太陽と星が出逢う空

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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太陽と星が出逢う空【前編】

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 太陽は昼を照らし、星々は夜を見張る。それは世界の定め、大空の理。
 出会う筈のなかった、熱く燃え盛る焔と冴え冴えと凍てた氷。燃える太陽が触れれば凍てつく星は火傷を負う。星の凍れる温度に触れれば太陽もまた凍傷を負う。相入れることのない筈の二つの輝き。
 それでも、出会った事を悔やみなどしない。

 昼と夜の境、黄昏時。逢魔時と人の子らは呼ぶ、闇が迫り来る刻限。だが自分と「彼」にとっては、短いが幸福な逢瀬のひと時だ。
 星々がちらほらと姿を見せ始めた、広大な天の平野。忍び寄る夕闇に紛れるようにしてこっそりと「太陽の宮」を抜け出し、彼と自分だけの秘密の場所へと向かった。初めて互いを知った場所、清らかで小さなあの泉のほとりへと。
 胸をときめかせながら辿り着いた時には、彼はすでに来てくれていた。嬉しくなって足早に駆け寄る。
「待たせたかな」
「いいや」
 顔を上げた彼は、淡く微笑んでくれた。妙なる調べのように優しく美しい彼の声に、この胸は甘く高鳴る。
 だが手を伸ばして抱き寄せようとすると、彼は怯えた眼をして後ずさった。はっきりとした拒絶に、悲しくなってしまう。
「どうして。君も、私を愛してくれているだろう?」
「……貴方の温度を、奪ってしまう」
 私は、凍てつく夜の住人だから。そう自嘲して、彼は悲しげに俯く。その隙を突いて、彼を腕に抱きしめた。
 氷のような彼の温度。肌の彼と触れ合っている部分には刺すような痛みが走る。だがそんなことには構わず、しっかりと彼を抱き寄せた。
「そんなことが、私が君を諦める理由になるとでも?」
 笑いを含んだ声で囁いて、逃げられないように一層強く抱きしめる。失われていく温度、無数の針に刺されるような鋭い痛み。
 けれど離さない。離すものか。
 固く心に決めて顔を覗き込んだ、その時だった。呆然と見開かれた彼の青い瞳から、雫が伝った。
「ご、ごめんよ、痛いかい!」
 慌てて離れようとすると、彼は思わずといった様子で縋り付いてきた。僅かに素肌同士が触れ合って、一層強まる痛みに同時に呻く。
 けれど、彼は離れようとしなかった。かたかたと震えながらしがみついてくる。いま離れれば二度と巡り会えないと、そう思っているような必死さだった。
 極寒の空を護る真冬の星である彼は、他の星々以上に熱に弱い。内から燃えているこの自分と直に触れ合うことは、耐え難い苦痛でしかない筈なのだ。だというのに彼は、痛みに身を強張らせながらしがみついてくる。
 ためらってから、恐る恐る彼の髪に指先で触れた。輝く髪を指先に絡ませる。
「……つらくなったら、言うんだよ」
「つらく、などない」
 囁きかけると、こちらの肩に顔を押し付けている彼が言い返してきた。微かに震えている声、苦痛の色を押し隠した響き。
「顔を見せて」
 囁きかけると、彼は寸の間躊躇ってからおずおずと顔を上げた。僅かに苦痛を浮かべた美しい瞳が、こちらに向けられる。
 宵空の青色をした濡れた瞳が、揺らぎながら見つめてくる。その眼に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
 深い深い瞳が、真っ直ぐに見返してくる。形の良い唇が動き、はっきりとした声が宣言した。
「ただ、幸せなのだ。貴方と、こうしていられるのが」
 苦しげながらも、断固とした瞳の煌めき。その冴え冴えと強い光に魅入られた。
「私もだよ」
 触れ合うことには痛みが伴う。彼は自分にとってあまりに冷たすぎ、自分は彼にとってあまりに熱すぎる。
 それでも自分は凍傷になりかけた手を、何度でも彼へと伸ばさないではいられない。痛々しい火傷を負った彼は、それでもこの胸に収まってくれる。互いに苦痛の呻きを漏らしながらでも、触れ合うことは堪らなく幸福だから。
 天の掟がこの逢瀬を許さなくとも、構うものか。

