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全て獣は土へと還る

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 血の匂いがする。それに気付いてケツァルコアトルは思わず足を止めた。
 だがすぐに我に返り走り出す。その悍ましい匂いが自分の家のある方角から吹き来る風の中にこそ混じっていると、気付いてしまったから。
 思うよりも長く放っておいてしまった、少年神とオセロトル。早く彼らの無事を確かめなくては。逸る気持ちのままに、まだ見えてもこない家を目指す。
 叩きつけるように降ったあの雨に洗われたばかりの足元はぐずぐずとぬかるんでいて、泥に足を取られて無様に転びそうになる。危うくまた態勢を立て直し、取り落としそうになった真新しい装束を抱え直して、また走り出した。
 野を駆けて、水量を増して激しい音を立てている小川を飛び越えて、水溜りも踏み越えて。やっと家が見え始める頃には、ケツァルコアトルの胸はじんわりとした恐怖に支配されていた。
 風が運んでくる、陰惨で凄惨な匂い。恐ろしい何かが確かに起こってしまったのが、その匂いだけでありありと感じられる。絶望が這い寄るのを振り払いながら、ケツァルコアトルは家の前に駆けつけた。 
 家の中は、死に絶えたように静まり返っている。恐ろしい想像を必死で払い除けながら、ケツァルコアトルは家内へと踏み込んだ。
 目を覆いたくなるような惨たらしい光景が、そこに広がっていた。
 一目で凌辱されたと分かる少年神は床に打ち捨てられ、力無く目を閉じて手足を投げ出している。その泣き腫れた目が、首筋にくっきりと浮かぶ絞められたらしい手の形の痣が、あまりにも痛々しい。涙でどろどろに汚れた愛らしい顔が、一層無惨だった。
 そして、力無く投げ出されている少年神の手の、その細い細い指先の、僅かに届かない場所で。喉を裂かれたオセロトルの陰惨な骸が、横たわっていた。
 血溜まりに沈んでぴくりとも動かない、金と黒の大きな獣。深々と切り裂かれた喉笛の、痛ましい傷。それはぱっくりと口を開けて、その美しい体には似合いもしない醜怪な装飾品のようで、あまりにも不自然だった。
 疑う余地もなかった。自分が家を空けた間に、誰か恐ろしい悪意を持つ者がこの家に踏み込み、少年神とオセロトルに襲いかかったのだ。その邪な毒牙に穢されそうになる少年神を、オセロトルは身を呈して守ろうとしたのだ。傷だらけのその体で必死に立ち向かい、その残忍な敵に打ち負かされ、あまりにも残酷で無慈悲なやり方で命を奪われたのだ。
 自分が家を空けさえしなければ、傍を離れずにいてやれば。雨の神々の呼び立てなどに耳を貸さず、もっと早く帰ってきていたなら。救うことが、できたのかもしれないのに。
 憤りに体を震わせながら、少年神のための替えの装束と幾種類かの薬草を投げるように床に置く。足音を立てないようにしながら少年神に歩み寄り、傍に膝を着いた。
 穢らわしい白濁に塗れた、その細い細い体を抱き起こす。起こさないほうがいいとは思いながらも、放ってはおけない。だが、触れられた少年神はそれで意識を取り戻したらしかった。
「……ぅ、」
 掛ける言葉に迷っている間に、少年神は呻き声を上げて身動いだ。力無く閉じられていた瞼が震える。
 ぼんやりと、少年神は目を開けた。状況が理解できていないらしいその目が、ぼんやりと彷徨う。だがその両眼は、ケツァルコアトルに気付くとはっと見開かれた。
「っ!」
「大丈夫だ、何もしないから」
