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1巻
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第三話 姫、鬼に恋される
あやめが鬼達におにぎりを提供し終わった頃には、もうすっかり夜も更けていた。
鬼達にとっては活動時間だが、人間は眠りに就く時間だ。それは、人の血を半分だけ継いでいる鬼童丸も同じで、彼もまた夜に眠りに就く必要があった。
「てめえら、さっさと持ち場へ戻れ」
鬼の頭領の命令を聞くなり、台盤所に集結していた鬼達が散り散りに飛んでいった。
「おい、女……じゃなくて、あやめ」
鬼童丸があやめを探したところ、台盤所にある木椅子に座ったままうとうとしていた。どうやら慣れない環境の中、はりきり過ぎてしまったようだ。
「こんなところで寝たら風邪引くぞ」
「は……い」
あやめは瞼を持ち上げたのも束の間、すうすうと寝息を立て始める。
「ったく、仕方ねえな」
鬼童丸はやれやれといった調子で嘆息すると、あやめをひょいと横抱きにした。彼女の身体は、まるで童のような軽さだった。
(半鬼半人の俺とは違って、人間のこいつは食べ物を食べないと生きてはいけないはずだ。ろくすっぽ飯も喰えないほど困窮してたと見える。草だけ喰って凌いでたのかもな)
出会い頭に骨と筋しかないと本人が叫んでいたが、あながち嘘ではないらしい。
鬼童丸はあやめを寝所に運び終えると、廂(母屋の周囲を取り巻く空間)を抜け、簀子へと向かった。高欄に肘をつきながら、ぼんやりと月を眺める。
「握り飯……か」
まだ母が存命だった幼少期、鬼童丸には、人間と共に暮らしていた時代があった。
だが、その時に思い出したくもない悲しい事件が起きてしまった。
それが原因で、父親である酒呑童子のいる鬼の里で暮らすようになり、人への増悪を募らせながら生きてきたのだ。
その事件からしばらくした後、鬼童丸は、父の宿敵である源頼光からおかしな呪術をかけられてしまった。
――十五年以内に、黄金の瞳を持つ女の血肉を喰らわなければ、生き延びることのできない呪術を。
だがしかし、母が人間だったことも手伝ってか、文字通り人を喰うのには抵抗があった。他に呪術を解く術はないかと探していたが、刻一刻と期限は近づいていた。
どうしたものかと思っていたら、どうやら実際にその女を喰わなくても良い方法が判明した。だが、その方法というのが問題だった。
「はあ? 他の鬼みたいに喰えねえんだったら、酒呑童子の親父みたいに、俺に人間の女と番えっていうのかよ」
いわゆる言霊を逆手にとった話のようで、食事としての「喰う」と、異性と交わる「喰う」、どちらも同じ「喰う」だから、どちらの手段でも呪術に対抗できるというのだ。
どちらの手段を取るか決めかねていた鬼童丸だったが、やはり人を喰うことには抵抗があった。
「それに、あの女は……」
ただ、背に腹は代えられない。
憎き源頼光のせいで、大嫌いな人間を探して娶らないといけない羽目になってしまった。
生きるためには仕方がないと、あやめ姫のことを十五年近く追い求め続けた。
どうやら源頼光が結界を張った上で、彼女に目くらましの術をかけていたようで、捜索にかなりの時間を要してしまった。
「あやめ、ね」
人間の姫だけれど貧乏暮らしだったという、ぽわんとした女の顔が頭の中に浮かんでくる。
彼女も人間だが、自分が嫌っている人間達とは、どことなく違う何かを感じていた。
「あいつは他の女とは違う気がするな」
それに、やけに彼女のご飯を食べてからは心身が軽くなった気がした。
鬼童丸の赤みがかった黒髪が、風にそよいでさやさやと揺れる。
庭に咲く椿の花も同じく揺れ動いた。
「それにしたって、全然違う顔のはずなのに、どことなく頼光に似ているな」
その時。
「これは……」
不穏な気配を感じ取る。
あやめを寝かせてきた寝所の方だ。
「あやめ!」
鬼童丸は即座に転移の術を行使したのだった。
その頃、あやめは夢の中にいた。
鬼の頭領だという鬼童丸に攫われて、大江山の屋敷に連れて来られた。
けれども、出されたご飯があまりにも美味しくなくて、作り直してしまった。
てっきり鬼に頭からバリバリと食べられるものだと思っていたら、実は鬼童丸の妻として迎えられたことを知り、衝撃を受けてしまった。
色々と聞きたいことはあったけれども、お腹がいっぱいで台盤所で眠くなってしまった。
そうして、鬼童丸に運ばれて、母屋に宛がわれた豪奢な御帳台の中で眠ることになったのだ。
(こんなに素敵な目に遭って良かったのかしら?)
瞼をとろとろと閉じる。
眼裏に、たくさんのおにぎり達が躍っていた。
(何だか幸せ)
鬼童丸が現れたかと思うと、おにぎりを美味しそうに頬張り始める。
(私を食べるはずの鬼の頭領……私の旦那様)
突然、格子にかかる御簾がめくられる音がした。
あやめは、少しだけ目が冴えてしまい、瞼をゆっくりと持ち上げた。
すると、しゅるりと衣擦れの音が聞こえる。
「え?」
完全に目を開けた瞬間、全身に衝撃が走る。
なんと、衾の中に誰かが侵入してくるではないか!
