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蛇と鏡の誰そ彼刻
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落ちかかる夕陽に照らされる野を歩みながら、つい周りを見回してしまう。いつ戻って来られるとも知れない、この美しい土地を。
あの夜の神と自分が力を合わせ共に作り上げた、この世界、この大地。様々な作物は季節ごとに実り、輝くような極彩色の花が咲き乱れ、宝石や金や銀が土の下に眠っている、豊かで美しいこの帝国。
そして、自分が愛し守り続け、また自分を愛し敬ってくれた、帝国の民。彼らを残して、自分は次の朝日が昇る前に、この土地を去らなければならないのだ。今訪ねて行こうとしているあの夜の神の、卑劣で悪辣な策略のために。
自分を奸計に嵌めこの土地から追い出した、あの夜の神。傲慢で不遜で悪賢く性悪な、血に飢えた戦神。
どれほどの年月を互いを憎み厭いながら過ごしてきたのかさえ、もう覚えていない。決して相入れることのない宿敵。どちらかがどちらかを打ち滅ぼすまで争い続けるのだろうと、思っていた。
そして、結局はそうなったのだ。自分は名誉も力も何もかもを失って、この土地を追い出されるのだ。行く当てもなく、明日も知れずに。
そんな神に、自分は何故会いに行こうとしているのだ。胸の隅で呟く声を、握り潰して風に託した。
目指す神殿が見えてきた。その中で、あの夜の神はきっとまだ眠っている。
闇の神でもあるあの神は、昼の光を嫌う。黄昏の頃に目を覚まして、暁とともに眠りにつく。夜の闇に紛れて不破と諍いの種を蒔き散らし、人の子らが互いを傷つけ合うのを存分に楽しんだ後で。
黄昏と暁は、昼と夜のあわい。儚い月が空にかかり、星々が目覚める刻限。誰そ彼、彼は誰、と人の子らは慄いて囁き交わす。
黄昏と暁。それは即ち、この自分の時間。日暮れに宵の明星が空に輝き出す時、朝焼けの空に明けの明星が煌めく時、自分の力は最も強まる。
神々の中でも最も強いのは自分だと、太陽として世界を統べるウィツィロポチトリよりも自分の方が強い力を持つのだと、傲慢に言い放つあの夜の神とも。黄昏と暁の自分は、渡り合うことができる。それは、紛うことなき事実だ。
あんな卑劣な奸計にうかうかと嵌められさえしなければ、いずれ自分があの夜の神を打ち負かしたかも知れない。帝国を追われるのは自分ではなく、邪悪なあの夜の神の方だったのかも知れない。
けれど、そんな考えももう詮無いことだ。小さく息を吐き、冷え切った石材の段を登り始めた。
階段を登り切ったところで、はたと足が止まった。入り口の柱の傍に、武器の手入れをしている戦士がいる。まだ、こちらには気付いていないらしい。
この神殿に神官らの他に、あの夜の神に気に入られて側仕えをしている戦士がいるのは知っていた。用もないので話をしたことはなかったが、道を塞がれていては声をかけるしかない。仕方なく、口を開いた。
「お邪魔するよ」
声をかけると、戦士は弾かれたように顔を上げた。見る間に驚愕と敵意の入り混じった面持ちになり、武器を手にさっと立ち上がる。
「貴方は追放されたはず……!」
「期限の明日の朝までには発つさ。だが、その前に君の主神殿に話があってね」
だからどいて欲しいんだけどね、とは言わなくても伝わった筈だ。だが、戦士は道を譲ろうとする気配も見せない。武器を握り直し、姿勢もこちらの動きにいつでも対応できるような隙のない構え方をしている。
まだこの土地の神である身で、この土地の民に刃を向けられるのは、非常に不快な思いだった。だから自然、こちらも苛立った声を出してしまう。
「痛い目に遭いたくなければ、どきなさい」
努めて和らげた声で忠告してやっても、戦士は道を開けようとはしなかった。強い敵意を目に漲らせ、立ちはだかっている。これは武力行使もやむを得ないかと、内心溜息を吐いた時。
「通せ」
気怠げで甘い、あの夜の神の声が。奥から響いた。
思わずと言った様子で、戦士が奥を振り返る。その横顔に、優しく声をかけてやった。
「君にも聞こえたろう?」
もう一度こちらを振り向いた戦士は物言いたげだったが、主神自ら下された命令には従わざるを得ないのだろう。数瞬の躊躇いの後、戦士はぎこちなく武器を下ろした。内心は嫌で嫌で仕方がないのだろうと分かる足取りで、仕方なさそうに道を開ける。
「ありがとう」
これ見よがしに微笑んでやり、その脇を通り抜ける。通り過ぎざまにちらりと見遣ると、戦士は凄まじい目つきをしていた。
敵意の篭った、憎しみに近い色をした、激しい瞳。そこには嫉妬のような色も見えた。
ことによるとこの戦士も、あの夜の神の寝所に呼ばれたことがあるのかもしれない。快楽に貪欲で放埓な、あの夜の神のことだから。
そう考えると、なんだか愉快になって、少し溜飲が下がって。愉悦に浸りながら、一つの小さな決意をした。刃を向けてくれた礼に、入り口まで届くほどの声を彼の主神に上げさせてやろうと。
神殿の中には、明かりは灯されていなかった。けれど窓から差し込む夕陽の光がまだ鮮やかだから、入るのが初めてではないその奥の間までは難なく辿り着くことができる。
「やあ」
気軽に声をかけ、奥の間に足を踏み入れる。寝床にしどけなく横たわったままの夜の神は、起き上がろうともせずにこちらに視線をよこした。
ぼうっとした、まだ覚め切らぬ瞳。覚醒し切っている時はその嫌味なほど整った顔に張り付いている嘲笑と敵意も、起き抜けのこの夜の神には欠けているから、いつも少しだけ狼狽えてしまう。
つい目を逸らし視線を流した先で、黒い鏡がぬるりと光った。夜の神の失われた片足の代わりに嵌められている、艶やかに黒いイツトリの鏡。
その足は共に世界を創造した時に永久に失われたままだから、夜の神が足の代わりに選んだ鏡が妖しく煌めいている。どこか淫らなその煌めきからさりげなく目を逸らした時、夜の神はようやく口を開いた。
「もう、来ないつもりかと思っていた」
眼差しと同じように少しぼんやりとした声音で漏らし、夜の神は小さく身動いだ。少し体を伸ばして、んん、と声を漏らす。どこか艶かしいその声に、体の奥底で細波が起きるのを感じた。
「来ないつもりだったさ」
答えながら、自分に呆れる。そのつもりだったのにぬけぬけとこんな場所にいる、自分自身に。
許された最後の時間をもっと大切にするべき者達と過ごすこともせずに、自分は何をしているのだろう。こんな場所で、宿敵でしかないこんな神と。
「私を追放したのは、君じゃないか」
分かりきった事を指摘してやると、夜の神は意に介した様子もなくふふふと笑った。少し目が覚めてきたのか、意識的に艶を込めたような声音。その同じ声で、夜の神は答えた。
「そのような下らん恨み言を、言いに来たのではなかろう」
憎らしい台詞を吐きながら、夜の神は真っ直ぐにこちらの目を見据えてきた。毒々しいほどに淫らな、その瞳。
くらりと目眩を覚える。誤魔化すように笑って見せた。意味がないと知っていながら、つい言葉遊びを続けてしまう。
「下らないとは、言ってくれるね」
「実に下らんではないか。貴様の用事は、別にあるだろう?」
さっさと本題に入ってはどうだ。甘いとさえ言えそうな声で夜の神は笑い、先ほどよりも少し大きく身動いだ。
暗く煙るイツトリの鏡が、薄闇の中で妖しく煌めく。嫌味なほど美しいかんばせの中で、毒々しい瞳が淫らに光る。すんなりと長い脚が、見せびらかすように少しだけ動いた。
あからさまな誘惑を跳ね除ける必要など、どこにもない。もとより自分はそのために来たのだし、この夜の神もそうされたがっているのだから。
何ら問題はない。言い訳を探す必要すらない。だから足を進めて、そして。
見えない手に掴まれ、引き寄せられるように。その体に、覆い被さっていた。
「ぁ、ん、」
「、ふ、いやらしいね」
快楽に慣れている夜の神は、ほんの少し触れてやっただけで甘い声を漏らす。嫌でも煽られてしまう自分を誤魔化すように揶揄すると、夜の神は快楽を味わうように閉じていた目を開けた。真っ直ぐにこちらの目を見上げて、ふと唇を歪める。
「私が何者か、忘れる貴様ではあるまい」
凄絶な色香を含んだ、媚びるような眼差し、粘りつくような声音。くらっと眩暈を覚えて、それを散らすように笑って見せた。
「誘惑は君の、十八番だったね」
民も神も唆し誘惑する、性悪で邪悪なこの夜の神。その性質を忘れたことなどないが、馬鹿にしたように笑うその顔は些か癇に触る。だから、ちょっとした仕返しをすることにした。
「可愛らしい誘惑をありがとう。お礼に口付けでもしてあげようか?」
顎を取って甘ったるく囁いてやる。夜の神は嫌そうに振り払い、顔を背けた。
「つれないね」
これ幸いと追い討ちをしかけてやる。だが、夜の神はもうそのやりとりに飽きたらしかった。もう一度こちらに向けられた瞳に、思わず息を飲む。
先ほどよりも一層艶やかで淫らな眼差し。つい見入ってしまった自分のことを嘲笑ういとまさえ惜しいのか、夜の神は甘く笑って。
「そんな事はいい。早く……」
濃厚な蜜のような、甘やかな声がねだる。その声音が、体の奥底で炎を燃え上がらせるのを感じた。
堪え性がないねと、本当に淫乱だねと、笑ってやっても良かったのに。それすらも、忘れていた。
性急なほどと自分で分かる手つきで暴いた場所に、張り詰めている熱を押し当てた。多少慣らし方が足りなくても、問題はあるまい。嗜虐的なこの夜の神はそれと同時に、少し痛いくらいが好きな被虐趣味でもあるから。
挿れるよと、一応の確認を取る前に。夜の神は淫らな期待を満たした瞳でこちらを見上げ、甘くねだった。
「早く……」
それしか言えないのかいと、嘲笑ってやるいとまさえ惜しい。だから何も言えずに、腰を突き入れた。
「ぁ、あぁ……!」
仰け反り甘やかな声を上げる喉。貪欲な粘膜にずぶずぶと飲み込まれていく感触。すぐにでも達してしまいそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
晒されている喉に目が止まり、顔を寄せて浅く歯を立ててみた。震える薄い皮膚をべっとりと舐め上げる。汗の味は妙に甘い気がした。
全てを収め切って、ゆるゆると息を吐く。一呼吸吐くと全ての感触が、感覚が、いちどきに押し寄せてきて、目眩を覚えた。
熱く狭い場所は、淫らな悦びに打ち震え蠕動していて。触れ合っている素肌は燃えるように熱くて。組み敷いているその相手に目を向けて、またくらりと目眩を感じた。
体の下の夜の神は、悦楽に浸り切ってぐったりと目を閉じている。冷たいほど整ったその美貌は快感に蕩けていて、なのにその美しさは損なわれていなくて、一層の妖艶な美しさを纏っている。
鍛え抜かれ均整の取れたその肢体は、汗にしっとりと濡れて艶めいている。そのえもいわれぬ色香に、心が揺さぶられるのを感じた。
美しいもの、綺麗なもの。そうしたひどく尊いものの範疇に、この夜の神を入れてしまいそうになる。その本質は凶暴で邪悪だと、誰よりも深く理解しているのに。
「大丈夫かい?」
つい優しい声を出してしまいながら、夜の神の頰をそっと撫でた。夜の神の瞼が震える。
そして夜の神は、ゆるりと目を開けて見上げてきた。その瞳に、思わず息を飲む。あまりにも鮮やかで淫らな、その光に。
貪婪なその眼は一層強く深い悦楽を期待して、ぎらぎらと光っている。淫蕩で淫猥で、ただ快楽だけを一心に求めているその瞳。
その瞳はどこか、無垢でさえあった。こんなにも淫らで浅ましくて、欲深くて小賢しい夜の神だと言うのに。
「どうした……?」
言葉を失っていると、夜の神は気怠げに声を発して手を伸ばしてきた。こちらの首に腕を回して、ふふふと淫らに笑う。
「くれないのか」
瞳を蕩かして、甘い声で促す夜の神。誘惑の神、神聖なる淫売。その凄絶なほど艶めいた眼差しが、声が、考える力を打ち砕いてしまう。
咎めるように、軽く肩に爪を立てられる。小さく甘い痛みに、やっと我に返った。何を言うべきか迷って、ぎこちなく笑う。
「あげるよ。君が欲しいだけ、いくらでもね」
ん、ぁん、あ、ぁ。ほろほろと零れる声は、床に散らばり部屋に満ちていくようだった。いつまでもそこに残って、頭を圧迫して、思考を壊していく。
