて。抱えた膝に顔を押し付けて、一層強く自分を抱き締める。毛皮越しに触る自分の腕は、少しだけあいつの温かさに似ている気がした。
あの神は、まだ戻らない。ずっと戻ってこなければその方が嬉しいけれど、そんなことを望んでも虚しいだけだとも知っている。
あの神はいつだって、必ず帰ってくる。きっとまた機嫌の悪い笑い方をしているあの神に、腕を掴んで立ち上がらされて、毛皮も装束も剥ぎ取られて、硬くて冷たい床に押し付けられて、すごく嫌なことを何度も何度もされて、気が遠くなれば殴られて、その痛さで目が覚めて、また嫌なことが始まって、それがずっとずっと繰り返される。
嫌だなと思って、けれどどうしようもなくて。もぞもぞとまた自分を抱き締め直した時に、不意に気付いた。
イエの外に、誰かの気配がある。
あの神が帰ってきたのかなと思って、すぐに違うと気づく。あの神だったら、入ってくる前にイエの周りを確かめるように歩き回ったりしない。さっさと入ってきて、そしてまたあの嫌なことをするだけだ。
外に居るのは、誰か違う神だ。そう気付いても安心なんてできない。また違う怖さが膨れ上がった。
ここに居ることにもしも気付かれたら、少しでも気配を感じ取られたら。そんなことになってしまったら、すぐに帰ってくるだろうあの神に、また殴られる。また蹴られる。また首を絞められる。いつもされているあれを、痛くて苦しくて気持ち悪くてとても嫌なことを、気が遠くなるほどされる。あの神が満足する前に気を失ってしまったら殴って無理に起こされて、また長く長く続きをされる。
それでは済まないかもしれない。あの神は自分を殴ったり蹴ったりするだけでは、満足してくれないかもしれない。森へ行って、あの小さい獣達をみんな殺してしまうかもしれない。金色と黒の優しい獣を、とても大切だったあいつを、あっさり殺してしまったように気軽に、そうするかもしれない。
だから、見つかってはいけない。絶対に見付かるわけにはいかない。
イエに明かりを入れるための穴は高いところにあるからそこから見られる心配はないけれど、もっと小さく体を縮めた。音を立てないようにしながら、イエの入り口からもし見られても見つからない場所まで、じりじりと動いた。
外からイエの中を窺っているらしいその気配は、なかなか立ち去らない。早く居なくなってほしい。自分がここにいることになんて気付かないで、早く。そう願いながら、ぎゅっと自分を抱き締めた時だった。
「ショロトル、居ないのか?」
はっきりと、知っている声が聞こえた。
会いたくもない相手だが、もう他の心当たりは全て尋ね歩いてしまった。だから仕方なく、ケツァルコアトルは兄弟神ショロトルを訪れることにした。
何度森を訪ねても、どんなに森を歩き回っても、気配さえも感じられないあの少年神。悲しみのあまりどこかに閉じこもっているにしても、その痕跡さえ見つからないのは異様だった。
探し歩いて、尋ねて回って。けれど他のどの神も、あの少年神の行方を知らなかった。森の獣達は怯えて逃げていくばかりで、何も語ってはくれなかった。途方に暮れたケツァルコアトルが思い出したのは、あの少年神を我欲で踏み躙った許すべからざる兄弟神のことだった。
狡猾な兄弟神が何かを知っているのではないかと淡く期待もしながら、ケツァルコアトルは同時に恐れてもいた。もしや少年神が姿を消したのはまさしくその残忍な神の仕業ではないかと、不安に駆られていた。
あの憐れな少年神を残酷に蹂躙した報いは受けさせてやったとはいえ、それで懲りるような殊勝な神ではないこともよく分かっている。懲りずにまたあの少年神に手出しをしたのではないかと予感し、更なる傷を負わされた少年神の今の居場所を知ってはいないかと考えて、ケツァルコアトルはショロトルを訪れることにしたのだ。
影のように付き従っていつも一緒にいただろうオセロトルを、残酷に奪われた少年神。自らも心と体に深い傷を負わされた、憐れでいとけない神。