 一瞬にして恐怖を満たす瞳に、出来る限り静かな声で諭す。恐ろしさに身動きもできないらしい少年神を、これ以上怖がらせないように。
 誰にやられたんだなどとは、聞かなくても分かる。少年神のその恐怖の眼差しで、嫌でも悟ってしまう。
 自分とよく似た顔と背格好を持つ、あの兄弟神。忌まわしい邪悪な神。歪みと不幸を振りまくあの悍ましい手が、疑う余地もなくそれをしでかしたのだ。あの邪な手がこの少年神を穢し貶め、それを止めようとしたオセロトルの命さえ奪ったのだ。
 ここにいるのがケツァルコアトルであると、ショロトルではないと、ようやく悟ったらしい少年神が震える息を吐いた。少しだけ力の抜けた薄い肩に、ケツァルコアトルも安堵する。
 だが、少年神はまたはっとした顔をして、周りを見回そうとした。混乱し怯えきっているその両眼が、何かを探し求めて彷徨う。その目がオセロトルの骸の方へ向きそうになって、はっとした。
「待て、」
 慌てて止めようとしたが、あまりにも無惨な光景を見せまいとしたが、遅すぎた。殆ど錯乱しているような必死なその瞳が、血溜まりに沈む大きな体を映してしまう。その眼が、見開かれた。 
「ぁ、」
 反射的に零れたような声が、その唇から漏れた。理解できないと、理解したくないというような、茫然とした瞳。けれど目を逸らすこともできずに、血に塗れた金と黒の獣を食い入るように見つめている。
 やがて。茫然としたままのその瞳に、暗く深い絶望が浮かび上がった。綺麗なその瞳に新たな涙が盛り上がり、涙と土埃に汚れた頰を伝い落ちる。
 掛けてやる言葉も思い付かず、ケツァルコアトルは唇を噛んだ。その腕から、少年神が崩れ落ちるようにして床へと降りる。
 泣きながら這うようにしてオセロトルの骸ににじり寄った少年神は、震える手で獣の頭を抱き起した。驚いたことに、息絶えたとばかり思っていたオセロトルは消え入りそうな息を漏らして、薄く目を開けた。
 まだ、僅かながら息があったのか。消え入りそうに微かに、獣はぐるぐると喉を鳴らして。少年神の手を、ちろりと舐めて。もう一度、とても優しい音をさせて喉を震わせて。
 そして。オセロトルの金色の瞳から、生命の色が消え失せた。

 もう泣くことさえ忘れて、茫然とオセロトルの頭を抱き締めている少年神。痛ましさに胸を締め付けられながら、ケツァルコアトルはその肩に手を置いた。
 はっと身を震わせた少年神が、目を向けてくる。その瞳はやはりどこか茫然としていて、何かが欠落している。
 その瞳に、束の間だけ感情が渦巻いた気がした。悲哀や苦痛や苦悩や後悔や絶望や、色々な残酷な感情が混ざり合った、胸を締め付けられるような色をそこに見た。
  だがその全ての感情は次第に、深い深い沼に沈むようにして見えなくなっていって。暗く虚ろな瞳になった少年神は、何も言わないままに俯いた。
  依然としてオセロトルの頭をしっかり抱きかかえたまま、黙り込む少年神。その深く暗い絶望を感じて、恐ろしい陰鬱な空気に耐えられなくなって、ケツァルコアトルは言葉を探した。
「彼をどこかに埋めるなら、手伝おう」
 嫌だと撥ね付けられることも覚悟した。埋めるなんて嫌だと、離れたくないと、泣き出すかもしれないと思った。流すことも忘れている涙で心を洗ってくれることを、ケツァルコアトルはどこかで望んでいた。
 だが予想に反して、少年神は小さく頷いた。しっかり胸に抱いていたオセロトルの頭を、そっと床に下ろす。僅かに驚きながらケツァルコアトルが手を伸ばしてその目を閉じさせるのを、少年神は何も言わずに見ていた。
 だが、ケツァルコアトルが獣の重い骸を抱え上げた、その時。ずっと口を噤んでいた少年神は、雫の落ちるように言った。
「こいつの、皮が欲しい」

