囚われて

桃井すもも

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アランはこちらへ一歩近づき、

「私は少しばかり医術の心得がある。その、君が不快でなければ傷を見せてはくれないか。消毒はしたのかな?小さな傷だと侮って化膿してはいけない。」

尚も傷の具合を心配する様であった。

グレースは思わず胸元で両手を握りしめてしまった。
傷など元より何処にも無い。

「お心遣い痛み入ります。けれども本当に大丈夫なのです。テレーゼ様にもご心配頂いてきちんと手当を致しました。」

そう言えば漸く「そうか」とアランは納得したようであった。

クリスティナは、そこで深く上体を折って礼をした。そうして目を伏せたまま失礼に当たらぬよう面を上げた。

「すまない。すっかり引き止めてしまったようだ。殿下には私から進言しておこう。あまり君を煩わせないように。同窓の気安さか、どうも殿下は君に詰まらぬ用事を頼み過ぎる。」

アランの言う事は、大袈裟なものではなかった。
クリスティナがテレーゼ付の侍女になって四年。出入りの激しい侍女の中にあって既に古参の年長的な立場にある。
そこが王太子にとっては気安く思われるらしく、今日の様な事は度々ある。

他に侍従や侍女は大勢いる中で、態々クリスティナに些細な用を言い付ける。

侍女勤めも長くなり、王太子と側近達の同窓である事は皆が知るところであったから、それで何かを言われた事はこれまで無かった。

真逆、側近中の側近からそんな処遇を心配されていただなんて。

「アラン様、ご心配には及びません。殿下は気安くお声をお掛けになられているだけでございます。お忙しい御身で気休めに軽口を仰っておられるのでしょう。何卒このままに。」

そこまで言えば流石のアランも「ううむ、そうか」と引き下がってくれた。

別れの挨拶をして、去って行くアランの後ろ姿を見送る。
どれほど時間が経ったのだろう。アランが勤めを終えたのならば、彼ももう向かっているかもしれない。

鉛を飲み込んだ様に心は重く沈んでいる筈なのに、足は速度を上げて歩みを進める。


目指す部屋の扉が見えて来た。
もう彼も着いているのだろうか。
逢瀬と云うには程遠い、捕食される罠にみすみす向かう獲物である。

数メートル先を目指して自ずと早足になっていたらしい。
だから後ろから引き戻される反動に、掴まれた腕に痛みを感じた。

思わず上げそうになった悲鳴を飲み込む。
振り向かずとも分かる森林に混じる麝香の香り。

いつもの部屋の一つ手前に引き摺り込まれた。瞬く内に扉が閉まり、夕日を残す回廊から夜の闇を迎え入れた灯りの無い部屋に視界が移った。

「ろ、」ローレンの名を呼ぶ事は叶わなかった。
行き成りの激しい口付けに、先に充分呼吸が出来なかった為に息が苦しい。

向きを変える際に僅かな隙間から息を吸い込むも間に合わない。鼻から漏れる呼吸が荒いのはどちらの方か。

熱を持った大きな手が項を掴む。
もう片方に胸を潰されて声が漏れる。
今しがた締まった扉を背にして、クリスティナには逃げ場が無い。与えられる荒波を真正面から受け止めた。

執拗に追い込む唇が漸く離れて、互いにはあはあと息を整える。

「何故遅くなった。」

低い声に問われて、起こったままを述べた。

「アラン様にお会いして、」
「アランに?何故。」
「偶々、偶然」
「何を話した。」
「棘が刺さった傷を心配して下さいました。」
「それで?」
「化膿しない様にと、」
「何をされた」
「何も。そのままお別れしましたから。」
「...」

話す間も熱を帯びた指先は、高襟に嵌められたボタンを一つまた一つと外していく。
小さなボタンであるのに慣れたその手付きは、幾人ものお仕着せを常から脱がせている慣れからか。しかし、そこにクリスティナは含まれていない。

すっかりボタンを外し終えて、黒いお仕着せがするりと足元に落ちる。下着だけを残した身体は奥のソファに投げ出された。
優しさの欠片も無いのはいつもの事である。

それからは、まるで罰を受ける様な責め苦の連続であった。肩を噛まれたらしくジンジン痛む。薔薇の棘など口実で、実際は傷など一つも無い指先を舐め取られる。
まるでアランの心配に心を絆されたのを咎められる様な、意地の悪い舐め方だ。

嫌になる。
こんな風に粗末に扱われて、一滴の優しさも無い。なのに身体は正しく反応を返して、それを男が可笑しく思っているのが悔しくて堪らない。
それさえ悦びに感じてしまう浅ましい身体。誰にも相手にされる事なく、たった一人の男に気まぐれに弄ばれる肉の塊。

こんなに寂しい身体に生まれて、思わず滲んでしまう涙を堪える。

熱の冷めない掌が項から背中を滑ってそのまま腰を掴まれる。
それから先は与えられる快楽に只管翻弄されるのだった。

愛の通わぬ交じり合い。反芻される動きは男が本能を解放する術に過ぎず、一言も言葉を交わすことも、ましてや甘やかな囁きの一つも無い。
甘いのは熱に匂い立つ麝香の香りだけであった。



あの初夏の夕暮れの後。
破られた身体が月のものを迎えた時の安堵は、地獄の底から救われた思いであった。

親にも友にも相談出来ず、不安な思いを抱えてながら変わらず通う学び舎には自分を襲った獣がいて、向けられる意味ありげな視線に、決して誰にも漏らしてはならないと口止めをされているのだと解った。

ひと月程後になって行き成り声を掛けられて、あろう事か月のものが来たのかを確かめられた。
なんて残酷な男なのだろうと憤怒したいのにそれさえ出来ずに、「来ました」と答えるのがやっとであった。

それがこの美しい悪魔に、囚われの身となる愚かな関係の始まりであった。






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