それをみすみす許してしまった、守ってやることさえできなかった自分には、本当は心配する権利さえないのかもしれない。それでも、手をこまねいてなどいられなかった。
『シンパイって何?』
好奇心に満ちた瞳で無邪気に尋ねてきた、あの表情。惜しげも無く向けてくれた、水晶に似てきらきらする笑顔。少しずつ霞んでいく記憶の中で、あの目が眩むような笑顔だけが、鮮やかに残っている。
最後に見た少年神は、暗く虚ろな瞳で立ち竦むだけだった。希望を見失い、深い絶望に囚われて、空虚な瞳でオセロトルの毛皮を抱き締めていた。感情をオセロトルの亡骸とともに埋めてしまったかのようなその瞳を思い出すだけで、胸が締め付けられる。
今すぐでなくとも構わない、少しずつでもまた笑顔を取り戻してほしい。もう一度、あのきらきらする笑顔を見せて欲しい。その隣に居るのが、その笑顔を取り戻させるのが、自分でなくとも構わないから。
そう切に願いながら、ケツァルコアトルはショロトルの家の前で立ち止まった。声を掛けようとして、その必要さえ感じられずに口を閉じる。
家の中はしんと静まり返っていて、物音ひとつしない。気配さえも感じられない。あの粗暴な兄弟神が在宅しているのであれば、こんなにも静けさに満ちている筈はない。
それでも一応はと、家の周囲をぐるりと回ってみた。明り取りの窓は位置が高く、中を覗くこともできない。だが、やはり気配は全く感じられなかった。
今は諦めて戻るか、それとも家主の帰りを待つか。そう思案しながら、念のためにと声を掛けた。返事のあることは期待せずに。
「ショロトル、居ないのか、……!」
思わず息を飲んだ。家内からかさりと小さな音がしたから。誰かが驚いて体を震わせたような、小さな小さな物音がしたから。
それは確かにショロトルではない。もっと体の小さい、体の軽い者が立てる音だ。その誰かが、ケツァルコアトルの声を聞いて驚き、けれど返事もせずに黙り込んでいる。
じわりと、嫌な予感が胸に広がった。それを打ち消すため、もう一度声を上げる。
「入るぞ」
一応声を掛け、家内に踏み込む。ショロトルとて、遠慮なしにいつも踏み込んでくるのだ。構う必要もない。
眺め渡すまでもなく、その「誰か」はすぐに見付かる。嫌な予感が、最悪の形で的中したのを悟った。
驚愕と恐怖に目を見開いて、あの少年神が部屋の隅に縮こまっていた。
真っ青になって、がたがたと震えて。少年神は怯え切った様子で身を縮めている。ケツァルコアトルもそのあまりにも痛ましい様子に衝撃を受け、言葉も出なかった。
首を絞められたらしい手の形の痣が、色濃くその細い首筋に浮かび上がっている。あのオセロトルの毛皮の中に縮こまっている体も、もしかすると殴られ蹴られているのかもしれない。
痛ましい思いが、じわじわと怒りに塗り潰されていく。それはショロトルへのものでもあり、自分自身へのものでもあった。
あの残忍な兄弟神は、やはり懲りてはいなかったのだ。ケツァルコアトルが愚鈍にも気付かずにいただけで、ずっとこの少年神をここに閉じ込め、虐げ、奴隷のように扱っていたのだ。そしてケツァルコアトルはそのことに気付きもせずに、見当違いの場所ばかり探して、「心配」しているつもりでいたのだ。
ケツァルコアトルの怒りを感じたのか、少年神が一層怯えた表情で身を縮める。君に怒っているんじゃないよと、宥めてやる事さえできなかった。
怒りを努めて押さえ込み、膝を着いて手を伸ばす。だが少年神はびくっと体を震わせ、一層縮こまった。怯え切っているその様子に触れることも躊躇われて、手を差し出したまま言葉を選ぶ。だが、震える声が先に発された。
「ごめ、ごめ、なさ……っ」
ほとんど泣き出しそうな声で、少年神が繰り返す。恐怖に縺れる舌で、震えながら、ごめんなさいとただ呟く。その姿があまりにも憐れで、一層憤りが膨れ上がった。
「君は何も、悪いことなんてしていないよ」
努めて穏やかな声で宥めても、少年神は震えながら首を横に振った。やはり怯え切った表情で、少年神は尚も舌を縺れさせながら、必死の表情で訴えた。
「僕に会ったって、言わないで。あの神に言わないで」