熱っぽい、満足げな、夜の神の喘ぎ。その響きが何故か、ひどく耳に心地良い。こんな、邪悪で性悪で凶悪な、仇敵でしかない夜の神なのに。こんな夜の神など、浅ましい淫売に過ぎないのに。
自分自身にちらりと違和感を覚え、すぐに快感の波が思考を浚いとる。後にはただ、一層強い快感を求める欲望だけが残される。
熱く絡みついてくる粘膜。快感に身悶える、均整の取れた美しい肢体。肩に爪を立てられる甘い痛み。そうしたものが、何故だかとても愛おしいような気がした。
こんな交わりは初めてかもしれない。頭の片隅で、ふと気づいた。
この夜の神との交わりはいつも、貪りあい傷つけあうような暴力的なもの。こんなにも穏やかに体を交えるのは、いくら記憶を手繰っても今までになかった事としか思えない。
抱き納め。そんな言葉が、頭の隅を過ぎる。嫌だなあと思った。
いつ戻って来られるかもわからない、二度と戻れないかもしれない、この帝国。この土地を自分は去り、なのにこの夜の神はここに残るのだ。
この蠱惑的な体に、自分は触れることができなくなるのだ。この甘く蕩けた声を、自分は聞くことができなくなるのだ。それがとても残念で不条理なことのように思えて、思わず何かを口走りそうになった、その時。
「っ、」
「何を、考えている」
不意に髪を引っ張られて、我に返った。吐息まじりに不機嫌な声を上げた夜の神に目を向ける。
夜の神は不満げな、拗ねたような瞳をしていた。集中を切らしている自分に対する強い抗議が、その少しぼやけた瞳に宿っている。
どこか幼い、無垢でさえある表情。まるで恋人の不実を責めるような、そんな親しげな苛立ちがそこにあった。
それに、釣られたのだろうか。思いがけない、愛着めいた思いが胸にせり上がるのを感じた。
確かに、自分は些か不実なことをしたのだ。抱き合っている相手から意識を逸らして、考え事をするとは。体を繋げている最中に、他のことを考えるとは。
だから謝ろうとした。どうにかして機嫌を直してもらおうと考えた。
なのに。ごめんよと謝る前に。宥めようと口付けを贈る前に。
悦楽にぼやけた美しい瞳に、冷たく残忍な色が走った。
反射的に動きが止まる。ちりりと頭の隅で警鐘が鳴る。この残忍な色を、自分は、よく知っている。
思わず呼び掛けようとした唇に、すんなりした指が添えられて、声を封じられて。形の良い唇に、蠱惑的な笑みが浮かんで。何を思う前に、その唇は告げた。
「妹の味はどうだった」
花弁のような唇が吐き捨てた言葉を、初め理解できなかった。あるいは、理解したくなかったのかもしれない。
けれど、じわじわと理解が追いつく。言葉が頭に染み込んでくる。
理解して、目の前が朱に染まった。
そうだ、何故忘れていたのだろう。それが自分がこの国を追われる理由なのだ。この夜の神の卑劣で非道な策謀の結果が、それなのだ。
美しい、穢れなき乙女を、自分は。
この、穢らわしい夜の神のせいで。
「知りたいかい」
「ぅあ、」
胸を焼いた怒りに突き動かされ、長い脚を抱え上げて一層深くを抉る。夜の神が苦しげに呻いた。
「、ぐ、」
そんなことには構わず、のしかかるようにして夜の神の耳元に顔を寄せた。更に奥を抉られた夜の神が苦鳴を漏らすが、構うものか。
「知りたければ、教えてあげるよ」
心にもない笑みを顔に貼り付けて、苦しげに歪む顔を覗き込んだ。しっかりと目を見据えて、一言一言を刻み込むように、告げた。
「君なんかより、ずっとイイよ」
柔らかくて。抱き心地が良くて。良い香りで。声が愛らしくて。恥じらう顔も美しくて。君なんかとは比べようもない。
つらつらと言葉が溢れる。形ばかりの笑みを、浮かべたまま。
嘘だ。本当はあの乙女との行為のことなど、何も覚えていない。この夜の神が邪悪な魔術をかけたあのオクトリに悪酔いして、泥酔して、何も分からなくなっていたから。
分かるのは、自分が何をしてしまったかと言うことだけ。取り返しのつかない、取り繕うことも償うこともできない、最低の罪悪を犯したことだけ。
「君みたいな誰にでも脚を開く淫乱とは違って、あの子は、」
その乙女を、自分は。
「良く締まってとても気持ちよかったよ。君なんかとは大違いだ」
この、残酷で血も涙もない、血と力に飢えた、穢らわしい淫売のせいで。
あの乙女に自分が負わせた傷。自分が失った全てのもの。自分がもう二度と踏むことができない、この美しい大地。
何故忘れていたのかも分からないほどの怒りと憎悪が、胸を荒れ狂う。嘲笑を顔に貼り付けながら、蔑みの言葉を吐き散らした。
あの子は淫乱な君と違って、男を食い散らかして遊んだことなんてなかったからね。恥ずかしがる姿もとても可愛らしくて、清らかで、とても美しいんだよ。君みたいな淫売には到底真似できない。男漁りが趣味の君には、分からないだろうけどね。
つらつらと言いながら、ふと気づく。夜の神の、その瞳の色に。
傷ついたような瞳。ひどく切なげな眼。その悲しげな色に、かっとなった。
この自分を、あの乙女を、残忍に弄び、深く深く傷つけておきながら。この自分から、全てを奪っておきながら。何を、さも傷つけられた無害で無垢な者ででもあるかのように、この夜の神は。
脳を焼いた苛立ちのままに、乱暴に腰を叩きつけた。急に再開された律動に、夜の神の体がぴくりと跳ねる。
「、ぃ、た、……!」
「痛くしてるんだよ」
掠れる悲鳴をあげる夜の神に、冷酷に吐き捨てる。力無く逃げようとした腰を捕まえ、一層激しく腰を叩きつけた。
夜の神の様子になど何も構わず、ただ痛めつけるためだけにがづがづと突き上げる。呼吸もままならないらしい夜の神が、息も絶え絶えに訴えた。
「苦、し、」
「そうか。だから?」
冷たく応えて、訴えるように必死で見上げてくる目から視線を逸らして。その時、ふと気付いた。
ふしだらに脱ぎ捨てられた衣の間に、黒々と妖しく光るイツトリのナイフ。この夜の神の持ち物だ。
「っぅ、」
何も考えず、手を伸ばした。繋がったままの体が軋んで、夜の神が掠れる悲鳴を漏らす。
構うものか。
刃を掴み取る。鞘から抜き放つ。視界の端で見とめたらしい夜の神が、怯えた目をした。
「ぁ、な、にを、」
「君は、血が好きだろう?」
怯えを宿した声に冷たく答え、黒い刃を持ち直す。それで夜の神の喉をなぞると、夜の神はくっと息を飲んだ。
「見せてあげるよ。彩ってあげるよ。君の大好きな血で、君を」
君の血で彩られた君は、さぞ美しいんだろうね?
にっこりと笑いかけて。見開かれた目のきわを刃の切っ先でなぞって。そしてその刃を、夜の神の頰に少し強く滑らせた。
刃を滑らせた場所につうっと赤い線が残って。赤色が滲んで、溢れ出て。赤が、とろりと伝い落ちる。
夜の神の顔が小さく歪む。その理由は痛みか、恐れか。どうだっていい。
もっと歪ませてやりたい。苦痛と恐怖を与えてやりたい。残酷な衝動が、良い考えを齎した。
そうだ、それは良い。この夜の神には似合いだ。だから、手を伸ばした。
夜の神の両手首を捕まえて、一纏めに寝床に縫い止めて。怯えた瞳に、にっこりと笑いかけて。
そして。その掌に、刃を深々と突き立てた。
「っ、ぃ、ぁ、あぁあああああああ!」
夜の神の唇から絶叫が迸った。押さえ込んでいる体が壊れそうにわななく。見開かれた瞳から、ぱたぱたと涙が零れ落ちた。
「煩いなあ」
呆れ返りながら、容赦なく刃を突き刺していく。また肉か筋か何かを切り裂いたらしい感触。血の匂いが鼻を擽る。涙を浮かべた目をして、夜の神は必死の様子で訴えた。
「ぃ、たい、痛いっ、痛……!」
「へえ。君でも痛いんだね」
じゃあ抜いてあげるよ。吐き捨てて、柄を持ち直した。
「ぁ、ぐ、」
ぐり、と捻りながら引き抜く。夜の神の苦痛の呻き。また強くなる血の匂い。それに、仄暗い興奮を覚えて。
「ああ、今ので萎えてしまったかな? じゃあ、」
君がまたキモチヨクなれるように、してあげようね。
甘く甘く囁いて、また腰の動きを再開した。
冷や汗に濡れた夜の神の肌に、刃を滑らせる。時折、少しだけ力を込める。その度に刻まれる赤い線は、淫猥な紋様を描き出していく。
そうしながらも夜の神を犯すことはやめない。ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、壊し続ける。
夜の神の引き攣れた呼吸。苦しげで、痛みに耐えている響き。それが耳に心地良くて、もっと聴きたくなる。
一旦欲望を引き抜いて、震えている体をひっくり返した。そしてまた一息に貫く。真っ直ぐな背骨が引き攣るように震え、声にならない悲鳴が空気を震わせた。
「、るし、くるし、」
「だから、キモチヨクなれるようにしてあげているだろう?」
君がイけるまで付き合ってあげるよ。感謝して欲しいね。
にこやかに告げると、苦痛に彩られた瞳を絶望が過ぎる。その色に満足しながら、また腰を突き上げた。
纏わりつく血の匂いに興奮する。上背の割には細い腰を掴んで、がずがずと突き上げる。こんな取るに足らない夜の神のことになんて構わず、ただ自分の快楽を追う。
いたい、いやだ、こわい、くるしい。童子のように嗚咽を漏らす夜の神。みっともなくすすり泣く、無様な夜の神。
憐れみなど湧かない。ただただこの夜の神が憎くて、穢らわしくて、傷つけてやりたくて。
「ゃ、ぃやだ、たすけ……っ、」
「助けなんて来ないよ。君は独りだ」
冷たく吐き捨てた時、気付いた。泣き濡れた瞳に、僅かに揺れる光。
僅かな光さえ消してあげよう。全ての希望を奪ってあげよう。残忍な悦びに笑って、顔を寄せて。囁きを、吹き込んだ。
「助けてくれるほど君を愛してるような。そんな誰かが、いるとでも思っているのかな?」
甘い声で囁いてやると、夜の神の瞳が僅かに揺れた。理解が追いついているかは分からないが、聞こえているならば良いとしよう。
だから、優しく微笑んでやって。噛んで含めるように、言い聞かせた。
「誰も、君なんかを愛さない。君は、誰にも愛されない。民は、君を恐れているだけだ」
そうだ。民に愛されているのは、民が望んでいるのは、こんな夜の神ではなくこの自分だ。
民が愛しているのは、こんな血と争いに飢えた、災厄の種を蒔き散らす、凶暴で残忍な夜の神などではない。民は、この自分を愛しているのだから。
自分は大地を耕し作物を作ることを、民に教えた。自分はたみが育てる作物のために、雨雲を吹き寄せてやった。自分は常に民のために、平和のために、尽力してきた。
なのに。なのに。国を追われるのは、自分なのだ。
こんな穢らわしい夜の神に。こんな取るに足らない神に。自分は、すべてを奪われたのだ。
また怒りが膨れ上がって、もう一度どこか刺してやろうとナイフを握り直す。だがその前に、夜の神が苦しげな声を上げた。
「おまえ、は、」
「は?」
思いがけない言葉に不意をつかれる。その隙に無理にこちらに顔を向けた夜の神が、どこか必死な様子で訴えた。
「おまえは。れ、ないのか。あいして、くれないのか」
この夜の神は何を言い出す。何故自分が、こんな夜の神を愛してやらなくてはならないのか。こんな穢らわしい、取るに足りない、残虐で残忍な淫売を。
「まさか。世界がもう一度壊れようとも、君のことなんて愛さないよ」
だから、笑って吐き捨てた。思った通りに、当たり前のことを。それが当たり前なのだから。
夜の神の目が見開かれる。そこに絶望の色が走った気がしたけれど、どうだっていい。
不意に力を失った体を、また犯す。痛めつけるために、使い潰して自分の快楽だけを追うために。
虚ろに見開かれた瞳から、涙が伝った。それも、どうだってよかった。
抵抗をやめた体をぐちゃぐちゃに犯す。諦めたのか何も言わず何もしなくなったその体は、具合だけは良くて、使い勝手が良い。
あの傲慢で不快な夜の神が、今は無抵抗にこの自分に使い捨てられている。そう思うと、ひどく心地良かった。
胸を満たす暗い満足。征服欲が満たされて、笑みが浮かぶ。その時、ふと気付いた。
組み敷いた夜の神は、声もなく泣いている。虚ろに見開いた瞳から、止めどなく涙を流している。
どうでもいい。哀れんでやる価値もない。興味もないので目を逸らした時、目を吸い寄せられたのは夜の神の喉だった。
微かに震えている、柔らかで剥き出しのその部分。甘い汗の味を覚えている。
同時に、手に握ったままだったナイフを思い出す。ある考えが浮かんだ。