「だ、誰……!? きゃああっ!」
あれだけ眠たかったにもかかわらず、一気に目が冴えてくる。
上体をパッと起こすと、何者かの影が視界に入った。
鬼童丸に比べると、身体つきは細身だが、骨格からして男性のようだ。
「え? え? え? 鬼童丸さんじゃない!」
近くにある灯台が揺れ動いて、相手の顔が炎に照らされる。
「あれ? 顔、橋さんそっくり!?」
なんと、鬼女・橋そっくりの顔立ちの美青年だった。彼女と同じように顔色も驚くほど白く、吊り目がちな瞳は赤く光っている。橋と違うところはといえば、髪が白くて長いことだ。更に言えば、ぼーっとした表情を浮かべている。
「ええっと……」
「ああ、何でこんなところに人間……?」
美青年の指が、あやめの黒髪をひと房掴んだ。
「え!?」
しかも、ちゅっと口づけてくるではないか。
勿論唇ではなく髪だったけれど、あやめにとっては衝撃的だった。
「……それにしても美味しそうな女性だな……」
「え? 美味しそうって、どういうことですか? きゃっ!」
なんと、あやめは初対面の美青年に押し倒されてしまった。
鬼童丸に続き、本日二度目の貞操の危機に、あやめの動揺は激しくなる。
橋によく似た美青年は女性のような見た目をしているが、力がやんわり強くて、やはり男性なのだと確信する。
(とにかくどうにかしなきゃっ!)
ふと、夫になったはずの鬼の頭領の顔が浮かんだ。
(鬼童丸さんは近くにいないの!? せめて気付いてもらえたら!)
美青年の唇が、あやめの唇に触れるか触れないかという時、あやめは思いきり息を吸い込んだ後、大声を上げた。
「鬼童丸さん! 助けてください!!」
その瞬間、ぶわりと風が吹き込んできた。御帳台にかかる帳が巻き上がる。
「きゃっ!!」
あやめと白髪の鬼は衾ごと宙に浮く。
目が開けられないほどの強い風に、彼女の黒く長い髪がゆらゆらと躍った。
(どこかに飛ばされちゃう!)
そう思った瞬間、誰かにギュッと抱きしめられる。
「あやめ!」
「あ……」
黒方の高貴な香りが鼻腔をついてきた。
単衣が薄い生地なこともあるのだろう。相手の硬い胸板と逞しい腕と、相手の指が腕に沈んでくる感覚が伝わってくる。
心臓がはちきれんばかりにドキドキしてしまった。
「あやめ、問題ないか?」
少しだけ低い声が鼓膜を震わせてくる。
あやめはそっと瞼を持ち上げた。
赤みがかった黒髪に角が二本、ぎらつく紅い瞳の美青年の姿が視界に入る。
「はい、鬼童丸さんが来てくださったので!」
鬼童丸はあやめが無事な様子を確認すると、まだ宙に浮いている白髪の鬼に向かって叫んだ。
「俺と嫁の大事な寝所に侵入してくる不貞の輩は、てめえか、茨木!」
鬼童丸からものすごい剣幕で名前を呼ばれた美青年は、風で飛ばされそうになっているにもかかわらず、ぼんやりと返事した。
「……嫁? 誰の?」
「俺のだよ。ったく、相変わらず寝起きが弱いんだな。寝惚けてんのか?」
すると、茨木と呼ばれた鬼は寝ぼけ眼のまま答えた。
「だって、頭領、人間嫌いじゃないですか? なのに、本当に人間の女と結婚したの……?」
「ああ、同じ人間だが、あやめは別の女達とは違うんだ。定期的に金を渡すなり、脅すなりして喰うだけの関係になるぐらいなら、どうせなら嫁にって思ったんだよ」
「どうせなら」という言葉を聞いて、あやめの胸がちょっとだけズキンとした。
あやめに向かって鬼童丸が美青年鬼の紹介をする。
「一応、親父の元部下の茨木童子だ」
ふわふわと茨木童子は地面に着地する。
まだぼんやりした表情で、彼はあやめに向かって手を差し出した。
「あやめさん、茨木童子です、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ……」
あやめは茨木童子と握手を交わそうとしたのだが……
「ダメだ!」
「きゃっ」
鬼童丸が唐突に割り込んできて、あやめの手首を掴んでくると同時に、ハッとした表情を浮かべた。
「あ、悪い、強く握り過ぎた」
「いいえ、あの……」
鬼童丸が握ってくる手首が異様に熱くてドキドキして落ち着かなくなってくる。
「とにかく他の鬼達との握手はダメだ。これから先もずっとな」
「え? でも、そうなると困る場面もあるような?」
「……もう、いい。御帳台が少し壊れているから、別の場所に行くぞ」
「え? きゃっ!」
あやめは鬼童丸に強引に抱きかかえられた。台盤所から連れて来られた時と同様、横抱きにされてしまっている。
(この抱えられ方は、鬼童丸さんの顔が近くて落ち着かないのよね)
あやめの頬にさっと朱が差す。
ちょうど視線を逸らすと、茨木童子と視線が合ったため、微笑み返すことにする。
「茨木さん、これからもどうぞよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ……」