必死で訴える少年神の目から、耐え切れなくなったように涙が溢れた。ぼろぼろと溢れる涙を呆然と目で追いながら、ケツァルコアトルも理解する。狡猾で周到で残酷な兄弟神が、この少年神に告げたのだろう命令を。
誰にも見付かるなと、他の神々に助けを求めるなと、この少年神はきつく命じられているのだ。少しでも逆らえば暴力を振るわれ、逆らおうとしただけでも首を絞められ、すっかり恐怖が染み付いてしまっているのだ。この少年神はもはや、逃げ出す希望さえ失って、見張りもいないのに縮こまっていたのだ。
あの伸びやかで真っ直ぐだった少年神に、自分の残忍な兄弟神は、何という罪深いことをしたのだ。また膨れ上がる怒りに震えながら、ケツァルコアトルは努めて穏やかに諭した。
「おいで。こんな所に居なくて良い」
「随分な言い草だな。よその家に踏み込んでおいて」
「っ!」
背後から聞こえた声に、反射的に立ち上がり振り向く。背後で、少年神が恐怖に息を飲むのが聞こえた。
いつの間にか音もなく帰ってきていたらしいショロトルは、悪びれない笑みで腕組みをして立っている。その笑顔にかっとなって掴みかかりそうになったが、すんでのところで堪えた。
この残忍な兄弟神を咎めるのは、後でいい。今は早く、憐れな少年神をこの忌まわしい家から連れ出さなくては。
「ショロトル。もう彼に構うんじゃない」
「俺の奴隷のことか?」
「彼は奴隷ではない!」
思わず怒鳴りつけ、冷静になるために短く深呼吸をする。怒りを抑え切れない声で、低く警告した。
「これ以上彼に何かする気なら、ここでお前を殺す。もう容赦はしない」
ケツァルコアトルの怒りが呼び寄せた風が唸りを上げるのを聞きながら、実際に武器に手を掛ける。ショロトルは恐れた様子もなかったが、あっさりと肩を竦めた。
「仕方ねえな」
随分と素直な様子に半ば拍子抜けしたが、今はそれよりも背後で震えている少年神が気掛かりだった。ショロトルから目を背け、もう一度少年神に手を差し出す。
「さあ、行こう」
優しい声で、そう促す。だが、少年神はふるふると首を横に振った。恐怖に見開かれた瞳からまた涙を流しながら、震える声で呟く。
「でき、な……」
「どうして?」
「俺とスルのがイイんじゃねえの?」
「黙れ!」
悪びれもせずに茶化そうとするショロトルを、苛立ちを抑え切れず怒鳴りつける。その声にかまた身を竦ませた少年神は、泣きながら呟いた。
「だ、って。あいつらが、みんなが……」
「あいつら?」
誰のことだいと尋ねようとした時、思い出したのは森の獣達のことだった。ケツァルコアトルの足音を聞くだけで怯えて逃げ出した、牙を持つ小さな獣達。
狡猾で残酷な兄弟神が、あの獣達を見せしめに殺しでもしたのか。もしくは、そうするとでもこの少年神を脅したのか。それを恐れるあまり、少年神は逃げることもできなかったのか。
その手口のあまりの汚さにまた怒りが湧くが、努めて押し沈めた。出せる限り穏やかな声で、少年神を諭す。
「私が手出しさせない。約束する。いいな、ショロトル」
「仕方ねえな」
目を向けると、やはり悪びれない兄弟神はあっさりと肩を竦める。それを確認してから、もう有無を言わせずに少年神を立ち上がらせた。
「ぁ……」
「行こう」
怯えた声を上げる少年神が、困惑したようにショロトルに目を向ける。ショロトルはただ笑い、肩を竦めた。
「俺が恋しくなったら、いつでも戻って来いよ」
「もう、お前には会わせない」
きっぱりと言い捨て、少年神の肩を抱くようにして出口へと導く。だが、最後に釘を刺さずにはいられなかった。
「次は、許さない」
憎悪に近い憤りは、正しく伝わったのだろうか。ショロトルはただ笑い、ひらりと手を振ってよこした。
「私の家に来るかい?」
黙りこくって歩いている少年神に尋ねる。俯いて体に巻いた毛皮をしっかり握り締めている少年神は、しばらく答えなかった。だがやがて、雫の落ちるように呟く。
「帰りたい」
「……そうか」
また独りにさせるのは気掛かりだったが、少なくともショロトルはもう手出しをしないだろう。これからは自分が、もっと頻繁に様子を見に行けばいい。そう判断して、森の方へと足を向けた。
