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夏の初めの頃である。
予定より随分早くアマンダ嬢が産気付いた。
明け方から落ち着かない気配を感じて、キャスリーンは早目に身支度を整えた。
キャスリーンは侍女の手を借りずに身を整えられる。懐妊してからは侍女に任せていたのだが、虫の知らせの様な予感に黙っておられず、着やすい妊婦用のワンピースに着替え身を整えて様子を伺っていた。
朝日が昇る少し前、空が桃色に染まり出す。夏の夜明けは早い。冬であれば真夜中の頃でも、夏の初めの空には宵闇の向こうに太陽の端が見えていた。
「キャスリーン様、お目覚めで。」
小さなノックの後にフランツの声がして、
「ええ、フランツ。入って良いわよ。」
そう答えれば、フランツは静かに扉を開けた。
「あちらでお産が始まりました。」
フランツは無闇にアマンダ嬢の名を口にしない。
「まあ、それは。産婆は?」
「夜半の内に。」
「そう。」
キャスリーンには為す術も無いのだから仕方が無い。身支度を整えてしまったから、早目に家政に取り掛かった。
その前に窓を開け放ち新鮮な空気を入れる。
「御婦人方、気持ちの良い朝ですわね。」
壁に掛けられた面々に挨拶をする。
アマンダが心無し心配気な顔に見えるのは、キャスリーンの心象を反映してか。
フランツが熱いグリーンティーを持って来てくれて、それでほっと一息付いていると、侍女頭が訪れた。
「お産まれです。」
「もう?早いわね。」
「ええ。安産だったようです。」
「まあ、それは良かったわね。」
「それが、とてもお小さくて。早産でしたから。」
「大丈夫なの?お子様は。」
「まだ何とも。」
「アマンダ様は?」
「お元気です。お身体を清めてお休みになられていらっしゃいます。」
「それは良かったわ。」
そこでキャスリーンはひと口お茶を含んだ。それで、今さっき思い出したように、
「ところでお子様は男の子?女の子?」
と尋ねた。
「女のお子様でいらっしゃいます。」
「まあ!きっと可愛らしいのでしょうね。アマンダ様は可憐なお姿のお方ですから。」
そう確かに言ったのだが、フランツも侍女頭も何も言葉を発することは無く、返答らしい返答は無かった。
「お祝いの品はどうしようかしら。」
キャスリーンは言うともなしに独り言を言うのにも、フランツも侍女頭も口籠った様に視線を外す。
妾の子の誕生を喜ぶ本妻に、使用人達はどう答えて良いのか戸惑うのであった。
いつもなら朝餉の時間であろう頃に、フランツがキャスリーンに耳打ちをした。
今日は朝が早かったから、家政も執務も早目に熟し、この後は編み物でもしようかと思っていた。我が子の誕生にレース編みのお包みを編んでいる途中であった。
「あちらのお方が取り乱されているご様子です。」
「まあ、何故?」
フランツが小声で話すものだから、つられてキャスリーンまで小声になる。
「旦那様が出仕なさったからと。」
「それは..ねえ、フランツ。それってどう言う事かしら。その、私、そう言うのどうも疎くて。
旦那様はお務めがあるのだから出仕なさるのは当然の事だし、けれども今朝は特別な日で...」
「ええ、まあ、お悩みになるのは致し方無い事かと。旦那様は殿下のお側付きでいらっしゃいますから。それにこう申しては言葉が悪うございますが、あちら様はお妾様です。」
「それは...。確かにそうかも知れないわね。妻であっても殿方のお勤めを引き止めるのはどうかと思うわね。」
「流石はキャスリーン様です。ご理解がお早い。」
「え?それ程の事でも無いでしょう。」
「それ程です。」
ヒソヒソこしょこしょと長話しをしてから漸く、
「お義母様へは?」
「ロアンが知らせを。」
