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     第三章 彼の婚約、私の決断


 けれども――やはりというべきか、数日後、ウィリアム様はアイリーン侯爵令嬢との婚約が成立した。
 私はしばらく落ち込み、食事も喉を通らなかった。
 だが、残念だという思いと同時に、仕方がないという言葉が強く浮かんだ。
 侯爵家よりも家格の低い伯爵家では断れなかったのだろう。
 指輪をいただいた日以来、ウィリアム様とは会っていない。
 彼と会いそうなタイミングを私が避けたのもあるが、彼も「おい、イザベラ」といつものようには呼んでこなかった。
 幼い頃から一緒にいたふたりが大人になって、別の人生を歩みはじめるのは普通のことだろう。
 優しいウィリアム様は思い出にする気はないと言ったけれど、きっといつか恋いがれたことが懐しい過去に変わっていくに違いない。
 私は彼との思い出を大事にしながら、彼ら夫婦に仕えていこう。
 彼が自分に恋していたのかどうか、結局本人の口から聞くことは出来なかった。
 だからこそ、大切な記憶は宝箱にそっとしまうことにする。
 そうして時間が経過し、まだ心にしこりは残しつつも、少しずつ前向きに物事を考えるようになっていた。
 だが、心以上に身体の不調を感じていた。
 気持ちが塞いでいたからだろうか、あまり体調が良くない日々が続いていたのだ。
 具合が悪い中、外で洗濯物を干していると、どこからか誰かの声が聞こえる。
 石鹸の良い香りが漂い、風にはためくシーツの合間から見えたのは、壮年の男女だった。
 こちらからは会話の内容までは聴こえない。
 ……あれは、アイリーン様のお父様であるテイラー侯爵様と家政婦長のバーバラ様? どうしておふたりが会話をしているのかしら?
 無表情なことが多いバーバラ様が異性――他家のテイラー侯爵と話しているということに、なんとなく違和感を覚える。

「あ……」

 ふたりを見ている間に、だんだんと胸やけが強くなる。
 吐きそうになるのをなんとかこらえる。

「イザベラ」

 そのとき、いつの間にか近くに来ていたバーバラ様に声をかけられた。
 もうテイラー侯爵様との会話は終わったのだろう。
 先ほどまでふたりが話していた場所に、思わず目を向ける。
 すると遠くに、テイラー侯爵様に支えられるアイリーン様の姿が見えた。心なしか、以前に見たときよりも女性らしさが増している気がする。
 彼女がそうなったのは、ウィリアム様との婚約が決まったからだろうか?
 それとも、最近彼女がよく身につけているふんわりとしたドレスのせいだろうか?
 アイリーン様に気をとられる私に向かって、バーバラ様が再び声をかけてきた。

「街へ行って医者にかかりなさい。これは家政婦長としての命令です。私の知り合いの信用出来る人を紹介しますから」
「屋敷の医者ではなく、街の医者ですか?」

 彼女は無言でうなずき、淡々と告げてくる。

「診断を受けたら、馬鹿なことは考えずに、真っ先に私に報告しに来るように」
「……馬鹿なこと?」

 彼女の意図することが理解出来なかったが、私はうなずいたのだった。


 数時間後、家政婦長バーバラ様が言わんとすることが、医院に行ったあと痛いほどに分かった。

「私は、どうしたら……」

 石畳の街を重い足取りで歩く。
 なんとか、前へと進んでいるが、足元がおぼつかなかった。

「そんな、たった一夜だったじゃない。そんな……」

 医師に告げられた言葉を、頭の中で反芻はんすうする。

『妊娠していますね。おめでとうございます』

 妊娠、妊娠。
 ウィリアム様以外に身体を委ねた経験はない。
 だからこそ、間違いなく、お腹の子どもは彼の子だと断言出来る。
 愛する男性の子を身籠みごもれるなど、喜ばしい出来事のはずだ。大勢の人からも祝福されるべき幸福なこと。
 そうだというのに、素直に喜べない自分がいる。
 もう愛してはいけない人の子どもを身籠みごもってしまったという事実が、重く肩にのしかかってきていた。世界が音を立てて崩れ落ちていくような絶望さえ感じる。
 私は孤児だ。いったい両親がどんな人物だったかなんて知るよしもない。
 だが、何も考えずに子どもを作って、私を捨てたに違いないと、ずっと心の中で思いながら生きてきた。
 だから自分は、そのような大人にはなるまいと心に誓っていた。
 それなのに、結局、顔もよく知らない両親と同じ状況になってしまったのだ。
 生命を、あまりにも軽く考えすぎていたのかもしれない。たった一晩で出来るわけがないと。
 お腹の中の子どもに罪はない。
 快楽に溺れた自分自身に非がある。
 だけど、もう後悔しても遅いのだ。
 国教で堕胎は禁じられているので、妊娠した場合、出産するのが通常である。