「どこか、痛いところは?」
歩きながら尋ねても、少年神はふるふると首を横に振る。そんな筈は無いだろうが、全身が痛め付けられ傷つけられているだろうが、それよりも早く森へと帰りたいのだろう。次に会う時には薬草を持って訪れようと心に決めながら、ケツァルコアトルはそれ以上何も言えずに少年神を森へと送り届けた。
森が見えてきたとき、気付いた。森と野の境目の辺りに、小さな獣達がひしめき合っている。俯いて歩いていた少年神もケツァルコアトルの様子に気付いてか興味もなさげに顔を上げて、そしてはっと息を呑む。
少年神の帰還に匂いで気付いていたらしいその獣達は、少年神に目を向けられると喜びの唸り声を上げた。牙や爪を持つその獣達が森から飛び出して、一目散に駆け寄ってくる。森の奥からも、後から後から駆けてくる。
すぐに少年神とケツァルコアトルは、その獣達に幾重にも取り巻かれた。ぐるぐる、きゅうきゅう、くるくると、獣達が口々に声を上げる。少年神に身をすり寄せて、盛んに歓待する。少年神の見開かれた目が、茫然とそれを眺め渡した。
獣達の声が少し変わり、少年神に纏わり付いて体を擦り付けていた獣達が後ずさりを始める。森と少年神の間に、一本の道のような空間ができた。何気なくその先に目を向け、ケツァルコアトルはまた目を見張った。
足を引きずりながら森を出て歩いてくる、年老いた一匹の狐。その老獣は少年神の足元に辿り着くと、嬉しげに細い脚に前足を欠けて、甘えるような眼差しでその顔を見上げて、嗄れた声で鳴いた。
「ぁ……」
少年神が何かに気付いたように、茫然と声を漏らす。その細い声を聞いた狐は、嬉しげにまた鳴いて尾で地面をなぞった。
ほとんど茫然としているような手付きで、少年神が老狐を抱き上げる。獣は嬉しげに鳴いて、少年神の手をぺろぺろと舐めた。見守っていた獣達も、また口々に鳴き始める。
茫然とその声を聞いていた少年神の目に、不意にまた涙が浮かんだ。ぼろりと流れて落ちたその雫が、灰色と銀色の入り混じった老狐の毛皮に滴る。老いた獣はぎゅるぎゅると鳴いて伸び上がり、泣き続ける少年神の顎を舐めた。
ケツァルコアトルもつい手を伸ばし、流れ続ける少年神の涙を拭った。それでやっと我に返ったらしい少年神が、泣きながらこちらに目を向ける。
何も言わずに泣き続ける少年神の、濡れた深い瞳。食い入るようにそれを見つめながら、ケツァルコアトルは言葉を探した。
「また、様子を見にくるよ」
◯プチ解説
・奴隷
アステカ社会は階級制で、最下層に当たるのが「奴隷(トラコトリ)」でした。
戦争で捕虜になった敵国の戦士や、負債などのために身売りした人々が奴隷として所有・売買され、「個人の所有物」であるとして相続の対象になってもいました。一旦奴隷となっても自由身分に解放されることもあり、絶対的なものではなかったようです。
・裏設定
前話の「仔狐」がこの話の「老狐」で、「それだけ長く奴隷にされていた」という設定です。
のろのろと起き上がる。何回も何回も殴られて蹴られて首も絞められた体は、どこもかしこも痛い。特に、すごく嫌な棒をいつも押し込まれる場所は、腰の辺りは、お腹の奥は、今もまだ痛くて、苦しくて。
見回しても、あの神の姿はない。それに少しだけほっとして、けれどまたすぐに暗い気持ちになる。あの神はイエを出てどこかに行った後、機嫌の悪い笑い方をして帰ってくることが多いから。そんな時は、いつもよりもっともっと痛くて苦しくて嫌なことを、気が遠くなるまでされるから。
それが怖くて、とても嫌で、逃げ出したくて。けれど、逃げ場なんてどこにもない。ここにしか、自分は居てはいけない。
あの神のこともこれからまた起こることも考えないようにしながら、膝を抱えて床に座る。体に巻き付けている毛皮をもっとしっかり引き寄せて、柔らかいそれに顔を埋めた。