このままこの夜の神を、この震える喉を、ひと思いに。そうすれば、あるいは、自分は追放を免れるのではないかと。それが許されずとも、この邪悪な神の息の根を止めていくことが、民のためでもあるのではないかと。
殆ど無意識に、組み敷いた夜の神の喉に刃を滑らせていた。それにも気づいていない様に、涙を流す夜の神。
だが。本当にその喉を掻き切る寸前に、ふと気づいた。
聞き取れないほどの声で、何か呟いている唇。何も映していない虚ろな眼をして、祈るように、縋るように。
この傲慢で傲岸な夜の神が、何を、誰に、祈るというのか。何に縋るのか。
少しだけ興味を覚えて、耳を澄ませた。夜の神の呟きに耳を傾けた。そして、背筋が凍った。
縋るように、夜の神が、呼んだのは。
「ァ、ル……っ、」
頭から冷水を掛けられたかのように、一気に頭が冷えた。思わず動きを止める。
残酷な責め苦が止んだことにも、夜の神は気づかないようだった。その神は、彼は、何らの反応も返さなかった。啜り泣きながら、呟くように呼び続ける。
色を失った唇が、震える声が呼ぶのは、ただ一つの名前。この自分の、名前。
はっと我に返って、組み敷いている体を見下ろす。その酷い有り様にぞっとした。
傷一つなかった滑らかな背中にも、暁の光のような美しいかんばせにも、真っ赤な血を流す無数の傷。指の長い綺麗な手には、目を覆いたくなるほどの無惨な傷。
この何もかもを、自分がしたのだ。
脳裏を過ぎったのは、乙女の泣き顔。今ここで体の下で水晶の涙を流している、美しい夜の神にその顔が重なる。
自分はまた、美しいものを、この手で。この、穢らわしい手で。
「ごめんよ、私が悪かった。苛めすぎたよ」
震えそうになる声で謝罪する。それすらも耳に届いていないのか、彼は何も言わない。彼はまだ、泣き止まない。
狼狽えながら、恐る恐る手を伸ばして彼の頰に触れる。ぎこちなく涙を拭ってやる。
ようやく、彼の瞳が僅かに揺れた。そのことに安堵しながら、囁いた。
「すまない、もうしないから。もう痛いことも、怖いことも、しないから。だから、」
言葉が喉に引っかかる。何を言えばいい。どんな言葉が、許される。
こんなにも嬲り痛めつけておいて。怖がらないでとも、泣かないでとも、到底言えない。言葉を飲み込んで、別の言葉を探して、押し出した。
「手当て、を、」
そうだ、手当てをしてやらなければならない。神々は人の子よりも頑健だが、不死ではないのだ。傷は刻み込まれ、欠落は二度と戻らない。
醜い傷跡がその美しい手に、体に、残ってしまわないように。早く、手当てしてやらなくては。
ひとまず体を離そうとする。だが、血にぬめる手が縋り付いてきた。彼がふるふると首を横に振る。
「ぃい、いいから……っ、」
だから、続きを。涙に濡れた声がせがむ。思わぬ言葉に呆気にとられた。
彼は何を言い出すのだ。早く治療しなければならないことくらい、彼にだって分かっているはずなのに。我に返り、慌てて言葉を探した。
「手当てしたら、してあげるから。今は手当てをしよう。ね?」
優しく諭しても、彼は嫌がって首を横に振る。いやだと、やめるなと、泣き濡れた声が駄々を捏ねる。
どうして、彼は、そこまで。訳が分からなくて、けれど宥める言葉も見つけられなくて。仕方なく、譲歩することにした。
「分かったよ。しようか」
今は言う通りにしてやるほうがいい。早く済ませて、一秒でも早く手当てをしてやったほうがいい。そう決めて、震える体を抱き直す。怯えた色をした目の端に、軽く口付けた。
ほっとしたように、彼の体から少しだけ力が抜ける。髪にもう一度口付けて、それからゆっくりと動き出した。
彼の体に負担をかけてしまわないように、彼にこれ以上の苦痛を与えないように、できるだけ緩やかに、できる限り優しく。彼の内側の彼が好きな場所を思い出しながら、彼の呼吸を測りながら。
それでもやはり、傷だらけの体には苦しいのだろう。かたかたと震えながら、彼は耐えている。
けれど、やっぱりやめようと、伝えようとするたびに。見透かしたように彼はこちらを見上げて、訴えるような目をする。そんな顔をされては、何も言えなくなって。
やっと少しずつ、彼の呼吸に快感の色が混じり始めた。ほっとして、少しだけ腰の動きを速める。
その時、手に暖かなものが触れるのを感じた。驚いて見下ろして、不意を突かれる。
寝床について体を支えている手に、彼の手が添えられている。彼自身の血でぬめる手が、縋り付いてくる。
彼自身はどうやら無意識なようだった。殆ど朦朧としているらしい虚ろな目をして、切なげな浅い呼吸を繰り返しながら。何も言わずに、力無く手に縋り付いてくる。
少し迷ってから、そっと指を絡ませてやった。もう一度、髪に口付けを落とす。内部で角度が変わったのか、彼が吐息を震わせた。
指を絡ませあったまま、彼と自分を高みへ追い上げていく。彼だけが気持ち良くなってくれればいいのだが、熱く狭い場所に包まれていると意思に反して欲情が高まってしまう。
けれど、彼の内側に吐精するわけにはいかない。これ以上、彼に負担をかけるわけには。だから頃合いを見計らって引き抜こうとしたのに。
絡ませ合っている彼の指に、力が篭った。驚いて顔を覗き込むと、彼は泣きそうな目をして首を横に振る。
「なか、がいい、っ」
「え?」
思わぬ言葉に不意をつかれる。それから慌てて宥めようとした。
「でも、」
「ぃやだ、なか、なかがいい、っ」
ぐずる彼をどう宥めたものか。何と言われようとも、こればかりは聞いてやる訳にはいかない。
困惑しながら、髪を撫でて宥めようと、絡ませた指を解こうとした。だが彼は嫌がって縋り付いてくる。少し体の均衡が崩れて、彼の上に倒れてしまわないように慌てて腹筋に力を入れる。その拍子に、彼の中に収まっている欲望が、彼の内側を刺激した。
驚いたように、きゅうんと彼の内側が閉まった。その締め付けに、耐えきれず。
「ぅ……っ!」
「ひぅ、ーーーーーっ!」
彼の内側で吐き出されていく自分の欲望。彼の声にならない悲鳴。彼もまた、びくびくと体を震わせて白濁を吐き出す。
力が抜けて彼の上に倒れ込みそうになるのを、何とか支える。彼がくったりと寝床に沈んだ。
夜が来る。自分の時間が終わる。彼の力が最も強まる、彼が最も彼らしくなる、彼の時間が訪れる。
だから、ここには居られない。衣服を整えながら、力無く横たわる彼をまた見やった。
頰に残る涙の跡。黒ずんで乾きかけている血が、均整の取れた美しい体に、淫らな紋様のようにこびりついている。
顔にも体にも、至る所に傷を刻んで。疲弊し切った様子で身を横たえている、その姿。煌めく星々の主、妖艶な夜風の支配者。
この自分が刻んだ醜い傷に彩られていても、彼は美しかった。
力尽きている彼は、何も言わない。気絶するように眠ったのかもしれない。その方が、良いのかもしれなかった。
何か言葉を掛けたいような、そうしなければいけないような、そんな気もして。けれど、掛ける言葉も見つからなくて。
結局何も言わず、背を向けた。だが。
衣擦れの音。引きずるように身を起こす気配。そして。
「行くのか」
切なげな声。縋るような声音。
思わず足が止まった。立ち止まるべきでは、なかったのに。
彼は言葉を重ねない。それを良いことに、自分も何も言わなかった。
けれど彼が返答を待っているのが伝わってくる。切なげな眼差しが背中に注がれているのを感じて、苦しくなった。
信じたくなる。本当に彼が自分を望んでくれていると、思い込みたくなる。
そんな筈はないのだ。自分に、そう言い聞かせる。
彼は本当は、この自分の息の根を止めたいだけ。彼の領域にこの自分を引き込んで、思うままにいたぶり、嬲り殺したいだけ。
分かっているのに、分かりきっているのに。何故、この心は期待してしまう。
小さく深呼吸をして、振り返る。薄闇を透かして彼を見た。
端正な顔に乱れかかる、豊かな髪。縋り付くような瞳。無垢な、澄んだ、美しい宝玉。その透明な光に魅入られる。
誘われるように、思わず足を進めていた。寝床の脇に膝をついて、彼の目を覗き込む。
「行かないでほしい?」
思わず、問いかけていた。自分がどんな言葉を期待しているのかも、分からないままに。
彼自身によって追放された身で。彼に引き止められたとしても、残ることなどできない身の上で。なのに何故、尋ねてしまったのか。
ゆっくりと瞬いた彼は、小さく笑った。苦い、切なげな、自嘲の笑み。
「引き止めたなら。貴様は、残るのか」
仇敵の私の、言葉などで。呟いて、また笑う。切なげに、諦めたように。
その笑みが、あまりにも儚く悲しげで。その瞳があまりにも透明で。だからつい、手が動いていた。
「、」
手を伸ばして、彼の頰に触れた。彼が驚いたように息を飲む。透明な瞳がこちらを見上げる。
何かを言わなくてはならない気がした。けれど、言うべき言葉など何もなかった。だから、黙って見つめ返した。
互いに何も言わず、見つめ合っていた。互いの目の奥の感情を、探りあうように。
やがてゆっくりと瞬きをした彼は、おずおずと眼を閉じて手に頰を寄せてきた。ぎこちなく掌に顔を擦り付けるようにして、ほんの僅かに唇を緩める。
安堵したような、幸福そうな、その淡い淡い笑み。胸の奥がじわりと暖かくなって。愛おしいような、そんな気がして。
「良い方法があるよ」
気付けば口走っていた。彼が驚いたように目を開け、見上げてくる。その目を見返しながら、胸に生まれたその破滅の夢に自分で戸惑った。
恐ろしい、口に出すことも許されないような、語るべからざる夢を語ろうとしている。分かっていても、止まらなかった。
「もう憎み合わなくていいように。君を敵だと思わなくていいように。そうなれる方法を、一つだけ知っているよ」
言い聞かせると、澄んだ瞳が無言で先を促す。その瞳を、真っ直ぐに見つめて。
「君と私のこの帝国を、滅ぼしてしまおう」
囁くと、彼の美しい瞳が見開かれた。花弁のような唇がわななく。その唇から、愕然とした呟きが漏れた。
「何、を、」
驚愕も尤もだ。帝国を守護する神自ら、それも平和のために尽力してきた自分の口から、言うべき言葉ではない。自分でも、何故そんなことを思いついたのかさえ分からない。
けれど、口から流れ出る言葉は止まらない。滅亡という夢は、今だけはひどく甘く思えた。
「守るべき民が、奪い合うべき国が無くなったなら。何も背負うものが無くなったなら、私は君を愛せる気がするよ」
血と争いに飢えた、残酷な彼。けれどこんなにも美しい、無垢な瞳で自分を見上げる彼。自分のある部分は、確かに彼に惹かれているのだ。
唐突に気づく。彼のこんな無垢な瞳を、自分はずっと前から知っていたのだ。ただ、忘れていただけで。彼がその光を上手に隠していたために。
遠い遠いあの創世の日に背中を預け合って、共に怪物に戦いを挑んだ。怪物の亡骸を引き裂いて、それで大地を、天空を、造り上げた。あの日の彼の、無邪気で満ち足りた笑顔。
もしかしたら、あの時、自分は、既に。浮かびかけたそんな声を、振り払った時だった。
「本当か」
黙り込んでいた彼が囁くように呟いたので、つい背けていた目を彼に戻す。彼は縋るような目をして、祈るような声で、囁いた。
「そう、なったならば。貴様は、私を、」
できもしないくせに。そうする気など、ないくせに。
なのに何故、そんな目で、そんな声で。
ちりりと胸を焼く苛立ち。それは、そんな目をする彼にか。それとも、そんな夢を思いついた自分自身にか。
ただの夢物語。ただの言葉遊び。ただの戯言。だから。
「約束するよ」
だから、言えた。互いに本気ではないから、決して実現する筈のない夢だから。簡単に、あっさりと、そんな口約束を。
「でも、今じゃないよ。今はまだ、民も神々も強すぎるから。滅ぼすのが大変だろう?」
だから待っているんだよ、私が戻るまで。言い聞かせると、彼は小さく頷いた。少し切なそうに瞳を揺らして、重ねて尋ねてくる。
「いつまで、待てばいい」
そうだねと、少し考える。思いついたままに、言葉を唇に乗せた。
「一の葦の年に、戻ってくるよ」
その年にしたことに、意味などなかった。彼は葦の日の支配者で、一のオセロトルの日を司ってもいる神だから、そこから連想が働いたのかもしれない。
何の意味もない、口から出任せに告げただけの言葉。何の意味もない、ただの夢物語。彼も自分も、そんなことは分かっている。
その筈、なのに。彼は小さく頷いて、そして。