「そう。ならば私のする事は何も無いわね。」
キャスリーンはその一瞬で思考を切り替えた。
「明日は出ても大丈夫ね。」
「はい。宜しいかと。」
「そう。なら予定通りに。」
「承知致しました。」
明日はアダムの邸に行く。
午後早目に行ってアダムの帰宅を出迎える。それはキャスリーンの楽しみであった。愛しい人の帰りをホールで待って、いよいよ馬車の扉が開いて、あの精悍な男が現れる。その瞬間を見るのが嬉しくて仕方が無い。
アマンダ嬢とお子が無事ならば、キャスリーンの存在は関係ないだろう。
キャスリーンの思考は羽が生えて、既に伯爵邸に飛んでいた。
夕餉を迎える頃、アルフォンが部屋を訪れた。
部屋に入るとアルフォンは、今だに居並ぶ婦人らの肖像画に圧を掛けられた様な顔をする。
「子が生まれた。」
「ええ、今朝程伺いましたわ。旦那様、お目出度うございます。」
キャスリーンは深く頭を垂れた。
「いや、いいんだ。んっんっ、その、女児だった。」
妙な咳払いをしてからアルフォンは子の性別を知らせた。
「その様でございますね。どちらに似られてもお可愛いお子様でしょうね。」
そう言うキャスリーンに、アルフォンは複雑そうな顔を見せた。
「どうかな。私には似ていない様だから解らんがな。」
「まあ。」
どうやら赤子は母似であるらしい。
アルフォンはそれで話しは終いであったらしく、会話の趣旨を切り替えた。
「変わりは無いか。」
「ええ。」
「不足は無いか。」
「大丈夫ですわ。」
「君は何も考えずとも良い。私の妻は君一人だ。」
いつかの台詞を繰り返すアルフォン。
「嫡子は君が生む子だ。」
それは義母も望むところであった。
この侯爵家をぶっ壊せと、何とも破天荒な物言いをしていた。
「承知しておりますわ、旦那様。」
キャスリーンは笑みで答えた。
その笑みに、アルフォンは何処か救われた様な顔をした。
予定より随分早くアマンダ嬢が産気付いた。
明け方から落ち着かない気配を感じて、キャスリーンは早目に身支度を整えた。
キャスリーンは侍女の手を借りずに身を整えられる。懐妊してからは侍女に任せていたのだが、虫の知らせの様な予感に黙っておられず、着やすい妊婦用のワンピースに着替え身を整えて様子を伺っていた。
朝日が昇る少し前、空が桃色に染まり出す。夏の夜明けは早い。冬であれば真夜中の頃でも、夏の初めの空には宵闇の向こうに太陽の端が見えていた。
「キャスリーン様、お目覚めで。」
小さなノックの後にフランツの声がして、
「ええ、フランツ。入って良いわよ。」
そう答えれば、フランツは静かに扉を開けた。
「あちらでお産が始まりました。」
フランツは無闇にアマンダ嬢の名を口にしない。
「まあ、それは。産婆は?」
「夜半の内に。」
「そう。」
キャスリーンには為す術も無いのだから仕方が無い。身支度を整えてしまったから、早目に家政に取り掛かった。
その前に窓を開け放ち新鮮な空気を入れる。
「御婦人方、気持ちの良い朝ですわね。」
壁に掛けられた面々に挨拶をする。
アマンダが心無し心配気な顔に見えるのは、キャスリーンの心象を反映してか。
フランツが熱いグリーンティーを持って来てくれて、それでほっと一息付いていると、侍女頭が訪れた。
「お産まれです。」
「もう?早いわね。」
「ええ。安産だったようです。」
「まあ、それは良かったわね。」
「それが、とてもお小さくて。早産でしたから。」
「大丈夫なの?お子様は。」
「まだ何とも。」
「アマンダ様は?」
「お元気です。お身体を清めてお休みになられていらっしゃいます。」
「それは良かったわ。」
そこでキャスリーンはひと口お茶を含んだ。それで、今さっき思い出したように、
「ところでお子様は男の子?女の子?」
と尋ねた。
