太陽と星が出逢う空

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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太陽と星が出逢う空【後編】

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 衣擦れの音で、意識が浮かび上がった。
 眠い眼を開けて、驚きに目が覚める。真夜中だというのに、「太陽の宮」には居るはずのない彼が、そこにいた。寝台の縁に腰掛けて、じっとこちらを見下ろしていた。
「どうしたんだい? 役目はいいのかい?」
 身を起こしながら尋ねても、彼は少し悲しげに笑うばかり。怪訝に思いながら腕を伸ばし、その体を抱き寄せた。抗わず腕に収まってくれる彼の冷えきった体と、触れ合う肌に突き刺さる痛みと、胸に満ちていく溢れんばかりの幸福。
 一瞬だけ躊躇った彼が、意を決したように顔を上げた。何を思う前に、こちらに顔が寄せられる。
 そして、唇が触れ合った。常はただ受け入れてくれるばかりでいた彼から、初めて贈られた口付けだった。
 驚いていると、彼はおずおずと舌を差し伸べてきた。氷のような舌先が唇をなぞる。
 少し迷ったが、そっと唇を開いて口付けに応えた。甘く冷たい舌に、自分のそれを絡ませる。寸の間びくっと引き攣ったそれは、けれどすぐに一層大胆に絡みついてきた。
 あまりに温度の違う柔らかな肉塊を夢中で絡ませ合い、吐息さえも奪うように何度も口付けを重ねる。凍りつくように冷たい彼の舌を丹念に味わった。
 息を乱した彼が、一層体を擦り寄せてくる。口付けの高揚のためかその肌は一層温度を下げていて、衣服越しの触れ合いでさえ痛いほどだけれど、そんなことを理由に離れようなどとは思える筈もなかった。
 やがて、どちらからともなく口付けを解いた。名残惜しい思いで目を開けると、同じようにゆっくりと目を開けた彼と目が合う。
 濡れた美しい瞳は、宵空の青。その色にうっとりと見惚れながら、白い頰をそっと指先で擽った。彼を傷つけてしまわないように、ほんの僅かになぞるだけの愛撫。
 幸福そうに微笑んでくれた彼が、何かを言い淀んだ。躊躇いがちに唇を開きかけ、何も言わずにきゅっと噛みしめる。
「どうしたんだい?」
 尋ねると、彼は小さく肩を震わせた。美しい瞳が揺らぐ。迷うように、彼がまた唇を開閉する。それから、消え入りそうな声で、彼は言った。
「抱いてほしい」
 言われた言葉の意味が、はじめ分からなかった。
「今、なんて?」
 思わず尋ね返す。彼の目を覗き込む。羞じらうように頬を染めた彼は、けれど決意のこもった瞳で見つめ返してきた。
「抱いてほしいのだ。今夜、貴方のものになりたいのだ」
「だが……」
「お願いだ」
 言い募る彼はどこか必死で、縋り付くようで。宥めようとして無意識に肩を抱きながら、どうしたものかと頭を巡らせた。
 自分だって、彼が欲しいけれど。彼と抱き合い、高め合い、愛し合いたいけれど。だがそれは彼にとっては、文字通り内腑を灼かれる激痛だ。彼にそんな苦痛を強いることなどできない。
 だめだ。やはり、できないことだ。今までのような、静かで控えめな交歓で満足しなければならないのだ。
 見つめ合い、語り合い、ほんの僅かに唇を合わせる。それで満足すべきなのだ。そう、こちらは心に決め直したのに。
「お願いだ。どうか」
 こちらの顔色を読んだように、彼がなおも言い募る。必死の色を浮かべた青の瞳。その瞳を覗き込んで、噛んで含めるように言い聞かせた。
「駄目だよ。君が苦しい思いをするだけだ。誰よりも、君自身が分かっているだろう?」
「私は大丈夫だ」
 諭そうとしても、彼はそう言い張る。だが、大丈夫な筈がない。いくら彼が望んでくれても、こればかりはできない。
 諭そうとした事に、説得しようとした事に、気づかれたのか。頑なな光が、彼の瞳に宿った。
