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1巻
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序 姫、鬼のことは知らず
京の都で人間と鬼との争いが水面下で繰り広げられており、人々が怪異に悩まされることも少なくなかった時代のこと。
十五年近く前、鬼の頭領である酒呑童子と武将・源頼光が熾烈な争いを繰り広げ、人間側の勝利に終わった。
以降、鬼達は沈黙した。
鬼との戦いを終えた人間達だったが、権力者である藤原氏は、氏族内で苛烈な長者争いを続けていた。
そんな中、大半の貴族や庶民達は束の間の平和を享受していた――はずだった。
だが、実際にはまだ鬼達は裏で暗躍を続けていたのだった。
第一話 姫、鬼に攫われる
分厚い灰色の雲が空の上を覆う。ちらちらと雪が降り始め、咲き立ての椿の花の上に積もり出した頃のこと。
とあるうらびれた邸宅では、一人の姫が、御簾どころか格子の外へと出て、畑の前で作物の様子を観察していた。
「雪で枯れちゃうかしら? ごめんね、育ててあげられなくて」
庭にむせ返るような土の香りが溢れる。
腰まで届く射干玉色の髪の持ち主の名前は、あやめ姫。
雪に負けないぐらい白い陶器のような肌。けぶるような黒い睫毛に覆われている可憐な瞳。瞳孔は漆黒だったが、虹彩は猫のように金色に輝いている。腰まで届く長い髪が、冬の冷たい風になびいた。
愛くるしい顔立ちの彼女の桜色の唇がゆっくりと開くと、凍てつくような寒さでかじかむ指先に息を吹きかける。その姿は、まるで小動物のように愛らしかった。
姫だと言うのに小袿姿ではなく、庶民が纏う小袖を纏い、褶を腰布で巻き付けている。
一応、母の形見の単衣もあるが、古くなりすぎていて、つぎはぎだらけだった。
「お母様がいなくなって、ついに最後の従者女房もいなくなってしまった。今日の昼には、私も尼寺に出家ね」
大納言の娘だった母は、誰とも婚姻関係にはならず、あやめを産んだ。
相手の男が誰かは分からず、母は祖父にも祖母にも口を割らなかった。
政治的価値を見出せなくなったのか、祖父の足は自然と遠のき、祖母も亡くなり、どんどん屋敷は荒廃していった。
母は父を一途に想っていたようで、誰とも結婚しなかった。
そのため、誰からも援助のない状態での母子暮らしが続いた。
『あやめ、ごめんね。私のわがままで、貴方にまでこんな暮らしを強いてしまって……』
娘のために、母は別の男性との結婚を考えた時期もあったようだった。けれども、幼いあやめは母の気持ちをないがしろにはしたくなかった。
『お母様、お父様が好きなのでしょう? だったら、無理に他の男性と結婚しなくて大丈夫です! あやめは貧乏でも大丈夫ですから!』
結果、あやめは姫だったが、貧乏暮らしが板についてしまい、自ら台盤所に立って手料理を振る舞ったり、裁縫に取り組んだりした。
貧乏だけれど、母に愛されて幸せな日々を送っていたのだ。
けれども、母は昨年肺を患って儚くなってしまった。
想像よりも早く息を引き取ったからか、遺書なども残ってはおらず、結局のところ父親が誰かは分からずじまいのままだ。
あやめの年は十七頃。もう裳着はとっくの昔に終え、いつでも結婚して良い年頃だったが、夫を迎えるだけの財力を持ち合わせてはいなかった。
「貧乏だからと、花を売るよりも良い待遇だと思うほかないかしら……」
身売りをする女性も少なくない昨今、尼になれるだけでも幸運なことなのだろう。
「お母様と一緒に育てた野菜達。ごめんね、もうお別れね。それだけがちょっと気がかりだわ」
寒空の下、物思いに耽っていると、ふっと頭上に影が差す。
「見つけた」
突然、男の声が聞こえた。
「何者なの……!?」
もう、彼女以外は誰もいない屋敷だ。
あやめは不審に思い、声の主の名を問いただした。
外に出るのは迂闊だったかもしれない。
垣の向こうから誰かに覗かれている危険性があったというのに……
賊か何かが現れたのかもしれないと、あやめは身構える。
「俺がずっと探していたのは、お前だ」
官能的な声音を耳が拾う。
ぞくぞくとした感覚が背筋を這い上がってくる。
「誰……?」
あやめが見上げると、そこには長身痩躯の美青年が佇んでいた。
サラサラと風になびく赤みがかった黒髪に、同じく弓なりの美しい眉。切れ長の瞳。すっと通った鼻梁に、薄くて整った唇。
この世の者とは思えない美貌の持ち主だ。
彼女の頭二つ分ほど身長が高く、細身に見えるが程良く筋がついてがっちりしていた。
束帯姿の彼は、禁色であるはずの紫色の袍を纏っていた。脇には金の豪奢な飾りが施された太刀が吊り下げられている。
(武官貴族? だけど、どうして私の邸宅に現れたの? 近くに馬も牛車もいないようだし)
女性ならば誰もが見惚れてしまいそうな色香を放つ相手に対し、思わず目がくらんでしまいそうになる。
同時に、恐怖で背筋がぞくりと震えた。
「間違いない、お前だ。ずっと探してたんだよ。頼光の奴、よけいな術をかけやがって。黄金の瞳だなんて珍しい女、すぐに探せると思ってたのに、十数年かかったじゃねぇか」
男の声音には、どことなく不機嫌さが滲む。
話し口調もどことなく乱暴な物言いだ。
「あの、貴方は? ……っ」
問いかけながら、ひゅっと息を飲んでしまった。
自分も人のことは言えないが、相手に人ならざる特徴を見つけてしまったのだ。
(何?)