すると、またもや鬼童丸が会話に割って入ってくる。
「挨拶は後にしろ。いいから行くぞ」
そうして、鬼童丸とあやめの二人は、中庭へと向かったのだった。
鬼童丸にあやめが抱きかかえられて来たのは、東の対だった。
内部の空間は三層に分かれており、中心部分にあたる母屋を覆うように庇があり、それぞれの柱の間には、青竹で編んだ御簾が懸けられている。御簾の上部には帽額と呼ばれる横幅の布が付いているが、上品な胡蝶と窠(鳥の巣)の文様が摺り出されている。
今は誰も使っていない場所らしいのだが、埃っぽさや黴っぽさはなく、清潔に整えられていた。
ほのかに古風な樹の香りが漂っていて、暗くてひんやりしている。
近くに滝があるのだろう。ざあざあと水が流れゆく音と、岩に打ちつける音が協和音を奏でていた。
御簾を潜り抜け、几帳の先、畳しか敷かれていない場所へと進む。
そうして、鬼童丸が畳の上にあやめの身体をそっと横たえた。
「一応、これから先のお前の部屋でもある」
「私の部屋は別にあるのですね、ありがとうございます」
あやめは内心ほっとしていた。
(てっきり夫婦になったものだから、寝殿で一緒に寝るのだと思っていたけれど、勘違いだったのね)
鬼童丸は畳の上にどかりと座り込むと胡坐をかいた。
「さて、今日はここで一緒に寝るぞ」
「一緒に寝るんですか!?」
あやめは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ああ。一応夫婦になったんだから、当然だろう?」
「当然!?」
鬼童丸は呆れたような表情を浮かべている。
「俺は、おかしなこと言っているか? 一応、人間の貴族達の間では、親同士が決める結婚だろうと、恋愛関係から成立する結婚だろうと、三日間は床を共にする習わしだろうが」
「ええっと、それは人間の風習でして、鬼もそうなのでしょうか?」
「鬼の風習とは違うが、一応お前は人間なんだから、合わせてるんだよ」
「合わせていただき嬉しくはあるのですが、あまりに急展開で、心の準備が……」
「お前がさっきまでぐうすか寝てたから手は出さなかったが、今は起きてるから、ちょうど良い」
鬼童丸の節くれだった指が、あやめの額にかかっていた黒髪を払った後、彼女の顎を掴んでくる。
「あ……」
美しく整った顔がゆっくりと近づいてくるなり、あやめは唇を噛みしめると同時にギュッと縮こまった。
「そもそも、貴方のことをよく存じておりません!」
「俺もお前のことを知らねえよ。だが、人間だろうが鬼だろうが、男女の関係なんて、そんなもんだろう? 和歌で口説くのがうまいからとか、ちらっと垣間見たら好みの色白だったとか。人間の結婚なんて、そんなくだらないものばかりだ」
鬼童丸が伏し目がちになると、紅玉の瞳に睫毛がかかって濃い影ができる。少しだけ醒めた口調のまま続けた。
「別に相手のことなんざ、知らなくても問題ねぇ。ついでに言えば、そもそも俺は親父が攫った女にできた子どもだった。俺も親父と一緒で、お前を攫ってきた。鬼と人間の結婚なら、なおのことそんなもんで……」
「それだけじゃないと思うんです!」
あやめは抗議していた。
「鬼だったとしても人間だったとしても、心を通じ合わせてからの方が、何をやるにも絶対幸せだと思うんです!」
「ああ? 何をやるにもって何がだよ? 抽象的な話はやめろよ」
聞く耳持たないといった調子の鬼童丸に対して、あやめは懸命に伝えた。
「さっきのおにぎりも一緒です。誰かと一緒に何かをやるのは素敵なことです。知らない人とでも何かをやるのは素敵だけど、せっかくなら心が通じ合った状態の方が、絶対にもっともっと幸せなんです!」
鬼童丸はあやめの言い分を黙って聞いていた。
「確かに鬼童丸さんは人攫いの鬼です! だけど、せっかく結婚するなら、ちゃんと貴方のことを知っていきたいんです!」
鬼童丸は、ハッと短く息を吐いた。
「綺麗ごとだな」
紅い瞳が燃え盛る焔のように揺らいでいる。
ゾクリ。
あやめの背筋を恐怖が這った。
(出会ってまだ一日足らずだけど、おにぎりを美味しそうに食べてくれたから、勝手に悪い人じゃないって決めつけていたかもしれない)
やはり相手は鬼。簡単には気を許してはいけないのだ。
けれども、想像とは違う答えが相手から返ってくる。
「鬼の頭領っていう権力や、人間離れした美貌をちらつかせりゃあ、わりと喜ぶ女も多いんだがな」
「え?」
「だが、お前が普通の女とは違う考えの持ち主なんだってのは、この一日でようく分かったよ」
ふわり。
鬼童丸の瞳が、まるで春に咲く紅梅のように和らいだ。
「……あ」
(鬼だけど、ちゃんと分かってくれた!)
あやめの胸の内に、一足早く春が来たかのような心地になる。
「とはいえだ……」
「とはいえ?」
せっかく色々と心を通わせてから、真の夫婦になれるものだと期待したというのに、まだ何かあるのだろうか?