「女のお子様でいらっしゃいます。」
「まあ!きっと可愛らしいのでしょうね。アマンダ様は可憐なお姿のお方ですから。」
そう確かに言ったのだが、フランツも侍女頭も何も言葉を発することは無く、返答らしい返答は無かった。
「お祝いの品はどうしようかしら。」
キャスリーンは言うともなしに独り言を言うのにも、フランツも侍女頭も口籠った様に視線を外す。
妾の子の誕生を喜ぶ本妻に、使用人達はどう答えて良いのか戸惑うのであった。
いつもなら朝餉の時間であろう頃に、フランツがキャスリーンに耳打ちをした。
今日は朝が早かったから、家政も執務も早目に熟し、この後は編み物でもしようかと思っていた。我が子の誕生にレース編みのお包みを編んでいる途中であった。
「あちらのお方が取り乱されているご様子です。」
「まあ、何故?」
フランツが小声で話すものだから、つられてキャスリーンまで小声になる。
「旦那様が出仕なさったからと。」
「それは..ねえ、フランツ。それってどう言う事かしら。その、私、そう言うのどうも疎くて。
旦那様はお務めがあるのだから出仕なさるのは当然の事だし、けれども今朝は特別な日で...」
「ええ、まあ、お悩みになるのは致し方無い事かと。旦那様は殿下のお側付きでいらっしゃいますから。それにこう申しては言葉が悪うございますが、あちら様はお妾様です。」
「それは...。確かにそうかも知れないわね。妻であっても殿方のお勤めを引き止めるのはどうかと思うわね。」
「流石はキャスリーン様です。ご理解がお早い。」
「え?それ程の事でも無いでしょう。」
「それ程です。」
ヒソヒソこしょこしょと長話しをしてから漸く、
「お義母様へは?」
「ロアンが知らせを。」
「そう。ならば私のする事は何も無いわね。」
キャスリーンはその一瞬で思考を切り替えた。
「明日は出ても大丈夫ね。」
「はい。宜しいかと。」
「そう。なら予定通りに。」
「承知致しました。」
明日はアダムの邸に行く。
午後早目に行ってアダムの帰宅を出迎える。それはキャスリーンの楽しみであった。愛しい人の帰りをホールで待って、いよいよ馬車の扉が開いて、あの精悍な男が現れる。その瞬間を見るのが嬉しくて仕方が無い。
アマンダ嬢とお子が無事ならば、キャスリーンの存在は関係ないだろう。
キャスリーンの思考は羽が生えて、既に伯爵邸に飛んでいた。
夕餉を迎える頃、アルフォンが部屋を訪れた。
部屋に入るとアルフォンは、今だに居並ぶ婦人らの肖像画に圧を掛けられた様な顔をする。
「子が生まれた。」
「ええ、今朝程伺いましたわ。旦那様、お目出度うございます。」
キャスリーンは深く頭を垂れた。
「いや、いいんだ。んっんっ、その、女児だった。」
妙な咳払いをしてからアルフォンは子の性別を知らせた。
「その様でございますね。どちらに似られてもお可愛いお子様でしょうね。」
そう言うキャスリーンに、アルフォンは複雑そうな顔を見せた。
「どうかな。私には似ていない様だから解らんがな。」
「まあ。」
どうやら赤子は母似であるらしい。
アルフォンはそれで話しは終いであったらしく、会話の趣旨を切り替えた。
「変わりは無いか。」
「ええ。」
「不足は無いか。」
「大丈夫ですわ。」
「君は何も考えずとも良い。私の妻は君一人だ。」
いつかの台詞を繰り返すアルフォン。
「嫡子は君が生む子だ。」
それは義母も望むところであった。
この侯爵家をぶっ壊せと、何とも破天荒な物言いをしていた。
「承知しておりますわ、旦那様。」
キャスリーンは笑みで答えた。
その笑みに、アルフォンは何処か救われた様な顔をした。
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