見間違いかと、何度か目を擦ってみたが、どうやら現実らしい。
じわじわと恐怖に近い感情が背中を這いずってきた。
(まさか……)
もう一度、相手の頭に目をやる。
そう、常人とは違うもの――角が頭部に二本生えていたのだ。
彼の瞳が、血のような深紅に染まる。
「見て分からねぇのか。鬼だよ、鬼」
やれやれと言った調子で返される。
「鬼? だって、貴方は人間の見た目をしていて……」
「そりゃあ、母親が人間だからな。確かに普通の鬼達は、もっと肌の色から奇抜だもんな」
あやめは思わず自身の手をギュッと握りしめ、祈りの形へと変える。
(半分鬼で半分が人間、そんな人がこの世に存在するなんて)
すると、彼の唇の端がゆるりと吊り上がる。
「そういえば、名前を教えてなかったな? 俺の名前は鬼童丸。俺のことは知らねぇかもしれないが、俺の父親のことは知ってるかもしれねぇな。酒呑童子って聞いたことあるだろう?」
――鬼。
――酒呑童子。
――鬼童丸。
京の都から見て北西にある大江山には、数十年前から酒呑童子と呼ばれる悪鬼が住んでいたという。鬼の中でも最強の強さを誇ると噂されており、悪事の限りを尽くす彼は、見かねた武将・源頼光の手によって十五年近く前に調伏された。
この戦いはとても凄惨なものだったという。
こうして、酒呑童子の息子である鬼童丸といえば、父に次ぐ強大な力の持ち主だと人々の間で恐れられていた。
(つまり、今の鬼達の中では一番強いはず)
ちなみに、武将・源頼光は当時失踪したと伝わっている。
この十年ほど、鬼達は派手な動きを制止していたという話だったのに……
「さあて、話は後だ。行くぞ」
すると、姫の手首をぐいっと鬼が掴んできた。
「待って、行くってどこに!?」
「そりゃあ、俺の住む屋敷だよ。大江山に居を構えている。ここより綺麗な良い場所だよ」
「どうして!?」
「どうしても何も、頼光の馬鹿が俺におかしな呪いをかけてきたせいで、お前を喰わねぇと生きていけねぇ体質にさせられたんだよ」
――喰う。
恐るべき単語が相手から飛び出してきた。
「私を喰う? どうして私が?」
声が震えた。
まさか、鬼に喰われないといけないなんて……
「何でわざわざお前なのかまでは知らねぇよ。だけど、猫みたいな不思議な瞳を持った女は、国中探してもお前しか見つからなかった。それに……」
彼が続ける。
「確かに、旨そうだ。やたらと血が騒ぐ」
舌舐めずりする相手の様子を見て、あやめの身の内にいよいよ恐怖が襲ってきた。
あげく、打ちつける波のような怒涛の展開に頭がついていけそうにない。
「説明は済んだな。ほら、さっさと行くぞ。お前は俺に喰われる宿命なんだよ。さっさと諦めろ」
「きゃっ!」
強引に手を掴まれて、あやめはハッと正気を取り戻す。
このまま恐怖に震えていても、相手に喰われるだけだ。
身売りしなくて良かったとは思ったが、鬼に頭からバリバリ食べられて死ぬのは嫌だった。
それ以上に……
「待ってください!」
「ああ? てめぇもたいがいしつこいな」
相手の言い方は怖かった。
だけど、ここで命を相手に簡単に手渡したくはなかった。
「もしここで私が死んじゃったら、死んだお母様が一人になってしまいます!」
「見たところ、お前一人しかいねぇだろうが? 母親なんてどこにも……」
「だからこそです!」
「は?」
「亡くなったからこそ、私が死ぬわけにはいかないのです。私まで死んだら、お母様のことを覚えている人が一人もいなくなってしまいます。宿命なんて知りません。私にとっては一番大事なことなのです!」
鬼童丸が目を見張った。
血のように紅い瞳が、寂しげな夕焼けの空のように揺らめいた。
「お母様の弔いをしてあげられるのは、もう私しかいない。皆いなくなってしまいました。だから、出家して、極楽浄土で幸せになれるよう祈願して、何よりも私が生きて忘れないでいてあげたいのです」
あやめは、鬼に向かって凜とした態度で告げる。
「お前は……」
鬼童丸が眉を顰めると、何か言いかけたまま口を噤んだ。
あやめが話を継ぐ。
「それに……」
「何だ?」
「私は骨と筋ばっかりで、食べても美味しくありませんから!!」
泣く子も黙る強面のはずの鬼童丸は、キョトンとしていた。
「ああ? お前は阿呆か? 俺は他の鬼達と違って……」
「煮ても焼いても、蒸しても、あえても美味しくありませんから!」
「蒸してもとあえてもは、あんまり聞かねぇな」
「漬け込んだら、意外と美味しいかもしれませんけど、とにかく、私はここで死ぬわけにはいきません」
「は……」
その時、鬼童丸がくつくつと笑い始めた。
「な、何で笑ってるんですか?」
声を上げて笑う相手の様子を見て、あやめは呆気に取られてしまう。
「意外と退屈しなさそうだって思ってな」
「退屈しなさそう、ですか?」
「ああ。それにだ、そもそも俺の場合は、別に人間を物理的には喰わなくても良くってだな」
「え?」
物理的に喰う以外にどんな方法があるのだろうか?