鬼童丸が前髪をくしゃりとかきあげながら、少しだけ苦しそうに息を吐いた。
「そういう形式にこだわってやる暇がねえんだよ。時間があれば、お前の言うこと聞いてやっても良かったがな」
「それは、どういうことでしょう?」
二人の間にしばし沈黙が訪れる。
彼の睫毛が一瞬だけ震えた。唇を引き結んだ後、ゆっくりと口を開く。
「さっさと俺の嫁になれ」
その答えを聞いて、あやめはキョトンと首を傾げた。
「もうなってしまったのでは?」
「そうじゃない。心身どちらもって意味だ」
「心身どちらも……?」
あやめは、そこまで口にすると、意味が分かってしまった。
「そ、そ、それこそ、ちゃんと気持ちが通じ合ってからが大事で……」
すっかり落ち着かなくなってしまい、忙しなく髪を触ってしまう。全身が炙られたかのように熱い。
すると、鬼童丸が遠い目のまま続けた。
「さっき、茨木が寝所に侵入してきたみたいなことが、また起きちまうぞ。別にあいつは単純に寝惚けただけじゃあねぇ。人間の生娘の匂いに無意識に惹かれてきたんだよ」
「え……!?」
匂いと言われ、あやめは、自身の身体をくんくんと嗅いでしまった。
「ちゃんと湯に浸かりましたし、もう土臭くはないと思うのですが?」
「土臭いのが気になったのとは別の話だ。鬼にしか分からない類の匂いだ」
「人間が嗅ぐ匂いではない、と?」
「ああ。お前が放つ香りが、鬼にとっては極上の香りなんだよ。そもそも、この屋敷には結界を張ってある。だから、茨木ぐらい力が強くねぇと侵入はできないがな。優しい鬼ばっかりじゃねえ。俺がさっさと手を付けて、『頭領の嫁』だって、はっきりさせておいた方が良い」
「どうしても、今すぐに?」
あやめの声が少しだけ震えた。
「もしかしたら、ちったあ待ってはくれるかもしれないが、念には念を入れておいた方が良い。お前だって、知らねぇ鬼に好き放題されたくないだろう?」
鬼童丸が向けてくる視線は、あやめのことを心配しているものだった。
(せっかく鬼童丸さんとなら、少しずつ歩み寄っていけたかもしれないのに……)
あやめの嬉しくてはちきれんばかりだった気持ちが、しゅんと萎んでいってしまう。
「そうですか。だったら、怖いけど、もう覚悟を決めるしかないですね。ちゃんと生き延びて、お母様の供養はしたいですもの」
すると、鬼童丸がさっそく直衣をくつろげ始めた。
「物分かりの良い女で悪くねぇな」
「あ……」
彼の逞しい腕が、彼女の腰に回されたかと思うと、引き寄せられる。
ぐっと距離が近づいて、上半身同士が密着しあって、相手の体温が伝わってきた。
(二人とも単衣姿になったせいか、直に触れ合っているみたい)
少しでも顔を動かしたら、鼻先どころか唇までぶつかりそうなぐらい至近距離だ。
熱を孕んだ眼差しに穿たれる。
あやめの心臓はバクバクと音を立てており、このまま破裂しそうだ。
(私はこのまま鬼童丸さんと心を通わせる前に身体だけ夫婦関係にならないといけない。だけど、他の鬼達に喰われるぐらいなら、鬼童丸さんと関係を持つ方が当然よくって……)
自分自身に言い聞かせようとしたけれど、身体が勝手にカタカタ震え始める。
(だけど、やっぱり怖い!)
あやめが瞼をギュッと瞑った、その時――
バサリ。
「きゃっ」
あやめの頭の上を何かが覆ったと思えば、鬼童丸が纏っていた紫色の直衣だった。
「あ、あの……これはいったい?」
「さんざん脅したわけだが、お前の旦那はこの俺だ」
「ええっと、はい、そうですね」
つまり、どういうことだろうか?
「俺の女にわざわざ手をつけて、俺に嫌われたい鬼はいねえ。だから、今晩は手をつけない」
「ええっ、だってさっきは鬼達が匂いに引き寄せられるって!」
すると、鬼童丸が唇の端をニヤリと吊り上げた。
「待ってやるってことだよ」
「……っ!?」
「本当はさっさと嫁にしたいところだが、お前に嫌われたら、旨い飯を食いっぱぐれそうだしな。まあ、仕方ねえ」
「仕方ないのですか?」
「ああ、まあな。そもそも十五年近く探し続けたんだ。今更数日位は待てる。とはいえ、鬼達に格好はつかねえし、心身ともに俺のものになったって思わせた方が何かと得だ。だから、とりあえず、床を共にしたふりはしておく。それで良いか?」
鬼童丸が言いたい意味がじわじわと分かってくる。
それに、彼の不器用な優しさのことも。
「はい! ありがとうございます!」
「よし、じゃあ寝ろ」
あやめが畳の上に横たわると、鬼童丸が羽織っていた直衣を衾にすることにした。
そうして、近くに座った鬼童丸から、あやめは肩をトントン叩かれながら、幸せな気持ちで眠りについたのだった。
翌朝、あやめは朝の眩しさで目を覚ました。
「もう朝なの?」
何だか身体がぽかぽか温かい。
(そうだ、鬼童丸さんが掛けてくれた衾の中だからね)
それにしたって、なんとなく身体が窮屈な気がするのだが、気のせいだろうか?