「私は、どうしたら……」

 まとまらない思考のまま、必死に頭を働かせる。
 ……ウィリアム様の子どもだと、言わなければ良いのでは?
 とはいえ、このままブルーム伯爵家で働き続けて、生まれた子どもの容姿が彼そっくりだったら、気づく者も出てくるかもしれない。
 そうなれば、言い逃れが出来ないだろう。
 いくら婚約が決定する前の情事が原因だったとはいえ、もしもウィリアム様に隠し子がいると分かれば、テイラー侯爵家は憤慨するに違いない。
 家格が上の貴族に逆らったり、気に障る行動をとったりしたからと、とり潰しに陥れられた家の話も耳にしたことがある。

「このままだと、私だけじゃなくて、ウィリアム様やブルーム伯爵家の将来にも関わってきてしまう」

 子の父親であるウィリアム様に相談した方が良いだろうか?
 けれども、私が妊娠していることを知って、ウィリアム様がどういう反応をするか想像すると怖くてたまらなかった。
 輝かしい将来を約束された彼が、私の妊娠に対してどう思うのかが分からない。
 悪い想像ばかりが頭をよぎり、焦燥しょうそうだけが募っていく。
 はやる気持ちを抑えながら、必死に思考を巡らせる。

「やっぱり、闇医者に頼んで堕ろしてもらって……」

 娼婦たちが密かに子を堕ろす場所があると聞いたことがあった。
 そこまで考えたところで、涙が溢れてくる。

「私……人として最低だわ……。子どもに罪はないのに……」

 母親の身体に負担がかかる等、やむを得ず堕胎に至ることはあるだろう。
 だけれども、私の場合、そういった事情ではない。

「……ごめんなさい、弱いお母さんで、ごめんなさい」

 一瞬でも、我が子を自分の都合で殺そうとした自身を恥じる。
 下腹部に手を当て、必死にまだ見ぬ我が子を思う。
 まだ胎動があるわけではない。
 だけど、なぜだか無性に、そこにいる生命を愛おしく感じている自分が存在していた。

「自分のことも、ウィリアム様の将来のことも、この子の未来のためにも、私は決めないといけない」

 ――自分のなかで、もう答えは出てしまっている。決意が揺らがないように、そう口にする。
 まるで泥沼の中を歩いているかのように、足取りは重かった。
 ふらつく足取りで屋敷に帰っていると、一台の豪奢ごうしゃな馬車とすれ違う。
 ……どうしよう。ふらふらしてきた。
 なんだかひどく具合が悪くて、私は石畳の上にうずくまった。なんとかやり過ごそうと、体調が戻るのを待つ。
 通りすがりの人たちが声をかけてくれたが、なんとか大丈夫だと伝えた。
 ちょうどそのとき、先ほど通り過ぎた馬車からあわてて誰かが降りてきた。
 その人物の足音が、だんだんとこちらに近づいてくるのが分かる。

「おい、イザベラ」

 聞き慣れた声が耳に届いた。
 はっとして見上げると、金糸きんしのようなプラチナブロンドの髪に、サファイアを彷彿とさせるあおい瞳をした青年――ウィリアム様が、そこには立っていたのだ。

「ウィリアム様……」

 しばらくの間、まともに会話も交わしていなかった想い人が現れ、夢かと思う。

「おい、イザベラ、どうしてお前は、俺に心配ばかりかけるんだ?」
「きゃっ!」

 気づけば彼のたくましい両腕に、横向きに抱き上げられていた。
 彼の甘いマスクが眼前にある。海を連想させる爽やかな香りが鼻腔びこうをつき、甘い声音こわねを耳にして、ウィリアム様本人がそこにいるのだと、まざまざと実感する。
 老若男女ろうにゃくなんにょ誰をも魅了する美貌の青年の登場に、通りがざわつきはじめた。