「まあいい」
すると、鬼童丸はあやめの顎を掴んで上向かせた。
「確かにお前の言う通り漬け込んでから、喰わせてもらっても悪くはなさそうだな」
「え? え? って、きゃっ……!」
漬物よろしく漬け込まれるのかと動揺していたら、あやめの視界が反転した。
「これ以上説明するのは、かったりぃ。ほら、とりあえず行くぞ」
「ひゃっ!」
突然横抱きにされた。
「ちょっとお尻触らないでください!」
「触ってねえよ! 人聞きの悪いことを叫ぶな! ほら、飛ぶから、黙って目を閉じてろよ」
彼の足元から風が吹きすさぶ。
「何!? 何が起こって……!」
風は周囲の雪を巻き込んで渦巻きはじめ、あやめと鬼童丸の身体の周囲を取り囲む。
「ちゃんと目を瞑ってな!」
あまりの風圧に目を開けられないでいる内に、二人して眩い光に包みこまれる。
かくして――あやめはそれまで住んでいた世界から、唐突に違う世界に飛び込むことになってしまったのだった。
第二話 姫、鬼に喰われる
「ほら、大江山についたぞ」
吹きすさぶ風の音が止んだかと思うと、鬼童丸の低い声が耳に入る。
(え? 都からかなり離れた距離の大江山に、こんな一瞬で?)
あやめが恐る恐る目を開けると、辺り一面は煙のようなものに覆われて真っ白だった。周囲はどことなく薄暗い。
カランと石が落ちる音が聞こえて、どうやらどこかの崖の上だということが分かる。
その時、揺らめく雲の合間で影が蠢く。
(何?)
視界いっぱいに影がひしめいた。ざわざわとした気配を感じる。
もくもくとした雲の向こうに、頭に角の生えた鬼達がびっしりと控えていたのだ。
(すごい数)
崖が崩れてしまうのではないかと心配になるほどの鬼の数だった。皆一様に、鬼童丸に向かって頭を下げている。
「おい、お前ら、出迎えはいい。この女が怯えるだろうが? ちゃんと持ち場に戻れ」
鬼童丸の命令を聞くと、影は一斉に飛び退っていった。
「俺の部下達が驚かせて悪かったな」
「いいえ、滅相もございません」
「山の上で、雲が降りてきてるから視界が悪いだろう? すぐに屋敷に着くから」
鬼童丸に抱えられたまま、先へと向かう。
足元でじゃりじゃりと草履が雪や石を踏みしだく音が周囲に響き渡った。
靄の中を抜けると、崖のような場所へと降り立つ。
どうやら雲よりも上にある場所に来てしまったようだ。
(こんな高い場所から落ちたら死んでしまいそう)
あやめは子猫のように身体をぶるりと震わせた。
すると、ちょうど靄が晴れて崖の下が視界に映る。
「わあ……!」
あやめは、鬼の腕の中にいることも忘れて、感嘆の声を上げてしまった。
眼下には広大な雪景色が広がっていた。
冬でなければ、段々畑や田園が広がっているに違いない。
雪の中、藁ぶき屋根の建物が点々と並んでいる。
家と家の間を結ぶ通路は雪が解けている場所があり、ところどころ土が露出している。道の端にはぽつぽつと椿の花が咲いていて、まるで自然の灯篭のようだ。更に、道の脇を雪解け水が下流に向かって、ざあざあと音を立てながら流れていっていた。
ただし、昼間だというのに人気がない……というか鬼の気配が全くなかった。
(寒いから? それとも、鬼は人間とは違って夜行性なの?)
獣の息吹も感じず、なんとなく恐ろしいというか、寂しい印象を受けてしまう。
だがその恐怖を超越するほどの自然の美しさに圧倒される。
「すごい、こんな場所がこの国にあるなんて……」
「鬼の集落を見て驚いてるんなら、屋敷を見たら倒れちまうぞ。さて、こっちだ」
そうして、あやめを抱き抱えたままの鬼童丸は崖を引き返すと、坂道を更に上へと登り始める。わりと急な坂だが、あやめを抱えたままでも疲れないようだ。
「あのう、どこまで登るのでしょうか?」
「意外とせっかちな女だな。ほら、もう見えてきたぞ」
どうやら山の頂上付近に辿り着いたようだ。
だが、何もない場所にしか見えない。
(どういうことなの?)