「んん?」
あやめは真ん丸の瞳をぱっちりと開ける。
「……!」
あやめが鬼達におにぎりを提供し終わった頃には、もうすっかり夜も更けていた。
鬼達にとっては活動時間だが、人間は眠りに就く時間だ。それは、人の血を半分だけ継いでいる鬼童丸も同じで、彼もまた夜に眠りに就く必要があった。
「てめえら、さっさと持ち場へ戻れ」
鬼の頭領の命令を聞くなり、台盤所に集結していた鬼達が散り散りに飛んでいった。
「おい、女……じゃなくて、あやめ」
鬼童丸があやめを探したところ、台盤所にある木椅子に座ったままうとうとしていた。どうやら慣れない環境の中、はりきり過ぎてしまったようだ。
「こんなところで寝たら風邪引くぞ」
「は……い」
あやめは瞼を持ち上げたのも束の間、すうすうと寝息を立て始める。
「ったく、仕方ねえな」
鬼童丸はやれやれといった調子で嘆息すると、あやめをひょいと横抱きにした。彼女の身体は、まるで童のような軽さだった。
(半鬼半人の俺とは違って、人間のこいつは食べ物を食べないと生きてはいけないはずだ。ろくすっぽ飯も喰えないほど困窮してたと見える。草だけ喰って凌いでたのかもな)
出会い頭に骨と筋しかないと本人が叫んでいたが、あながち嘘ではないらしい。
鬼童丸はあやめを寝所に運び終えると、廂(母屋の周囲を取り巻く空間)を抜け、簀子へと向かった。高欄に肘をつきながら、ぼんやりと月を眺める。
「握り飯……か」
まだ母が存命だった幼少期、鬼童丸には、人間と共に暮らしていた時代があった。
だが、その時に思い出したくもない悲しい事件が起きてしまった。
それが原因で、父親である酒呑童子のいる鬼の里で暮らすようになり、人への増悪を募らせながら生きてきたのだ。
その事件からしばらくした後、鬼童丸は、父の宿敵である源頼光からおかしな呪術をかけられてしまった。
――十五年以内に、黄金の瞳を持つ女の血肉を喰らわなければ、生き延びることのできない呪術を。
だがしかし、母が人間だったことも手伝ってか、文字通り人を喰うのには抵抗があった。他に呪術を解く術はないかと探していたが、刻一刻と期限は近づいていた。
どうしたものかと思っていたら、どうやら実際にその女を喰わなくても良い方法が判明した。だが、その方法というのが問題だった。
「はあ? 他の鬼みたいに喰えねえんだったら、酒呑童子の親父みたいに、俺に人間の女と番えっていうのかよ」
いわゆる言霊を逆手にとった話のようで、食事としての「喰う」と、異性と交わる「喰う」、どちらも同じ「喰う」だから、どちらの手段でも呪術に対抗できるというのだ。
どちらの手段を取るか決めかねていた鬼童丸だったが、やはり人を喰うことには抵抗があった。
「それに、あの女は……」
ただ、背に腹は代えられない。
憎き源頼光のせいで、大嫌いな人間を探して娶らないといけない羽目になってしまった。
生きるためには仕方がないと、あやめ姫のことを十五年近く追い求め続けた。
どうやら源頼光が結界を張った上で、彼女に目くらましの術をかけていたようで、捜索にかなりの時間を要してしまった。
「あやめ、ね」
人間の姫だけれど貧乏暮らしだったという、ぽわんとした女の顔が頭の中に浮かんでくる。
彼女も人間だが、自分が嫌っている人間達とは、どことなく違う何かを感じていた。
「あいつは他の女とは違う気がするな」
それに、やけに彼女のご飯を食べてからは心身が軽くなった気がした。
鬼童丸の赤みがかった黒髪が、風にそよいでさやさやと揺れる。
庭に咲く椿の花も同じく揺れ動いた。
「それにしたって、全然違う顔のはずなのに、どことなく頼光に似ているな」
その時。
「これは……」
不穏な気配を感じ取る。
あやめを寝かせてきた寝所の方だ。
「あやめ!」
鬼童丸は即座に転移の術を行使したのだった。
その頃、あやめは夢の中にいた。
鬼の頭領だという鬼童丸に攫われて、大江山の屋敷に連れて来られた。
けれども、出されたご飯があまりにも美味しくなくて、作り直してしまった。
てっきり鬼に頭からバリバリと食べられるものだと思っていたら、実は鬼童丸の妻として迎えられたことを知り、衝撃を受けてしまった。
色々と聞きたいことはあったけれども、お腹がいっぱいで台盤所で眠くなってしまった。
そうして、鬼童丸に運ばれて、母屋に宛がわれた豪奢な御帳台の中で眠ることになったのだ。
(こんなに素敵な目に遭って良かったのかしら?)
瞼をとろとろと閉じる。
眼裏に、たくさんのおにぎり達が躍っていた。
(何だか幸せ)
鬼童丸が現れたかと思うと、おにぎりを美味しそうに頬張り始める。
(私を食べるはずの鬼の頭領……私の旦那様)
突然、格子にかかる御簾がめくられる音がした。
あやめは、少しだけ目が冴えてしまい、瞼をゆっくりと持ち上げた。
すると、しゅるりと衣擦れの音が聞こえる。
「え?」
完全に目を開けた瞬間、全身に衝撃が走る。
なんと、衾の中に誰かが侵入してくるではないか!