嫌な汚れが染み付いてしまった、この毛皮。けれどとてもとても大切だから、あいつが確かに居たんだということを証してくれるのはこの毛皮だけだから、これに包まれている時だけは怖いことも嫌なことも忘れられるから。だからあの神に嫌なことをされていないときは、この毛皮に包まってあいつのことを思い出している。
なのに、思い出がどんどん色褪せていくのが分かる。あんなにいつも傍にいたあいつの声が、姿が、温かさが、どんどん薄ぼけていって、思い出せなくなっていく。それが怖くて、毛皮ごと自分を抱き締めた。
優しく喉を鳴らす声も、喜んだ時の唸り声も、怪我をさせないようにしながら飛びついてきていた大きな体の重さも、温かい毛皮の内側で脈打っていた命の温度も、少しずつ少しずつ遠ざかって、霞んで、見えなくなっていく。初めから、あいつはどこにもいなかったかのように。
あいつに会いたくて、あいつがいないのが悲しくて、けれどもう涙も出なくて。抱えた膝に顔を押し付けて、一層強く自分を抱き締める。毛皮越しに触る自分の腕は、少しだけあいつの温かさに似ている気がした。
あの神は、まだ戻らない。ずっと戻ってこなければその方が嬉しいけれど、そんなことを望んでも虚しいだけだとも知っている。
あの神はいつだって、必ず帰ってくる。きっとまた機嫌の悪い笑い方をしているあの神に、腕を掴んで立ち上がらされて、毛皮も装束も剥ぎ取られて、硬くて冷たい床に押し付けられて、すごく嫌なことを何度も何度もされて、気が遠くなれば殴られて、その痛さで目が覚めて、また嫌なことが始まって、それがずっとずっと繰り返される。
嫌だなと思って、けれどどうしようもなくて。もぞもぞとまた自分を抱き締め直した時に、不意に気付いた。
イエの外に、誰かの気配がある。
あの神が帰ってきたのかなと思って、すぐに違うと気づく。あの神だったら、入ってくる前にイエの周りを確かめるように歩き回ったりしない。さっさと入ってきて、そしてまたあの嫌なことをするだけだ。
外に居るのは、誰か違う神だ。そう気付いても安心なんてできない。また違う怖さが膨れ上がった。
ここに居ることにもしも気付かれたら、少しでも気配を感じ取られたら。そんなことになってしまったら、すぐに帰ってくるだろうあの神に、また殴られる。また蹴られる。また首を絞められる。いつもされているあれを、痛くて苦しくて気持ち悪くてとても嫌なことを、気が遠くなるほどされる。あの神が満足する前に気を失ってしまったら殴って無理に起こされて、また長く長く続きをされる。
それでは済まないかもしれない。あの神は自分を殴ったり蹴ったりするだけでは、満足してくれないかもしれない。森へ行って、あの小さい獣達をみんな殺してしまうかもしれない。金色と黒の優しい獣を、とても大切だったあいつを、あっさり殺してしまったように気軽に、そうするかもしれない。
だから、見つかってはいけない。絶対に見付かるわけにはいかない。
イエに明かりを入れるための穴は高いところにあるからそこから見られる心配はないけれど、もっと小さく体を縮めた。音を立てないようにしながら、イエの入り口からもし見られても見つからない場所まで、じりじりと動いた。
外からイエの中を窺っているらしいその気配は、なかなか立ち去らない。早く居なくなってほしい。自分がここにいることになんて気付かないで、早く。そう願いながら、ぎゅっと自分を抱き締めた時だった。
「ショロトル、居ないのか?」
はっきりと、知っている声が聞こえた。
会いたくもない相手だが、もう他の心当たりは全て尋ね歩いてしまった。だから仕方なく、ケツァルコアトルは兄弟神ショロトルを訪れることにした。
何度森を訪ねても、どんなに森を歩き回っても、気配さえも感じられないあの少年神。悲しみのあまりどこかに閉じこもっているにしても、その痕跡さえ見つからないのは異様だった。
探し歩いて、尋ねて回って。けれど他のどの神も、あの少年神の行方を知らなかった。森の獣達は怯えて逃げていくばかりで、何も語ってはくれなかった。途方に暮れたケツァルコアトルが思い出したのは、あの少年神を我欲で踏み躙った許すべからざる兄弟神のことだった。