すると、鬼童丸が何やら呪いを唱え始める。
「ほらよ」
口上が終わると空間がぐにゃりと歪んで、眩暈に襲われたような感覚に陥る。
次の瞬間、あやめの目の前に、巨大な木造の建築物が出現した。
檜皮葺の屋根が隆線を描いており、柱芯にはしっかりとした太い樹が用いられているのが分かった。昼間だというのに、半蔀が全て閉まっている。
「これはいったい……」
「普段は人間に見つからないように、呪術で隠してるんだよ」
どうやら貴族の邸宅と同様に寝殿造りの屋敷のようだ。都にある邸宅達とは違って、屋敷に向かう道には炎を宿す灯篭が等間隔に立ち並んでおり、建物の軒先には煌びやかな提灯が吊り下げられていた。
どことなく薄暗いものの、炎のおかげか全体的に明るい色合いをしていて、とても幻想的な風景だった。
鬼童丸に抱きかかえられたまま、池に設けられた橋から中島を通った先、釣殿を渡る。
「お前の邸宅よりも広いだろう?」
途中、鬼童丸がおもむろに声をかけてきた。
なんとなく、子どもが自分の所持する毬や双六を自慢している時のような表情だ。
「はい、そうですね。だけど、そのう……」
「何だ?」
あやめは鬼童丸を見上げると、純粋に沸いてきた疑問を口にした。
「貴方は、私のことを食べるんですよね?」
「ああ」
「食べるのだったら、わざわざこんなところに連れて来ずとも、私の邸宅で食べればよかったのでは?」
「お前、あれだけ喰われるのを嫌がってたくせに、何を今更な発言してるんだよ」
鬼童丸がこれみよがしにため息をついた。
「まあ、泥のついた野菜も洗うだろ? だから、お前をまずは綺麗にしてからだ」
「なるほど……?」
納得がいくような、いかないような……
(まあ、確かに泥のついたままの根菜類をかじろうとは思わないものね)
すると、鬼童丸が思いがけない発言を口にする。
「だから、俺が手ずから湯殿に連れて行って、服を脱がせてやるよ」
あやめの胸中に衝撃が走る。
(今、この人は何て言ったの……?)
「ちょっと離してください、一人で脱げますから!」
「今しがた理由は教えたじゃねえか。お前を綺麗にするんだよ。自分で洗ったり、準備の段階から色々やった方が、仕上がった時の喜びもひとしおだろう?」
「そんなの聞いてない、きゃっ……!」
突如、あやめの腰紐を鬼童丸がしゅるしゅると解き始めたではないか。
「な、な、な、何するんですか? ちょっと、やめてっ」
貞操の危機を感じて、あやめの口から怯えた声が漏れ出る。
「ああ、良いから黙って俺の言うこと聞いておけよ」
「さすがに、ちょっとそれは……!」
「お前、貴族の邸宅にいたんだから、一応姫のはずだよな?」
「そ、そうですけど!」
「そのわりには泥臭い」
「え?」
小袖を脱がされながら、あやめはぽかんと口を開いた。
「もっとこう、都には着飾った女達が多かった気がするんだがな。お前は、なんとなくみすぼらしい。大江山に連れてくることで頭がいっぱいいっぱいになっちまって、よく見てなかった」
相手にみすぼらしいと言われてしまい、あやめの顔が羞恥で真っ赤になってしまう。
「それは、貧しかったからで……やあっ……」
あれよあれよという間に、単衣姿にされてしまった。
(裸同然の格好にされてしまったわ!)
このご時世、こんな格好は心を許した夫婦でしかありえない。
あやめは両腕で胸を隠して必死に抗議の姿勢を示す。
「いくら今から貴方に食べられるんだとしても、さすがに殿方の前でこんな格好にされるのは……!」
「服着たままじゃあ、喰いづらいだろうが」
確かに服を着たまま喰ったら、鬼といえども消化するのが大変そうである。
そうではなく、一応あやめだって女性なわけだから、良からぬことをされてからバリバリ喰われてしまうのだろうか?
(それぐらいなら、何もされずに食べられた方がマシよ……!)
すると、鬼童丸の大きな手がぬっと伸びてくる。
「きゃっ……!」
びくつく彼女の姿を見て、彼がはあっとため息をついた。
「色気のねぇガキに手を出すほど、俺も暇じゃねぇんだよ」
そうして、あやめは首根っこを掴まれたかと思うと、ひょいっとそのまま浴槽へと放り投げられた。
「とにかく、女のわりには土臭いからさっさと泥を落とせ。せっかくの甘い香りが台無しだぞ。女房達には言っておくから」
「つ、土臭いって……それに、甘い香り……? あっ……ちょっと……!」
湯殿の板扉がピシャリと閉められたかと思うと、彼は姿を消した。
あやめの胸の内には、勝手に色々と勘違いした気恥ずかしさが残る。
単衣姿にされたまま、広い湯殿の中で一人ぽつんと佇んでいると、扉の向こう側から声がかかった。
「もし、失礼致します、あやめ姫」
すると、艶々とした黒髪に不健康そうな白い肌、吊り目がちな紅い瞳の持ち主の女性が現れた。頭の上には二本の角が生えており、どうやら鬼の女性のようだ。赤みの強い葡萄染め色の単衣を纏っている。
相手は鬼童丸の屋敷に仕えている女房だろうか。
(キリリと氷のような冷たい雰囲気の女性ね。人間の女性に見えるけれど、油断したらダメ)
あやめが緊張した面持ちのまま身構えていると、すいっと接近してきた女性から、ぱっと手を取られた。
「あらあらあらあら……」
しかも、女性はキラキラと瞳を輝かせながら、うっとりとした声音で語りかけてくるではないか。
