黒革の日記

桃井すもも

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「良い仕上がりね。」

「ええ、漸く仕上がりましたの。」

キャスリーンの私室、その壁面に肩を並べて向かい合うテレーゼとキャスリーン。

「それにしてもあのお方は..」
「この構図でなければならないと。」
「絵師の手配はフランツがしたのでしょう?」
「はい。ただ私がぽろりと話してしまったのです。肖像画を描く事を。そうしましたら、すっかり覆されてしまいました。」
「それはまた迂闊な事をしたわね。」
「反省しております。」


キャスリーンの私室には、赤髪の令嬢アマンダの肖像画が飾られている。先々代の侯爵夫人と先代侯爵夫人テレーゼの肖像画が左右の脇を固めているのだが、キャスリーンはそこに自身の肖像画を据えようと思った。

フランツに絵師の手配を頼んだ後で、アダムにその事を話したのが面倒事の始まりであった。

「それなら私が手配しよう。」
「ですが既にフランツが、」
「構わない。ハイントリーで抱えている絵師は腕が良い。」

真逆の公爵家お抱え絵師を頼むとは。

「丁度よい。夫婦の絵が欲しいと思っていた。」
「え?私の肖像画ですわよ?」
「二枚描けば良いだろう。君の姿絵はこちらの邸に飾るとしよう。」
「それでは私の部屋には、」
「だから私と君の絵を飾れば良いだろう?」
「え、」
「あの唐変木に解らせねばならないと思っていたところだ。」
「なにを、でしょうか...」
「君、私を真実の夫だと言ったじゃないか。真逆、君、私を弄んだのか?」
「な、な、なにを、」

「君の誠意を見せてもらおう。私への愛が確かなら君の部屋に夫婦の肖像画を置いて当然だろう。私は私の私室に君の絵を飾るのだから。」

口では誰にも負けない男に、年若の婦人が敵う訳がない。

そうして肖像画二枚は、ハイントリー公爵家を経由して漸く日の目を見たのである。


猫脚の椅子に腰掛けるキャスリーンの背後にアダムが立つ。
黒髪の精悍な姿の夫が、焦げ茶の髪を持つ妻の肩に労わるように手を添えている。
共に鮮やかな青い瞳の色が美しい。絵の具使いが素晴らしいのは、やはり腕の良い絵師なのだろう。
知らぬ人が見たなら、仲睦まじい似合いの夫婦の姿絵である。飾られる場所が侯爵家の離れでなければ。


「女の園に乱入する姿そのものね。」
「申し訳ありません。」
「仕方が無いわ。配置を変えましょう。」

婦人等の並ぶ一番端に飾られたアダムとキャスリーンの肖像画。テレーゼ夫人の一言で、それもあっという間に並べ替えられてしまった。

アマンダの横にアダムとキャスリーンが収まる。その左右には侯爵夫人等の姿。

赤髪の令嬢と焦げ茶の髪の若夫人。
見目も気質も生まれた世代も、何一つ似たところの無い二人の並ぶ姿は、まるで姉妹の様に思われた。



当主の妾である男爵令嬢は、婚外子ではあるが本妻に先だって当主の子を生んだ。今も侯爵家の本邸にいて大切にされているらしい。

本妻である夫人は、隣接する離れの邸に追い遣られている。
一見、妾を優遇して本妻を虐げる風に見えるが、無闇に彼処の家の事を口にしてはならない。迂闊な事を話したなら、何故だか解らぬが帝国帰りの大臣にまで筒抜けになる。
彼は誠実そうな見目からは想像出来ない強者であるらしい。口撃なら誰も彼には敵わないというのだから。

それに、妙な事に、侯爵当主は本妻を下にも置かぬ扱いで気に掛けているらしく、夜会に伴う際にも片時も側を離れないのだと言う。

妾を優遇する割に、彼が夫人以外の女性と一緒にいる姿を見たことがないのだから、噂とは全く持って当てにならないものである。

それに、何より不思議なのは嫡子であろう。黒と見まごう濃い茶の髪色なのだから。その上、瞳は鮮やかな青だから、どれ程夫人の血を強く受け継いだのか分かるだろう。

けれどもあの家は、代々白金の髪にシトリンの瞳を継いで来た。大分前に一度だけ赤髪の令嬢が生まれたが、それも妾の子であったし出自には疑いもあったらしい。

兎に角、嫡子についても不用意な事は決して口にしてはならない。侯爵当主も前当主夫人も、目の中に入れても痛くないと言う程に嫡子を可愛がっているのだから。



その年の夏は猛暑であった。
茹だる暑さが漸く引いて、朝夕の風が心地良く思われる初秋の頃。

キャスリーンは文字通り玉のような男児を生んだ。
濡れ髪が光って黒々と見えるも、乾けばそれは濃い焦げ茶であった。瞳も母によく似て、澄んだ湖の底を覗き見るような青い瞳であった。

大変な難産であった。
産み月を迎えて大きく腹が迫り出しているのに、子はなかなか下りては来なかった。いつまでも母と一緒に居たいと駄々を捏ねる風に、流石の産婆も心配する頃。

「こら。母を困らせるな。そろそろ顔を見せるんだ。」
「アダム様、私は大丈夫ですのでお城にお戻り下さい。」
「気にする事はない。私の部下は大層優秀なんだ。」
「殿方は外でお待ち下さいまし。」
「いや産婆殿、もう少し良かろう。キャスリーンが苦しんでいるではないか。」
「貴方様に居られては、キャスリーン様も力が入りません。」
「くそう、此処で君を置いていかねばならぬとは。」
「大丈、いたたた「き、キャスリーン、」


すったもんだの挙げ句、それからたっぷり一昼夜を掛けた翌日深夜。
夜の静寂に見守られ、ニクスはこの世に生まれ出た。


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