 何を思う前に、彼に押し倒された。すぐに彼が乗りかかってくる。そして、冷たい指が秘めるべき場所に絡みつくのを感じて慌てた。
「っ、やめなさい」
「嫌だ」
 硬い声で拒絶した彼が、ぎこちない手つきで欲望の象徴を擦り上げてくる。冷たい掌に握り込まれる感触に、思わず息を呑んでしまった。
 拙いが迷いのない手つきで、彼の冷たい手がそれに触れている。罪深い劣情を暴き出されそうになって、慌ててまた静止の声を上げた。
「やめるんだ」
「嫌だ」
 聞き入れようとしない彼の手首を、やっとの思いで掴んだ。触れる掌の熱さにか小さく身を竦ませる彼を、努めて穏やかに諭そうとする。
「これだって、君にはつらいだろう? 繋がればもっと熱くて、痛くて、苦しいだけだよ。大切な君に、そんな酷いことはしたくない」
「……嫌だ。貴方のものになりたい。貴方で満たされたい」
 言い聞かせても、彼はぐずるように首を横に振るばかり。説得の言葉を重ねようとしたが、その前に突然顔を上げた彼からまた口付けられた。
 辿々しく、だがひどく必死な様子で、冷たく甘い彼の唇が口付けを深めようとしてくる。その健気でいじらしい様子に、熱を煽られる以上に困惑が湧き上がった。
 どうして彼は、ここまで必死になる。どうして、今夜に限って。
 彼が呼吸のために僅かに離れた時を見計らい、そっと肩を押し返した。びくりと身を揺らした彼が、瞳に傷付いた色を宿して見つめてくる。その悲しい色に胸を痛めながら、優しく言い聞かせた。
「君の気持ちはとても嬉しいよ。けれど、私の気持ちも分かってほしい。私のせいで、君を苦しませたくないんだよ」
「……」
 答えない彼は、きゅっと唇を噛み締めて俯いた。瞳に宿る切なげな色。また胸が痛んだが、どうしても彼を説得しなければならない。
 素肌が触れてしまわないように気を付けながら、衣服越しにその肩を摩る。頭を働かせ、重ねて説得するための言葉を選び取ろうとする。だがもう一度口を開こうとした時、彼がぽつんと漏らした。
「……今、苦しいのだ」
「え?」
 思いがけない返答に、思わず不意を突かれる。徐に顔を上げた彼は、青の瞳にはっきりと苦痛と苦悩を浮かべていた。苦しげな表情のまま、彼が口を開く。
「本当に貴方のものにはなれないことが。貴方の愛情に報いることも、貴方へのこの想いを証すことさえもできないことが。そのことが、心の臓を捨て去りたいほどに、苦しくて、痛いのだ」
「そんな……」
 反射的に、宥めようと口を開きかける。だが、冷たい指先が押し留めるように唇に触れた。つい言葉を飲むと、苦しげな眼差しをやめない彼が振り絞るように言う。
「言葉しか交わせない関係には、もう耐えられない。確かな証が欲しい」
 苦悩と決意をはっきりと浮かべる、断固とした青の瞳。その頑なな眼差しに、とうとう根負けした。
「……苦しくなったら、いつでも言うんだよ」

 衣服を脱ぎ捨てようとした彼を押し留め、それを身に纏ったままで寝台に横たわるよう促した。常態にあってさえ彼にとっては熱すぎる自分が必要以上に彼の肌を灼くことは、避けたかったから。
 躊躇いがちに寝台に身を沈めた彼は、伏目がちにこちらを見上げている。翳りを帯びた碧玉に揺れる色は怯えとも期待とも、あるいはそれらとは全く異なる感情とも見える。揺らめくその色彩を読み取ろうとしながら、そっと囁きかけた。
「楽にして。何も我慢しないで。……大切にしたいんだ」
 言い聞かせて、指先だけでなぞるように彼の頬に触れた。そんな僅かな触れ合いさえも彼にとっては苦痛にしかならないとこんなにも知っているのに、今から自分はそれとは比べ物にならないほどの熱で彼を苛むのだ。そのことをもう一度自覚して、また胸が痛みを訴える。
 だが彼は、痛みに僅かに眉を動かすことさえしなかった。彼はただ、淡いが美しい笑みを浮かべて囁き返してきただけだった。