「鬼童丸様に伺っていた通り、幼さの残る愛らしい姫様ですわね!!」
「え?」
あやめは、相手の想定外の反応に困惑してしまう。
京の都で人間と鬼との争いが水面下で繰り広げられており、人々が怪異に悩まされることも少なくなかった時代のこと。
十五年近く前、鬼の頭領である酒呑童子と武将・源頼光が熾烈な争いを繰り広げ、人間側の勝利に終わった。
以降、鬼達は沈黙した。
鬼との戦いを終えた人間達だったが、権力者である藤原氏は、氏族内で苛烈な長者争いを続けていた。
そんな中、大半の貴族や庶民達は束の間の平和を享受していた――はずだった。
だが、実際にはまだ鬼達は裏で暗躍を続けていたのだった。
第一話 姫、鬼に攫われる
分厚い灰色の雲が空の上を覆う。ちらちらと雪が降り始め、咲き立ての椿の花の上に積もり出した頃のこと。
とあるうらびれた邸宅では、一人の姫が、御簾どころか格子の外へと出て、畑の前で作物の様子を観察していた。
「雪で枯れちゃうかしら? ごめんね、育ててあげられなくて」
庭にむせ返るような土の香りが溢れる。
腰まで届く射干玉色の髪の持ち主の名前は、あやめ姫。
雪に負けないぐらい白い陶器のような肌。けぶるような黒い睫毛に覆われている可憐な瞳。瞳孔は漆黒だったが、虹彩は猫のように金色に輝いている。腰まで届く長い髪が、冬の冷たい風になびいた。
愛くるしい顔立ちの彼女の桜色の唇がゆっくりと開くと、凍てつくような寒さでかじかむ指先に息を吹きかける。その姿は、まるで小動物のように愛らしかった。
姫だと言うのに小袿姿ではなく、庶民が纏う小袖を纏い、褶を腰布で巻き付けている。
一応、母の形見の単衣もあるが、古くなりすぎていて、つぎはぎだらけだった。
「お母様がいなくなって、ついに最後の従者女房もいなくなってしまった。今日の昼には、私も尼寺に出家ね」
大納言の娘だった母は、誰とも婚姻関係にはならず、あやめを産んだ。
相手の男が誰かは分からず、母は祖父にも祖母にも口を割らなかった。
政治的価値を見出せなくなったのか、祖父の足は自然と遠のき、祖母も亡くなり、どんどん屋敷は荒廃していった。
母は父を一途に想っていたようで、誰とも結婚しなかった。
そのため、誰からも援助のない状態での母子暮らしが続いた。
『あやめ、ごめんね。私のわがままで、貴方にまでこんな暮らしを強いてしまって……』
娘のために、母は別の男性との結婚を考えた時期もあったようだった。けれども、幼いあやめは母の気持ちをないがしろにはしたくなかった。
『お母様、お父様が好きなのでしょう? だったら、無理に他の男性と結婚しなくて大丈夫です! あやめは貧乏でも大丈夫ですから!』
結果、あやめは姫だったが、貧乏暮らしが板についてしまい、自ら台盤所に立って手料理を振る舞ったり、裁縫に取り組んだりした。
貧乏だけれど、母に愛されて幸せな日々を送っていたのだ。
けれども、母は昨年肺を患って儚くなってしまった。
想像よりも早く息を引き取ったからか、遺書なども残ってはおらず、結局のところ父親が誰かは分からずじまいのままだ。
あやめの年は十七頃。もう裳着はとっくの昔に終え、いつでも結婚して良い年頃だったが、夫を迎えるだけの財力を持ち合わせてはいなかった。
「貧乏だからと、花を売るよりも良い待遇だと思うほかないかしら……」
身売りをする女性も少なくない昨今、尼になれるだけでも幸運なことなのだろう。
「お母様と一緒に育てた野菜達。ごめんね、もうお別れね。それだけがちょっと気がかりだわ」
寒空の下、物思いに耽っていると、ふっと頭上に影が差す。
「見つけた」
突然、男の声が聞こえた。
「何者なの……!?」
もう、彼女以外は誰もいない屋敷だ。
あやめは不審に思い、声の主の名を問いただした。
外に出るのは迂闊だったかもしれない。
垣の向こうから誰かに覗かれている危険性があったというのに……
賊か何かが現れたのかもしれないと、あやめは身構える。
「俺がずっと探していたのは、お前だ」
官能的な声音を耳が拾う。
ぞくぞくとした感覚が背筋を這い上がってくる。
「誰……?」
あやめが見上げると、そこには長身痩躯の美青年が佇んでいた。
サラサラと風になびく赤みがかった黒髪に、同じく弓なりの美しい眉。切れ長の瞳。すっと通った鼻梁に、薄くて整った唇。
この世の者とは思えない美貌の持ち主だ。
彼女の頭二つ分ほど身長が高く、細身に見えるが程良く筋がついてがっちりしていた。
束帯姿の彼は、禁色であるはずの紫色の袍を纏っていた。脇には金の豪奢な飾りが施された太刀が吊り下げられている。
(武官貴族? だけど、どうして私の邸宅に現れたの? 近くに馬も牛車もいないようだし)
女性ならば誰もが見惚れてしまいそうな色香を放つ相手に対し、思わず目がくらんでしまいそうになる。
同時に、恐怖で背筋がぞくりと震えた。
「間違いない、お前だ。ずっと探してたんだよ。頼光の奴、よけいな術をかけやがって。黄金の瞳だなんて珍しい女、すぐに探せると思ってたのに、十数年かかったじゃねぇか」
男の声音には、どことなく不機嫌さが滲む。
話し口調もどことなく乱暴な物言いだ。
「あの、貴方は? ……っ」
問いかけながら、ひゅっと息を飲んでしまった。
自分も人のことは言えないが、相手に人ならざる特徴を見つけてしまったのだ。
(何?)