消えゆく夕陽の、最後の光の中で。迫り来る夜の闇の汀で。
彼は、蕩けるように笑ったのだ。
旅をした。小さな船に乗り渡った、大きな大きな海の先で。どこまでもどこまでも広がる、見知らぬ大地の上で。
乾ききった砂の海も歩いた。奇怪な形をした岩が連なる渓谷も歩いた。刺すように冷たい真っ白な大地も歩いた。あまりにも広い世界を、孤独にさすらった。
奇妙な獣に出会った。嗅いだこともない香りに触れた。見知らぬ色の花や草の間を通り抜けた。
土地土地の神々に会った。その神々を敬う民にも会った。ある時は戦い、ある時は迎え入れられ、けれど留まる気になることができずに、また旅立った。
どこまで旅をすれば、満足できるのだろう。どこかに、安らげる土地があるのだろうか。二度と帰れない、あの土地の他に。
戻るつもりはなかった。戻る資格ももとよりない。あんな破滅の夢を語ってしまっては、尚更だ。
なのに。あの蕩けるような笑みが、忘れられないままだった。
緩やかに自分の力が弱まっているような、そんな感覚はあった。慣れない土地を彷徨っているせいだろうかと、一種気楽に考えていた。
そのあまりにも呑気な考えが誤りだったことにようやく気付いたのは、眠れずに星を見上げていた真夜中だった。 彼のあの無垢な瞳を、思い描いていた時だった。
唐突にはっきりと感じた。自分が、消えようとしている。力は消え失せ、存在は薄れ、痕跡すら残さずに消えていく。
神が消えるのは、信じ敬ってくれる民が居なくなる時だ。崇め、語り継ぎ、祀ってくれる者が居なくなる時だ。
帝国に、民に、何かあったのか。彼は、無事だろうか。 反射的にそう考えた時、雷に打たれるように気付いた。
今こそ、一の葦の年だ。 彼に何の気なしに告げた、口から出まかせの予言の年だ。
まさか自分の邪悪な夢だけが一人歩きをして、帝国を滅ぼしに戻ったのか。彼は、民は、その夢を迎え入れてしまったのか。
そんな筈は無い。彼も民も、そんなにも愚かな考えなどしない。彼は、あんなくだらない虚言など、信じている筈がない。
けれどもし、その夢が自分の姿を真似ていたら。彼が、あの不確かな約束を、信じてくれていたとしたら。
あの笑顔がまた、脳裏をよぎった。
いてもたってもいられず立ち上がって、体の均衡が取れずに無様に倒れこんだ。恐ろしいほどの速度で、滅びはこの体を襲っている。
それでも。戻らなければならない。
力を振り絞って風を呼び寄せ、飛ぶような速さで海を渡った。シウポワリの暦が六百回も巡るほど長く不在にした、美しく愛おしい大地へと。
まだ陸の影も見えない頃から、忍び寄る絶望を感じていた。死の匂いが、嘆きの声が、風の中に満ちている。
やっと海岸に辿り着き、小舟を飛び降りた。そのまま走り出す。死の匂いは大気に充満していて、呼吸さえしたくない程だった。
嗅ぎ慣れない匂いが、風を汚している。この美しい土地には存在しなかった「鉄」の匂い。あの海の果ての土地で初めて見た獣「馬」の汗の匂い。果ての土地の民族が操る「火薬」の匂い。
吐き気を催しそうな異臭が強く漂う方へと、足を進める。軍神である彼は必ず、民と共に戦いの最前線にいる筈だから。
残酷な戦いが行われたらしいその場所には、至る所に屍が転がっていた。自分が愛し導き守った民の、自分を愛し敬い讃えてくれた民の、物言わぬ骸達。
その中に、彼は、倒れていた。何かに導かれるようにして、自分は彼を見つけてしまった。
「ーー……、」
呼び掛けたくて、声にならなくて。震える手で、ぐったりと目を閉じ地に伏している彼を抱き起こした。
がっくりと力無く仰け反る首。今にも消え入りそうな儚い吐息。どんどん熱を失っていく体。
嘘だ。どうして。
思わず、強くその体を掻き抱く。その温度だけは、分かったのだろうか。彼は、微かに瞼を震わせて。
そして、彼は。淡く淡く、微笑んだ。
あの日と同じ、最後の笑顔。幸福そうな、蕩けるような、あの笑みの影。 数えきれない夜に夢に見続けた、いつも胸の奥で揺れていた、あの日の微笑み。
胸を突かれると同時に、絶望を覚えた。やはり、そうなのだ。
彼はあの罪深い夢を、本気で信じていて、心待ちにしていて。一人歩きしてこの国に舞い戻ったその邪悪な夢を、迎え入れてしまったのだ。
きっと、それが自分ではないことには、彼だって気付いていた。彼は誰よりも賢くて誰よりも強い、優れた神だから。だからこうして死力を尽くして戦い、そして残酷な凶器に敗れたのだ。
それでも、彼は確かにその幻影を一瞬でも信じて、招き入れてしまったのだ。果たされる筈のなかった約束を、信じていたから。自分が約束を果たしに帰ってくる日を、ずっとずっと待っていたから。
あの誇り高い彼が。誰の前にも膝をつかない、賢しく強く美しい彼が。民も、国も、自尊心も力も野望も何もかもを捨てて。
そうまでして、彼が望んだのは。
「君は馬鹿だ」
あざ笑った、つもりだったのに。自分の声は、みっともなく震えていた。
彼は馬鹿だ、本当に。そしてそれ以上に、自分は愚かだ。
自分があんな口から出まかせの予言など残して去らなければ、彼は侵略者を一切の容赦なく叩き潰しただろう。彼のその態度を見れば、民だってその幻影と自分を見誤ったりしなかったろう。
自分があんな心にもない約束など、彼と交わさなければ。この国は、民は、彼は、きっと今も。
絶望が手足の力を奪う。それでも、彼を手放す事などできない。
もう一度、彼を抱き直して。色を失ったその唇に、唇を重ねた。
あの日は拒まれた、ようやく交わすことのできた口付け。初めて触れた唇は冷え切っていて、残酷な死の味がした。
幽かな吐息は、今にも消え入りそうで。彼も自分も、もう今にも消え失せようとしていて。
けれど。どうせ消えゆくのならば、最後の瞬間まで共に在りたいのだ。
気配を感じ、顔を上げ振り返る。そこには、背に翼を生やした異形が群れをなしていた。
遠い地の民が崇める神の、しもべ達。「天使」と呼ばれるそれらは、冷たい顔になんの表情も浮かべず、石のような虚ろな目でこちらを見ていた。
何も言わず、異形達の長らしい一体はこちらに手を差し出した。生白いその指は、もはや吐息さえも微かな彼を指差している。
その意図を理解して、 憎悪と憤怒が胸を埋め尽くした。彼を抱き直して宣言する。
「君達に、彼は渡さない」
あらん限りの力を振り絞り、風を呼んだ。 木も薙ぎ倒し巨大な船さえもうち沈める、荒れ狂う暴風を。
異形達は木の葉のように吹き飛ばされ、引き裂かれ、霧散した。それを見届け、立ち上がる。しっかりと、彼を抱いたままに。
一歩一歩を踏みしめながら、海岸へと戻った。自分をここへ運んだ小舟は先ほどの風に吹き飛ばされたか、もうそこにはない。用はないから、どうでもいいけれど。
しっかりと彼を抱きしめ直して。その額に、口付けを落として。
そして。海へと、足を踏み入れた。
もしも生まれ直したとしても、また巡り会えても。きっと君と私は、すぐには分かり合えないだろうね。
薄れゆく意識の中で、腕の中の彼に囁いた。
きっと憎み合って、対立して。相容れないそれぞれの信念を貫こうとして、ぶつかってばかりで。
それでもきっと、自分と彼は惹かれあわずにはいられない。憎みながらも惹かれることは止められない。魂が互いを求めて泣き叫ぶのだ。
憎しみを乗り越えて、敵対の時代を潜り抜けて、必ず分かり合える。誰よりも強く深く、結びつくことができる。
必ず、約束を果たすから。
必ずもう一度、君をこの腕で抱きしめるから。
その時まで、君も、私を、どうか。
祈りながら、力の抜けていく声で彼を抱きしめる。霞んでいく意識の彼方で、彼があの日と同じ笑顔で笑った。
「くだらん夢だな」
「酷いね」
一言で切って捨てる恋人に苦笑してしまう。並んでソファに腰を下ろしている恋人は表情ひとつ変えずに、冷めた眼差しを向けてきた。
「くだらんにも程があるだろう。夢など単なる夢だ。記憶を割く価値もない」
「……みゃーう?」
恋人の膝の上ですやすやと眠っていた黒猫が、身動いで寝ぼけた声を上げた。恋人の目がそちらに向けられ、ほっそりと綺麗な指が小さな背中を慈しむように撫でる。その呼吸を測って、言葉をぶつけた。
「夢じゃないって、君なら分かるだろう?」
恋人の指先が、僅かに動いた。その指先をそっと捕まえる。
少し体温の低い、綺麗な指。夢の中では冷えきっていたそれは、今は確かな温もりを宿している。そのことに安堵した。
「思い出したんだ、ようやく。私達の、君と私の、一番最初の名前を」
物心ついた時から、何かを忘れているような不安な思いがしていた。今はこうして隣に座っている彼と巡り合ったその時、雷に打たれるような衝撃を感じた。立場やしがらみやいろんなものを超えて彼と今の関係に落ち着くことができた時、失くしていた半身に巡り合ったように安堵した。
なのに自分は、何よりも根本的で大切なことを、忘れたままだった。やっと巡り会えた彼をまだ待たせたままで、肝心なことだけを遠くに置き去りにしていた。
忘れていた全てを、その夢によって思い出すまでずっと。ずっとずっと、忘れてはいけない決意さえ忘れたままに、生きてきた。
「随分と、君を待たせてしまった。もう一度出会えるまでにも、こうして思い出すまでにも」
待たせて、本当にすまなかった。見開かれた瞳を真っ直ぐ見つめ、心から謝罪した。
束の間、沈黙が降りた。恋人の秘書が紅茶を入れているらしい物音が微かに耳に届く。いつも騒がしい弟もどこで何をしているのか、今は静かだ。
あの頃からずっと変わらない、恋人の美しい瞳。じっと見つめていると、それがふと伏せられた。迷うように、その唇が一度結ばれて。
「……忘れていてくれても、構わないと思っていた。思い出さない方が、お前にとっては幸せなのだろうと」
躊躇いがちに紡がれる言葉。やはりそうだったのだと、苦い思いを噛みしめる。自分はずっと、彼を待たせていたのだ。ずっとずっと信じて待ち続けてくれた彼を、知らず苦しめ、傷つけていたのだ。
手の中の美しい指を、もう一度握り直す。ぎこちなく握り返して、伏し目がちだった視線をこちらに戻してくれる恋人。その瞳に、そっと語りかけた。
「言い訳にしか聞こえないだろうけれど、ずっと思い出したいと思っていたんだ。何かを忘れていることしか分からなくて、けれどそれはとても大切な思い出だとも分かっていた。ずっとずっと、探していた」
「……言い訳だな」
恋人がじんわりと笑ってくれる。柔らかく優しいその笑顔はとても綺麗で、美しくて。あの頃は、彼がそんな顔で笑うことがあるなんて、考えもしなかった。
その頬に、そっと手を添えて。瞬きをする瞳を真っ直ぐ見つめて。
「待っていてくれて、ありがとう」
瞳を覗き込んでにこりと笑う。最愛の存在、魂で結ばれた恋人。もう二度と、離さないように。
そっと顔を寄せると、狼狽えたように恋人が目を閉じる。愛らしさにこそりと笑って、そして口付けを贈ることにした。
○プチ解説
*「寝床」
アステカにはベッド(寝台)を使う習慣はなかったらしく、身分の高い人もベッドで寝てはいなかったようです。
スペインからの征服者たちが一旦歓待されて王都に迎え入れられた時については、ヨーロッパの習慣に元付いてベッドが用意されたとのことです。
(出典:土方美雄『マヤ・アステカの神々』新起元社)
*イツトリ(黒曜石)
黒曜石はとても切れ味鋭い刃物に加工することができる素材のため、石器時代から広く使われていた鉱物です。特に中南米地域の文明はヨーロッパから征服者達がやってくるまで鉄を知らずに発展し続けたので、黒曜石は非常に重要な資源でした。
アステカでも黒曜石は戦闘の武器や祭具(生贄の胸を切り裂いて心臓を取り出すナイフなど)の不可欠な材料でした。アステカが強力で戦闘に長けた国として周辺国を圧倒できた理由の一つとして、「黒曜石の良質・豊富な鉱脈を抱えていて、武器を多く作って持っていた」ことを数える学説もあるとのことです。
宗教都市遺跡が今も残るテオティワカンの近くにある「パチューカ(パチュカ)」の鉱脈で産出する緑味を帯びた黒曜石は、特に良質であるとして好まれたそうです。このパチューカはアステカの人々もよく知っていて採掘していた豊かな銀鉱脈の中心地でもあり、コルテスに率いられたスペイン人一行も征服後にそれに気づいて、街を作って銀を採掘しました。