「……大切に、してもらっている。もう、ずっと前から。……けれど、貴方になら、灼き滅ぼされても構わない」
 吐息だけで囁いて、彼はひどく幸福そうに笑う。透き通るような、神聖なほど美しい、その笑顔。恐ろしいまでに深い愛の言葉に、胸を突かれた。
 反論しようとして、けれど言葉が見つからなくて。だからただ黙って口付けをすることしか、もうできなかった。
 触れただけで凍り付きそうに冷たい、そしてどんな美酒よりもなお甘い、彼の唇を味わう。火傷するほどの熱さに耐えているのだろう彼は、小さく震えながらも口付けを受け入れてくれている。
 冷えて痛みを訴えている舌で最後に彼の唇をなぞり、そっと顔を離した。上がった息を整えながら彼の顔を覗き込んでいると、睫毛を震わせた彼がゆっくりと目を開ける。やはり翳りを帯びた、だが淡く高揚している、美しい青の瞳。
「愛しているよ」
 囁きかけると、彼はまた小さく睫毛を揺らした。青の双眸がゆっくりと瞬きをして、ほんの僅かにその目が伏せられる。そしてまた視線を合わせてくれた彼は、透き通るように微笑んだ。
「……私も、貴方を想っている。いつでも、どこにいても、この魂は永遠に貴方のものだ」
 清らかで美しい笑みに、強く胸を打たれる。あまりにも真っ直ぐな言葉は弓弦の軋むほど引き絞られて放たれた矢のように、深々とこの胸を貫いて彼の誠意を注ぎ込む。感動に震えそうになる声で、やっとの思いで囁き返した。
「……君は私のもので、私も君のものだよ。いつかこの空が砕け落ちる日が来たとしても、私は変わらず君を愛し続ける」

 目を伏せがちにして寝台に身を横たえている彼の衣服の中に、そっと手を差し入れた。冷たい肌の表面を指先でなぞる。
 時折指に引っかかる、傷跡の感触。それは天空の平穏を守る戦いに明け暮れている彼の、歴戦の証だ。労りの思いを込めてその傷を指で辿り、そして彼の衣服の前をゆっくりと開かせた。
 露わになるのは、生まれたばかりの薄雲よりもなお白い彼の肌。清らかなその輝きに、思わず唾を飲んだ。
 触れることを躊躇うほどの清浄さにまた僅かに迷い、それから覚悟を決めて、透き通るような素肌にそっと唇を寄せる。うっすらと上気し汗ばんでいても、その肌は痛いほどに冷たかった。冷やされた唇が刺すような痛みを訴える。
 だが彼にとっての自分も、火傷するほどの熱さなのだ。それでも泣き言一つ漏らさず耐えている彼がいじらしくて、憐れで、どうしようもなく愛おしい。
 古傷の上に、また生々しさを残す新しい傷の上にと、場所を変えながら何度も唇を押し当てる。鎖骨の上にごく軽く歯を立ててみると、彼は微かに声を漏らして身を震わせた。
「っ、ーー……」
「つらくはないかい?」
 不安げな響きを滲ませる声に呼びかけられ、視線を合わせて問い返す。小さく頷いてくれた彼が僅かに躊躇って、それから消え入りそうな声で呟いた。
「痛みも、熱さも、何と言うこともない。……だから、貴方の痕を、私が貴方のものであるという証を、刻み付けてほしい……」
 かろうじて聞き取れるほどの声で乞い、彼は縋るような目をして見つめてくる。その切ない眼差しの前には説得の言葉も立ち消えてしまって、結局何も言えなくて、黙ってもう一度彼の肌に唇を寄せた。
 少しだけ強く、彼の肌に吸い付いた。彼が耐えきれなかった苦痛の呻きを漏らすとほぼ同時に離れて、様子を確かめる。
 小さな火傷となってしまったその所有印に、胸が痛む。その真新しい傷を労ってやることさえ、この自分には叶わない。彼を灼き滅ぼしてしまいかねないこの身は、彼に傷しかもたらせない。
 だが視線を合わせて謝罪しようとした時、彼の腕がぎこちなく首筋に絡みついてきた。驚いて息を呑んだ唇に、触れるだけの口付けをされる。吐息が混ざり合う距離で、彼はひどく幸福そうに微笑んだ。
「貴方の与えてくれるものならば、痛みさえも愛おしい。……ありがとう」