見間違いかと、何度か目を擦ってみたが、どうやら現実らしい。
じわじわと恐怖に近い感情が背中を這いずってきた。
(まさか……)
もう一度、相手の頭に目をやる。
そう、常人とは違うもの――角が頭部に二本生えていたのだ。
彼の瞳が、血のような深紅に染まる。
「見て分からねぇのか。鬼だよ、鬼」
やれやれと言った調子で返される。
「鬼? だって、貴方は人間の見た目をしていて……」
「そりゃあ、母親が人間だからな。確かに普通の鬼達は、もっと肌の色から奇抜だもんな」
あやめは思わず自身の手をギュッと握りしめ、祈りの形へと変える。
(半分鬼で半分が人間、そんな人がこの世に存在するなんて)
すると、彼の唇の端がゆるりと吊り上がる。
「そういえば、名前を教えてなかったな? 俺の名前は鬼童丸。俺のことは知らねぇかもしれないが、俺の父親のことは知ってるかもしれねぇな。酒呑童子って聞いたことあるだろう?」
――鬼。
――酒呑童子。
――鬼童丸。
京の都から見て北西にある大江山には、数十年前から酒呑童子と呼ばれる悪鬼が住んでいたという。鬼の中でも最強の強さを誇ると噂されており、悪事の限りを尽くす彼は、見かねた武将・源頼光の手によって十五年近く前に調伏された。
この戦いはとても凄惨なものだったという。
こうして、酒呑童子の息子である鬼童丸といえば、父に次ぐ強大な力の持ち主だと人々の間で恐れられていた。
(つまり、今の鬼達の中では一番強いはず)
ちなみに、武将・源頼光は当時失踪したと伝わっている。
この十年ほど、鬼達は派手な動きを制止していたという話だったのに……
「さあて、話は後だ。行くぞ」
すると、姫の手首をぐいっと鬼が掴んできた。
「待って、行くってどこに!?」
「そりゃあ、俺の住む屋敷だよ。大江山に居を構えている。ここより綺麗な良い場所だよ」
「どうして!?」
「どうしても何も、頼光の馬鹿が俺におかしな呪いをかけてきたせいで、お前を喰わねぇと生きていけねぇ体質にさせられたんだよ」
――喰う。
恐るべき単語が相手から飛び出してきた。
「私を喰う? どうして私が?」
声が震えた。
まさか、鬼に喰われないといけないなんて……
「何でわざわざお前なのかまでは知らねぇよ。だけど、猫みたいな不思議な瞳を持った女は、国中探してもお前しか見つからなかった。それに……」
彼が続ける。
「確かに、旨そうだ。やたらと血が騒ぐ」
舌舐めずりする相手の様子を見て、あやめの身の内にいよいよ恐怖が襲ってきた。
あげく、打ちつける波のような怒涛の展開に頭がついていけそうにない。
「説明は済んだな。ほら、さっさと行くぞ。お前は俺に喰われる宿命なんだよ。さっさと諦めろ」
「きゃっ!」
強引に手を掴まれて、あやめはハッと正気を取り戻す。
このまま恐怖に震えていても、相手に喰われるだけだ。
身売りしなくて良かったとは思ったが、鬼に頭からバリバリ食べられて死ぬのは嫌だった。
それ以上に……
「待ってください!」
「ああ? てめぇもたいがいしつこいな」
相手の言い方は怖かった。
だけど、ここで命を相手に簡単に手渡したくはなかった。
「もしここで私が死んじゃったら、死んだお母様が一人になってしまいます!」
「見たところ、お前一人しかいねぇだろうが? 母親なんてどこにも……」
「だからこそです!」
「は?」
「亡くなったからこそ、私が死ぬわけにはいかないのです。私まで死んだら、お母様のことを覚えている人が一人もいなくなってしまいます。宿命なんて知りません。私にとっては一番大事なことなのです!」
鬼童丸が目を見張った。
血のように紅い瞳が、寂しげな夕焼けの空のように揺らめいた。
「お母様の弔いをしてあげられるのは、もう私しかいない。皆いなくなってしまいました。だから、出家して、極楽浄土で幸せになれるよう祈願して、何よりも私が生きて忘れないでいてあげたいのです」
あやめは、鬼に向かって凜とした態度で告げる。
「お前は……」
鬼童丸が眉を顰めると、何か言いかけたまま口を噤んだ。
あやめが話を継ぐ。
「それに……」
「何だ?」
「私は骨と筋ばっかりで、食べても美味しくありませんから!!」
泣く子も黙る強面のはずの鬼童丸は、キョトンとしていた。
「ああ? お前は阿呆か? 俺は他の鬼達と違って……」
「煮ても焼いても、蒸しても、あえても美味しくありませんから!」
「蒸してもとあえてもは、あんまり聞かねぇな」
「漬け込んだら、意外と美味しいかもしれませんけど、とにかく、私はここで死ぬわけにはいきません」
「は……」
その時、鬼童丸がくつくつと笑い始めた。
「な、何で笑ってるんですか?」
声を上げて笑う相手の様子を見て、あやめは呆気に取られてしまう。
「意外と退屈しなさそうだって思ってな」
「退屈しなさそう、ですか?」
「ああ。それにだ、そもそも俺の場合は、別に人間を物理的には喰わなくても良くってだな」
「え?」
物理的に喰う以外にどんな方法があるのだろうか?