テスカトリポカ神のお名前は「煙吐く鏡」という意味ですが、ここで言う「鏡」はメソアメリカの文明で宗教儀式に使用されていた「黒曜石の鏡」のことを指します。
あの夜の神と自分が力を合わせ共に作り上げた、この世界、この大地。様々な作物は季節ごとに実り、輝くような極彩色の花が咲き乱れ、宝石や金や銀が土の下に眠っている、豊かで美しいこの帝国。
そして、自分が愛し守り続け、また自分を愛し敬ってくれた、帝国の民。彼らを残して、自分は次の朝日が昇る前に、この土地を去らなければならないのだ。今訪ねて行こうとしているあの夜の神の、卑劣で悪辣な策略のために。
自分を奸計に嵌めこの土地から追い出した、あの夜の神。傲慢で不遜で悪賢く性悪な、血に飢えた戦神。
どれほどの年月を互いを憎み厭いながら過ごしてきたのかさえ、もう覚えていない。決して相入れることのない宿敵。どちらかがどちらかを打ち滅ぼすまで争い続けるのだろうと、思っていた。
そして、結局はそうなったのだ。自分は名誉も力も何もかもを失って、この土地を追い出されるのだ。行く当てもなく、明日も知れずに。
そんな神に、自分は何故会いに行こうとしているのだ。胸の隅で呟く声を、握り潰して風に託した。
目指す神殿が見えてきた。その中で、あの夜の神はきっとまだ眠っている。
闇の神でもあるあの神は、昼の光を嫌う。黄昏の頃に目を覚まして、暁とともに眠りにつく。夜の闇に紛れて不破と諍いの種を蒔き散らし、人の子らが互いを傷つけ合うのを存分に楽しんだ後で。
黄昏と暁は、昼と夜のあわい。儚い月が空にかかり、星々が目覚める刻限。誰そ彼、彼は誰、と人の子らは慄いて囁き交わす。
黄昏と暁。それは即ち、この自分の時間。日暮れに宵の明星が空に輝き出す時、朝焼けの空に明けの明星が煌めく時、自分の力は最も強まる。
神々の中でも最も強いのは自分だと、太陽として世界を統べるウィツィロポチトリよりも自分の方が強い力を持つのだと、傲慢に言い放つあの夜の神とも。黄昏と暁の自分は、渡り合うことができる。それは、紛うことなき事実だ。
あんな卑劣な奸計にうかうかと嵌められさえしなければ、いずれ自分があの夜の神を打ち負かしたかも知れない。帝国を追われるのは自分ではなく、邪悪なあの夜の神の方だったのかも知れない。
けれど、そんな考えももう詮無いことだ。小さく息を吐き、冷え切った石材の段を登り始めた。
階段を登り切ったところで、はたと足が止まった。入り口の柱の傍に、武器の手入れをしている戦士がいる。まだ、こちらには気付いていないらしい。
この神殿に神官らの他に、あの夜の神に気に入られて側仕えをしている戦士がいるのは知っていた。用もないので話をしたことはなかったが、道を塞がれていては声をかけるしかない。仕方なく、口を開いた。
「お邪魔するよ」
声をかけると、戦士は弾かれたように顔を上げた。見る間に驚愕と敵意の入り混じった面持ちになり、武器を手にさっと立ち上がる。
「貴方は追放されたはず……!」
「期限の明日の朝までには発つさ。だが、その前に君の主神殿に話があってね」
だからどいて欲しいんだけどね、とは言わなくても伝わった筈だ。だが、戦士は道を譲ろうとする気配も見せない。武器を握り直し、姿勢もこちらの動きにいつでも対応できるような隙のない構え方をしている。
まだこの土地の神である身で、この土地の民に刃を向けられるのは、非常に不快な思いだった。だから自然、こちらも苛立った声を出してしまう。
「痛い目に遭いたくなければ、どきなさい」
努めて和らげた声で忠告してやっても、戦士は道を開けようとはしなかった。強い敵意を目に漲らせ、立ちはだかっている。これは武力行使もやむを得ないかと、内心溜息を吐いた時。
「通せ」
気怠げで甘い、あの夜の神の声が。奥から響いた。
思わずと言った様子で、戦士が奥を振り返る。その横顔に、優しく声をかけてやった。
「君にも聞こえたろう?」
もう一度こちらを振り向いた戦士は物言いたげだったが、主神自ら下された命令には従わざるを得ないのだろう。数瞬の躊躇いの後、戦士はぎこちなく武器を下ろした。内心は嫌で嫌で仕方がないのだろうと分かる足取りで、仕方なさそうに道を開ける。
「ありがとう」
これ見よがしに微笑んでやり、その脇を通り抜ける。通り過ぎざまにちらりと見遣ると、戦士は凄まじい目つきをしていた。
敵意の篭った、憎しみに近い色をした、激しい瞳。そこには嫉妬のような色も見えた。
ことによるとこの戦士も、あの夜の神の寝所に呼ばれたことがあるのかもしれない。快楽に貪欲で放埓な、あの夜の神のことだから。
そう考えると、なんだか愉快になって、少し溜飲が下がって。愉悦に浸りながら、一つの小さな決意をした。刃を向けてくれた礼に、入り口まで届くほどの声を彼の主神に上げさせてやろうと。
神殿の中には、明かりは灯されていなかった。けれど窓から差し込む夕陽の光がまだ鮮やかだから、入るのが初めてではないその奥の間までは難なく辿り着くことができる。
「やあ」
気軽に声をかけ、奥の間に足を踏み入れる。寝床にしどけなく横たわったままの夜の神は、起き上がろうともせずにこちらに視線をよこした。
ぼうっとした、まだ覚め切らぬ瞳。覚醒し切っている時はその嫌味なほど整った顔に張り付いている嘲笑と敵意も、起き抜けのこの夜の神には欠けているから、いつも少しだけ狼狽えてしまう。
つい目を逸らし視線を流した先で、黒い鏡がぬるりと光った。夜の神の失われた片足の代わりに嵌められている、艶やかに黒いイツトリの鏡。
その足は共に世界を創造した時に永久に失われたままだから、夜の神が足の代わりに選んだ鏡が妖しく煌めいている。どこか淫らなその煌めきからさりげなく目を逸らした時、夜の神はようやく口を開いた。
「もう、来ないつもりかと思っていた」
眼差しと同じように少しぼんやりとした声音で漏らし、夜の神は小さく身動いだ。少し体を伸ばして、んん、と声を漏らす。どこか艶かしいその声に、体の奥底で細波が起きるのを感じた。
「来ないつもりだったさ」
答えながら、自分に呆れる。そのつもりだったのにぬけぬけとこんな場所にいる、自分自身に。
許された最後の時間をもっと大切にするべき者達と過ごすこともせずに、自分は何をしているのだろう。こんな場所で、宿敵でしかないこんな神と。
「私を追放したのは、君じゃないか」
分かりきった事を指摘してやると、夜の神は意に介した様子もなくふふふと笑った。少し目が覚めてきたのか、意識的に艶を込めたような声音。その同じ声で、夜の神は答えた。
「そのような下らん恨み言を、言いに来たのではなかろう」
憎らしい台詞を吐きながら、夜の神は真っ直ぐにこちらの目を見据えてきた。毒々しいほどに淫らな、その瞳。
くらりと目眩を覚える。誤魔化すように笑って見せた。意味がないと知っていながら、つい言葉遊びを続けてしまう。
「下らないとは、言ってくれるね」
「実に下らんではないか。貴様の用事は、別にあるだろう?」
さっさと本題に入ってはどうだ。甘いとさえ言えそうな声で夜の神は笑い、先ほどよりも少し大きく身動いだ。
暗く煙るイツトリの鏡が、薄闇の中で妖しく煌めく。嫌味なほど美しいかんばせの中で、毒々しい瞳が淫らに光る。すんなりと長い脚が、見せびらかすように少しだけ動いた。
あからさまな誘惑を跳ね除ける必要など、どこにもない。もとより自分はそのために来たのだし、この夜の神もそうされたがっているのだから。
何ら問題はない。言い訳を探す必要すらない。だから足を進めて、そして。
見えない手に掴まれ、引き寄せられるように。その体に、覆い被さっていた。
「ぁ、ん、」
「、ふ、いやらしいね」
快楽に慣れている夜の神は、ほんの少し触れてやっただけで甘い声を漏らす。嫌でも煽られてしまう自分を誤魔化すように揶揄すると、夜の神は快楽を味わうように閉じていた目を開けた。真っ直ぐにこちらの目を見上げて、ふと唇を歪める。
「私が何者か、忘れる貴様ではあるまい」
凄絶な色香を含んだ、媚びるような眼差し、粘りつくような声音。くらっと眩暈を覚えて、それを散らすように笑って見せた。
「誘惑は君の、十八番だったね」
民も神も唆し誘惑する、性悪で邪悪なこの夜の神。その性質を忘れたことなどないが、馬鹿にしたように笑うその顔は些か癇に触る。だから、ちょっとした仕返しをすることにした。
「可愛らしい誘惑をありがとう。お礼に口付けでもしてあげようか?」
顎を取って甘ったるく囁いてやる。夜の神は嫌そうに振り払い、顔を背けた。
「つれないね」
これ幸いと追い討ちをしかけてやる。だが、夜の神はもうそのやりとりに飽きたらしかった。もう一度こちらに向けられた瞳に、思わず息を飲む。
先ほどよりも一層艶やかで淫らな眼差し。つい見入ってしまった自分のことを嘲笑ういとまさえ惜しいのか、夜の神は甘く笑って。
「そんな事はいい。早く……」
濃厚な蜜のような、甘やかな声がねだる。その声音が、体の奥底で炎を燃え上がらせるのを感じた。
堪え性がないねと、本当に淫乱だねと、笑ってやっても良かったのに。それすらも、忘れていた。
性急なほどと自分で分かる手つきで暴いた場所に、張り詰めている熱を押し当てた。多少慣らし方が足りなくても、問題はあるまい。嗜虐的なこの夜の神はそれと同時に、少し痛いくらいが好きな被虐趣味でもあるから。
挿れるよと、一応の確認を取る前に。夜の神は淫らな期待を満たした瞳でこちらを見上げ、甘くねだった。
「早く……」
それしか言えないのかいと、嘲笑ってやるいとまさえ惜しい。だから何も言えずに、腰を突き入れた。
「ぁ、あぁ……!」
仰け反り甘やかな声を上げる喉。貪欲な粘膜にずぶずぶと飲み込まれていく感触。すぐにでも達してしまいそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
晒されている喉に目が止まり、顔を寄せて浅く歯を立ててみた。震える薄い皮膚をべっとりと舐め上げる。汗の味は妙に甘い気がした。
全てを収め切って、ゆるゆると息を吐く。一呼吸吐くと全ての感触が、感覚が、いちどきに押し寄せてきて、目眩を覚えた。
熱く狭い場所は、淫らな悦びに打ち震え蠕動していて。触れ合っている素肌は燃えるように熱くて。組み敷いているその相手に目を向けて、またくらりと目眩を感じた。
体の下の夜の神は、悦楽に浸り切ってぐったりと目を閉じている。冷たいほど整ったその美貌は快感に蕩けていて、なのにその美しさは損なわれていなくて、一層の妖艶な美しさを纏っている。
鍛え抜かれ均整の取れたその肢体は、汗にしっとりと濡れて艶めいている。そのえもいわれぬ色香に、心が揺さぶられるのを感じた。
美しいもの、綺麗なもの。そうしたひどく尊いものの範疇に、この夜の神を入れてしまいそうになる。その本質は凶暴で邪悪だと、誰よりも深く理解しているのに。
「大丈夫かい?」
つい優しい声を出してしまいながら、夜の神の頰をそっと撫でた。夜の神の瞼が震える。
そして夜の神は、ゆるりと目を開けて見上げてきた。その瞳に、思わず息を飲む。あまりにも鮮やかで淫らな、その光に。
貪婪なその眼は一層強く深い悦楽を期待して、ぎらぎらと光っている。淫蕩で淫猥で、ただ快楽だけを一心に求めているその瞳。
その瞳はどこか、無垢でさえあった。こんなにも淫らで浅ましくて、欲深くて小賢しい夜の神だと言うのに。
「どうした……?」
言葉を失っていると、夜の神は気怠げに声を発して手を伸ばしてきた。こちらの首に腕を回して、ふふふと淫らに笑う。
「くれないのか」
瞳を蕩かして、甘い声で促す夜の神。誘惑の神、神聖なる淫売。その凄絶なほど艶めいた眼差しが、声が、考える力を打ち砕いてしまう。
咎めるように、軽く肩に爪を立てられる。小さく甘い痛みに、やっと我に返った。何を言うべきか迷って、ぎこちなく笑う。
「あげるよ。君が欲しいだけ、いくらでもね」
ん、ぁん、あ、ぁ。ほろほろと零れる声は、床に散らばり部屋に満ちていくようだった。いつまでもそこに残って、頭を圧迫して、思考を壊していく。
熱っぽい、満足げな、夜の神の喘ぎ。その響きが何故か、ひどく耳に心地良い。こんな、邪悪で性悪で凶悪な、仇敵でしかない夜の神なのに。こんな夜の神など、浅ましい淫売に過ぎないのに。
自分自身にちらりと違和感を覚え、すぐに快感の波が思考を浚いとる。後にはただ、一層強い快感を求める欲望だけが残される。