「だ、誰……!? きゃああっ!」
あれだけ眠たかったにもかかわらず、一気に目が冴えてくる。
上体をパッと起こすと、何者かの影が視界に入った。
鬼童丸に比べると、身体つきは細身だが、骨格からして男性のようだ。
「え? え? え? 鬼童丸さんじゃない!」
近くにある灯台が揺れ動いて、相手の顔が炎に照らされる。
「あれ? 顔、橋さんそっくり!?」
なんと、鬼女・橋そっくりの顔立ちの美青年だった。彼女と同じように顔色も驚くほど白く、吊り目がちな瞳は赤く光っている。橋と違うところはといえば、髪が白くて長いことだ。更に言えば、ぼーっとした表情を浮かべている。
「ええっと……」
「ああ、何でこんなところに人間……?」
美青年の指が、あやめの黒髪をひと房掴んだ。
「え!?」
しかも、ちゅっと口づけてくるではないか。
勿論唇ではなく髪だったけれど、あやめにとっては衝撃的だった。
「……それにしても美味しそうな女性だな……」
「え? 美味しそうって、どういうことですか? きゃっ!」
なんと、あやめは初対面の美青年に押し倒されてしまった。
鬼童丸に続き、本日二度目の貞操の危機に、あやめの動揺は激しくなる。
橋によく似た美青年は女性のような見た目をしているが、力がやんわり強くて、やはり男性なのだと確信する。
(とにかくどうにかしなきゃっ!)
ふと、夫になったはずの鬼の頭領の顔が浮かんだ。
(鬼童丸さんは近くにいないの!? せめて気付いてもらえたら!)
美青年の唇が、あやめの唇に触れるか触れないかという時、あやめは思いきり息を吸い込んだ後、大声を上げた。
「鬼童丸さん! 助けてください!!」
その瞬間、ぶわりと風が吹き込んできた。御帳台にかかる帳が巻き上がる。
「きゃっ!!」
あやめと白髪の鬼は衾ごと宙に浮く。
目が開けられないほどの強い風に、彼女の黒く長い髪がゆらゆらと躍った。
(どこかに飛ばされちゃう!)
そう思った瞬間、誰かにギュッと抱きしめられる。
「あやめ!」
「あ……」
黒方の高貴な香りが鼻腔をついてきた。
単衣が薄い生地なこともあるのだろう。相手の硬い胸板と逞しい腕と、相手の指が腕に沈んでくる感覚が伝わってくる。
心臓がはちきれんばかりにドキドキしてしまった。
「あやめ、問題ないか?」
少しだけ低い声が鼓膜を震わせてくる。
あやめはそっと瞼を持ち上げた。
赤みがかった黒髪に角が二本、ぎらつく紅い瞳の美青年の姿が視界に入る。
「はい、鬼童丸さんが来てくださったので!」
鬼童丸はあやめが無事な様子を確認すると、まだ宙に浮いている白髪の鬼に向かって叫んだ。
「俺と嫁の大事な寝所に侵入してくる不貞の輩は、てめえか、茨木!」
鬼童丸からものすごい剣幕で名前を呼ばれた美青年は、風で飛ばされそうになっているにもかかわらず、ぼんやりと返事した。
「……嫁? 誰の?」
「俺のだよ。ったく、相変わらず寝起きが弱いんだな。寝惚けてんのか?」
すると、茨木と呼ばれた鬼は寝ぼけ眼のまま答えた。
「だって、頭領、人間嫌いじゃないですか? なのに、本当に人間の女と結婚したの……?」
「ああ、同じ人間だが、あやめは別の女達とは違うんだ。定期的に金を渡すなり、脅すなりして喰うだけの関係になるぐらいなら、どうせなら嫁にって思ったんだよ」
「どうせなら」という言葉を聞いて、あやめの胸がちょっとだけズキンとした。
あやめに向かって鬼童丸が美青年鬼の紹介をする。
「一応、親父の元部下の茨木童子だ」
ふわふわと茨木童子は地面に着地する。
まだぼんやりした表情で、彼はあやめに向かって手を差し出した。
「あやめさん、茨木童子です、よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ……」
あやめは茨木童子と握手を交わそうとしたのだが……
「ダメだ!」
「きゃっ」
鬼童丸が唐突に割り込んできて、あやめの手首を掴んでくると同時に、ハッとした表情を浮かべた。
「あ、悪い、強く握り過ぎた」
「いいえ、あの……」
鬼童丸が握ってくる手首が異様に熱くてドキドキして落ち着かなくなってくる。
「とにかく他の鬼達との握手はダメだ。これから先もずっとな」
「え? でも、そうなると困る場面もあるような?」
「……もう、いい。御帳台が少し壊れているから、別の場所に行くぞ」
「え? きゃっ!」
あやめは鬼童丸に強引に抱きかかえられた。台盤所から連れて来られた時と同様、横抱きにされてしまっている。
(この抱えられ方は、鬼童丸さんの顔が近くて落ち着かないのよね)
あやめの頬にさっと朱が差す。
ちょうど視線を逸らすと、茨木童子と視線が合ったため、微笑み返すことにする。
「茨木さん、これからもどうぞよろしくお願いします」
「はい、こちらこそ……」
すると、またもや鬼童丸が会話に割って入ってくる。