 一つ一つを確かめるように、互いの肌を探り合う。彼の肌に増えていく、痛ましい無数の火傷。自分の肌に刻まれ深まっていく凍傷の、鋭利な痛み。そして、それ以上の強さと激しさで胸に満ちていく、愛し合うことの幸福。
 すらりと長い脚をゆっくりと開かせると、彼の体が怯えるように小さく震える。けれど彼は、何も言わなかった。
「怖いかい?」
 囁きかけると、彼はやはり何も言わずにふるふると首を横に振る。その様子を気掛かりに感じながら、自分の指を舐めて湿らせる。だがそれを彼の中に差し入れようとすると、何故か止められた。
「必要、ない」
「だが……」
「……自分で、準備してきた」
「え?」
 思わぬ言葉に驚き、彼の顔を覗き込む。羞じらうように一度目を伏せた彼は、それからおずおずと視線を受け止めてくれた。
 色濃い怯えを宿す青の瞳。不安げな眼差し。気を損ねてしまったのではないかと恐れているらしい眼をして、彼はこちらを窺っている。
 驚きはしたが、気を損ねたりなどする筈がない。そうまでして自分を求めてくれる愛しい相手に、意地の悪いことなど何一つ言えはしない。だから不安げに揺れる目の端に口付けを贈って、そして安心させるように微笑みかけた。
「私にさせてもらいたかったな。次からは、私にやらせてほしい」
 冗談めかして言うと、瞬きをした彼はようやく少しだけ微笑んでくれた。困ったように目を伏せて、吐息のように呟く。
「……覚えておく」

 絶え間なく肌を刺している無数の凍傷の痛みは、逆に快感と高揚を燃え上がらせている。はちきれんばかりに彼を欲している器官を、そっと彼の秘所に押し当てた。凍りつくような温度に小さく身震いして、それから彼の目を覗き込んで問いかける。
「本当に、良いんだね?」
「……私が、望んでいることだ」
 抑えきれない恐怖にか微かに強張っている彼の声は、けれど揺るぎない響きで答えてくる。もう何も言えなくなって、黙ってその白い額に唇を寄せて、そして彼の内側へと踏み込んだ。
「っ、ーー!」
「ぅ……っ!」
 冷え冷えと絡みついてくる、秘められた狭い場所。その凍るような温度に、食いちぎるような強さで押し包まれる途方も無い快感に、思わず呻きが漏れた。
 苦痛の声を堪えきれなかったらしい彼は蒼白になって、恐らくは激痛と灼熱とに耐えている。そのあまりの痛ましさに、押し入ろうとする動きを止めた。
「……苦しいだろう。もうやめよう」
 囁きかけて、彼を苛む熱の楔を引き抜こうとする。だが、力なく縋り付かれた。目に涙を浮かべた彼が、必死の眼差しで訴える。
「やめ、るな……!」
「だが、これ以上は、君が……」
 諭そうとした唇に、辿々しい口付けが触れた。氷のように冷たい唇の、甘やかな感触。
 驚きに思わず言葉を飲んでしまう。触れるだけで離れた彼が、苦痛に震えている声で訴えた。
「どうなっても構わない。どうしても、貴方が欲しい……」
 潤んだ瞳の切なげな色。彼のあまりの健気さに、ひたむきに捧げてくれる愛情に、眩暈を覚える。吹き飛びそうになる理性をやっとの思いで繋ぎ止め、必死の思いで彼を説得しようとした。
「分かってくれ。君が苦しむのには耐えられない。これ以上、君を傷つけたくないんだ」
「……嫌だ。貴方が欲しい。貴方のものになりたい」
 ぐずるように訴える彼を、一体どんな言葉で宥めたものだろう。早く彼を納得させなければ、彼を苛む火傷はますます深くなるばかりだ。焦燥を覚えながら、必死で頭を働かせた。
「君はもうとっくに私のもので、私もいつまででも君のものだよ。こんなことをしなくても」
 言い聞かせても、彼はやはり納得してくれなかった。むずかるように首を横に振り、氷のような腕で縋り付いてくる。そんな彼をまた違う言葉で宥めようとしたが、彼が口を開く方が僅かに早かった。
「……体の痛みなど、何でもない。貴方に抱いてもらえないことの方が、遥かに痛く苦しいのだ」
「……え?」
 思わず聞き返すと、震えるように呼吸した彼はひたりと目を見据えてきた。苦痛に耐える目をしながら、だが決意を同じ瞳に宿して、決然とした声で言う。
