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勤めが休みの日には、クリスティナは生家へ戻る。
領地は無くとも王城勤めの父と兄の禄が充分ある為、名ばかりの子爵家の暮らしに不自由は無い。
邸宅に戻れば使用人も仕える侍女もいて、王城では自分が傅く立場であるのに、ここではお嬢様と呼ばれるのだ。
四年前には当たり前の事であったのが、家を離れて王城暮らしに慣れる内に、すっかり人に仕えるのが身に馴染んでしまった。
平素は身繕いも自身でするが、休日の生家にあっては髪を梳いてもらい薄化粧まで施される。
肌の白さに濃いブルネットの髪が落ち着きを添えて、子爵令嬢のクリスティナは王城仕込みの振る舞いに立ち姿も美しく、成熟した貴族女性の気品を纏っているのを、使用人達は主家への誇りと受け止めているらしかった。
月に幾日も無い休日は、王族の暮らしを賄う緊張から解放されて、使用人達には手厚く饗されて大切にされるのを有り難く思える様になっていた。
晩餐の後、クリスティナは兄に声を掛けた。
兄は知っているだろうか。北の領地の事を。
クリスティナの中では、既に関わりの途切れた遠い世界の事と思っていたのが、ローレンから偶々その名を聞いた事でどうにも気になり始めて、帰省したなら聞いてみたいと思っていた。
父に聞くのは何となく憚られて、それならと兄に聞いたのだが、
「ああ、クローム家か。」
兄は事も無げに答えた。
「高祖父の代に袂を分かったらしい。嫡男であったひいひい爺さんが、領地も産業も譲って王都に移った。譲ると云うより捨てたというのが近いだろう。」
「お兄様は知っていたの?」
「ああ、別に隠し事でも無いからな。お前が興味が無かっただけだろう。」
図星である。
「どうして家を捨てたのかしら。」
「どの家に仕えるのか、ひいひい爺さんとその弟とで意見が割れたらしい。ひいひい爺さんは王政派の侯爵家を主家に選んで王都に出た。家も領地も弟に明け渡したが、爵位だけはひいひい爺さんが継いでいたからこうして今の我々がある。」
「領地を譲ったのはわかるとして、残った家がどうして貴族の爵位を?」
「従属爵位があったんだろう。それが今のクローム男爵家さ。ところでお前、何で今頃そんな事を気にしているんだ。」
「え?ええ、偶々北の領地のウイスキーの話しを聞いて。」
「ああ、成る程ね。ウイスキーは彼処の特産品だからな。けれども最近それもなかなか大変らしいな。」
「大変?」
「彼処の水は硬水だ。仕上がるウイスキーは重みのある深い味わいが特徴で、昔からの愛好者も多い。ただ、最近は軟水で仕込んだまろやかな味わいが持て囃されて、まあ、流行りに取り残されないかと焦っているのさ。」
「焦る?」
「流行りは流行り、古くから愛される味が廃れる事は無い。まして北の領地のウイスキーは王家にも奉上されている。自信を持って堂々としていれば良いものを、流行りに取り残されまいと試行錯誤をしているらしい。まあ、確かにそれも大切ではあるがな。」
兄はそこで少しばかり間を置いた。
言って良いものか考えている風でもあった。
「お前に縁談があった。」
「えっ!」
そんな事は初耳である。
「う~ん、お前というより我が子爵家へ、か。エレナでも良かったんだか、あちらの令息よりも年上だからとお前を選んだらしい。」
「縁談だなんて、」
クリスティナは特別見目が美しいと云う訳では無いが、だからと言って醜女でもない。
髪や瞳の落ち着いた色合いからも貴族らしい品性が窺われたし、気質も穏やかである。
貴族令嬢の躾は早い内から施されていたし、勉学でもそれ程成績が劣る事はなかった。
勤勉に努力を重ねた結果の王城勤めである。