狡猾な兄弟神が何かを知っているのではないかと淡く期待もしながら、ケツァルコアトルは同時に恐れてもいた。もしや少年神が姿を消したのはまさしくその残忍な神の仕業ではないかと、不安に駆られていた。
あの憐れな少年神を残酷に蹂躙した報いは受けさせてやったとはいえ、それで懲りるような殊勝な神ではないこともよく分かっている。懲りずにまたあの少年神に手出しをしたのではないかと予感し、更なる傷を負わされた少年神の今の居場所を知ってはいないかと考えて、ケツァルコアトルはショロトルを訪れることにしたのだ。
影のように付き従っていつも一緒にいただろうオセロトルを、残酷に奪われた少年神。自らも心と体に深い傷を負わされた、憐れでいとけない神。
それをみすみす許してしまった、守ってやることさえできなかった自分には、本当は心配する権利さえないのかもしれない。それでも、手をこまねいてなどいられなかった。
『シンパイって何?』
好奇心に満ちた瞳で無邪気に尋ねてきた、あの表情。惜しげも無く向けてくれた、水晶に似てきらきらする笑顔。少しずつ霞んでいく記憶の中で、あの目が眩むような笑顔だけが、鮮やかに残っている。
最後に見た少年神は、暗く虚ろな瞳で立ち竦むだけだった。希望を見失い、深い絶望に囚われて、空虚な瞳でオセロトルの毛皮を抱き締めていた。感情をオセロトルの亡骸とともに埋めてしまったかのようなその瞳を思い出すだけで、胸が締め付けられる。
今すぐでなくとも構わない、少しずつでもまた笑顔を取り戻してほしい。もう一度、あのきらきらする笑顔を見せて欲しい。その隣に居るのが、その笑顔を取り戻させるのが、自分でなくとも構わないから。
そう切に願いながら、ケツァルコアトルはショロトルの家の前で立ち止まった。声を掛けようとして、その必要さえ感じられずに口を閉じる。
家の中はしんと静まり返っていて、物音ひとつしない。気配さえも感じられない。あの粗暴な兄弟神が在宅しているのであれば、こんなにも静けさに満ちている筈はない。
それでも一応はと、家の周囲をぐるりと回ってみた。明り取りの窓は位置が高く、中を覗くこともできない。だが、やはり気配は全く感じられなかった。
今は諦めて戻るか、それとも家主の帰りを待つか。そう思案しながら、念のためにと声を掛けた。返事のあることは期待せずに。
「ショロトル、居ないのか、……!」
思わず息を飲んだ。家内からかさりと小さな音がしたから。誰かが驚いて体を震わせたような、小さな小さな物音がしたから。
それは確かにショロトルではない。もっと体の小さい、体の軽い者が立てる音だ。その誰かが、ケツァルコアトルの声を聞いて驚き、けれど返事もせずに黙り込んでいる。
じわりと、嫌な予感が胸に広がった。それを打ち消すため、もう一度声を上げる。
「入るぞ」
一応声を掛け、家内に踏み込む。ショロトルとて、遠慮なしにいつも踏み込んでくるのだ。構う必要もない。
眺め渡すまでもなく、その「誰か」はすぐに見付かる。嫌な予感が、最悪の形で的中したのを悟った。
驚愕と恐怖に目を見開いて、あの少年神が部屋の隅に縮こまっていた。
真っ青になって、がたがたと震えて。少年神は怯え切った様子で身を縮めている。ケツァルコアトルもそのあまりにも痛ましい様子に衝撃を受け、言葉も出なかった。
首を絞められたらしい手の形の痣が、色濃くその細い首筋に浮かび上がっている。あのオセロトルの毛皮の中に縮こまっている体も、もしかすると殴られ蹴られているのかもしれない。
痛ましい思いが、じわじわと怒りに塗り潰されていく。それはショロトルへのものでもあり、自分自身へのものでもあった。
あの残忍な兄弟神は、やはり懲りてはいなかったのだ。ケツァルコアトルが愚鈍にも気付かずにいただけで、ずっとこの少年神をここに閉じ込め、虐げ、奴隷のように扱っていたのだ。そしてケツァルコアトルはそのことに気付きもせずに、見当違いの場所ばかり探して、「心配」しているつもりでいたのだ。