「……私の魂は、貴方を欲して、貴方に恋い焦がれて、貴方のものになれないことを悲しんで、もがき苦しんでいる。貴方にしか、この痛みは癒せない」
 耐え難い筈の激痛に苛まれている眼をして、声には僅かに苦痛を滲ませて、けれど彼は眼を逸らさなかった。真っ直ぐに視線を合わせ、彼は訴えかけてきた。
「貴方が私を抱いてくれるまで、この魂の苦痛は決して止まない。貴方の熱で灼き塞いでくれないならば、永遠に血を流すままだ」
 静かなほどに真摯な響きに、その内側で激しく燃えている彼の想いに、胸を打たれた。苦しみながらも真剣な瞳は、語られた言葉が紛れもない彼の本心であることを物語っていた。
 絆されてはいけないのだと、彼が何と言おうと頷いてはいけないのだと、本当は分かっている。何としてでも彼を説得して、彼に苦痛しかもたらさないこの行為を終わりにすることこそ、正しいのだと。
 分かっているのに、もう何も言えない。この自分を想うあまりにこんなにも苦しんでいる彼を知って、狂おしいまでの強さでこの自分を愛してくれている彼の心を知って、その求めを拒絶することは、どうしてもできなかった。
「……なるべく、早く、済ませるから」

 この行為を引き伸ばせば引き伸ばすだけ、彼の苦痛は大きくなるばかりだ。だから、性急に過ぎると自覚しながらも腰を進めることしか、強引に彼を侵略し蹂躙することしか、彼のためにしてやれることが思いつかなかった。
 凍てつくような温度の秘所の最奥まで辿り着いて、深く息を吐いた。眼を閉じて震えている彼の頬を指先で撫でる。苦痛のあまり眼を開けることすらできないらしい彼は、けれど少しだけ表情を和らげてくれた。
「……動くよ」
 また少しだけ躊躇って、そして覚悟を決めて宣言した。上背の割に細身の彼の腰を、しっかりと掴む。
 触れる掌の熱さにか、ここから始まる痛苦への恐怖にか、眼を閉じたままの彼の表情が僅かに強ばった。だが彼はやはり何も言わないまま、小さいがはっきりとした頷きを返してくれた。
 だがゆっくりと腰を使い始めると、彼の端正な顔ははっきりと苦痛に歪んだ。耐えきれなかったらしい苦しげな呻きが、震える唇から零れ落ちる。
「ぁ……ぐ、っ」
 苦鳴を漏らした彼は、無意識にか逃れようとするように身を捩った。精神よりもよほど素直なその体が求める通りにしてやれたなら、この焼き殺してしまうほどの熱から彼を逃がしてやれたなら、どんなに良かったことだろう。
 だが自分にできたのは、掌の中で悶える腰を一層しっかりと掴んで引き戻し、そして冷ややかに言い捨てることだけだった。彼の内側の凍てつくような温度よりもなお冷たい声音で、容赦なく彼を追い詰めることだけだった。
「……我慢できるだろう? 君の望んだことだよ」
「っ……、……、……」
 今にも途絶えそうな呼吸を繰り返しながら、声も出せないほどだろう苦痛に身を強張らせながら、それでも彼は微かに頷いた。節が白く浮き上がるほどの強さで敷布を握りしめ、眉根に苦悶と決意を浮かべて、ただ激しくなっていくばかりと知っている灼熱と激痛に耐えようとする。
 その指を有無を言わせない強さで敷布から引き剥がして、強引に自分の指を絡ませた。灼けつく熱にびくりと引き攣ったその指が、それでもぎこちなく握り返してくる。そのことに仄暗い満足を覚えた自分は、きっと随分と歪んでいるのだ。
 彼に苦痛以外の何も与えられないと知りながら、何をしても彼を傷つけるばかりだと分かっていながら、結局のところ自分は彼以上の強さでこの行為を望んでいるのだ。彼を侵害し侵略し征服することを、確かに自分はずっと望んでいたのだ。
 残忍で利己的なこの自分を、彼は恨み憎んでくれれればいい。深く激しく捧げてくれる愛情を裏返すように、同じ深さと激しさで憎悪を向けてくれればいい。彼の中に深く根を下ろして永遠に居座ることができるならば、そこに宿る感情の種類などは瑣末な問題に過ぎないのだから。
