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1巻

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     第一章 かけがえのない思い出


『イザベラというの? 良かったらついてこない?』

 寒空の下、地面にうずくまっていた孤児の私に向かって、綺麗な手を差し伸べてくれた天使。
 それが三歳年上のあるじ――ウィリアム・ブルーム様の第一印象だった。


 少年少女の頃のこと。
 彼のことを幼馴染と呼ぶと失礼に値するかもしれない。
 あの日をきっかけに私――イザベラは、帝国の帝都に居を構えるブルーム伯爵家の住み込みのメイドとして働くことになった。
 そして、ほとんどの時間を、伯爵家の嫡男ちゃくなんであるウィリアム様と一緒に過ごした。
 金糸きんしのごときプラチナブロンドの髪に、サファイアを彷彿とさせる碧眼へきがん、天使のような愛らしい容姿。
 それに、他者を惑わす魅了の微笑み。
 老若男女ろうにゃくなんにょ問わず優しくて、非常に穏やかな少年として名を馳せていた。
 だけど、どうしてか、彼は私の前だけでワガママになる。

「ああ、皆、イザベラとふたりにしてくれるかな?」

 たくさんの使用人たちと一緒にいるとき、必ず彼は私だけを指名してくる。
 そうして、ふたりきりになると、様々なことを命じてくるのだ。

「おい、イザベラ、なんで俺のあとをついてこないんだ、早くしろ」
「おい、イザベラ、その仕事は良いから、俺の世話に戻れと言ったはずだ」
「おい、イザベラ、そんなことはお前がやらなくて良いと何度言えば分かるんだ」

 あるじである伯爵家の長男の言うことは聞かないといけない。私に拒否権はなかった。
 しかも、彼が砕けた口調になるのは、皆が見ていないところだけでだ。
 私が彼に色々と命じられていると他の人に言ったところで、おそらく誰も信じてはくれないだろう。
 ……とはいえその命令は、小さい子どもがワガママを言っているようなものだから、苦になることはない。
 それに、ウィリアム様が呼びつけてくるのは、他の使用人たちが嫌がらせとして私に仕事を押しつけようとするときばかりだった。
 また時々、彼は儀式めいた行動で私に暗示をかけてきていた。

「おい、イザベラ」

 私の身体が一度ピクリと動く。
 すると、彼が私の髪を柔らかく掴む。それと同時に、心臓まで鷲掴みにされたような気持ちになる。
 香水だろうか、年上の彼からは爽やかな海の香りがした。

「他の男と喋ったりしてないだろうな? とにかく男に話しかけたらダメだ……」
「め、命令でしょうか?」

 そう言ってくる彼の瞳は、懇願してくる犬のようだった。

「そうだ、命令だ」
「は、はい。それなら」

 私が同意すると、彼はひどく安堵あんどした表情を浮かべる。

「そうか、なら、それで良い。とにかく、俺以外の男はダメだからな!」

 彼は顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いた。
 ……どうしたのかしら?
 彼に言われるがまま、仕事以外では極力、他の男の使用人たちとは口をきかないようにしていた。


 そんな毎日が続き、いつしか私は思春期を迎えていた。
 ウィリアム様も、少年と青年の狭間はざまぐらいの美少年に成長している。
 しかし、小さい子どものような彼のワガママは、まだ続いていた。
 大人になりきれないウィリアム様のことを、嫌だと跳ねのける女性は多いだろう。
 だけど、拾ってもらったこと以外に、私には彼をどうしても嫌いになれない事情があった。

「イザベラ、やはりお前は頭は悪くないようだな。ほら、この本をやるから」
「あ、ありがとうございます」

 彼はそう言って、私にこっそりと読み書きを教えてくれていたのだ。
 そうして、本人いわく読み古したらしい、綺麗な装丁の本をプレゼントしてくれる。
 現在、中流階級の初等教育の義務化が国を挙げて進められてはいるらしいが、学校に通うには多くのお金がかかると聞いた。労働者階級にはまだまだ厳しい現状だ。本も高価であり、なかなか手が出せるものではない。
 勉強をしたり本を読んだりすることが出来るなど、元孤児の私は夢にも思っていなかった。