ケツァルコアトルの怒りを感じたのか、少年神が一層怯えた表情で身を縮める。君に怒っているんじゃないよと、宥めてやる事さえできなかった。
怒りを努めて押さえ込み、膝を着いて手を伸ばす。だが少年神はびくっと体を震わせ、一層縮こまった。怯え切っているその様子に触れることも躊躇われて、手を差し出したまま言葉を選ぶ。だが、震える声が先に発された。
「ごめ、ごめ、なさ……っ」
ほとんど泣き出しそうな声で、少年神が繰り返す。恐怖に縺れる舌で、震えながら、ごめんなさいとただ呟く。その姿があまりにも憐れで、一層憤りが膨れ上がった。
「君は何も、悪いことなんてしていないよ」
努めて穏やかな声で宥めても、少年神は震えながら首を横に振った。やはり怯え切った表情で、少年神は尚も舌を縺れさせながら、必死の表情で訴えた。
「僕に会ったって、言わないで。あの神に言わないで」
必死で訴える少年神の目から、耐え切れなくなったように涙が溢れた。ぼろぼろと溢れる涙を呆然と目で追いながら、ケツァルコアトルも理解する。狡猾で周到で残酷な兄弟神が、この少年神に告げたのだろう命令を。
誰にも見付かるなと、他の神々に助けを求めるなと、この少年神はきつく命じられているのだ。少しでも逆らえば暴力を振るわれ、逆らおうとしただけでも首を絞められ、すっかり恐怖が染み付いてしまっているのだ。この少年神はもはや、逃げ出す希望さえ失って、見張りもいないのに縮こまっていたのだ。
あの伸びやかで真っ直ぐだった少年神に、自分の残忍な兄弟神は、何という罪深いことをしたのだ。また膨れ上がる怒りに震えながら、ケツァルコアトルは努めて穏やかに諭した。
「おいで。こんな所に居なくて良い」
「随分な言い草だな。よその家に踏み込んでおいて」
「っ!」
背後から聞こえた声に、反射的に立ち上がり振り向く。背後で、少年神が恐怖に息を飲むのが聞こえた。
いつの間にか音もなく帰ってきていたらしいショロトルは、悪びれない笑みで腕組みをして立っている。その笑顔にかっとなって掴みかかりそうになったが、すんでのところで堪えた。
この残忍な兄弟神を咎めるのは、後でいい。今は早く、憐れな少年神をこの忌まわしい家から連れ出さなくては。
「ショロトル。もう彼に構うんじゃない」
「俺の奴隷のことか?」
「彼は奴隷ではない!」
思わず怒鳴りつけ、冷静になるために短く深呼吸をする。怒りを抑え切れない声で、低く警告した。
「これ以上彼に何かする気なら、ここでお前を殺す。もう容赦はしない」
ケツァルコアトルの怒りが呼び寄せた風が唸りを上げるのを聞きながら、実際に武器に手を掛ける。ショロトルは恐れた様子もなかったが、あっさりと肩を竦めた。
「仕方ねえな」
随分と素直な様子に半ば拍子抜けしたが、今はそれよりも背後で震えている少年神が気掛かりだった。ショロトルから目を背け、もう一度少年神に手を差し出す。
「さあ、行こう」
優しい声で、そう促す。だが、少年神はふるふると首を横に振った。恐怖に見開かれた瞳からまた涙を流しながら、震える声で呟く。
「でき、な……」
「どうして?」
「俺とスルのがイイんじゃねえの?」
「黙れ!」
悪びれもせずに茶化そうとするショロトルを、苛立ちを抑え切れず怒鳴りつける。その声にかまた身を竦ませた少年神は、泣きながら呟いた。
「だ、って。あいつらが、みんなが……」
「あいつら?」
誰のことだいと尋ねようとした時、思い出したのは森の獣達のことだった。ケツァルコアトルの足音を聞くだけで怯えて逃げ出した、牙を持つ小さな獣達。
狡猾で残酷な兄弟神が、あの獣達を見せしめに殺しでもしたのか。もしくは、そうするとでもこの少年神を脅したのか。それを恐れるあまり、少年神は逃げることもできなかったのか。
その手口のあまりの汚さにまた怒りが湧くが、努めて押し沈めた。出せる限り穏やかな声で、少年神を諭す。
「私が手出しさせない。約束する。いいな、ショロトル」
「仕方ねえな」
目を向けると、やはり悪びれない兄弟神はあっさりと肩を竦める。それを確認してから、もう有無を言わせずに少年神を立ち上がらせた。