    *    *    *

「何故、あんな星なのです」
「……え?」
 唐突に侍従に聞かれ、何のことやら分からず面食らった。とぼけているとでも思ったのか、侍従が眦を釣り上げる。
「天の原中の噂です。貴方ともあろうお方が、事もあろうに、下賤で冷徹な真冬の星と懇意にしていると」
 苛立った声で吐き捨てられた言葉に、その内容に、不意をつかれる。いつかは知れると思っていた。だがまさか、既にそんなにも噂が広まっているとは。
 言葉をなくしていると、侍従はますます険しい顔をした。更に言葉を継ぐ。
「あれは冷酷で凶暴な星です。天の掟を少しでも破った者は、無慈悲に氷像に変えてしまう。貴方に相応しい相手ではありません」
 どちらかと言えば柔和で可愛らしい顔立ちの侍従が、今日は険しい顔で捲し立てる。色形の良い唇から溢れるのは、彼を卑下する残忍な言葉の数々。
「あの星は慈悲を知らない、愛情を解さない。心の臓まで凍てついた氷の星。お心を傾けるだけ無駄なことです」
 侍従の暴言を咎めるより先に、記憶が痛みを伴って蘇った。自分がかつて吐いてしまった言葉が、耳の奥にこだました。
『私はこんなに君を愛しているのに、君は理解しようともしてくれないんだね。君の血管には氷の血が流れているんだろう』
 彼が他の星々に寄せる信頼に嫉妬して、思わず口走ってしまった言葉。取り消せない暴言、深々と刺さって二度と抜けない棘。
 胸をまた新たな痛みが貫く。あの時の傷付いた彼の瞳を、自分は決して忘れない。
 だがそんな事には構わず、侍従の言葉は続く。彼を貶めるためだけの言葉が、忌々しげに吐き捨てられる。
「星などみな淫売です。夜の闇に紛れて淫らな行為に耽るばかり。あの邪悪な星だって、貴方に気を持たせておいて、どこで誰と寝ているか分かったものではないでしょう」
 彼への中傷、根も葉もない誹謗。遅れて生まれた不快感が胸を焼くのを感じた。
「妾にするならばもっと相応しい者は幾らでもいます。どうしてあんな薄汚れた、冷酷な星など……」
「もういい」
 切り捨てるように言うと、侍従は一旦は大人しく口を閉じた。だが、まだ不満げで反抗的な眼差しをしている。そんな侍従に顔を寄せて、低く警告した。
「君はよく働いてくれているよ、感謝はしている。けれど彼を侮辱するなら、君でも許さない」
「貴方に相応しいのは、あんな穢らわしい星ではありません」
 侍従は臆さず言い返してくる。ちくりと違和感を覚えながら、険しい眼差しを見返した。
「それは私の決めることだ」
「いいえ、貴方は騙されています」
 怯みも引き下がりもしない侍従。いい加減に焦れてしまった。
「なら、誰なら相応しいと言うんだ」
 面倒くさいという気持ちを隠さずに問いかける。だが、侍従は我が意を得たりというように笑った。
「お耳を拝借しても?」
 請われるがままに、少し屈んで耳を寄せる。と、蛇のように、するりと侍従の腕が首筋に絡んだ。
 そして。温かい柔らかいものが、唇に触れた。
 何が起きているのかわからない。
 呆然としている間にも、侍従は身を擦り寄せてくる。ぬるりとした舌が侵入して、舌に絡みつく。
 口付けを、されている。
 理解が追いついて、漸く我に返った。侍従の肩を掴んで押しのけようとする。
 けれど侍従は、思わぬ力で縋り付いてくる。その細腕には不釣り合いなほどの力。
 強引に口付けられているからといって、乱暴な真似はできない。大切な部下には違いがない。突き飛ばす訳にはいかない。なんとか振りほどいた時には、互いに息が上がっていた。
「何の、つもりだ?」
 尋ねると、侍従は閉じていた目をゆっくりと開けた。紅潮した頰、濡れた瞳。その瞳が、こちらの肩越しに、「何か」を見る。
 そして侍従は「誰か」に向けて、勝ち誇ったように笑った。
 まさか。
 弾かれるように後ろを振り返る。そこに居たのは、今だけは会いたくなかった相手。
 蒼白になった彼が、立ち竦んでいた。