「挨拶は後にしろ。いいから行くぞ」
そうして、鬼童丸とあやめの二人は、中庭へと向かったのだった。
鬼童丸にあやめが抱きかかえられて来たのは、東の対だった。
内部の空間は三層に分かれており、中心部分にあたる母屋を覆うように庇があり、それぞれの柱の間には、青竹で編んだ御簾が懸けられている。御簾の上部には帽額と呼ばれる横幅の布が付いているが、上品な胡蝶と窠(鳥の巣)の文様が摺り出されている。
今は誰も使っていない場所らしいのだが、埃っぽさや黴っぽさはなく、清潔に整えられていた。
ほのかに古風な樹の香りが漂っていて、暗くてひんやりしている。
近くに滝があるのだろう。ざあざあと水が流れゆく音と、岩に打ちつける音が協和音を奏でていた。
御簾を潜り抜け、几帳の先、畳しか敷かれていない場所へと進む。
そうして、鬼童丸が畳の上にあやめの身体をそっと横たえた。
「一応、これから先のお前の部屋でもある」
「私の部屋は別にあるのですね、ありがとうございます」
あやめは内心ほっとしていた。
(てっきり夫婦になったものだから、寝殿で一緒に寝るのだと思っていたけれど、勘違いだったのね)
鬼童丸は畳の上にどかりと座り込むと胡坐をかいた。
「さて、今日はここで一緒に寝るぞ」
「一緒に寝るんですか!?」
あやめは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ああ。一応夫婦になったんだから、当然だろう?」
「当然!?」
鬼童丸は呆れたような表情を浮かべている。
「俺は、おかしなこと言っているか? 一応、人間の貴族達の間では、親同士が決める結婚だろうと、恋愛関係から成立する結婚だろうと、三日間は床を共にする習わしだろうが」
「ええっと、それは人間の風習でして、鬼もそうなのでしょうか?」
「鬼の風習とは違うが、一応お前は人間なんだから、合わせてるんだよ」
「合わせていただき嬉しくはあるのですが、あまりに急展開で、心の準備が……」
「お前がさっきまでぐうすか寝てたから手は出さなかったが、今は起きてるから、ちょうど良い」
鬼童丸の節くれだった指が、あやめの額にかかっていた黒髪を払った後、彼女の顎を掴んでくる。
「あ……」
美しく整った顔がゆっくりと近づいてくるなり、あやめは唇を噛みしめると同時にギュッと縮こまった。
「そもそも、貴方のことをよく存じておりません!」
「俺もお前のことを知らねえよ。だが、人間だろうが鬼だろうが、男女の関係なんて、そんなもんだろう? 和歌で口説くのがうまいからとか、ちらっと垣間見たら好みの色白だったとか。人間の結婚なんて、そんなくだらないものばかりだ」
鬼童丸が伏し目がちになると、紅玉の瞳に睫毛がかかって濃い影ができる。少しだけ醒めた口調のまま続けた。
「別に相手のことなんざ、知らなくても問題ねぇ。ついでに言えば、そもそも俺は親父が攫った女にできた子どもだった。俺も親父と一緒で、お前を攫ってきた。鬼と人間の結婚なら、なおのことそんなもんで……」
「それだけじゃないと思うんです!」
あやめは抗議していた。
「鬼だったとしても人間だったとしても、心を通じ合わせてからの方が、何をやるにも絶対幸せだと思うんです!」
「ああ? 何をやるにもって何がだよ? 抽象的な話はやめろよ」
聞く耳持たないといった調子の鬼童丸に対して、あやめは懸命に伝えた。
「さっきのおにぎりも一緒です。誰かと一緒に何かをやるのは素敵なことです。知らない人とでも何かをやるのは素敵だけど、せっかくなら心が通じ合った状態の方が、絶対にもっともっと幸せなんです!」
鬼童丸はあやめの言い分を黙って聞いていた。
「確かに鬼童丸さんは人攫いの鬼です! だけど、せっかく結婚するなら、ちゃんと貴方のことを知っていきたいんです!」
鬼童丸は、ハッと短く息を吐いた。
「綺麗ごとだな」
紅い瞳が燃え盛る焔のように揺らいでいる。
ゾクリ。
あやめの背筋を恐怖が這った。
(出会ってまだ一日足らずだけど、おにぎりを美味しそうに食べてくれたから、勝手に悪い人じゃないって決めつけていたかもしれない)
やはり相手は鬼。簡単には気を許してはいけないのだ。
けれども、想像とは違う答えが相手から返ってくる。
「鬼の頭領っていう権力や、人間離れした美貌をちらつかせりゃあ、わりと喜ぶ女も多いんだがな」
「え?」
「だが、お前が普通の女とは違う考えの持ち主なんだってのは、この一日でようく分かったよ」
ふわり。
鬼童丸の瞳が、まるで春に咲く紅梅のように和らいだ。
「……あ」
(鬼だけど、ちゃんと分かってくれた!)
あやめの胸の内に、一足早く春が来たかのような心地になる。
「とはいえだ……」
「とはいえ?」
せっかく色々と心を通わせてから、真の夫婦になれるものだと期待したというのに、まだ何かあるのだろうか?