「俺は俺と対等に話せる人間が欲しいんだ。ほら、お前も知ってるだろう? 俺は他の者たちとは違って、すぐに何でも出来るからな」
「そうですか……」

 彼はそう言うが、素晴らしい貴族になるために、ウィリアム様が血のにじむような努力をしているのを知っていた。
 優しくて努力家な彼の性格を知っていたからこそ、嫌いにはなれなかった。

「ああ、ほら、イザベラ。使用人の仕事のせいで、手が荒れてるぞ。友人に訊いたら、この香油が効くそうだから買ってきたぞ」

 ころんと銀のケースに入った香油を渡された。
 中からは甘い薔薇ばらの香りがする。
 ……孤児だった私がいだいて良い感情ではないわ。
 ウィリアム様の優しさに触れるたび、自分の胸の内に芽生えそうな何かを必死に打ち消した。

「俺が父の跡をついで、この伯爵家のあるじになったら、お前に楽をさせてやる」

 彼はそんなことを、ふふんと告げてくる。

「ふふ、ありがとうございます」

 こんなワガママな主人に振り回される日々がこれからもずっと続くのだろう。
 ウィリアム様に拾われてからは、毎日がキラキラとした宝箱のように輝き、幸せだと感じていたのだ。
 そう思っていた私は、まだ子どもだった。



     第二章 果たされなかった約束と禁断の一夜


 ふたりとも思春期を過ぎた。
 私は少しだけ丸みを帯びて女性らしい身体つきになったと思う。
 一方、ウィリアム様は、甘いマスクの精悍せいかんな青年へと成長した。
 金糸きんしのようなプラチナブロンドの髪に、サファイアを彷彿とさせるあおい瞳は昔から変わることなく輝き続けている。金髪碧眼きんぱつへきがんの者はこの国の中にも多くいるが、彼ほどきらめいた美貌を持つ青年は少ないだろう。
 しかも、彼が優れているのは容姿だけではなかった。
 紳士としての人格を高め、教養を学ぶためのパブリック・スクールでも、優秀な成績を修めた科目がいくつもあるそうだ。文武両道でなければ、スクールでそのような成績を残すことは出来ないので、様々なことにけていると言える。
 今やウィリアム様は、貴族の令嬢たちからも注目を浴びる、一目置かれた存在。
 なんだか遠い存在になってしまったようで、私は一抹の寂しさを感じていた。
 けれども、変わらないところはいくつかあった。

「やっぱり、イザベラが作るオムレットが一番うまい」

 彼はそう言って、ふわふわの卵料理を好んで食べていた。
 ……大人になっても、変わらないところもあるのね。
 変わったところ、変わらないところ。
 彼の変化を見つけるのを楽しく感じていた。


 あるとき、彼の部屋でコートを受け取っている最中のこと。

「おい、イザベラ」
「は、はい、なんでしょうか、ウィリアム様」
「卒業式で、最優秀賞が発表されるのを知っているか? 学業で一番優秀な成績を修めた生徒が選ばれる賞なのだが……。もし最優秀賞を得ることが出来たなら、父上が俺の望みを何でも叶えてくれると言っていたんだ」

 彼は白いワイシャツに巻いたあおいタイを緩めながら告げてくる。

「何でもとは、伯爵様は大きく出られたものですね」
「そうだろう? 父上も大きく出たものだが……」

 そう言うと、彼は長い指を、私のほほに添わせた。
 ……最近、こうやって、触れられることが多いような?
 気のせいかもしれないが、距離が近くてなんだか気恥ずかしい。
 心臓がバクバクと音を立ててうるさくてしょうがない。自分のほほが赤らむのも感じて、ますます恥ずかしくなってしまう。

「イザベラ、俺は何を望むと思う?」
「え?」

 ウィリアム様の趣味に思いを馳せてみる。

「優秀な馬や、馬術の道具でしょうか?」
「そんなの、今飼ってる愛馬がいるから、他には欲しくないよ」
「だったら、チェス盤?」
「そんなもの、もう持ってるよ。なんでさっきのよりも安いものになってるの? まあ、俺が欲しいものは、お金で買えるものではないが」