「違うよ、これは……!」
「混ざりたいのか、淫乱」
「っ!?」
 狼狽しながら弁明しようとした時、鞭打つように侍従の言葉が飛んだ。びくっと彼の肩が震える。
「っ、彼をそんな言葉で呼ぶんじゃない!」
「他に『これ』に相応しい言葉などありません!」
 叱りつけても侍従は引き下がらなかった。立ち竦む彼を指差して吐き捨てる。
「釈明できるならしてみるがいい、穢らわしい男娼風情が。星は星同士で乳繰り合っていればいいのだ。昼の世界に出てこようなど烏滸がましい!」
「黙らないか!」
 怒鳴りつけられた侍従が不承不承口を閉じるのと、どちらが早かったろう。彼は何も言わずに、身を翻して飛び出していってしまった。
「待ってくれ、誤解だ!」
「お待ちを」
 彼を追いかけようとした時、後ろから侍従に取り縋られた。払いのけようとしても、むしゃぶりついてきて離れない。
「何なんだ!」
 引き剥がそうとしながら苛々と問う。殆ど狂気のような目をして、侍従は答えた。
「『あれ』の正体がお分かりになったでしょう!」
「何を言っている、いいから手を……!」
「淫乱と呼んでも否定しもしなかった。身に覚えがあるのです。貴方にあれは相応しくない!」
 あまりに酷い彼への中傷。怒りに目が眩んだ。
 言い返すことすらできないほど、彼は傷付き衝撃を受けたのだ。身に覚えがないからこそ、何も言えなくなることだってある。
「言いたいことは、それだけかい?」
 思うより低い、地を這うような声。はっと侍従が竦んだが、もう我慢の限界だった。
 ぱん、と乾いた音が響いた。
 侍従はよろけて、張られた頰を押さえて茫然と見上げてくる。拳で殴らなかったのが、せめてもの情けだ。冷然と見下ろし、口を開いた。
「彼にもしものことがあれば、私は君を許さない」
 それだけ吐き捨てて、振り返らずに走り出した。

 出遅れてしまったからだろうか。「太陽の宮」を走り出ても、彼の姿は見つけられなかった。
 あまりにも広い天の平原の、どこを探せばいい。どこへ行けば、大切な彼を見つけられる。焦燥が胸を焼いた。
 足の赴くまま走り出す。駆けても駆けても、探し求める姿は見つけられない。
 どうすればいい。彼や他の星々が暮らす「月の都」へ向かうべきか。いいや、深く傷ついた彼は、きっと喧騒を嫌っただろう。静かな方へ、誰もいない方へと駆けて行っただろう。
 そう結論づけて走り出す。半ば賭けだった。

 約束の場所、彼と自分だけが知る秘密の泉。けれど駆けつけても、彼の姿はなかった。深く落胆する。
 ここではないのならば、「月の都」に帰ったのだろう。そう結論付けて、踵を返そうとした。
 だが、泉に背を向けたその時。ふと違和感を覚えた。
 やけに、寒い。泉の方から吹いてくるそよ風が、あまりにも冷たすぎる。
 まさか。
 はっとして泉に駆け寄る。水面に手を浸そうとすると、指先が硬いものに触れた。
 凍りついている。水はその上を薄く流れているだけだ。
 まさか。まさか。
 恐ろしい予感が、確信に変わろうとしている。必死でそれを払いのけながら、泉に足を踏み入れた。
 熱が氷を溶かす。白い靄が立ち込めて、視界をぼやかしていく。霧を振り払いながら歩みを進めた。
 凍てつくように冷たい水を湛え、冷酷に広がっている泉。その中央まで進んだ時、恐れていたことが的中した。
 泉の、水底に沈んでいるのは。水面の下で、真っ青な顔をして目を閉じているのは。
 彼を呼ぶ自分の悲鳴が、どこか遠くから聞こえた。