 祈るように願いながら、容赦なく彼を蹂躙し続ける。乱暴なほどの勢いで腰を突き込むたび、押し殺しきれないらしい苦鳴が彼の唇から漏れる。きつく閉じられた目の端から、光る涙が散った。
 涙に濡れた睫毛が儚く震えるのが、見えた。食い破りそうな強さで噛み締められていた唇が、何かを言おうとするように僅かに緩んだ。
 ちらりと怪訝に思ったが、腰の動きは止めなかった。言葉を促すことも猶予を与えてやることも、しようとさえしなかった。それが彼のためなのか自分自身のためなのかさえ、もう分からない。
 また苦しげな声を漏らした彼が、一度固く閉じた目を不意に開いた。苦痛を満たす瞳で、ひたりとこちらを見上げる。その思いがけないほど強い光につい動きを止めてしまった時、その間隙を縫うようにして彼は囁いた。
「愛、している……貴方を、永遠に……」
「……!」
 小さいが真摯な声が胸を打つ。息を呑んで、声を失って、そして思わず彼を掻き抱いた。凍りついて肌を刺す痛みにも構わず、形の良い耳に囁きを吹き込む。
「私も、君を愛しているよ。君の全てが愛しい。できることなら、片時も君と離れたくない」
 囁きかけて、彼の顔を覗き込む。肌を灼かれる痛みに寸の間身を強張らせていた彼も、ぎこちなく力を抜いて身を任せてくれた。
 苦痛を隠しきれない瞳で、けれど彼は微笑んでくれた。幸せそうに、愛おしそうに、笑ってくれた。
「……今夜、ここで、貴方の腕の中で、貴方に灼き尽くされてしまえたなら、どんなに……」
 呟くように漏らした彼は、耐えきれなくなったようにまた涙を零した。あまりに思いがけなかった言葉に、その悍ましくさえある内容に、思わず茫然としてしまう。
 だが彼が切なげにしゃくり上げた時、やっと我に返った。苦しげに嗚咽して顔を背けようとする彼を向き直らせ、涙を流し続ける瞳を覗き込む。
「……大切な君を焼き殺してしまったなら、私は悲しみのあまり我が身も世界も焼き滅ぼしてしまうよ。二度と、そんな恐ろしいことは言わないでくれ」
 諭しながら髪を撫で、口付けをし、何とか彼を落ち着かせようとする。だが彼は、尚も泣きながら首を横に振った。冷たい指がきつく縋り付いついてくる。
「嫌、だ。貴方と離れたくない。貴方を離したくない。今ここで、貴方に愛されたままで、貴方の熱で、焼き殺されてしまいたい……」
 啜り泣きながら、彼が切れ切れに訴える。水晶のような涙が溢れては落ちる。狂おしく燃えるような恋心が、真っ直ぐにこの胸に向けられていた。
 宥める言葉を掛けることさえ忘れて泣き顔に見入ってから、ようやく我に返って彼を抱き直した。泣き続ける彼の震える唇を、自分の唇で塞ぐ。
 驚いたように、彼は泣き止んだ。ひく、と息を呑む声。涙の味のする彼の唇に軽く歯を立ててから、ゆっくりと口付けを解いた。
「私は、君を離したりなんてしないよ。君が離れることも許さない。君が離れようとしたなら、鎖に繋いででも私の傍に留まらせる。……だから、勝手に悲観的になって悲しまないでくれ」
 懇願の響きで言葉を締めくくって、もう一度触れるだけの口付けをする。彼がはっとしたように瞬きをした。
 その瞳に、何か不可解な色が過った気がした。諦めだろうか、絶望だろうか。だが彼が静かに瞬きをしてまた目を合わせてくれた時には、すでにその色はどこにも見えなくなっていた。
「……取り乱して、すまなかった」
 涙の余韻に掠れる声で呟いて、彼が困ったように目を伏せる。その目尻にまた口付けて、囁きを落とした。
「君を二度と不安にさせないように、私も努力するよ。だから君ももう少しだけ、私を信じてほしい」
 囁きかけてまた目を覗き込むと、瞬きをした彼は淡く微笑んだ。透き通るような、綺麗な笑みだった。
「……貴方を、貴方の立ててくれた誓いを、疑いはしない」

 苦鳴を噛み殺している彼を、できうる限りの優しさで快楽へと導こうとする。だがどうしても苦痛のほうが遙かに勝るらしく、彼の中心が快感を兆すことは遂になかった。