 ……お金で買えないもの? だとすれば、いったいなんだというのだろうか?
 考えていると、彼がぽつりと何かをつぶやく。

「……ああ、俺の欲しいものは、鈍くて仕方がないな」

 それはあまりに小さなささやきだったので、ウィリアム様が何を言ったのかが分からず、私は聞き返そうとする。
 すると突然、彼の顔がゆっくりと私に近づいてきて――

「っ!」

 柔らかな彼の唇が、私の唇の端に触れた。
 海を連想させる香りが、ほのかに鼻腔びこうをついてくる。
 しばらく触れたあと、唇はそっと離れた。

「さすがに、ここまでしたら気づくかな。俺が何を欲しいのか……」

 先ほどの倍以上、鼓動が高鳴る。
 ……そ、そんな、いや、でも、まさか、あり得ない。
 一瞬の思いがけない出来事に、パニックになってしまい、うまく声が出せない。

「この俺に、ここまでさせるんだから、うぬぼれても良いよ。イザベラ」

 私は自分の顔が絶対に林檎りんごよりも赤くなっている自信があった。

「今度、はっきり言うから。そうだな……卒業式の翌日はどうだろうか? 屋敷の中にある薔薇ばらえんに来てくれ。絶対に最優秀賞だからさ」

 彼にそう言われ、こくこくと私はうなずく。
 そうして数日後には、ウィリアム様は予言通り、パブリック・スクールを最も優秀な成績で卒業することになった。
 その翌日、彼に呼び出された薔薇ばらえんへと私は足を運ぶ。
 薔薇ばらの甘やかな香りが、仕事で疲れた身体を包み込んできた。

「もうすぐ、約束の時間ね。ウィリアム様に、どういう顔で会えば良いのかしら」

 胸の鼓動が速まるのを感じながら、そっとつぶやく。
 今日は、以前に彼がこっそりくれたツーピースドレスを身にまとっている。白いブラウスに、紺色の上品なスカートが合わせられたものだ。あまり化粧が得意ではないので、淡い桜色の口紅だけをつけて待つ。
 ……ウィリアム様に少しでも可愛いと思われたい。
 胸に手を当てて、彼のことを考える。
 うぬぼれて良いと言ってくれたウィリアム様。
 孤児だった私を拾ってくれた美少年から、大人になった主人。
 言い方がきついところもあるが、本質的には優しい彼。私の前でだけ砕けた口調だったのは、彼が自分に心をひらいていたからなのだと思うと、今までの多くのワガママたちもいよいよ可愛く感じられた。
 私に嫌がらせをしてくる使用人たちから、かばうようにして現れるウィリアム様。
 対等に話せる人が欲しいと言って、読み書きを教えてくれたりもした。
 皆が憧れる、そんな素敵な彼が自分を特別視しているなんて、まるで夢のような出来事だ。
 それこそ、彼にもらった童話の本の中のお姫様になれたようで、今この瞬間、この世で一番幸せなのは自分だと言い切れる自信さえある。
 だけど約束の時間になっても、彼はなかなか姿を現さない。

「どうしたのかしら? でも、ウィリアム様はきちんとした方だから、絶対に来るわ」

 自分自身にそう言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
 しかしいつまで経っても、彼は約束の場には来なかった。
 あれだけ高揚していた気分も今や、不安へと変わりかけている。
 ……何かあったのかしら?
 普段から時間や約束をきちんと守る彼の身に、何かあったのではないかと心配でたまらない。
 昼に約束をしていたはずなのに、もうが傾きつつある。
 そうしていると、夕立ちが降りはじめた。
 ……雨も降ってきたし、屋敷に帰って、ウィリアム様が無事かどうか確かめなきゃ。
 そう思い、私が駆け出そうとしたとき。

「イザベラ」

 ウィリアム様の代わりに現れたのは、女性使用人の統括者である家政婦長バーバラ様だった。ブルーム伯爵家に長く勤める使用人のひとりだ。
 眼鏡をかけ、厳しい表情の彼女は淡々と告げてくる。

