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その月の神殿への寄進の際に、嫡男ニクスの洗礼式が併せて執り行なわれた。
ニクスは秋の初めの真夜中に、難産の末にこの世に生を受けた。
夜を司る女神ニュクスの如く、漆黒の宵闇の中から生まれ出た。
雪の様な真っ白な肌に木の実を落としたような赤い唇。眠る目元には頬に影を差すほど長い睫毛が伏せられている。
瞼が開いたなら、それを目にする人は深遠な湖底の青を見るだろう。
生まれながら豊かな黒髪は、光に透けてそれが濃い茶色なのだと分かる。ふっくらした頬に少しばかり尖った顎。生まれたばかりであるのに美しい。
美しいニクスをひと目見たなら、将来子息の妻にと望むだろうが、残念ながらこの子は男児である。
初産のいつ終わるのか先の見えない苦しみの中から、キャスリーンの下へ希望の光を携えてやって来た。冥府の女王が支配する夜の闇から、ニクスはキャスリーンを引き上げた。
「嫡男の誕生、お目出度うございます、ノーマン侯爵、侯爵夫人。それから...チェイスター伯爵。」
聖水をニクスの頭部に注ぎかけ洗礼式を終えたクリストファー大神官は、古い馴染みであるサファイアの瞳の男に複雑そうな視線を送る。
ニクスを抱くキャスリーンを挟んでアダムとアルフォンが立っている。
大男二人に小柄な夫人が挟まれて椅子に座っているから、余計に小さく見えていた。
晩秋の良く晴れた日であった。
冬を迎える前に洗礼を頼もうと、寄進の頃合いに併せたのである。
「美しい子だね、夫人。貴女に良く似ている。」
「左様でございますか?私はこの子は父親似かと「いや、君にそっくりだ。我がノーマン侯爵家嫡男に相応しい。」
「寝惚けているなら帰りたまえ。何処からどう見ても白金など纏っていないじゃないか。」
「アダム様、お静かになさって。ニクスが起きてしまいます。」
「ほう、それは丁度良い。大神官。私の息子の瞳を見てくれ。この世にこれ程美しい青色を私は見たことが無い。」
大神官は思った。お前、学生時代からそんな性格であったか?
真実の愛とやらは誠に恐ろしいな。自身すら知らずにいたあらゆる欲を浮き上がらせるものらしい。最たる例がこの男だな。
ノーマン侯爵家の離れの邸に戻ってからも、大男二人は夫人の私室に当然の如く居座った。
二人共、一旦は眼前に展開される夫人方の肖像画に圧倒されるも、黒髪の紳士は己の姿絵に目線をやってニヤリと口角を上げた。
ジェントルは騒々しい来客にも慣れっこで、ぴっぴジョリジョリ囀ったり嘴をすり合わせたり。
途中、フランツがアルフォンに耳打ちをした。途端にアルフォンは表情を曇らせて「失敬する」と一言残し本邸に戻って行った。
あれから男爵令嬢アマンダは、不安定な精神でいるらしく、突然泣き出しアルフォンの愛を乞うのだと言う。彼は王族に仕える身であるから、定められた刻限には登城せねばならないのを、朝から側にいてくれと泣き喚く。
一層の事、静かな場所で療養しないか、賑やかな王都より平穏な気持ちでいられるのではないかと言えばぴたりと泣き止んで、その日ばかりは大人しくするらしい。
乳飲み子のミリアは大丈夫なのか、彼女が育児を放棄するならキャスリーンが引き取るべきか。そう思い悩んだキャスリーンであったが、それをアダムが引き止めた。直ぐ隣の邸に実母がいて、血の通わぬ本妻に引き取られる。それを幼心にどう思うのか。よくよく考えてから決めても遅くはなかろうと彼は言う。
ミリアの幸福について、アダムの言う通りよくよく考えている内に、思わぬ解決を見る事となった。
果たしてミリアは前侯爵夫人テレーゼが引き取った。乳母のお陰で栄養状態は良かったが、精神的に不安定な母には見向きもされず、抱かれる温かな胸の温もりは乳母の胸しか知らない娘であったから、テレーゼが優しく抱き上げ「ミリア」と呼ぶ声にたちまち反応したらしい。
「可愛いわね。男の子しか育てた事がなかったから、女の子の身体がこんなに柔らかだとは思わなかったわ。」
テレーゼ夫人は度々キャスリーンの私室を訪れるのだが、その際に必ずミリアも連れて来た。
冬の最中も達磨かと思う程ぬくぬくに毛布で包んで連れて来る。
母に良く似たらしいミリアには、淡い金の髪が薄く生えている。来年の今頃にはふわりと綺羅めく美しい髪を見ることが出来るだろう。
海を思わせる翠の瞳。白くふくよかな頬。
「ニクスとミリア。美しく愛らしい孫に囲まれるというのは、これ程幸せな事なのね。」
この時ばかりは苛烈な貴族婦人の顔を何処かにすっぽり落とした様なテレーゼに、キャスリーンは問うた。
「ニクスを孫と仰って下さいますの?」
「貴女が生んだのだから当然でしょう。いつかあの男に奪われない様に、こうしてせっせと見張りに来ているのよ。」
その言葉に、キャスリーンは思わず涙が零れてしまった。
キャスリーンは親の愛をよく解らぬままに嫁いで来た。
ニクスを生んだ事で、どれ程長い間を母の胎内で守られたのか、どれ程の苦しみの末に母がこの世に引き出してくれたのか、母がキャスリーンを愛したのかは結局分からず仕舞いだが、命を掛けてくれたのはよく解った。
「やあね、ニクス。お前の母様は泣き虫ね。」
そう言ってハンカチで涙を拭いてくれたテレーゼは、柔らかな母の顔をしていた。
