囚われて

桃井すもも

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クローム男爵令息のイワンを、クリスティナは記憶を辿って思い出してみた。

一言も言葉を交わしたことの無い、一つ上の学園生。
恵まれた体躯に襟足を刈り込んだ短い髪、大人びた表情が印象に残っている。

あの燦めく高貴な集団が同じ学年で、彼等の華やかな姿を間近にする日々の中でも彼の事は記憶に残っているのだから、きっと彼は目立つ存在だったのだろう。

その彼と数代前に枝分かれした血縁と云う事実が、クリスティナの中で繋がる事は無かった。そもそもクリスティナにとっては遠い昔話位に捉えていたのだから仕方が無い。


もし仮に父が持ち込まれた縁談を受け入れていたなら、彼と共に過ごす学園生活もあったのかもしれない。
そんな、婚約者と一緒に過ごす時間を体験出来たのかもしれない。
数代前に袂を分かった仲を、若い二人が埋めるなんて事もあったのかもしれない。

そこまで考えてクリスティナは、きっとその全てが無駄になったろうと思った。
学年が上がった二年目の夏、あの初夏の夕暮れにローレンに身体を暴かれた。

貴族の令嬢にとっては決定的な瑕疵である。

知られなければ問題無いと恋の交流を楽しむ子女達は確かにいたし、彼女らは今では元からの婚約者に嫁いで、何も無かった顔で夫人に収まっているのも知っている。

けれども、婚約中の身で婚約者以外に汚されてしまったら、クリスティナはその婚約を諦めたのではないかと思う。

結果的には婚約話などクリスティナには齎されなかったし、ローレンとの出来事を誰にも話さぬまま今尚関係は続いている。

どれだけ過去が変わろうとも、あの夏の日が全てを同じ道筋に戻してしまうのだ。

もし過去を変えられるのなら、あの夕暮れの物品庫に行かない選択をしなければならない。
けれども、教師に命じられて生真面目なクリスティナがそれに反するとは思われなかった。
そうして、そんな風に過去を変えられたなら、あのプラチナブロンドの髪に汗が滴るのを間近に見ることも、あの青い瞳に互いの鼻が触れる程の距離から見すくめられる事も無かったのだ。

愛の通わない不毛な交流に心も身体も疲弊しているのに、王城と云う限られた空間で、婚約者も無く自分の行く末すら見えない日常に、唯一、色を齎す存在がローレンであるのを認めてしまった。

ローレンに人生を狂わされて、この先の人生をクリスティナはどう生きてゆけば良いのだろうと考える。

ローレンの未来は明るい。
王太子の側近として、将来は国王の側近として国の中枢に立ち、そうして彼が本心から求める女性を愛するのだろう。

その時クリスティナは今と変わらず王城にいて、今と変わらず誰かに傅き、一日一日老いてゆくのだろうとそこまで考えて、もう考えるのは止めようと思った。

考えても変えられない未来であるなら、思い悩むだけ無駄である。
どうしようも無くなってしまったら、王城の勤めを辞して何処かの貴族家に仕えよう。
王女付きの侍女であった実績が、これからのクリスティナを支えてくれる。
過去の努力が未来を助けてくれる。

今は何も見えないけれど、進むうちに見えてくる道もあるのかもしれない。

生家の自室、柔らかな寝具に包まれてクリスティナはゆっくり思考を手離した。


暮らしに不安の無い貴族の娘に生まれて、両親に兄姉に可愛がられて守られて、自分の未来も将来も先行きの不安など案ずる事はひとつも無い。そんな幼少時代を過ごしてきた。

この寝台で眠る自分は、この時ばかりは親の庇護の下にある貴族の令嬢で、幼い頃から馴染んだ暮らしを思い出させてくれる。

誰かに愛され守られる大切な記憶を抱き締めて、クリスティナの眠りは深まって行くのだった。



夏の盛りを迎えていた。
社交シーズンの最盛期に貴族達は皆、互いの交流に勤しんでいる。
それは王族達も同じで、彼等に仕えるクリスティナも多忙な毎日を過ごしていた。

社交シーズンの只中で、街も賑わいを見せている。
都の喧騒を離れて、郊外の森や湖、或いは領地に風光明媚な観光地を擁する貴族等は避暑を兼ねてマナーハウスに戻る者も多い。領地と王都の間で貴族達の移動が頻繁になる時期でもあった。

王城では、真夏の夜に暑気払いの夜会が催される。
王族に仕える侍女達も式典用のお仕着せに着替えて王族に侍るのだが、貴族令嬢でもある侍女の中には休みを許されて婚約者と夜会に参加する者も多い。

婚約者のいないクリスティナは、毎回労働組に組み込まれる。
夜会は労働の場であり、着飾って楽しんだ事など一度も無い。年に一、二度、兄に連れられて参加するのが精々であった。



「失礼、レディ。君はもしかしてルース子爵家のご令嬢か?」

その声掛けに驚いたのは、それが突然掛けられた声だったからではなく、声の持ち主がクリスティナの中での渦中の人物であったからだ。

クリスティナは、今夜の夜会もテレーゼ王女に侍っていた。

王女は今、賓客にダンスを申し込まれてホールの中央でダンスに興じている。
可憐な妖精の舞に、貴族達も目を奪われている。その様子を見守りながら、王女がダンスを終えるまで待機していた。
そこで声を掛けられた。

今は勤務中であるから会話は長くは出来ないが、王女のダンスは始まったばかりで、僅かな時間であれば無理と云うこともない。

「ああ、失礼。行き成り声を掛けて申し訳ない。私は、イワン・イングラム・クロームと申す。学園でも一緒であったが、君とは遠い親戚に当たる。」

クローム男爵令息イワンは、涼し気な目元に笑みを浮かべることも無く、生真面目な表情でその身分を明かした。









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