 自分ばかりが快感を享受していることに、彼を道具として悦楽を貪っている自分の浅ましさに、罪悪感が胸を刺す。けれど愛しい相手と体を繋いでいる幸福は、暴力的なほどの強さで快感を暴き立てていく。
 限界が近付いているのを感じ、ほとんど気を失ったようにぐったりしている彼の中から抜け出そうとする。だが、冷たい指が力なく縋り付いてきた。力無い声が弱々しく訴える。
「中、がいい……貴方が欲しい……」
「だが……」
「貴方を、感じたい……」
 長引く激痛に半ば焦点を失っている瞳が、縋るような光を宿して見つめてくる。今にも砕け散ってしまいそうな眼差しに何も言えなくなって、もうどうすることもできなくなってしまう。
「ぅ、……!」
「っぐ、ぁ、……!」
 一際大きく腰を叩き付け、彼の内側に熱の奔流を注ぎ込む。苦痛の声を漏らした彼が、腕の中で身を強張らせる。縋り付いてくる冷たい指が無意識のように動いて、肩に引っ掻き傷を刻み込む。凍て付くその痛みは、今はひどく甘かった。
 細く長い息を吐いた彼が、力尽きたように寝台に沈んだ。

 全身に澱んでいる疲れ、体中を責め苛んでいる凍傷の痛み。そして、そんなものよりもずっと大きい、愛しい存在と結ばれた幸福。
 心地良い疲労に身を任せ、ぐったりしている彼をやんわりと腕に抱いて、半ばうとうとしながら横たわっていた。けれどその平穏は、他ならぬ彼によって不意に破られた。
「……もう、行かなければ」
 痛々しく掠れる声で呟いた彼が、のろのろとした動作で抱擁から抜け出てしまう。重たげに体を引きずるようにして、彼が起き上がってしまう。残念な思いを抱えて自分も身を起こし、寝台の縁に腰掛けて身仕舞いを整えている彼の背中を眺めた。
 衣服と髪を緩慢だが手際の良い動作で整えた彼は、立ち上がる前にこちらを振り向いた。何か言いかけて、迷うように唇を噛む。そして結局彼は、何も言わなかった。
「何だい?」
 促しても、彼はやはり何も言わない。ふるりと首を横に振って、彼はこちらに背を向けてしまった。
 何故か、堪らなく不安になった。だから思わず手を伸ばして、立ち上がろうとする彼の背中を抱き寄せる。腕の中で振り返った彼と視線を合わせた。
「また明日も、逢えるんだろう?」
 眼を覗き込んで問いかける。分かりきっている筈の答えでも、聞かずに彼と別れることはできなかった。
 ぱちりと瞬いた彼は、ややしてふわりと微笑んだ。柔らかな笑みのまま頷いてくれる。
「無論だ」
 返答に安堵する。誠実な彼は、嘘を決して吐かないから。
 だから、また必ず逢える。あの清らかな泉のほとりで、彼は自分を待っていてくれる。これは仮初の別れに過ぎないのだ。
 そう安心して、手を離してしまった。そのことをどれほど深く悔やむかも知らずに。

   *   *   *

 苦痛に堪えながら初めて結ばれた、幸福な刹那。それは火が消えるようにして、一瞬にして燃え尽きた。
「あの罪深い星は、地に堕とされたそうです」
 顔を合わせるなり侍従が発したその言葉を、初め理解できなかった。いいや、理解したくなかったのかもしれない。
「……何を、言っている?」

 居ても立っても居られずに「太陽の宮」を飛び出して、「月の都」へ駆けつけた。だが、都の入り口で門衛に制止される。
 ならばとその星に彼のことを尋ねようとして、その顔に見覚えがあることに気付いた。何度か見かけた、彼の直属の部下だ。
 相手も最初からこちらに気付いていたのだろう。こちらが口を開く前に、険しい顔をしたその星は吐き捨てるように言った。
「貴方のせいだ」
「っ!」
 憎悪の籠った口調に気圧された訳ではないが、思わず声を飲んでしまう。一層眦を釣り上げたその星は、憤りを隠さない声を更に荒げた。
「貴方さえいなければ、貴方などと関わりさえしなければ、あのかたは、今でも、いつまででも……!」