「具合が悪いのに、どうして外に出たんだ?」
「それは……」

 いくら彼にも関わることとはいえ、妊娠の診断を受けていたのだと、往来で言うわけにもいかない。

「ウィリアム様、目立ちますので、降ろしてはくれませんか?」

 周囲の人々の視線をひしひしと感じた私は、ウィリアム様に懇願する。

「ダメだ。具合の悪い人間を放っておくなど、貴族の責務を放棄するのに等しい」

 私をかかえたまま、彼は馬車に向かって歩く。

「テイラー侯爵、アイリーン嬢、私の屋敷の使用人が往来にうずくまっていました。屋敷に連れ帰ってもよろしいでしょうか?」

 ウィリアム様は、屋敷に来ていた彼らの見送りの途中だったようで、私ははっとした。
 彼らの邪魔をしてしまったと、罪悪感で胸がいっぱいになる。
 馬車の中から、テイラー侯爵様とアイリーン様の声が聞こえる。

「アイリーンが良いと言うのなら。アイリーン?」
「わたしはどちらでも構いません」

 婚約が決まって幸せなはずの美しきアイリーン様は、自分の婚約者が他の女性を抱きかかえていても、気に留める様子はなかった。使用人を人として見ない貴族もいるぐらいなので、そのような態度は別におかしくはない。
 だが、それ以上に、心ここにあらずといった印象を受けた。
 そうして、ウィリアム様と私を置いて、馬車は走り去る。

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません、ウィリアム様」
「イザベラ、これに懲りたら無茶はもうやめろ」

 往来の人々の視線を受けたまま、屋敷へとウィリアム様は歩を進めていった。
 私を抱く彼の体温が、ひどく心地よい。
 途中、会話がなかったが、彼がぽつりぽつりと語り出す。

「謝罪しなければならないのは、俺の方だというのに、偉そうだったな……」

 長い金の睫毛まつげに縁取られたあおい瞳がかげる。
 胸がズキンと痛んだ。アイリーン様との婚約が成立した件に、彼も苦しんでいるのかもしれない。
 ふたりの間に、再び沈黙の時間が流れる。
 だが、一瞬で穏やかな表情に戻ったウィリアム様は、私に微笑みながら告げてきた。

「最近ずっと、お前のオムレットを食べていないな。体調が良くなってからで良いから、おやつに作ってくれないか?」

 その言葉は、私に彼と過ごした日々を思い出させた。
 ……神様。優しいウィリアム様と離れる前に、最後に一度だけ、彼の好物の卵料理を作っても、許されるでしょうか?
 胸の前でぎゅっと手を握る。

「……はい」

 私はつぶやくような小さな声で、返事をした。

「イザベラが作るオムレットが、この世で一番の好物なんだ」

 ひどく嬉しそうに笑う、いつになく素直なウィリアム様。
 ……ウィリアム様との間に出来た子どもを殺すなんて出来ない。
 だけど、ウィリアム様の未来を閉ざすような真似もしたくない。
 もしも、使用人の仕事を続けながら子どもを育てれば、ウィリアム様だけではなく、周囲にまで彼の子だとバレてしまう危険性が高い。
 アイリーン様だって、夫となる人物に隠し子がいたとなれば、そのショックは計り知れないだろう。
 彼女の生家であるテイラー侯爵家が、面子めんつを潰されたとして動いたとしたら、母子ともに命の危険に晒される恐れさえある。
 だからといって、子どもに罪はない。
 ――だったら、私がブルーム伯爵家を出て、皆がいないどこか遠くへ行き、金輪際ウィリアム様たちとの縁を断ち切ってしまえば良い。
 父親がいない分、子どもは私がしっかりと愛情をかけて育ててみせる。
 愛する人の姿を目に焼き付けようと、屋敷に帰るまでの間、ずっと彼の横顔を見つめて過ごしたのだった。


 屋敷に帰り着き、体調が少し落ち着いた私はさっそく、ウィリアム様の好物を作ることにする。
 コックと話し、厨房を借りて、ふわふわのオムレットを焼いた。
 まだ熱々の菓子を、つた模様もようで縁取られた白磁はくじの皿に載せて、ウィリアム様の自室へと向かう。
 部屋の扉をひらくと、彼が待ち構えていた。
 室内に甘い香りが漂う。
 私が持つオムレットを見た途端、ウィリアム様は目を爛爛らんらんと輝かせる。
 その姿は、子どもの頃から変わらない。
 彼との思い出が、ひどく懐かしく感じられた。もうこれでこの人にオムレットを作ることはないのだと思うと、寂寥感せきりょうかんが胸を襲ってくる。
 普段は礼儀正しいウィリアム様だが、今は子どものように大層幸せそうな表情で頬張ほおばっていた。