 必死で彼を岸に引きずり上げた。水を滴らせながら彼を掻き抱く。
「お願いだ、息をしてくれ! 目を開けてくれ!」
 泣き出したい思いでがくがくと揺さぶっても、彼は瞼を震わせさえしなかった。
 常よりも更に冷たい彼の体。色を失った唇。口元に手をやっても、儚い吐息すら感じとれない。
 駄目だ、死なないでくれ、私を置いていかないでくれ。祈りながら彼の喉に指をねじ込む。なんとか水を吐かせようとした、その時だった。
「っ、が、は……!」
 苦しげな声を上げて、彼が水を吐いた。蒼白だった頰に、ほんの僅かな赤みがさす。
 生きている。
 安堵が胸に広がる。更に奥深く指をねじ込んだ。
「ぅ、げほっ、が……っ」
 水を吐き出して、彼が苦しげにえずく。そして、瞼が震えて、宵空の青色をした瞳を覗かせた。
 状況を理解できていないように、彼が周りを見回す。そして、ぼやけたその瞳が、こちらを見上げた。
 はっと怯えた眼差しになった彼が、暴れ出した。半ば予想していたことだから、軽々と腕の中に閉じ込める。
「は、なせ……」
「駄目だよ」
 まだ体が思うように動かないのか、もがく力も弱々しい。それでも必死で逃れようとする彼の痛々しさに、胸が苦しくなる。
「さっきは悪かった。私の油断で君に悲しい思いをさせた。合意じゃないんだ」
 私が愛しているのは、君だけだ。
 囁いて目を覗き込むと、彼は苦しげな目をした。弱々しく首を横に振る。
「嘘だ」
「嘘じゃない。私が欲しいのは、君だけだよ」
「信じない!」
 振り絞るように彼が叫んだ。かたかたと震えながら、先ほどよりも強く首を横に振る。何もかもを拒絶するように。
「信じてくれ。君を、君だけを、愛しているんだ」
「私は貴方に相応しくない!」
「そんなことを言わないでくれ」
 悲鳴のように叫ぶ彼を、苦しい思いで抱きしめた。嫌がって胸を押し返してくるが、構わず抱き込む。
 耐えきれなくなったように、青の瞳から涙が伝った。蒼白な頰を伝い落ちる。その涙を拭いもせずに、彼は泣き濡れた瞳で見上げてきた。
「貴方の侍従の言う通りだ。私は穢らわしい男娼で、ただの淫売で……!」
「そんな事はない。君は誰よりも清らかで綺麗な心の持ち主だ。他の誰より、君自身よりも、私がよく知っている」
 流れ落ちる涙を拭ってやりながら語りかける。だが、彼は嫌々と首を横に振った。
 何を言えば良い。どうすれば彼に届く。焦燥が胸を焼き焦がす。
「私の侍従が君を傷付けたね。本当にすまない。君を守れなかった私を、どうか許してほしい」
 謝罪しながら、必死で言葉を探す。けれど、上手い言葉が見つからない。深く傷付いた彼の心を包み込んで癒してやれる言葉が、どこにも見当たらない。
「あんな言葉を真に受ける必要なんてない。ただ君をやっかんでいるだけだよ。君は穢らわしくなんてないし、君が苦しむ必要もどこにもない」
 諭そうとしても、彼は一層苦しげな顔をするばかり。また新たな涙が頰を伝った。
「あの侍従ばかりではない。貴方に焦がれている者は大勢いる。男も女も。皆私などよりずっと美しくて、華奢で、温かくて……」
「関係ないよ。私が愛しているのは、君だけなんだ」
 言い聞かせても、彼は聞き入れなかった。尚も涙がほろほろと流れ落ちる。
 端麗な顔立ちが苦しげに歪む。形の良い唇が震える。そして堰を切ったように、彼の唇から言葉が迸った。
「私は貴方の伴侶にはなれない、妾にさえなれない。私と貴方では立場が違いすぎる。私は貴方の何にもなれない!」
 血を吐くような叫びに、胸を突かれた。
 名付けられない関係、あまりにも不安定な間柄。その事にずっと彼は孤独に悩み、苦しんでいたのだ。自分が呑気に彼との逢瀬に浮かれている間にも、ずっと、彼は。
「君を、愛しているんだ」
 辛うじてそう言い返しても、彼は苦しげに笑った。皮肉げな、痛々しい笑みだった。
「このような、触れるだけで傷つき合う間柄で、口付けも性行為もできない関係で、何を言う」
 弱々しく吐き捨てて、彼はとうとう手に顔を埋めてしまった。肩を震わせて苦しげに嗚咽する。
 狼狽えながら、その肩を抱き締める。拒絶するように強張る肩を、衣服の上から摩った。けれどその肩から力が抜けることはなく、その指が縋り付いてきてくれることもない。