爵位は高くは無いが、子爵家も何なら男爵家も他に幾家もあるのだし、ローレンに純潔を奪われたのを脇に置いて、それ以外は問題らしい問題は無いと思われた。
なのに縁談が来ない。
姉は早々に嫁いだと云うのに。
これには、クリスティナは密かな劣等感を抱いていた。どの家からも求められずこの身は既に暴かれている。もう後妻か王城の老侍女しか道は無いかもと、自分の行く末にすっかり夢を抱けずにいた。
なのに縁談があっただなんて。しかも嘗て縁の切れた遠い身内から。
クリスティナが衝撃を受けているのを分かったらしい兄は、それをまるっと無視して話しを続ける。
「お前の一つ年上にその令息がいた。学園でも二年被っていたから分かるだろ。
イワン・イングラム・クローム。クローム男爵令息だが、分かるか?」
クリスティナには確かに覚えがあった。
クリスティナよりも少しばかり明るいブルネットの髪にシトリンの瞳の男子生徒である。短髪に刈り込んだ髪が騎士の様に精悍な風貌であった。何より背がとても高くて目立っていたから、学年が異なっているのに記憶に残っていた。
彼との間に縁談があっただなんて。
「でも、私は何も聞いていないわ。その、クローム男爵令息とも面識は無かったし。」
「だろうね。父上が諾としなかったからね。」
「ええ~。」
過去に袂を分かったという曰く付きであろうが、生涯一度きりの縁談だったのだ。せめて話だけでも耳に入れて欲しかった。
「なんだ、北の領地に行きたかったのか?残念だな。それは無い。」
「え?」
「男爵家が望むのは王都との繋がりだ。販路を広げたいのか、文官として王城に勤める我らに価値を見出した。真逆お前が王族に仕える事になるとは思わなかったろうが、今でも諦めていないかもしれない。なにせクローム男爵令息は、未だ独身で婚約者すらいないからな。」
ああ、それは私もか。人の事は言えないなと大口を開けて笑う兄を放って、クリスティナは自室に戻った。
この衝撃的な話しに混乱する頭を整理したかった。
領地は無くとも王城勤めの父と兄の禄が充分ある為、名ばかりの子爵家の暮らしに不自由は無い。
邸宅に戻れば使用人も仕える侍女もいて、王城では自分が傅く立場であるのに、ここではお嬢様と呼ばれるのだ。
四年前には当たり前の事であったのが、家を離れて王城暮らしに慣れる内に、すっかり人に仕えるのが身に馴染んでしまった。
平素は身繕いも自身でするが、休日の生家にあっては髪を梳いてもらい薄化粧まで施される。
肌の白さに濃いブルネットの髪が落ち着きを添えて、子爵令嬢のクリスティナは王城仕込みの振る舞いに立ち姿も美しく、成熟した貴族女性の気品を纏っているのを、使用人達は主家への誇りと受け止めているらしかった。
月に幾日も無い休日は、王族の暮らしを賄う緊張から解放されて、使用人達には手厚く饗されて大切にされるのを有り難く思える様になっていた。
晩餐の後、クリスティナは兄に声を掛けた。
兄は知っているだろうか。北の領地の事を。
クリスティナの中では、既に関わりの途切れた遠い世界の事と思っていたのが、ローレンから偶々その名を聞いた事でどうにも気になり始めて、帰省したなら聞いてみたいと思っていた。
父に聞くのは何となく憚られて、それならと兄に聞いたのだが、
「ああ、クローム家か。」
兄は事も無げに答えた。
「高祖父の代に袂を分かったらしい。嫡男であったひいひい爺さんが、領地も産業も譲って王都に移った。譲ると云うより捨てたというのが近いだろう。」
「お兄様は知っていたの?」
「ああ、別に隠し事でも無いからな。お前が興味が無かっただけだろう。」
図星である。
「どうして家を捨てたのかしら。」