「おい、イザベラ、体調はもう良いのか? 俺がオムレットを食べたいと言ったから、無理して作ったんじゃないだろうな?」

 言い方こそ偉そうだが、私のことを心配しているのが伝わってくる。

「はい。医者に診てもらいましたが、病気ではありませんでしたので……」

 そう、病気ではない。
 確かに私の身体は通常とは異なるが、それは妊娠しているからだ。

「病気でないなら良かった」

 オムレットをぺろりと平らげたウィリアム様は、心底嬉しそうに笑う。そして、彼はさらに続ける。

「……その、お前が病気になると、美味おいしい卵料理が食べられなくなるからな」
「そう……ですね」

 幼少期からの癖で、素直ではない言い回しを彼がしているのは分かる。
 だが、うまく流せず歯切れの悪い返答をしてしまった。
 こういったやり取りも出来なくなるのだと思うと、ますます寂しさが募る。
 ウィリアム様もつられたのか、流麗なまゆをひそめながらポツリと告げた。

「イザベラが結婚したりして屋敷を出ていってしまったら、もうこのオムレットも食べられなくなるんだな……」

 突然の彼の発言に、少しばかり動揺してしまう。
 ウィリアム様に気づかれたわけではない。彼は例えの話をしているだけだ。
 心の中で、私は頭を横に振る。

「そうですね……」

 ウィリアム様のあおい瞳が、湖面のように揺らめく。
 なんだか彼がつらそうに見えて、つい手を差し出したくなる。

「イザベラも知っての通り、俺の父親は家庭を顧みる人ではない。父上に愛されなかった母上は、早くに亡くなった。この屋敷に血の繋がった者はいても、俺に家族と呼べる人はずっといなかった。俺にとって、家族と呼べるのは……」

 そう言うと、彼はまっすぐに私を見つめてきた。
 目の前にいるウィリアム様に、真実を告げることが出来たらどれだけ良かっただろう。

『あなたの子どもを――家族をお腹に宿しています』

 喉元まで出かかっている言葉を必死に呑み込んだ。

「愛のない結婚をしても互いに不幸になるだけだ。だからこそ、俺は愛する女性と結婚したかった」

 そこまで言うと、彼は頭を横に振った。

「すまない。ただの愚痴だな。イザベラ、オムレット美味うまかった。また俺に作ってくれるか?」
「……はい」

 嘘だ。もう彼に何かを作ることはないだろう。
 嬉しそうな彼を見ていると、目頭が熱くなる。

「じゃあ、よろしく頼む。あぁ、もう仕事に戻って良いぞ」

 いよいよ彼との別れのときが来てしまった。
 離れがたくて、しばらくとどまってしまう。

「おい、イザベラ、どうした?」

 早く退室しないと、怪しいと思われる。

「……ウィリアム様、さようなら」

 今までの感謝の意味をこめて、最敬礼の挨拶あいさつをおこなう。
 そうして私は退室するためにきびすを返した。
 そのとき、立ち上がった彼に髪を柔らかく掴まれる。

「おい、イザベラ。これは、俺のワガママでしかないが――」

 幼少期の頃から繰り返される、まるで儀式のような彼の習慣。

「――俺が結婚するまでで良いから、どうか、他の男の元には嫁がないでくれ」

 ウィリアム様はゆっくりと告げた。
 ……ズルい言い回しだわ。
 心臓の音が高鳴り、視界はぼやける。瞬きをすると、涙が零れてしまうだろう。
 ウィリアム様に背を向けたまま、私もいつものように問いかける。