 出会ったのが間違いだった、出会わなければ良かった、苦しい、つらい、もう耐えられない。そう涙声で訴える彼を、苦しい思いで抱き締める。彼にかけてやれる言葉が、思いつかなかった。
「こんなに苦しいなら、恋など知りたくなかった。貴方を愛したくなどなかった」
 涙に濡れた彼の声。その痛々しい響きが、ぐさりと胸に突き刺さった。
 昨日まで、自分達は確かに幸せだった。衆目を忍んだ短い逢瀬も、痛みを堪えながら繰り返す触れ合いも、ただ幸福だけを与えてくれていた。彼だって、確かに幸せそうに受け入れてくれていた。その筈だった。
 だがその全てを、他ならぬ彼の声で否定される。それは、どうしようもなく苦しいことだった。
「私は、君を知れて良かったと思っているんだよ」
 だから堪らず、言葉が溢れていた。彼を抱く腕に力が篭る。
 虚を突かれたように、彼の肩が震えた。ようやく顔を上げてくれる。見開かれたその青の瞳を覗き込んで、静かに語りかけた。
「君を知るまで、私はずっと寂しかった。ずっと、独りぼっちだったんだ」
 たくさんの者達に囲まれていても、いつも魂に孤独が絡みついていた。尊敬や崇拝を向けてくれる者達はいても、対等に向き合ってくれる者は誰もいなかった。寂寞に耐えながら、笑顔の仮面で周囲を欺きながら、かろうじて立っていた。
 だが、そんなふうに孤独に過ごした気の遠くなるほどの時間の後で、彼という輝きは現れた。彼だけが臆しも媚びもせず、真っ直ぐに眼を覗き込んでくれた。その凛と美しい眼差しに自分がどれほど救われたことか、彼はきっと知らないのだろう。
「私は、君に救われたんだ。出会わなかった方が良かったなんて、どうか言わないで」
 懇願すると、彼の泣き濡れた瞳が揺らぐ。いつの間にか抵抗を諦めていた彼を、もう一度しっかりと抱き直した。素肌と素肌が触れ合っても、痛みが走っても、もう構うものか。
 何か言いたげにわななく、雪花の蕾のような唇。それを、そっと指先でなぞった。
「口付けを、してみようか」
 囁くように提案する。はっと、彼が怯えた目をした。
「そ、れは……」
「ああ。分かっているよ」
 口付けは誓い。魂と魂を結び合わせる儀式。どこまでもどこまでも付きまとう刻印が、互いの魂に刻まれる。たとえ大空の果てと果てとに隔てられても、天が割れて彼方遠くに引き裂かれても、必ず相手を見つけ出せる。定めが両者を引き合わせる。
 呪縛のように重く絡みつくそれは、他の何よりも固い誓約。人の子達が挨拶のように交わす行為の意味は、天の原野ではとても重い。
「嫌かい?」
 見開かれた目の際をなぞって問いかける。迷うように震える、色のない唇。そこにそっと指先で触れて、また口を開いた。
「私は君と繋がりたい。離れるつもりなんてないけれど、どこにいても君を見つけられる印が欲しいよ。……君は、私とそうなるのは、嫌かい?」
 重ねて尋ねると、彼は微かに微笑んだ。血の気のなかった頰に、暁に似た色が淡く差す。形の良い唇が綻んで、言葉が零れ落ちた。
「……嫌な、筈がない」
 囁くように答えた彼の目から、また涙が伝った。透明なそれを、そっと指先で拭い取る。ひんやりとした液体が指に絡みついた。
 一旦彼から体を離して、身仕舞を整えた。座り直した彼ももたもたとした手つきで、ずぶ濡れの衣服を直している。
 躊躇いがちに顔を上げた彼の肩を、もう一度抱いた。最後にもう一度だけ問いかける。
「いいんだね?」
「ああ」
 迷いのない彼の返答。顔を寄せると、彼がそっと瞼を閉ざした。儚い吐息を漏らす唇。自分も目を閉じて、そっと唇を重ね合わせた。
 触れ合った瞬間に、小さないかづちのようなものが走ったのが分かった。それは触れ合っている場所から自分の中を巡り、彼の中を巡り、また自分の内へと帰ってきて、そして心の臓にしっかりと絡みついた。
 もう戻れない。戻るつもりもない。魂まで焼き尽くすようなこの恋に、自分は、彼は、全てを捧げるのだ。
 初めて交わした口付けは、冷たく甘かった。
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