熱く絡みついてくる粘膜。快感に身悶える、均整の取れた美しい肢体。肩に爪を立てられる甘い痛み。そうしたものが、何故だかとても愛おしいような気がした。
こんな交わりは初めてかもしれない。頭の片隅で、ふと気づいた。
この夜の神との交わりはいつも、貪りあい傷つけあうような暴力的なもの。こんなにも穏やかに体を交えるのは、いくら記憶を手繰っても今までになかった事としか思えない。
抱き納め。そんな言葉が、頭の隅を過ぎる。嫌だなあと思った。
いつ戻って来られるかもわからない、二度と戻れないかもしれない、この帝国。この土地を自分は去り、なのにこの夜の神はここに残るのだ。
この蠱惑的な体に、自分は触れることができなくなるのだ。この甘く蕩けた声を、自分は聞くことができなくなるのだ。それがとても残念で不条理なことのように思えて、思わず何かを口走りそうになった、その時。
「っ、」
「何を、考えている」
不意に髪を引っ張られて、我に返った。吐息まじりに不機嫌な声を上げた夜の神に目を向ける。
夜の神は不満げな、拗ねたような瞳をしていた。集中を切らしている自分に対する強い抗議が、その少しぼやけた瞳に宿っている。
どこか幼い、無垢でさえある表情。まるで恋人の不実を責めるような、そんな親しげな苛立ちがそこにあった。
それに、釣られたのだろうか。思いがけない、愛着めいた思いが胸にせり上がるのを感じた。
確かに、自分は些か不実なことをしたのだ。抱き合っている相手から意識を逸らして、考え事をするとは。体を繋げている最中に、他のことを考えるとは。
だから謝ろうとした。どうにかして機嫌を直してもらおうと考えた。
なのに。ごめんよと謝る前に。宥めようと口付けを贈る前に。
悦楽にぼやけた美しい瞳に、冷たく残忍な色が走った。
反射的に動きが止まる。ちりりと頭の隅で警鐘が鳴る。この残忍な色を、自分は、よく知っている。
思わず呼び掛けようとした唇に、すんなりした指が添えられて、声を封じられて。形の良い唇に、蠱惑的な笑みが浮かんで。何を思う前に、その唇は告げた。
「妹の味はどうだった」
花弁のような唇が吐き捨てた言葉を、初め理解できなかった。あるいは、理解したくなかったのかもしれない。
けれど、じわじわと理解が追いつく。言葉が頭に染み込んでくる。
理解して、目の前が朱に染まった。
そうだ、何故忘れていたのだろう。それが自分がこの国を追われる理由なのだ。この夜の神の卑劣で非道な策謀の結果が、それなのだ。
美しい、穢れなき乙女を、自分は。
この、穢らわしい夜の神のせいで。
「知りたいかい」
「ぅあ、」
胸を焼いた怒りに突き動かされ、長い脚を抱え上げて一層深くを抉る。夜の神が苦しげに呻いた。
「、ぐ、」
そんなことには構わず、のしかかるようにして夜の神の耳元に顔を寄せた。更に奥を抉られた夜の神が苦鳴を漏らすが、構うものか。
「知りたければ、教えてあげるよ」
心にもない笑みを顔に貼り付けて、苦しげに歪む顔を覗き込んだ。しっかりと目を見据えて、一言一言を刻み込むように、告げた。
「君なんかより、ずっとイイよ」
柔らかくて。抱き心地が良くて。良い香りで。声が愛らしくて。恥じらう顔も美しくて。君なんかとは比べようもない。
つらつらと言葉が溢れる。形ばかりの笑みを、浮かべたまま。
嘘だ。本当はあの乙女との行為のことなど、何も覚えていない。この夜の神が邪悪な魔術をかけたあのオクトリに悪酔いして、泥酔して、何も分からなくなっていたから。
分かるのは、自分が何をしてしまったかと言うことだけ。取り返しのつかない、取り繕うことも償うこともできない、最低の罪悪を犯したことだけ。
「君みたいな誰にでも脚を開く淫乱とは違って、あの子は、」
その乙女を、自分は。
「良く締まってとても気持ちよかったよ。君なんかとは大違いだ」
この、残酷で血も涙もない、血と力に飢えた、穢らわしい淫売のせいで。
あの乙女に自分が負わせた傷。自分が失った全てのもの。自分がもう二度と踏むことができない、この美しい大地。
何故忘れていたのかも分からないほどの怒りと憎悪が、胸を荒れ狂う。嘲笑を顔に貼り付けながら、蔑みの言葉を吐き散らした。
あの子は淫乱な君と違って、男を食い散らかして遊んだことなんてなかったからね。恥ずかしがる姿もとても可愛らしくて、清らかで、とても美しいんだよ。君みたいな淫売には到底真似できない。男漁りが趣味の君には、分からないだろうけどね。
つらつらと言いながら、ふと気づく。夜の神の、その瞳の色に。
傷ついたような瞳。ひどく切なげな眼。その悲しげな色に、かっとなった。
この自分を、あの乙女を、残忍に弄び、深く深く傷つけておきながら。この自分から、全てを奪っておきながら。何を、さも傷つけられた無害で無垢な者ででもあるかのように、この夜の神は。
脳を焼いた苛立ちのままに、乱暴に腰を叩きつけた。急に再開された律動に、夜の神の体がぴくりと跳ねる。
「、ぃ、た、……!」
「痛くしてるんだよ」
掠れる悲鳴をあげる夜の神に、冷酷に吐き捨てる。力無く逃げようとした腰を捕まえ、一層激しく腰を叩きつけた。
夜の神の様子になど何も構わず、ただ痛めつけるためだけにがづがづと突き上げる。呼吸もままならないらしい夜の神が、息も絶え絶えに訴えた。
「苦、し、」
「そうか。だから?」
冷たく応えて、訴えるように必死で見上げてくる目から視線を逸らして。その時、ふと気付いた。
ふしだらに脱ぎ捨てられた衣の間に、黒々と妖しく光るイツトリのナイフ。この夜の神の持ち物だ。
「っぅ、」
何も考えず、手を伸ばした。繋がったままの体が軋んで、夜の神が掠れる悲鳴を漏らす。
構うものか。
刃を掴み取る。鞘から抜き放つ。視界の端で見とめたらしい夜の神が、怯えた目をした。
「ぁ、な、にを、」
「君は、血が好きだろう?」
怯えを宿した声に冷たく答え、黒い刃を持ち直す。それで夜の神の喉をなぞると、夜の神はくっと息を飲んだ。
「見せてあげるよ。彩ってあげるよ。君の大好きな血で、君を」
君の血で彩られた君は、さぞ美しいんだろうね?
にっこりと笑いかけて。見開かれた目のきわを刃の切っ先でなぞって。そしてその刃を、夜の神の頰に少し強く滑らせた。
刃を滑らせた場所につうっと赤い線が残って。赤色が滲んで、溢れ出て。赤が、とろりと伝い落ちる。
夜の神の顔が小さく歪む。その理由は痛みか、恐れか。どうだっていい。
もっと歪ませてやりたい。苦痛と恐怖を与えてやりたい。残酷な衝動が、良い考えを齎した。
そうだ、それは良い。この夜の神には似合いだ。だから、手を伸ばした。
夜の神の両手首を捕まえて、一纏めに寝床に縫い止めて。怯えた瞳に、にっこりと笑いかけて。
そして。その掌に、刃を深々と突き立てた。
「っ、ぃ、ぁ、あぁあああああああ!」
夜の神の唇から絶叫が迸った。押さえ込んでいる体が壊れそうにわななく。見開かれた瞳から、ぱたぱたと涙が零れ落ちた。
「煩いなあ」
呆れ返りながら、容赦なく刃を突き刺していく。また肉か筋か何かを切り裂いたらしい感触。血の匂いが鼻を擽る。涙を浮かべた目をして、夜の神は必死の様子で訴えた。
「ぃ、たい、痛いっ、痛……!」
「へえ。君でも痛いんだね」
じゃあ抜いてあげるよ。吐き捨てて、柄を持ち直した。
「ぁ、ぐ、」
ぐり、と捻りながら引き抜く。夜の神の苦痛の呻き。また強くなる血の匂い。それに、仄暗い興奮を覚えて。
「ああ、今ので萎えてしまったかな? じゃあ、」
君がまたキモチヨクなれるように、してあげようね。
甘く甘く囁いて、また腰の動きを再開した。
冷や汗に濡れた夜の神の肌に、刃を滑らせる。時折、少しだけ力を込める。その度に刻まれる赤い線は、淫猥な紋様を描き出していく。
そうしながらも夜の神を犯すことはやめない。ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、壊し続ける。
夜の神の引き攣れた呼吸。苦しげで、痛みに耐えている響き。それが耳に心地良くて、もっと聴きたくなる。
一旦欲望を引き抜いて、震えている体をひっくり返した。そしてまた一息に貫く。真っ直ぐな背骨が引き攣るように震え、声にならない悲鳴が空気を震わせた。
「、るし、くるし、」
「だから、キモチヨクなれるようにしてあげているだろう?」
君がイけるまで付き合ってあげるよ。感謝して欲しいね。
にこやかに告げると、苦痛に彩られた瞳を絶望が過ぎる。その色に満足しながら、また腰を突き上げた。
纏わりつく血の匂いに興奮する。上背の割には細い腰を掴んで、がずがずと突き上げる。こんな取るに足らない夜の神のことになんて構わず、ただ自分の快楽を追う。
いたい、いやだ、こわい、くるしい。童子のように嗚咽を漏らす夜の神。みっともなくすすり泣く、無様な夜の神。
憐れみなど湧かない。ただただこの夜の神が憎くて、穢らわしくて、傷つけてやりたくて。
「ゃ、ぃやだ、たすけ……っ、」
「助けなんて来ないよ。君は独りだ」
冷たく吐き捨てた時、気付いた。泣き濡れた瞳に、僅かに揺れる光。
僅かな光さえ消してあげよう。全ての希望を奪ってあげよう。残忍な悦びに笑って、顔を寄せて。囁きを、吹き込んだ。
「助けてくれるほど君を愛してるような。そんな誰かが、いるとでも思っているのかな?」
甘い声で囁いてやると、夜の神の瞳が僅かに揺れた。理解が追いついているかは分からないが、聞こえているならば良いとしよう。
だから、優しく微笑んでやって。噛んで含めるように、言い聞かせた。
「誰も、君なんかを愛さない。君は、誰にも愛されない。民は、君を恐れているだけだ」
そうだ。民に愛されているのは、民が望んでいるのは、こんな夜の神ではなくこの自分だ。
民が愛しているのは、こんな血と争いに飢えた、災厄の種を蒔き散らす、凶暴で残忍な夜の神などではない。民は、この自分を愛しているのだから。
自分は大地を耕し作物を作ることを、民に教えた。自分はたみが育てる作物のために、雨雲を吹き寄せてやった。自分は常に民のために、平和のために、尽力してきた。
なのに。なのに。国を追われるのは、自分なのだ。
こんな穢らわしい夜の神に。こんな取るに足らない神に。自分は、すべてを奪われたのだ。
また怒りが膨れ上がって、もう一度どこか刺してやろうとナイフを握り直す。だがその前に、夜の神が苦しげな声を上げた。
「おまえ、は、」
「は?」
思いがけない言葉に不意をつかれる。その隙に無理にこちらに顔を向けた夜の神が、どこか必死な様子で訴えた。
「おまえは。れ、ないのか。あいして、くれないのか」
この夜の神は何を言い出す。何故自分が、こんな夜の神を愛してやらなくてはならないのか。こんな穢らわしい、取るに足りない、残虐で残忍な淫売を。
「まさか。世界がもう一度壊れようとも、君のことなんて愛さないよ」
だから、笑って吐き捨てた。思った通りに、当たり前のことを。それが当たり前なのだから。
夜の神の目が見開かれる。そこに絶望の色が走った気がしたけれど、どうだっていい。
不意に力を失った体を、また犯す。痛めつけるために、使い潰して自分の快楽だけを追うために。
虚ろに見開かれた瞳から、涙が伝った。それも、どうだってよかった。
抵抗をやめた体をぐちゃぐちゃに犯す。諦めたのか何も言わず何もしなくなったその体は、具合だけは良くて、使い勝手が良い。
あの傲慢で不快な夜の神が、今は無抵抗にこの自分に使い捨てられている。そう思うと、ひどく心地良かった。
胸を満たす暗い満足。征服欲が満たされて、笑みが浮かぶ。その時、ふと気付いた。
組み敷いた夜の神は、声もなく泣いている。虚ろに見開いた瞳から、止めどなく涙を流している。
どうでもいい。哀れんでやる価値もない。興味もないので目を逸らした時、目を吸い寄せられたのは夜の神の喉だった。
微かに震えている、柔らかで剥き出しのその部分。甘い汗の味を覚えている。
同時に、手に握ったままだったナイフを思い出す。ある考えが浮かんだ。
このままこの夜の神を、この震える喉を、ひと思いに。そうすれば、あるいは、自分は追放を免れるのではないかと。それが許されずとも、この邪悪な神の息の根を止めていくことが、民のためでもあるのではないかと。
殆ど無意識に、組み敷いた夜の神の喉に刃を滑らせていた。それにも気づいていない様に、涙を流す夜の神。