「それは……命令でしょうか?」

 彼はすぐには答えてくれない。

「……そうだ、命令だ」
「はい。それなら」

 最後ぐらい笑顔を見せたくて、私は彼に最上級の微笑みを向けた。
 彼も、ひどく嬉しそうに笑っている。
 その顔を見て、胸に何かこみあげてくるものがあった。
 出来ることなら、ずっとウィリアム様のそばにいたかった。
 嘘をついたと、裏切られたとウィリアム様は思うかしら?
 でも、離れるのが最善のはず。
 私の髪に口づけを落としてから、彼の手が離れる。幼い頃から繰り返されたやり取りを最後に交わした。
 そして、また明日もウィリアム様と会うかのように、私は去ったのだった。


 夜半、荷物をまとめ終えた私は、屋敷をこっそりと抜け出す。

「待ちなさい、イザベラ」

 突然、背後はいごから誰かに呼び止められ、振り返る。
 するとそこには、家政婦長のバーバラ様が立っていた。眼鏡をかけ、淡々とした口調の真面目まじめな使用人たちのおさ

「馬鹿なことを考える前に、私の元に来なさいと言ったはずです」

 そう言って彼女は叱るが、私は急いで屋敷を出なければならない。

「もう……屋敷の使用人ではなくなるので……辞表は机の上に置いています」

 伏し目がちになりながら、私は彼女に告げる。

「そう、ウィリアム様の子を産むと決めたのね」
「え?」

 彼女にはどうやら全てお見通しのようだった。

「イザベラ、あなたにこれを」

 そう言うと、バーバラ様は私にゆっくり近づき、麻袋を手渡す。
 受け取るとずしりと重く、中からは、じゃらりと金貨が溢れてきた。
 私は思わず目を見張る。

「バーバラ様、これは……? こんな大金――」
「退職金のようなものです。受け取りなさい」

 ブルーム伯爵様に仕事を辞めることは伝えていない。
 バーバラ様が屋敷のお金に手を付けるはずはないので、おそらくこれは彼女のものだ。

「イザベラ、どうせ行く当てなどないのでしょう? 東にある国境沿いの村に向かいなさい。そこに私の親戚がいます。助けになってくれるはずです。あなたの素性すじょうに関しては、ここを辞めた使用人とだけ伝えてあります。このことは、誰にも口外しませんので」

 口の堅い彼女がそう言うのだから、きっと私が妊娠しているとは誰にも知らされることはないだろう。あせりすぎて、どこに行くかなどは考えていなかった。

「バーバラ様、どうして私にこんなによくしてくださるのですか?」
「さあ、どうしてかしら?」
「え?」

 一瞬、彼女が自嘲気味じちょうぎみに笑ったような気がする。

「良いから行きなさい。ひとりで子どもを育てるのは大変よ。私が言っても、説得力はないけれど……。村には良い人たちが多いわ。彼らを頼りなさい。私から言えるのはそれだけよ」

 いつもは堅物の彼女が、私の身体をぎゅっと抱きしめてきた。

「あなたがいないと寂しくなるわ。おそらく皆も。自分では気づいていなかったでしょう。孤児だとさげすむ者や、ウィリアム様に気に入られて嫉妬する者もいたけれど、それ以上に、イザベラは皆に愛されていたわ」

 抱きしめてくる彼女は、まるで家族のように温かかった。
 私にとって、屋敷の皆が家族のようなものだったと、そんな思いが今頃になってこみあげてくる。
 涙が溢れそうになるのを我慢しながら、バーバラ様と離れた。

「イザベラなら、村の皆と仲良くなれるだろうし、新しい仕事もしっかりとこなせるはずよ。それに、良い母親にもなれる。さあ、行きなさい」

 ウィリアム様にしたように、バーバラ様にも深々と礼をする。

「これまで、ありがとうございました」

 最後に、灯りの消えた屋敷を見上げる。
 ぎゅっとトランクを握ると、私は外へと向かって一歩を踏み出した。


 こうして私は子どものために、幼馴染であるウィリアム様の元から逃げ出すようにして、ブルーム伯爵家から飛び出したのだった。



     第四章 思い出を胸にしまったまま


 ブルーム伯爵家を飛び出して、幾ばくかの月日が流れた。
 あの日、屋敷を飛び出た私は、家政婦長バーバラ様の親戚を頼りに、汽車と馬車を何本も乗り継いだ先にある、国境沿いの村へと向かった。
 村に着くと、バーバラ様の親戚だという宿屋の老夫婦が温かく迎えてくれた。

『バーバラから聞いたよ、大変だったわねぇ』

 奥さんに優しく抱きしめられ、緊張しきっていた私はひとしきり涙を流した。


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