「おやめ」
 都の内側から掛かった声に、門衛ははっとした顔をして口を閉じた。聞き覚えのある声に、自分も思わず目を向ける。
 門衛を制止したその声の主は、やはり「月の都」の女主人だった。ちらちらと光る紗の衣の裾を引きずりながら「月」はこちらへ歩み寄ってきて、門扉越しに目を合わせてくる。
「……済んでしまったことは、もう仕方がないわ。もう誰にも、何も、どうすることもできない。『太陽を誑かした星』は、二度と天に帰れない。貴方は『知らなかった』のでしょうけどね」
 淡々とした口調で語る「月」の瞳にありありと浮かぶのは愛惜と悲哀と、隠すつもりもないらしいこの自分への軽蔑。そして見落としてしまいそうに微かな憐憫の光が、寸の間だけ微かに揺れた。
 だがそれ以上に言葉をかけてくることはせずに、「月」はもう振り返らずにこちらに背を向けた。門衛も怒りの目でこちらをひと睨みして、何も言わずに背を向け、荒い足取りで詰所に姿を消す。
 後には、絶望に打ちのめされた自分だけが残された。

 信じたくなかった。否定するための根拠を探して駆け回った。だが最後には、認めることしかできなかった。
 残酷な噂は、真実だった。彼は本当にこの手の届かない処へ、人の世界へ、永遠に去ってしまったのだ。
 どうして彼が、どうして彼だけが。どうして自分ではなくて、彼が。
 答えてくれる者のない問いが、胸の中で渦巻いている。けれどその答えも、本当は分かっている。
 あの門衛が糾弾したとおり、全てはこの自分のせいなのだ。この自分と出会ってしまったから、彼は天空を追放されたのだ。この自分がもっと上手く立ち回ってさえいたなら、彼は『誑かした』などと濡れ衣を着せられることなく、今もここに居られた筈なのだ。
 耳の奥に甦るのは、愛おしい声。また会えるのだろうと疑いもしなかった自分に、彼は微笑んで答えた。
『無論だ』
 最初で最後の、彼の嘘。あまりにも優しく、そして残酷な虚言。思い出しても、もう涙も出ない。
『貴方と離れたくない……』
『今ここで、貴方に愛されたままで、貴方の熱で、焼き殺されてしまいたい……』
 あの夜に彼が口走った言葉の意味が、その重みが、今になってようやく理解できる。全てが手遅れになってしまった後で、彼の苦悩の深さが分かった。
 どれほどの覚悟で、どれほどの絶望を隠して、あの夜の彼は微笑んで見せてくれたのか。もう分からない。尋ねることさえ、もう叶わない。
『本当に?』
 冷静な声が胸の隅で囁く。その響きにはっとして、悲しみに働きを放棄していた頭が回り出すのを感じた。
 彼は「天空から居なくなった」に過ぎない。彼は死んでしまった訳ではない。地上のどこかで人の子らに混じって、今も彼は生きているのだ。人の子としての短い命を終えてもまた次の命を得て、彼は何度でも生まれ変わるのだ。
 彼と自分には、互いを結びつけている誓約がある。どれほど時間がかかっても、自分は必ず彼を見つけられる。二つの魂に刻まれた刻印は、絶えず互いを呼んでいるのだから。
 だから、決めた。もはやなんの未練もない天の国を捨てることを。自分も彼の元へ、人の子らの世界へと、二度と戻らぬ旅に赴くことを。
 策を弄するまでもなかった。あっけないほど簡単に、それは成し遂げることができた。ただ見張りの者たちの隙を突いて、迷うことなく雲間から飛び降りさえすればよかった。
 狼狽の声が遠ざかる。泣かんばかりの呼び声も、すぐに聞こえなくなっていく。
 振り返ることなく、省みることなく、一心に大地を目指す。輝く衣は風に吹き飛ばされ、「太陽」としての証の全てが散り散りになって消えていく。だが、そんなものは惜しくもない。胸に刻んだ決意だけが、唯一の持ち物であればいいのだから。
『必ず君を見つけ出す。また巡り会えたなら、もう決して、私は君を離さない』
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