鬼童丸が前髪をくしゃりとかきあげながら、少しだけ苦しそうに息を吐いた。
「そういう形式にこだわってやる暇がねえんだよ。時間があれば、お前の言うこと聞いてやっても良かったがな」
「それは、どういうことでしょう?」
二人の間にしばし沈黙が訪れる。
彼の睫毛が一瞬だけ震えた。唇を引き結んだ後、ゆっくりと口を開く。
「さっさと俺の嫁になれ」
その答えを聞いて、あやめはキョトンと首を傾げた。
「もうなってしまったのでは?」
「そうじゃない。心身どちらもって意味だ」
「心身どちらも……?」
あやめは、そこまで口にすると、意味が分かってしまった。
「そ、そ、それこそ、ちゃんと気持ちが通じ合ってからが大事で……」
すっかり落ち着かなくなってしまい、忙しなく髪を触ってしまう。全身が炙られたかのように熱い。
すると、鬼童丸が遠い目のまま続けた。
「さっき、茨木が寝所に侵入してきたみたいなことが、また起きちまうぞ。別にあいつは単純に寝惚けただけじゃあねぇ。人間の生娘の匂いに無意識に惹かれてきたんだよ」
「え……!?」
匂いと言われ、あやめは、自身の身体をくんくんと嗅いでしまった。
「ちゃんと湯に浸かりましたし、もう土臭くはないと思うのですが?」
「土臭いのが気になったのとは別の話だ。鬼にしか分からない類の匂いだ」
「人間が嗅ぐ匂いではない、と?」
「ああ。お前が放つ香りが、鬼にとっては極上の香りなんだよ。そもそも、この屋敷には結界を張ってある。だから、茨木ぐらい力が強くねぇと侵入はできないがな。優しい鬼ばっかりじゃねえ。俺がさっさと手を付けて、『頭領の嫁』だって、はっきりさせておいた方が良い」
「どうしても、今すぐに?」
あやめの声が少しだけ震えた。
「もしかしたら、ちったあ待ってはくれるかもしれないが、念には念を入れておいた方が良い。お前だって、知らねぇ鬼に好き放題されたくないだろう?」
鬼童丸が向けてくる視線は、あやめのことを心配しているものだった。
(せっかく鬼童丸さんとなら、少しずつ歩み寄っていけたかもしれないのに……)
あやめの嬉しくてはちきれんばかりだった気持ちが、しゅんと萎んでいってしまう。
「そうですか。だったら、怖いけど、もう覚悟を決めるしかないですね。ちゃんと生き延びて、お母様の供養はしたいですもの」
すると、鬼童丸がさっそく直衣をくつろげ始めた。
「物分かりの良い女で悪くねぇな」
「あ……」
彼の逞しい腕が、彼女の腰に回されたかと思うと、引き寄せられる。
ぐっと距離が近づいて、上半身同士が密着しあって、相手の体温が伝わってきた。
(二人とも単衣姿になったせいか、直に触れ合っているみたい)
少しでも顔を動かしたら、鼻先どころか唇までぶつかりそうなぐらい至近距離だ。
熱を孕んだ眼差しに穿たれる。
あやめの心臓はバクバクと音を立てており、このまま破裂しそうだ。
(私はこのまま鬼童丸さんと心を通わせる前に身体だけ夫婦関係にならないといけない。だけど、他の鬼達に喰われるぐらいなら、鬼童丸さんと関係を持つ方が当然よくって……)
自分自身に言い聞かせようとしたけれど、身体が勝手にカタカタ震え始める。
(だけど、やっぱり怖い!)
あやめが瞼をギュッと瞑った、その時――
バサリ。
「きゃっ」
あやめの頭の上を何かが覆ったと思えば、鬼童丸が纏っていた紫色の直衣だった。
「あ、あの……これはいったい?」
「さんざん脅したわけだが、お前の旦那はこの俺だ」
「ええっと、はい、そうですね」
つまり、どういうことだろうか?
「俺の女にわざわざ手をつけて、俺に嫌われたい鬼はいねえ。だから、今晩は手をつけない」
「ええっ、だってさっきは鬼達が匂いに引き寄せられるって!」
すると、鬼童丸が唇の端をニヤリと吊り上げた。
「待ってやるってことだよ」
「……っ!?」
「本当はさっさと嫁にしたいところだが、お前に嫌われたら、旨い飯を食いっぱぐれそうだしな。まあ、仕方ねえ」
「仕方ないのですか?」
「ああ、まあな。そもそも十五年近く探し続けたんだ。今更数日位は待てる。とはいえ、鬼達に格好はつかねえし、心身ともに俺のものになったって思わせた方が何かと得だ。だから、とりあえず、床を共にしたふりはしておく。それで良いか?」
鬼童丸が言いたい意味がじわじわと分かってくる。
それに、彼の不器用な優しさのことも。
「はい! ありがとうございます!」
「よし、じゃあ寝ろ」
あやめが畳の上に横たわると、鬼童丸が羽織っていた直衣を衾にすることにした。
そうして、近くに座った鬼童丸から、あやめは肩をトントン叩かれながら、幸せな気持ちで眠りについたのだった。
翌朝、あやめは朝の眩しさで目を覚ました。
「もう朝なの?」
何だか身体がぽかぽか温かい。
(そうだ、鬼童丸さんが掛けてくれた衾の中だからね)
それにしたって、なんとなく身体が窮屈な気がするのだが、気のせいだろうか?
「んん?」
あやめは真ん丸の瞳をぱっちりと開ける。
「……!」
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