「まあいい」
すると、鬼童丸はあやめの顎を掴んで上向かせた。
「確かにお前の言う通り漬け込んでから、喰わせてもらっても悪くはなさそうだな」
「え? え? って、きゃっ……!」
漬物よろしく漬け込まれるのかと動揺していたら、あやめの視界が反転した。
「これ以上説明するのは、かったりぃ。ほら、とりあえず行くぞ」
「ひゃっ!」
突然横抱きにされた。
「ちょっとお尻触らないでください!」
「触ってねえよ! 人聞きの悪いことを叫ぶな! ほら、飛ぶから、黙って目を閉じてろよ」
彼の足元から風が吹きすさぶ。
「何!? 何が起こって……!」
風は周囲の雪を巻き込んで渦巻きはじめ、あやめと鬼童丸の身体の周囲を取り囲む。
「ちゃんと目を瞑ってな!」
あまりの風圧に目を開けられないでいる内に、二人して眩い光に包みこまれる。
かくして――あやめはそれまで住んでいた世界から、唐突に違う世界に飛び込むことになってしまったのだった。
第二話 姫、鬼に喰われる
「ほら、大江山についたぞ」
吹きすさぶ風の音が止んだかと思うと、鬼童丸の低い声が耳に入る。
(え? 都からかなり離れた距離の大江山に、こんな一瞬で?)
あやめが恐る恐る目を開けると、辺り一面は煙のようなものに覆われて真っ白だった。周囲はどことなく薄暗い。
カランと石が落ちる音が聞こえて、どうやらどこかの崖の上だということが分かる。
その時、揺らめく雲の合間で影が蠢く。
(何?)
視界いっぱいに影がひしめいた。ざわざわとした気配を感じる。
もくもくとした雲の向こうに、頭に角の生えた鬼達がびっしりと控えていたのだ。
(すごい数)
崖が崩れてしまうのではないかと心配になるほどの鬼の数だった。皆一様に、鬼童丸に向かって頭を下げている。
「おい、お前ら、出迎えはいい。この女が怯えるだろうが? ちゃんと持ち場に戻れ」
鬼童丸の命令を聞くと、影は一斉に飛び退っていった。
「俺の部下達が驚かせて悪かったな」
「いいえ、滅相もございません」
「山の上で、雲が降りてきてるから視界が悪いだろう? すぐに屋敷に着くから」
鬼童丸に抱えられたまま、先へと向かう。
足元でじゃりじゃりと草履が雪や石を踏みしだく音が周囲に響き渡った。
靄の中を抜けると、崖のような場所へと降り立つ。
どうやら雲よりも上にある場所に来てしまったようだ。
(こんな高い場所から落ちたら死んでしまいそう)
あやめは子猫のように身体をぶるりと震わせた。
すると、ちょうど靄が晴れて崖の下が視界に映る。
「わあ……!」
あやめは、鬼の腕の中にいることも忘れて、感嘆の声を上げてしまった。
眼下には広大な雪景色が広がっていた。
冬でなければ、段々畑や田園が広がっているに違いない。
雪の中、藁ぶき屋根の建物が点々と並んでいる。
家と家の間を結ぶ通路は雪が解けている場所があり、ところどころ土が露出している。道の端にはぽつぽつと椿の花が咲いていて、まるで自然の灯篭のようだ。更に、道の脇を雪解け水が下流に向かって、ざあざあと音を立てながら流れていっていた。
ただし、昼間だというのに人気がない……というか鬼の気配が全くなかった。
(寒いから? それとも、鬼は人間とは違って夜行性なの?)
獣の息吹も感じず、なんとなく恐ろしいというか、寂しい印象を受けてしまう。
だがその恐怖を超越するほどの自然の美しさに圧倒される。
「すごい、こんな場所がこの国にあるなんて……」
「鬼の集落を見て驚いてるんなら、屋敷を見たら倒れちまうぞ。さて、こっちだ」
そうして、あやめを抱き抱えたままの鬼童丸は崖を引き返すと、坂道を更に上へと登り始める。わりと急な坂だが、あやめを抱えたままでも疲れないようだ。
「あのう、どこまで登るのでしょうか?」
「意外とせっかちな女だな。ほら、もう見えてきたぞ」
どうやら山の頂上付近に辿り着いたようだ。
だが、何もない場所にしか見えない。
(どういうことなの?)