ニクスは秋の初めの真夜中に、難産の末にこの世に生を受けた。
夜を司る女神ニュクスの如く、漆黒の宵闇の中から生まれ出た。
雪の様な真っ白な肌に木の実を落としたような赤い唇。眠る目元には頬に影を差すほど長い睫毛が伏せられている。
瞼が開いたなら、それを目にする人は深遠な湖底の青を見るだろう。
生まれながら豊かな黒髪は、光に透けてそれが濃い茶色なのだと分かる。ふっくらした頬に少しばかり尖った顎。生まれたばかりであるのに美しい。
美しいニクスをひと目見たなら、将来子息の妻にと望むだろうが、残念ながらこの子は男児である。
初産のいつ終わるのか先の見えない苦しみの中から、キャスリーンの下へ希望の光を携えてやって来た。冥府の女王が支配する夜の闇から、ニクスはキャスリーンを引き上げた。
「嫡男の誕生、お目出度うございます、ノーマン侯爵、侯爵夫人。それから...チェイスター伯爵。」
聖水をニクスの頭部に注ぎかけ洗礼式を終えたクリストファー大神官は、古い馴染みであるサファイアの瞳の男に複雑そうな視線を送る。
ニクスを抱くキャスリーンを挟んでアダムとアルフォンが立っている。
大男二人に小柄な夫人が挟まれて椅子に座っているから、余計に小さく見えていた。
晩秋の良く晴れた日であった。
冬を迎える前に洗礼を頼もうと、寄進の頃合いに併せたのである。
「美しい子だね、夫人。貴女に良く似ている。」
「左様でございますか?私はこの子は父親似かと「いや、君にそっくりだ。我がノーマン侯爵家嫡男に相応しい。」
「寝惚けているなら帰りたまえ。何処からどう見ても白金など纏っていないじゃないか。」
「アダム様、お静かになさって。ニクスが起きてしまいます。」
「ほう、それは丁度良い。大神官。私の息子の瞳を見てくれ。この世にこれ程美しい青色を私は見たことが無い。」
大神官は思った。お前、学生時代からそんな性格であったか?
真実の愛とやらは誠に恐ろしいな。自身すら知らずにいたあらゆる欲を浮き上がらせるものらしい。最たる例がこの男だな。
ノーマン侯爵家の離れの邸に戻ってからも、大男二人は夫人の私室に当然の如く居座った。
二人共、一旦は眼前に展開される夫人方の肖像画に圧倒されるも、黒髪の紳士は己の姿絵に目線をやってニヤリと口角を上げた。
ジェントルは騒々しい来客にも慣れっこで、ぴっぴジョリジョリ囀ったり嘴をすり合わせたり。
途中、フランツがアルフォンに耳打ちをした。途端にアルフォンは表情を曇らせて「失敬する」と一言残し本邸に戻って行った。
あれから男爵令嬢アマンダは、不安定な精神でいるらしく、突然泣き出しアルフォンの愛を乞うのだと言う。彼は王族に仕える身であるから、定められた刻限には登城せねばならないのを、朝から側にいてくれと泣き喚く。
一層の事、静かな場所で療養しないか、賑やかな王都より平穏な気持ちでいられるのではないかと言えばぴたりと泣き止んで、その日ばかりは大人しくするらしい。
乳飲み子のミリアは大丈夫なのか、彼女が育児を放棄するならキャスリーンが引き取るべきか。そう思い悩んだキャスリーンであったが、それをアダムが引き止めた。直ぐ隣の邸に実母がいて、血の通わぬ本妻に引き取られる。それを幼心にどう思うのか。よくよく考えてから決めても遅くはなかろうと彼は言う。
ミリアの幸福について、アダムの言う通りよくよく考えている内に、思わぬ解決を見る事となった。
果たしてミリアは前侯爵夫人テレーゼが引き取った。乳母のお陰で栄養状態は良かったが、精神的に不安定な母には見向きもされず、抱かれる温かな胸の温もりは乳母の胸しか知らない娘であったから、テレーゼが優しく抱き上げ「ミリア」と呼ぶ声にたちまち反応したらしい。
「可愛いわね。男の子しか育てた事がなかったから、女の子の身体がこんなに柔らかだとは思わなかったわ。」
テレーゼ夫人は度々キャスリーンの私室を訪れるのだが、その際に必ずミリアも連れて来た。
冬の最中も達磨かと思う程ぬくぬくに毛布で包んで連れて来る。
母に良く似たらしいミリアには、淡い金の髪が薄く生えている。来年の今頃にはふわりと綺羅めく美しい髪を見ることが出来るだろう。
海を思わせる翠の瞳。白くふくよかな頬。
「ニクスとミリア。美しく愛らしい孫に囲まれるというのは、これ程幸せな事なのね。」
この時ばかりは苛烈な貴族婦人の顔を何処かにすっぽり落とした様なテレーゼに、キャスリーンは問うた。
「ニクスを孫と仰って下さいますの?」
「貴女が生んだのだから当然でしょう。いつかあの男に奪われない様に、こうしてせっせと見張りに来ているのよ。」
その言葉に、キャスリーンは思わず涙が零れてしまった。
キャスリーンは親の愛をよく解らぬままに嫁いで来た。
ニクスを生んだ事で、どれ程長い間を母の胎内で守られたのか、どれ程の苦しみの末に母がこの世に引き出してくれたのか、母がキャスリーンを愛したのかは結局分からず仕舞いだが、命を掛けてくれたのはよく解った。
「やあね、ニクス。お前の母様は泣き虫ね。」
そう言ってハンカチで涙を拭いてくれたテレーゼは、柔らかな母の顔をしていた。
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