だが。本当にその喉を掻き切る寸前に、ふと気づいた。
聞き取れないほどの声で、何か呟いている唇。何も映していない虚ろな眼をして、祈るように、縋るように。
この傲慢で傲岸な夜の神が、何を、誰に、祈るというのか。何に縋るのか。
少しだけ興味を覚えて、耳を澄ませた。夜の神の呟きに耳を傾けた。そして、背筋が凍った。
縋るように、夜の神が、呼んだのは。
「ァ、ル……っ、」
頭から冷水を掛けられたかのように、一気に頭が冷えた。思わず動きを止める。
残酷な責め苦が止んだことにも、夜の神は気づかないようだった。その神は、彼は、何らの反応も返さなかった。啜り泣きながら、呟くように呼び続ける。
色を失った唇が、震える声が呼ぶのは、ただ一つの名前。この自分の、名前。
はっと我に返って、組み敷いている体を見下ろす。その酷い有り様にぞっとした。
傷一つなかった滑らかな背中にも、暁の光のような美しいかんばせにも、真っ赤な血を流す無数の傷。指の長い綺麗な手には、目を覆いたくなるほどの無惨な傷。
この何もかもを、自分がしたのだ。
脳裏を過ぎったのは、乙女の泣き顔。今ここで体の下で水晶の涙を流している、美しい夜の神にその顔が重なる。
自分はまた、美しいものを、この手で。この、穢らわしい手で。
「ごめんよ、私が悪かった。苛めすぎたよ」
震えそうになる声で謝罪する。それすらも耳に届いていないのか、彼は何も言わない。彼はまだ、泣き止まない。
狼狽えながら、恐る恐る手を伸ばして彼の頰に触れる。ぎこちなく涙を拭ってやる。
ようやく、彼の瞳が僅かに揺れた。そのことに安堵しながら、囁いた。
「すまない、もうしないから。もう痛いことも、怖いことも、しないから。だから、」
言葉が喉に引っかかる。何を言えばいい。どんな言葉が、許される。
こんなにも嬲り痛めつけておいて。怖がらないでとも、泣かないでとも、到底言えない。言葉を飲み込んで、別の言葉を探して、押し出した。
「手当て、を、」
そうだ、手当てをしてやらなければならない。神々は人の子よりも頑健だが、不死ではないのだ。傷は刻み込まれ、欠落は二度と戻らない。
醜い傷跡がその美しい手に、体に、残ってしまわないように。早く、手当てしてやらなくては。
ひとまず体を離そうとする。だが、血にぬめる手が縋り付いてきた。彼がふるふると首を横に振る。
「ぃい、いいから……っ、」
だから、続きを。涙に濡れた声がせがむ。思わぬ言葉に呆気にとられた。
彼は何を言い出すのだ。早く治療しなければならないことくらい、彼にだって分かっているはずなのに。我に返り、慌てて言葉を探した。
「手当てしたら、してあげるから。今は手当てをしよう。ね?」
優しく諭しても、彼は嫌がって首を横に振る。いやだと、やめるなと、泣き濡れた声が駄々を捏ねる。
どうして、彼は、そこまで。訳が分からなくて、けれど宥める言葉も見つけられなくて。仕方なく、譲歩することにした。
「分かったよ。しようか」
今は言う通りにしてやるほうがいい。早く済ませて、一秒でも早く手当てをしてやったほうがいい。そう決めて、震える体を抱き直す。怯えた色をした目の端に、軽く口付けた。
ほっとしたように、彼の体から少しだけ力が抜ける。髪にもう一度口付けて、それからゆっくりと動き出した。
彼の体に負担をかけてしまわないように、彼にこれ以上の苦痛を与えないように、できるだけ緩やかに、できる限り優しく。彼の内側の彼が好きな場所を思い出しながら、彼の呼吸を測りながら。
それでもやはり、傷だらけの体には苦しいのだろう。かたかたと震えながら、彼は耐えている。
けれど、やっぱりやめようと、伝えようとするたびに。見透かしたように彼はこちらを見上げて、訴えるような目をする。そんな顔をされては、何も言えなくなって。
やっと少しずつ、彼の呼吸に快感の色が混じり始めた。ほっとして、少しだけ腰の動きを速める。
その時、手に暖かなものが触れるのを感じた。驚いて見下ろして、不意を突かれる。
寝床について体を支えている手に、彼の手が添えられている。彼自身の血でぬめる手が、縋り付いてくる。
彼自身はどうやら無意識なようだった。殆ど朦朧としているらしい虚ろな目をして、切なげな浅い呼吸を繰り返しながら。何も言わずに、力無く手に縋り付いてくる。
少し迷ってから、そっと指を絡ませてやった。もう一度、髪に口付けを落とす。内部で角度が変わったのか、彼が吐息を震わせた。
指を絡ませあったまま、彼と自分を高みへ追い上げていく。彼だけが気持ち良くなってくれればいいのだが、熱く狭い場所に包まれていると意思に反して欲情が高まってしまう。
けれど、彼の内側に吐精するわけにはいかない。これ以上、彼に負担をかけるわけには。だから頃合いを見計らって引き抜こうとしたのに。
絡ませ合っている彼の指に、力が篭った。驚いて顔を覗き込むと、彼は泣きそうな目をして首を横に振る。
「なか、がいい、っ」
「え?」
思わぬ言葉に不意をつかれる。それから慌てて宥めようとした。
「でも、」
「ぃやだ、なか、なかがいい、っ」
ぐずる彼をどう宥めたものか。何と言われようとも、こればかりは聞いてやる訳にはいかない。
困惑しながら、髪を撫でて宥めようと、絡ませた指を解こうとした。だが彼は嫌がって縋り付いてくる。少し体の均衡が崩れて、彼の上に倒れてしまわないように慌てて腹筋に力を入れる。その拍子に、彼の中に収まっている欲望が、彼の内側を刺激した。
驚いたように、きゅうんと彼の内側が閉まった。その締め付けに、耐えきれず。
「ぅ……っ!」
「ひぅ、ーーーーーっ!」
彼の内側で吐き出されていく自分の欲望。彼の声にならない悲鳴。彼もまた、びくびくと体を震わせて白濁を吐き出す。
力が抜けて彼の上に倒れ込みそうになるのを、何とか支える。彼がくったりと寝床に沈んだ。
夜が来る。自分の時間が終わる。彼の力が最も強まる、彼が最も彼らしくなる、彼の時間が訪れる。
だから、ここには居られない。衣服を整えながら、力無く横たわる彼をまた見やった。
頰に残る涙の跡。黒ずんで乾きかけている血が、均整の取れた美しい体に、淫らな紋様のようにこびりついている。
顔にも体にも、至る所に傷を刻んで。疲弊し切った様子で身を横たえている、その姿。煌めく星々の主、妖艶な夜風の支配者。
この自分が刻んだ醜い傷に彩られていても、彼は美しかった。
力尽きている彼は、何も言わない。気絶するように眠ったのかもしれない。その方が、良いのかもしれなかった。
何か言葉を掛けたいような、そうしなければいけないような、そんな気もして。けれど、掛ける言葉も見つからなくて。
結局何も言わず、背を向けた。だが。
衣擦れの音。引きずるように身を起こす気配。そして。
「行くのか」
切なげな声。縋るような声音。
思わず足が止まった。立ち止まるべきでは、なかったのに。
彼は言葉を重ねない。それを良いことに、自分も何も言わなかった。
けれど彼が返答を待っているのが伝わってくる。切なげな眼差しが背中に注がれているのを感じて、苦しくなった。
信じたくなる。本当に彼が自分を望んでくれていると、思い込みたくなる。
そんな筈はないのだ。自分に、そう言い聞かせる。
彼は本当は、この自分の息の根を止めたいだけ。彼の領域にこの自分を引き込んで、思うままにいたぶり、嬲り殺したいだけ。
分かっているのに、分かりきっているのに。何故、この心は期待してしまう。
小さく深呼吸をして、振り返る。薄闇を透かして彼を見た。
端正な顔に乱れかかる、豊かな髪。縋り付くような瞳。無垢な、澄んだ、美しい宝玉。その透明な光に魅入られる。
誘われるように、思わず足を進めていた。寝床の脇に膝をついて、彼の目を覗き込む。
「行かないでほしい?」
思わず、問いかけていた。自分がどんな言葉を期待しているのかも、分からないままに。
彼自身によって追放された身で。彼に引き止められたとしても、残ることなどできない身の上で。なのに何故、尋ねてしまったのか。
ゆっくりと瞬いた彼は、小さく笑った。苦い、切なげな、自嘲の笑み。
「引き止めたなら。貴様は、残るのか」
仇敵の私の、言葉などで。呟いて、また笑う。切なげに、諦めたように。
その笑みが、あまりにも儚く悲しげで。その瞳があまりにも透明で。だからつい、手が動いていた。
「、」
手を伸ばして、彼の頰に触れた。彼が驚いたように息を飲む。透明な瞳がこちらを見上げる。
何かを言わなくてはならない気がした。けれど、言うべき言葉など何もなかった。だから、黙って見つめ返した。
互いに何も言わず、見つめ合っていた。互いの目の奥の感情を、探りあうように。
やがてゆっくりと瞬きをした彼は、おずおずと眼を閉じて手に頰を寄せてきた。ぎこちなく掌に顔を擦り付けるようにして、ほんの僅かに唇を緩める。
安堵したような、幸福そうな、その淡い淡い笑み。胸の奥がじわりと暖かくなって。愛おしいような、そんな気がして。
「良い方法があるよ」
気付けば口走っていた。彼が驚いたように目を開け、見上げてくる。その目を見返しながら、胸に生まれたその破滅の夢に自分で戸惑った。
恐ろしい、口に出すことも許されないような、語るべからざる夢を語ろうとしている。分かっていても、止まらなかった。
「もう憎み合わなくていいように。君を敵だと思わなくていいように。そうなれる方法を、一つだけ知っているよ」
言い聞かせると、澄んだ瞳が無言で先を促す。その瞳を、真っ直ぐに見つめて。
「君と私のこの帝国を、滅ぼしてしまおう」
囁くと、彼の美しい瞳が見開かれた。花弁のような唇がわななく。その唇から、愕然とした呟きが漏れた。
「何、を、」
驚愕も尤もだ。帝国を守護する神自ら、それも平和のために尽力してきた自分の口から、言うべき言葉ではない。自分でも、何故そんなことを思いついたのかさえ分からない。
けれど、口から流れ出る言葉は止まらない。滅亡という夢は、今だけはひどく甘く思えた。
「守るべき民が、奪い合うべき国が無くなったなら。何も背負うものが無くなったなら、私は君を愛せる気がするよ」
血と争いに飢えた、残酷な彼。けれどこんなにも美しい、無垢な瞳で自分を見上げる彼。自分のある部分は、確かに彼に惹かれているのだ。
唐突に気づく。彼のこんな無垢な瞳を、自分はずっと前から知っていたのだ。ただ、忘れていただけで。彼がその光を上手に隠していたために。
遠い遠いあの創世の日に背中を預け合って、共に怪物に戦いを挑んだ。怪物の亡骸を引き裂いて、それで大地を、天空を、造り上げた。あの日の彼の、無邪気で満ち足りた笑顔。
もしかしたら、あの時、自分は、既に。浮かびかけたそんな声を、振り払った時だった。
「本当か」
黙り込んでいた彼が囁くように呟いたので、つい背けていた目を彼に戻す。彼は縋るような目をして、祈るような声で、囁いた。
「そう、なったならば。貴様は、私を、」
できもしないくせに。そうする気など、ないくせに。
なのに何故、そんな目で、そんな声で。
ちりりと胸を焼く苛立ち。それは、そんな目をする彼にか。それとも、そんな夢を思いついた自分自身にか。
ただの夢物語。ただの言葉遊び。ただの戯言。だから。
「約束するよ」
だから、言えた。互いに本気ではないから、決して実現する筈のない夢だから。簡単に、あっさりと、そんな口約束を。
「でも、今じゃないよ。今はまだ、民も神々も強すぎるから。滅ぼすのが大変だろう?」
だから待っているんだよ、私が戻るまで。言い聞かせると、彼は小さく頷いた。少し切なそうに瞳を揺らして、重ねて尋ねてくる。
「いつまで、待てばいい」
そうだねと、少し考える。思いついたままに、言葉を唇に乗せた。
「一の葦の年に、戻ってくるよ」
その年にしたことに、意味などなかった。彼は葦の日の支配者で、一のオセロトルの日を司ってもいる神だから、そこから連想が働いたのかもしれない。
何の意味もない、口から出任せに告げただけの言葉。何の意味もない、ただの夢物語。彼も自分も、そんなことは分かっている。
その筈、なのに。彼は小さく頷いて、そして。
消えゆく夕陽の、最後の光の中で。迫り来る夜の闇の汀で。
彼は、蕩けるように笑ったのだ。
旅をした。小さな船に乗り渡った、大きな大きな海の先で。どこまでもどこまでも広がる、見知らぬ大地の上で。