「どの家に仕えるのか、ひいひい爺さんとその弟とで意見が割れたらしい。ひいひい爺さんは王政派の侯爵家を主家に選んで王都に出た。家も領地も弟に明け渡したが、爵位だけはひいひい爺さんが継いでいたからこうして今の我々がある。」
「領地を譲ったのはわかるとして、残った家がどうして貴族の爵位を?」
「従属爵位があったんだろう。それが今のクローム男爵家さ。ところでお前、何で今頃そんな事を気にしているんだ。」
「え?ええ、偶々北の領地のウイスキーの話しを聞いて。」
「ああ、成る程ね。ウイスキーは彼処の特産品だからな。けれども最近それもなかなか大変らしいな。」
「大変?」
「彼処の水は硬水だ。仕上がるウイスキーは重みのある深い味わいが特徴で、昔からの愛好者も多い。ただ、最近は軟水で仕込んだまろやかな味わいが持て囃されて、まあ、流行りに取り残されないかと焦っているのさ。」
「焦る?」
「流行りは流行り、古くから愛される味が廃れる事は無い。まして北の領地のウイスキーは王家にも奉上されている。自信を持って堂々としていれば良いものを、流行りに取り残されまいと試行錯誤をしているらしい。まあ、確かにそれも大切ではあるがな。」
兄はそこで少しばかり間を置いた。
言って良いものか考えている風でもあった。
「お前に縁談があった。」
「えっ!」
そんな事は初耳である。
「う~ん、お前というより我が子爵家へ、か。エレナでも良かったんだか、あちらの令息よりも年上だからとお前を選んだらしい。」
「縁談だなんて、」
クリスティナは特別見目が美しいと云う訳では無いが、だからと言って醜女でもない。
髪や瞳の落ち着いた色合いからも貴族らしい品性が窺われたし、気質も穏やかである。
貴族令嬢の躾は早い内から施されていたし、勉学でもそれ程成績が劣る事はなかった。
勤勉に努力を重ねた結果の王城勤めである。
爵位は高くは無いが、子爵家も何なら男爵家も他に幾家もあるのだし、ローレンに純潔を奪われたのを脇に置いて、それ以外は問題らしい問題は無いと思われた。
なのに縁談が来ない。
姉は早々に嫁いだと云うのに。
これには、クリスティナは密かな劣等感を抱いていた。どの家からも求められずこの身は既に暴かれている。もう後妻か王城の老侍女しか道は無いかもと、自分の行く末にすっかり夢を抱けずにいた。
なのに縁談があっただなんて。しかも嘗て縁の切れた遠い身内から。
クリスティナが衝撃を受けているのを分かったらしい兄は、それをまるっと無視して話しを続ける。
「お前の一つ年上にその令息がいた。学園でも二年被っていたから分かるだろ。
イワン・イングラム・クローム。クローム男爵令息だが、分かるか?」
クリスティナには確かに覚えがあった。
クリスティナよりも少しばかり明るいブルネットの髪にシトリンの瞳の男子生徒である。短髪に刈り込んだ髪が騎士の様に精悍な風貌であった。何より背がとても高くて目立っていたから、学年が異なっているのに記憶に残っていた。
彼との間に縁談があっただなんて。
「でも、私は何も聞いていないわ。その、クローム男爵令息とも面識は無かったし。」
「だろうね。父上が諾としなかったからね。」
「ええ~。」
過去に袂を分かったという曰く付きであろうが、生涯一度きりの縁談だったのだ。せめて話だけでも耳に入れて欲しかった。
「なんだ、北の領地に行きたかったのか?残念だな。それは無い。」
「え?」
「男爵家が望むのは王都との繋がりだ。販路を広げたいのか、文官として王城に勤める我らに価値を見出した。真逆お前が王族に仕える事になるとは思わなかったろうが、今でも諦めていないかもしれない。なにせクローム男爵令息は、未だ独身で婚約者すらいないからな。」
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