「ウィリアム様は、急用でこちらには来られないそうです」
「そう……ですか……」

 バーバラ様は、それだけ言い、去っていく。
 少しだけ切ない気持ちになりながら、傘のない私は小走りで帰路についたのだった。
 急用ならどうしようもないわ。
 ……仕方がない。
 そう自分に言い聞かせながら走る私は、雨で出来た泥濘ぬかるみに脚を取られて転んでしまった。
 ウィリアム様に会うために着ていたツーピースドレスが、泥にまみれて汚れてしまう。
 せっかくウィリアム様にいただいた服が……
 紺色のスカートだけではなく、白いブラウスにまで泥は撥ねている。
 ……大丈夫、洗えばまた、元の綺麗なドレスに戻るわ。
 そう自分を奮い立たせながら、いつも以上に長く感じる屋敷までの道を歩いた。
 そうして、屋敷の玄関が見えてきた頃。
 荘厳そうごんな扉の前に、傘を差すひとりの長身痩躯ちょうしんそうくの男性の姿が目に入った。
 金糸きんしのようなプラチナブロンドの髪に、サファイアのように美しき瞳を持った甘いマスクの青年。

「あ……ウィリアム様……」

 会いたかった人物が目の前に現れ、重かった足取りが少しだけ軽くなったような気がしてくる。
 彼は、一台の見慣れない豪奢ごうしゃな馬車の方へと移動する。
 バーバラ様が言っていた急用が済んで、客人を見送ろうとしているのだろうか。
 邪魔をしてはいけないと分かってはいる。
 しかし、彼が客を送ったあと、すぐにでも話しかけたい気持ちが強かった。
 声をかけようと少しだけ馬車に近づいた私が目にしたのは――

「……っ」

 ――同じ傘の下、麗しき青年が、美しい貴族令嬢と談笑している姿だったのだ。
 ウィリアム様が傘を差してあげているのは、なめらかな流線を描く黒髪を持った綺麗な女性。

「あ……」

 彼女は、私が着ているドレスとよく似たドレスを身にまとっていた。
 汚れひとつない清らかな姿の令嬢と、泥にまみれた自分。
 無意識に比べてしまい、なんだか悲しい気持ちになる。

「急用で来られないと聞いたけれど、彼は私との約束よりも優先したかったことがあったのね。……彼女と会う方が大切だった?」

 結局、からかわれたということだろうか? 期待した私がバカだった?
 いいえ、きっと突然の来客で仕方なく……そうよ、急用だったそうだもの。
 けれどもウィリアム様は、見知らぬ令嬢に天使のような笑みを見せているではないか。
 ……親戚の女性かもしれないじゃない。
 心を守るために、必死に自分に言い聞かせる。
 そのとき、同じ傘の中を歩いていた令嬢がつまずいた。
 そんな彼女をウィリアム様はたくましい腕で抱き寄せる。

「ウィリアム……様」

 思わず名前を呼んでしまうが、この距離では彼の耳に届かない。
 先ほどひとりで転んだことを思い出した。

「私も彼女のように、ウィリアム様に支えてもらえていたら……」

 胸が軋んで仕方がない。
 どんどん、どんどんみじめな気持ちになっていった。
 足元がふらつき、目頭に熱い何かがこみあげてくる。
 胸をかきむしりたくなるぐらい、苦しい。

「お似合いだよな。ウィリアム様とアイリーン侯爵令嬢」

 そう言って、立ち尽くす私に、若い執事見習いのジョンが傘を差し出してきた。
 彼のひとことが、瓦解がかいしそうな心を鋭くえぐる。
 所詮、使用人の自分などでは手の届かない存在だと思い知らされる。

「ウィリアム……様……」

 ふたりの仲睦まじい様子を見たくなくて、視線をらしてしまう。
 そんな私の様子に気づくことなく、ジョンは話しかけてくる。

「ああ、そうだ、イザベラ。実は、ウィリアム様とアイリーン侯爵令嬢だけどさ、今度、婚約するらしいよ。身分の高い侯爵令嬢をめとることが出来るなんて、さすがウィリアム様だよな。いつあの美人なアイリーン様を口説き落としたんだろうな」

 そう言って彼は笑う。
 その瞬間、私は目の前が真っ暗になった。
 ――伯爵家の嫡男ちゃくなんであるウィリアム様と、侯爵令嬢であるアイリーン様の縁談話が進んでいることを、執事見習いの口から知らされたのだ。


 約束が果たされなかった翌朝、一通の手紙が届いた。
 手紙の主はウィリアム様で、グラジオラスの押し花のしおりが封入されていた。
 いつもの自分なら、花言葉の意味を調べていたかもしれないが、そんな気分にはなれなかった。
 白い便箋びんせんにはひとことだけ、こう書かれていた。