「ぁ……」
「行こう」
怯えた声を上げる少年神が、困惑したようにショロトルに目を向ける。ショロトルはただ笑い、肩を竦めた。
「俺が恋しくなったら、いつでも戻って来いよ」
「もう、お前には会わせない」
きっぱりと言い捨て、少年神の肩を抱くようにして出口へと導く。だが、最後に釘を刺さずにはいられなかった。
「次は、許さない」
憎悪に近い憤りは、正しく伝わったのだろうか。ショロトルはただ笑い、ひらりと手を振ってよこした。
「私の家に来るかい?」
黙りこくって歩いている少年神に尋ねる。俯いて体に巻いた毛皮をしっかり握り締めている少年神は、しばらく答えなかった。だがやがて、雫の落ちるように呟く。
「帰りたい」
「……そうか」
また独りにさせるのは気掛かりだったが、少なくともショロトルはもう手出しをしないだろう。これからは自分が、もっと頻繁に様子を見に行けばいい。そう判断して、森の方へと足を向けた。
「どこか、痛いところは?」
歩きながら尋ねても、少年神はふるふると首を横に振る。そんな筈は無いだろうが、全身が痛め付けられ傷つけられているだろうが、それよりも早く森へと帰りたいのだろう。次に会う時には薬草を持って訪れようと心に決めながら、ケツァルコアトルはそれ以上何も言えずに少年神を森へと送り届けた。
森が見えてきたとき、気付いた。森と野の境目の辺りに、小さな獣達がひしめき合っている。俯いて歩いていた少年神もケツァルコアトルの様子に気付いてか興味もなさげに顔を上げて、そしてはっと息を呑む。
少年神の帰還に匂いで気付いていたらしいその獣達は、少年神に目を向けられると喜びの唸り声を上げた。牙や爪を持つその獣達が森から飛び出して、一目散に駆け寄ってくる。森の奥からも、後から後から駆けてくる。
すぐに少年神とケツァルコアトルは、その獣達に幾重にも取り巻かれた。ぐるぐる、きゅうきゅう、くるくると、獣達が口々に声を上げる。少年神に身をすり寄せて、盛んに歓待する。少年神の見開かれた目が、茫然とそれを眺め渡した。
獣達の声が少し変わり、少年神に纏わり付いて体を擦り付けていた獣達が後ずさりを始める。森と少年神の間に、一本の道のような空間ができた。何気なくその先に目を向け、ケツァルコアトルはまた目を見張った。
足を引きずりながら森を出て歩いてくる、年老いた一匹の狐。その老獣は少年神の足元に辿り着くと、嬉しげに細い脚に前足を欠けて、甘えるような眼差しでその顔を見上げて、嗄れた声で鳴いた。
「ぁ……」
少年神が何かに気付いたように、茫然と声を漏らす。その細い声を聞いた狐は、嬉しげにまた鳴いて尾で地面をなぞった。
ほとんど茫然としているような手付きで、少年神が老狐を抱き上げる。獣は嬉しげに鳴いて、少年神の手をぺろぺろと舐めた。見守っていた獣達も、また口々に鳴き始める。
茫然とその声を聞いていた少年神の目に、不意にまた涙が浮かんだ。ぼろりと流れて落ちたその雫が、灰色と銀色の入り混じった老狐の毛皮に滴る。老いた獣はぎゅるぎゅると鳴いて伸び上がり、泣き続ける少年神の顎を舐めた。
ケツァルコアトルもつい手を伸ばし、流れ続ける少年神の涙を拭った。それでやっと我に返ったらしい少年神が、泣きながらこちらに目を向ける。
何も言わずに泣き続ける少年神の、濡れた深い瞳。食い入るようにそれを見つめながら、ケツァルコアトルは言葉を探した。
「また、様子を見にくるよ」
◯プチ解説
・奴隷
アステカ社会は階級制で、最下層に当たるのが「奴隷(トラコトリ)」でした。
戦争で捕虜になった敵国の戦士や、負債などのために身売りした人々が奴隷として所有・売買され、「個人の所有物」であるとして相続の対象になってもいました。一旦奴隷となっても自由身分に解放されることもあり、絶対的なものではなかったようです。
・裏設定
前話の「仔狐」がこの話の「老狐」で、「それだけ長く奴隷にされていた」という設定です。
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