乾ききった砂の海も歩いた。奇怪な形をした岩が連なる渓谷も歩いた。刺すように冷たい真っ白な大地も歩いた。あまりにも広い世界を、孤独にさすらった。
奇妙な獣に出会った。嗅いだこともない香りに触れた。見知らぬ色の花や草の間を通り抜けた。
土地土地の神々に会った。その神々を敬う民にも会った。ある時は戦い、ある時は迎え入れられ、けれど留まる気になることができずに、また旅立った。
どこまで旅をすれば、満足できるのだろう。どこかに、安らげる土地があるのだろうか。二度と帰れない、あの土地の他に。
戻るつもりはなかった。戻る資格ももとよりない。あんな破滅の夢を語ってしまっては、尚更だ。
なのに。あの蕩けるような笑みが、忘れられないままだった。
緩やかに自分の力が弱まっているような、そんな感覚はあった。慣れない土地を彷徨っているせいだろうかと、一種気楽に考えていた。
そのあまりにも呑気な考えが誤りだったことにようやく気付いたのは、眠れずに星を見上げていた真夜中だった。 彼のあの無垢な瞳を、思い描いていた時だった。
唐突にはっきりと感じた。自分が、消えようとしている。力は消え失せ、存在は薄れ、痕跡すら残さずに消えていく。
神が消えるのは、信じ敬ってくれる民が居なくなる時だ。崇め、語り継ぎ、祀ってくれる者が居なくなる時だ。
帝国に、民に、何かあったのか。彼は、無事だろうか。 反射的にそう考えた時、雷に打たれるように気付いた。
今こそ、一の葦の年だ。 彼に何の気なしに告げた、口から出まかせの予言の年だ。
まさか自分の邪悪な夢だけが一人歩きをして、帝国を滅ぼしに戻ったのか。彼は、民は、その夢を迎え入れてしまったのか。
そんな筈は無い。彼も民も、そんなにも愚かな考えなどしない。彼は、あんなくだらない虚言など、信じている筈がない。
けれどもし、その夢が自分の姿を真似ていたら。彼が、あの不確かな約束を、信じてくれていたとしたら。
あの笑顔がまた、脳裏をよぎった。
いてもたってもいられず立ち上がって、体の均衡が取れずに無様に倒れこんだ。恐ろしいほどの速度で、滅びはこの体を襲っている。
それでも。戻らなければならない。
力を振り絞って風を呼び寄せ、飛ぶような速さで海を渡った。シウポワリの暦が六百回も巡るほど長く不在にした、美しく愛おしい大地へと。
まだ陸の影も見えない頃から、忍び寄る絶望を感じていた。死の匂いが、嘆きの声が、風の中に満ちている。
やっと海岸に辿り着き、小舟を飛び降りた。そのまま走り出す。死の匂いは大気に充満していて、呼吸さえしたくない程だった。
嗅ぎ慣れない匂いが、風を汚している。この美しい土地には存在しなかった「鉄」の匂い。あの海の果ての土地で初めて見た獣「馬」の汗の匂い。果ての土地の民族が操る「火薬」の匂い。
吐き気を催しそうな異臭が強く漂う方へと、足を進める。軍神である彼は必ず、民と共に戦いの最前線にいる筈だから。
残酷な戦いが行われたらしいその場所には、至る所に屍が転がっていた。自分が愛し導き守った民の、自分を愛し敬い讃えてくれた民の、物言わぬ骸達。
その中に、彼は、倒れていた。何かに導かれるようにして、自分は彼を見つけてしまった。
「ーー……、」
呼び掛けたくて、声にならなくて。震える手で、ぐったりと目を閉じ地に伏している彼を抱き起こした。
がっくりと力無く仰け反る首。今にも消え入りそうな儚い吐息。どんどん熱を失っていく体。
嘘だ。どうして。
思わず、強くその体を掻き抱く。その温度だけは、分かったのだろうか。彼は、微かに瞼を震わせて。
そして、彼は。淡く淡く、微笑んだ。
あの日と同じ、最後の笑顔。幸福そうな、蕩けるような、あの笑みの影。 数えきれない夜に夢に見続けた、いつも胸の奥で揺れていた、あの日の微笑み。
胸を突かれると同時に、絶望を覚えた。やはり、そうなのだ。
彼はあの罪深い夢を、本気で信じていて、心待ちにしていて。一人歩きしてこの国に舞い戻ったその邪悪な夢を、迎え入れてしまったのだ。
きっと、それが自分ではないことには、彼だって気付いていた。彼は誰よりも賢くて誰よりも強い、優れた神だから。だからこうして死力を尽くして戦い、そして残酷な凶器に敗れたのだ。
それでも、彼は確かにその幻影を一瞬でも信じて、招き入れてしまったのだ。果たされる筈のなかった約束を、信じていたから。自分が約束を果たしに帰ってくる日を、ずっとずっと待っていたから。
あの誇り高い彼が。誰の前にも膝をつかない、賢しく強く美しい彼が。民も、国も、自尊心も力も野望も何もかもを捨てて。
そうまでして、彼が望んだのは。
「君は馬鹿だ」
あざ笑った、つもりだったのに。自分の声は、みっともなく震えていた。
彼は馬鹿だ、本当に。そしてそれ以上に、自分は愚かだ。
自分があんな口から出まかせの予言など残して去らなければ、彼は侵略者を一切の容赦なく叩き潰しただろう。彼のその態度を見れば、民だってその幻影と自分を見誤ったりしなかったろう。
自分があんな心にもない約束など、彼と交わさなければ。この国は、民は、彼は、きっと今も。
絶望が手足の力を奪う。それでも、彼を手放す事などできない。
もう一度、彼を抱き直して。色を失ったその唇に、唇を重ねた。
あの日は拒まれた、ようやく交わすことのできた口付け。初めて触れた唇は冷え切っていて、残酷な死の味がした。
幽かな吐息は、今にも消え入りそうで。彼も自分も、もう今にも消え失せようとしていて。
けれど。どうせ消えゆくのならば、最後の瞬間まで共に在りたいのだ。
気配を感じ、顔を上げ振り返る。そこには、背に翼を生やした異形が群れをなしていた。
遠い地の民が崇める神の、しもべ達。「天使」と呼ばれるそれらは、冷たい顔になんの表情も浮かべず、石のような虚ろな目でこちらを見ていた。
何も言わず、異形達の長らしい一体はこちらに手を差し出した。生白いその指は、もはや吐息さえも微かな彼を指差している。
その意図を理解して、 憎悪と憤怒が胸を埋め尽くした。彼を抱き直して宣言する。
「君達に、彼は渡さない」
あらん限りの力を振り絞り、風を呼んだ。 木も薙ぎ倒し巨大な船さえもうち沈める、荒れ狂う暴風を。
異形達は木の葉のように吹き飛ばされ、引き裂かれ、霧散した。それを見届け、立ち上がる。しっかりと、彼を抱いたままに。
一歩一歩を踏みしめながら、海岸へと戻った。自分をここへ運んだ小舟は先ほどの風に吹き飛ばされたか、もうそこにはない。用はないから、どうでもいいけれど。
しっかりと彼を抱きしめ直して。その額に、口付けを落として。
そして。海へと、足を踏み入れた。
もしも生まれ直したとしても、また巡り会えても。きっと君と私は、すぐには分かり合えないだろうね。
薄れゆく意識の中で、腕の中の彼に囁いた。
きっと憎み合って、対立して。相容れないそれぞれの信念を貫こうとして、ぶつかってばかりで。
それでもきっと、自分と彼は惹かれあわずにはいられない。憎みながらも惹かれることは止められない。魂が互いを求めて泣き叫ぶのだ。
憎しみを乗り越えて、敵対の時代を潜り抜けて、必ず分かり合える。誰よりも強く深く、結びつくことができる。
必ず、約束を果たすから。
必ずもう一度、君をこの腕で抱きしめるから。
その時まで、君も、私を、どうか。
祈りながら、力の抜けていく声で彼を抱きしめる。霞んでいく意識の彼方で、彼があの日と同じ笑顔で笑った。
「くだらん夢だな」
「酷いね」
一言で切って捨てる恋人に苦笑してしまう。並んでソファに腰を下ろしている恋人は表情ひとつ変えずに、冷めた眼差しを向けてきた。
「くだらんにも程があるだろう。夢など単なる夢だ。記憶を割く価値もない」
「……みゃーう?」
恋人の膝の上ですやすやと眠っていた黒猫が、身動いで寝ぼけた声を上げた。恋人の目がそちらに向けられ、ほっそりと綺麗な指が小さな背中を慈しむように撫でる。その呼吸を測って、言葉をぶつけた。
「夢じゃないって、君なら分かるだろう?」
恋人の指先が、僅かに動いた。その指先をそっと捕まえる。
少し体温の低い、綺麗な指。夢の中では冷えきっていたそれは、今は確かな温もりを宿している。そのことに安堵した。
「思い出したんだ、ようやく。私達の、君と私の、一番最初の名前を」
物心ついた時から、何かを忘れているような不安な思いがしていた。今はこうして隣に座っている彼と巡り合ったその時、雷に打たれるような衝撃を感じた。立場やしがらみやいろんなものを超えて彼と今の関係に落ち着くことができた時、失くしていた半身に巡り合ったように安堵した。
なのに自分は、何よりも根本的で大切なことを、忘れたままだった。やっと巡り会えた彼をまだ待たせたままで、肝心なことだけを遠くに置き去りにしていた。
忘れていた全てを、その夢によって思い出すまでずっと。ずっとずっと、忘れてはいけない決意さえ忘れたままに、生きてきた。
「随分と、君を待たせてしまった。もう一度出会えるまでにも、こうして思い出すまでにも」
待たせて、本当にすまなかった。見開かれた瞳を真っ直ぐ見つめ、心から謝罪した。
束の間、沈黙が降りた。恋人の秘書が紅茶を入れているらしい物音が微かに耳に届く。いつも騒がしい弟もどこで何をしているのか、今は静かだ。
あの頃からずっと変わらない、恋人の美しい瞳。じっと見つめていると、それがふと伏せられた。迷うように、その唇が一度結ばれて。
「……忘れていてくれても、構わないと思っていた。思い出さない方が、お前にとっては幸せなのだろうと」
躊躇いがちに紡がれる言葉。やはりそうだったのだと、苦い思いを噛みしめる。自分はずっと、彼を待たせていたのだ。ずっとずっと信じて待ち続けてくれた彼を、知らず苦しめ、傷つけていたのだ。
手の中の美しい指を、もう一度握り直す。ぎこちなく握り返して、伏し目がちだった視線をこちらに戻してくれる恋人。その瞳に、そっと語りかけた。
「言い訳にしか聞こえないだろうけれど、ずっと思い出したいと思っていたんだ。何かを忘れていることしか分からなくて、けれどそれはとても大切な思い出だとも分かっていた。ずっとずっと、探していた」
「……言い訳だな」
恋人がじんわりと笑ってくれる。柔らかく優しいその笑顔はとても綺麗で、美しくて。あの頃は、彼がそんな顔で笑うことがあるなんて、考えもしなかった。
その頬に、そっと手を添えて。瞬きをする瞳を真っ直ぐ見つめて。
「待っていてくれて、ありがとう」
瞳を覗き込んでにこりと笑う。最愛の存在、魂で結ばれた恋人。もう二度と、離さないように。
そっと顔を寄せると、狼狽えたように恋人が目を閉じる。愛らしさにこそりと笑って、そして口付けを贈ることにした。
○プチ解説
*「寝床」
アステカにはベッド(寝台)を使う習慣はなかったらしく、身分の高い人もベッドで寝てはいなかったようです。
スペインからの征服者たちが一旦歓待されて王都に迎え入れられた時については、ヨーロッパの習慣に元付いてベッドが用意されたとのことです。
(出典:土方美雄『マヤ・アステカの神々』新起元社)
*イツトリ(黒曜石)
黒曜石はとても切れ味鋭い刃物に加工することができる素材のため、石器時代から広く使われていた鉱物です。特に中南米地域の文明はヨーロッパから征服者達がやってくるまで鉄を知らずに発展し続けたので、黒曜石は非常に重要な資源でした。
アステカでも黒曜石は戦闘の武器や祭具(生贄の胸を切り裂いて心臓を取り出すナイフなど)の不可欠な材料でした。アステカが強力で戦闘に長けた国として周辺国を圧倒できた理由の一つとして、「黒曜石の良質・豊富な鉱脈を抱えていて、武器を多く作って持っていた」ことを数える学説もあるとのことです。
宗教都市遺跡が今も残るテオティワカンの近くにある「パチューカ(パチュカ)」の鉱脈で産出する緑味を帯びた黒曜石は、特に良質であるとして好まれたそうです。このパチューカはアステカの人々もよく知っていて採掘していた豊かな銀鉱脈の中心地でもあり、コルテスに率いられたスペイン人一行も征服後にそれに気づいて、街を作って銀を採掘しました。
テスカトリポカ神のお名前は「煙吐く鏡」という意味ですが、ここで言う「鏡」はメソアメリカの文明で宗教儀式に使用されていた「黒曜石の鏡」のことを指します。
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