『約束の場所に行けずにすまない。全てが片付いたら、また』

 彼の手紙には、アイリーン侯爵令嬢との縁談話についての詳細は書かれていない。
 ……仕方ないわ。貴族同士の約束を優先しないといけなかっただけよ。ウィリアム様には立場があるもの。それに縁談のことだって、使用人たちが色々と言っているだけかもしれないし……彼の口からアイリーン様を好きだと聞いたわけじゃないもの。
 現状を必死に否認しながら、自分の心を持ち直そうと必死だった。
 だが、手紙を持った手は小刻みに震えている。鏡にちらりと映った自分は、ひどく白い顔をしていた。
 そうして、釈然としない気持ちをかかえたまま、忙しいウィリアム様とは会えずに数日が過ぎてしまう。


 ある宵の頃。

「皆、イザベラとふたりにしてくれるかな?」

 ウィリアム様が天使のような笑みを浮かべながら、使用人たちと一緒にいる私を呼び出す。
 どこかからの帰りなのだろう。彼はキャメルのオーバーフロックコートを身にまとっていた。
 ……ウィリアム様に会うのは、すごく久しぶりだわ。
 彼に呼ばれて嬉しい反面、胸中はひどく複雑だった。
 私の前を歩くウィリアム様の、成長してたくましくなった背をぼんやりと見つめる。
 彼に訊きたいことはたくさんあった。
 ふと、彼と縁談の話が進んでいるというアイリーン侯爵令嬢の美しい顔が浮かぶ。
 皆が言うように、ウィリアム様は彼女のことが好きなのだろうか?
 思い出すと胸がざわついた。
 考え事をしているうちに、いつの間にかウィリアム様の部屋へと辿り着く。
 室内は几帳面に整えられている。コートを脱ぎ猫脚の机の上に載せると、豪奢ごうしゃなベッドに彼は座り込んだ。

「おい、イザベラ、俺のところに来るんだ」

 幼少期からの癖で反射的に、命じられるがまま彼の元へと向かう。
 座る彼のそばに近づいた瞬間、ウィリアム様が私の手を握る。帰宅したばかりだからか、その手は少しだけひんやりと冷たい。

「ウィリアム様」
「この間は悪かった、約束の場所に行けず」

 いつも意地悪な言い回しばかりするウィリアム様だが、珍しく素直に謝ってきて、私は少し驚いてしまう。
 そうしてすがるような瞳で、私を見上げてきた。

「だけど、イザベラ。あれだけ、男と話すなって俺は命じていたのに……あの約束の日に、執事見習いの男の傘の中で、何を話していたんだ?」
「え? それは、雨が降っていて、たまたま、話を」
「いったい、何を話していたんだ?」

 ウィリアム様に尋ねられるが、私は言い淀んでしまう。
 アイリーン様との縁談のことを聴いたと伝えれば、彼はどんな反応をするだろうか。
 だが彼の口から直接、アイリーン様との縁談話を聞くのは正直怖い。
 何も言えない私の態度を見て、ウィリアム様はまゆをひそめながら告げる。

「俺に話せない内容なのは分かった。イザベラにとっては、所詮、俺の命令なんて、たいしたものではないんだ」

 彼は俯いた。

「いや、約束を破るような俺が、イザベラを責めることは出来ない。このままだと努力が全部水の泡だと思っていたけれど、そもそも、イザベラの気持ちが……俺には……」
「ウィリアム様?」

 ぽつりぽつりと、先日からの出来事について、ウィリアム様が話しはじめた。

「言い訳がましいかもしれないが、アイリーン嬢の生家であるテイラー侯爵家が、突然、パブリック・スクールを卒業したばかりの俺に縁談話を持ちかけてきたんだ。しかも、くだんの日には、事前の連絡もなしに現れたんだ」

 彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

「上位貴族の申し出を無下には出来なかった。だが、俺としては、愛のない結婚はしたくない。だから、断ろうとしているのに、なかなか侯爵家が引き下がってくれない」

 伯爵家よりも身分の高い侯爵家から持ち掛けられた縁談話であるため、下手へたな理由では断れずに、ウィリアム様は神経をすり減らしてしまっているようだ。

「今日も具合が悪いからとか言って、アイリーン嬢は俺に会うのを拒んできた。なんとか令嬢の機嫌をとって破談にしたいというのに、テイラー侯爵は娘との結婚を推すばかりだ」


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