 やめておいたほうがいいと、そんなことはしないほうがいいと、諭してやれば良かったのかもしれない。少年神がどれだけ言い張っても、やめさせるべきだったのかもしれない。悔やみながら、苦しい思いで、ケツァルコアトルは少年神の強張った横顔を見つめていた。
 表情を硬くして、肩を強張らせて。黒く鋭いイツトリのナイフを、指の関節が白くなるほど強く強く握りしめたままで。オセロトルの骸を前に、少年神は立ち尽くしている。
 見兼ねて、ケツァルコアトルは手を伸ばした。立ち竦んでいる少年の肩に触れる。
「私がやろう。君は、あちらで、」
 やはり、させるべきではなかった。手を貸すべきではなかった。この少年神自らの手でオセロトルの毛皮を剥ぎ取るなど、させようとさえしてはいけなかった。せめてケツァルコアトルが、少年神に見せないようにしながら、するべきことだった。
 だがびくっと肩を震わせた少年は、肩を揺すってケツァルコアトルの手を振り落とした。虚ろだが頑なな目をして、強情に言い張る。
「僕がやる」
「しかし、」
「僕がやる!」
 言い張る少年は殆ど泣きだしそうにも見えて、けれど涙の影もその目には浮かんでいない。いっそ泣いてくれたなら、泣き喚いて泣き叫んで当たり散らしてくれたならば、慰めてやることもできるのに。
 頑なな瞳に、とうとう根負けした。少年神の肩にまた触れていた手を、ゆっくりと離す。
 少年神は唇を引き結んで、オセロトルの骸の前に膝をついた。一瞬だけ、耐えきれないというように呼吸を乱して。けれど、目を逸らすことはせずに。その細い手が、オセロトルの骸にナイフを刺し入れた。
 どろりと溢れた血が、傷から溢れ出てナイフを赤く汚す。それを目にした少年神が、怯えた息を漏らすのが聞こえた。耐えきれない苦痛の滲んだその吐息が、ケツァルコアトルの耳に確かに届いた。
 蒼白になって、瞳に絶望と恐怖をありありと映して、少年神は身を強張らせている。その肩は、ナイフを握る手は、強く強く力が篭って、凍り付いている。とても見ていられず、ケツァルコアトルは口出しをせずにはいられなかった。
「もう、」
「嫌だ!」
 引き絞るように叫んだ少年神は、がむしゃらにナイフを動かし始めた。慣れていないと分かる手付きで、だが手を震わせることはせず、オセロトルの腹を裂いていく。もう何も言えなくなったケツァルコアトルが見守る中で、虚ろで暗い目をした少年神は、口を噤んでそれを終えた。
 最後まで、少年神は涙を見せなかった。

 ケツァルコアトルが森の入り口まで送っていく間も、毛皮をしっかりと抱き締めた少年神は口を開かなかった。ケツァルコアトルも、何も言ってやれなかった。
「じゃあ、ここで」
 森の前で立ち止まって、そう言葉を掛ける。少年神はやはり、黙って頷いた。
 その薄い肩を抱き寄せてやりたいような、その細い体を抱き締めて慰めてやりたいような。そんな感情が、ケツァルコアトルの胸を貫いた。けれど少年神の暗く虚ろな瞳が、はっきりと拒絶を伝えているその頑なな表情が、手を触れることを許さなかった。
「……何か困ったことがあったら、いつでも来るといい」
 それだけしか言えなかったケツァルコアトルに、少年神はやはり何も言わずに、決して彼の目を見ずに、小さく頷いた。その空虚な瞳を気掛かりに思いながらも、ケツァルコアトルは背を向けて歩き出すことしかできなかった。
 数十歩行って、動かない背後の気配が気になって、つい振り返る。表情の抜け落ちた少年神は、まだ毛皮を抱きしめてそこに立ち尽くしていた。
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