すると、鬼童丸が何やら呪いを唱え始める。
「ほらよ」
口上が終わると空間がぐにゃりと歪んで、眩暈に襲われたような感覚に陥る。
次の瞬間、あやめの目の前に、巨大な木造の建築物が出現した。
檜皮葺の屋根が隆線を描いており、柱芯にはしっかりとした太い樹が用いられているのが分かった。昼間だというのに、半蔀が全て閉まっている。
「これはいったい……」
「普段は人間に見つからないように、呪術で隠してるんだよ」
どうやら貴族の邸宅と同様に寝殿造りの屋敷のようだ。都にある邸宅達とは違って、屋敷に向かう道には炎を宿す灯篭が等間隔に立ち並んでおり、建物の軒先には煌びやかな提灯が吊り下げられていた。
どことなく薄暗いものの、炎のおかげか全体的に明るい色合いをしていて、とても幻想的な風景だった。
鬼童丸に抱きかかえられたまま、池に設けられた橋から中島を通った先、釣殿を渡る。
「お前の邸宅よりも広いだろう?」
途中、鬼童丸がおもむろに声をかけてきた。
なんとなく、子どもが自分の所持する毬や双六を自慢している時のような表情だ。
「はい、そうですね。だけど、そのう……」
「何だ?」
あやめは鬼童丸を見上げると、純粋に沸いてきた疑問を口にした。
「貴方は、私のことを食べるんですよね?」
「ああ」
「食べるのだったら、わざわざこんなところに連れて来ずとも、私の邸宅で食べればよかったのでは?」
「お前、あれだけ喰われるのを嫌がってたくせに、何を今更な発言してるんだよ」
鬼童丸がこれみよがしにため息をついた。
「まあ、泥のついた野菜も洗うだろ? だから、お前をまずは綺麗にしてからだ」
「なるほど……?」
納得がいくような、いかないような……
(まあ、確かに泥のついたままの根菜類をかじろうとは思わないものね)
すると、鬼童丸が思いがけない発言を口にする。
「だから、俺が手ずから湯殿に連れて行って、服を脱がせてやるよ」
あやめの胸中に衝撃が走る。
(今、この人は何て言ったの……?)
「ちょっと離してください、一人で脱げますから!」
「今しがた理由は教えたじゃねえか。お前を綺麗にするんだよ。自分で洗ったり、準備の段階から色々やった方が、仕上がった時の喜びもひとしおだろう?」
「そんなの聞いてない、きゃっ……!」
突如、あやめの腰紐を鬼童丸がしゅるしゅると解き始めたではないか。
「な、な、な、何するんですか? ちょっと、やめてっ」
貞操の危機を感じて、あやめの口から怯えた声が漏れ出る。
「ああ、良いから黙って俺の言うこと聞いておけよ」
「さすがに、ちょっとそれは……!」
「お前、貴族の邸宅にいたんだから、一応姫のはずだよな?」
「そ、そうですけど!」
「そのわりには泥臭い」
「え?」
小袖を脱がされながら、あやめはぽかんと口を開いた。
「もっとこう、都には着飾った女達が多かった気がするんだがな。お前は、なんとなくみすぼらしい。大江山に連れてくることで頭がいっぱいいっぱいになっちまって、よく見てなかった」
相手にみすぼらしいと言われてしまい、あやめの顔が羞恥で真っ赤になってしまう。
「それは、貧しかったからで……やあっ……」
あれよあれよという間に、単衣姿にされてしまった。
(裸同然の格好にされてしまったわ!)
このご時世、こんな格好は心を許した夫婦でしかありえない。
あやめは両腕で胸を隠して必死に抗議の姿勢を示す。
「いくら今から貴方に食べられるんだとしても、さすがに殿方の前でこんな格好にされるのは……!」
「服着たままじゃあ、喰いづらいだろうが」
確かに服を着たまま喰ったら、鬼といえども消化するのが大変そうである。
そうではなく、一応あやめだって女性なわけだから、良からぬことをされてからバリバリ喰われてしまうのだろうか?
(それぐらいなら、何もされずに食べられた方がマシよ……!)
すると、鬼童丸の大きな手がぬっと伸びてくる。
「きゃっ……!」
びくつく彼女の姿を見て、彼がはあっとため息をついた。
「色気のねぇガキに手を出すほど、俺も暇じゃねぇんだよ」
そうして、あやめは首根っこを掴まれたかと思うと、ひょいっとそのまま浴槽へと放り投げられた。
「とにかく、女のわりには土臭いからさっさと泥を落とせ。せっかくの甘い香りが台無しだぞ。女房達には言っておくから」
「つ、土臭いって……それに、甘い香り……? あっ……ちょっと……!」
湯殿の板扉がピシャリと閉められたかと思うと、彼は姿を消した。
あやめの胸の内には、勝手に色々と勘違いした気恥ずかしさが残る。
単衣姿にされたまま、広い湯殿の中で一人ぽつんと佇んでいると、扉の向こう側から声がかかった。
「もし、失礼致します、あやめ姫」
すると、艶々とした黒髪に不健康そうな白い肌、吊り目がちな紅い瞳の持ち主の女性が現れた。頭の上には二本の角が生えており、どうやら鬼の女性のようだ。赤みの強い葡萄染め色の単衣を纏っている。
相手は鬼童丸の屋敷に仕えている女房だろうか。
(キリリと氷のような冷たい雰囲気の女性ね。人間の女性に見えるけれど、油断したらダメ)
あやめが緊張した面持ちのまま身構えていると、すいっと接近してきた女性から、ぱっと手を取られた。
「あらあらあらあら……」
しかも、女性はキラキラと瞳を輝かせながら、うっとりとした声音で語りかけてくるではないか。
「鬼童丸様に伺っていた通り、幼さの残る愛らしい姫様ですわね!!」
「え?」
あやめは、相手の想定外の反応に困惑してしまう。
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