黒革の日記

桃井すもも

文字の大きさ
上 下
60 / 68

【60】

しおりを挟む
夏の初めの頃である。
予定より随分早くアマンダ嬢が産気付いた。

明け方から落ち着かない気配を感じて、キャスリーンは早目に身支度を整えた。

キャスリーンは侍女の手を借りずに身を整えられる。懐妊してからは侍女に任せていたのだが、虫の知らせの様な予感に黙っておられず、着やすい妊婦用のワンピースに着替え身を整えて様子を伺っていた。

朝日が昇る少し前、空が桃色に染まり出す。夏の夜明けは早い。冬であれば真夜中の頃でも、夏の初めの空には宵闇の向こうに太陽の端が見えていた。

「キャスリーン様、お目覚めで。」
小さなノックの後にフランツの声がして、

「ええ、フランツ。入って良いわよ。」
そう答えれば、フランツは静かに扉を開けた。

「あちらでお産が始まりました。」

フランツは無闇にアマンダ嬢の名を口にしない。

「まあ、それは。産婆は?」
「夜半の内に。」
「そう。」

キャスリーンには為す術も無いのだから仕方が無い。身支度を整えてしまったから、早目に家政に取り掛かった。

その前に窓を開け放ち新鮮な空気を入れる。

「御婦人方、気持ちの良い朝ですわね。」

壁に掛けられた面々に挨拶をする。
アマンダが心無し心配気な顔に見えるのは、キャスリーンの心象を反映してか。

フランツが熱いグリーンティーを持って来てくれて、それでほっと一息付いていると、侍女頭が訪れた。

「お産まれです。」
「もう?早いわね。」
「ええ。安産だったようです。」
「まあ、それは良かったわね。」
「それが、とてもお小さくて。早産でしたから。」
「大丈夫なの?お子様は。」
「まだ何とも。」
「アマンダ様は?」
「お元気です。お身体を清めてお休みになられていらっしゃいます。」
「それは良かったわ。」

そこでキャスリーンはひと口お茶を含んだ。それで、今さっき思い出したように、

「ところでお子様は男の子?女の子?」
と尋ねた。

「女のお子様でいらっしゃいます。」
「まあ!きっと可愛らしいのでしょうね。アマンダ様は可憐なお姿のお方ですから。」
そう確かに言ったのだが、フランツも侍女頭も何も言葉を発することは無く、返答らしい返答は無かった。

「お祝いの品はどうしようかしら。」
キャスリーンは言うともなしに独り言を言うのにも、フランツも侍女頭も口籠った様に視線を外す。

妾の子の誕生を喜ぶ本妻に、使用人達はどう答えて良いのか戸惑うのであった。


いつもなら朝餉の時間であろう頃に、フランツがキャスリーンに耳打ちをした。

今日は朝が早かったから、家政も執務も早目に熟し、この後は編み物でもしようかと思っていた。我が子の誕生にレース編みのお包みを編んでいる途中であった。

「あちらのお方が取り乱されているご様子です。」

「まあ、何故?」

フランツが小声で話すものだから、つられてキャスリーンまで小声になる。

「旦那様が出仕なさったからと。」
「それは..ねえ、フランツ。それってどう言う事かしら。その、私、そう言うのどうも疎くて。
旦那様はお務めがあるのだから出仕なさるのは当然の事だし、けれども今朝は特別な日で...」
「ええ、まあ、お悩みになるのは致し方無い事かと。旦那様は殿下のお側付きでいらっしゃいますから。それにこう申しては言葉が悪うございますが、あちら様はお妾様です。」
「それは...。確かにそうかも知れないわね。妻であっても殿方のお勤めを引き止めるのはどうかと思うわね。」
「流石はキャスリーン様です。ご理解がお早い。」
「え?それ程の事でも無いでしょう。」
「それ程です。」

ヒソヒソこしょこしょと長話しをしてから漸く、

「お義母様へは?」
「ロアンが知らせを。」
「そう。ならば私のする事は何も無いわね。」
キャスリーンはその一瞬で思考を切り替えた。

「明日は出ても大丈夫ね。」
「はい。宜しいかと。」
「そう。なら予定通りに。」
「承知致しました。」

明日はアダムの邸に行く。
午後早目に行ってアダムの帰宅を出迎える。それはキャスリーンの楽しみであった。愛しい人の帰りをホールで待って、いよいよ馬車の扉が開いて、あの精悍な男が現れる。その瞬間を見るのが嬉しくて仕方が無い。

アマンダ嬢とお子が無事ならば、キャスリーンの存在は関係ないだろう。
キャスリーンの思考は羽が生えて、既に伯爵邸に飛んでいた。



夕餉を迎える頃、アルフォンが部屋を訪れた。
部屋に入るとアルフォンは、今だに居並ぶ婦人らの肖像画に圧を掛けられた様な顔をする。

「子が生まれた。」

「ええ、今朝程伺いましたわ。旦那様、お目出度うございます。」
キャスリーンは深く頭を垂れた。

「いや、いいんだ。んっんっ、その、女児だった。」
妙な咳払いをしてからアルフォンは子の性別を知らせた。

「その様でございますね。どちらに似られてもお可愛いお子様でしょうね。」

そう言うキャスリーンに、アルフォンは複雑そうな顔を見せた。

「どうかな。私には似ていない様だから解らんがな。」
「まあ。」

どうやら赤子は母似であるらしい。
アルフォンはそれで話しは終いであったらしく、会話の趣旨を切り替えた。

「変わりは無いか。」
「ええ。」
「不足は無いか。」
「大丈夫ですわ。」
「君は何も考えずとも良い。私の妻は君一人だ。」

いつかの台詞を繰り返すアルフォン。

「嫡子は君が生む子だ。」

それは義母も望むところであった。
この侯爵家をぶっ壊せと、何とも破天荒な物言いをしていた。

「承知しておりますわ、旦那様。」

キャスリーンは笑みで答えた。
その笑みに、アルフォンは何処か救われた様な顔をした。





しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

学生のうちは自由恋愛を楽しもうと彼は言った

mios
恋愛
学園を卒業したらすぐに、私は婚約者と結婚することになる。 学生の間にすることはたくさんありますのに、あろうことか、自由恋愛を楽しみたい? 良いですわ。学生のうち、と仰らなくても、今後ずっと自由にして下さって良いのですわよ。 9話で完結

妻と夫と元妻と

キムラましゅろう
恋愛
復縁を迫る元妻との戦いって……それって妻(わたし)の役割では? わたし、アシュリ=スタングレイの夫は王宮魔術師だ。 数多くの魔術師の御多分に漏れず、夫のシグルドも魔術バカの変人である。 しかも二十一歳という若さで既にバツイチの身。 そんな事故物件のような夫にいつの間にか絆され絡めとられて結婚していたわたし。 まぁわたしの方にもそれなりに事情がある。 なので夫がバツイチでもとくに気にする事もなく、わたしの事が好き過ぎる夫とそれなりに穏やかで幸せな生活を営んでいた。 そんな中で、国王肝入りで魔術研究チームが組まれる事になったのだとか。そしてその編成されたチームメイトの中に、夫の別れた元妻がいて……… 相も変わらずご都合主義、ノーリアリティなお話です。 不治の誤字脱字病患者の作品です。 作中に誤字脱字が有ったら「こうかな?」と脳内変換を余儀なくさせられる恐れが多々ある事をご了承下さいませ。 性描写はありませんがそれを連想させるワードが出てくる恐れがありますので、破廉恥がお嫌いな方はご自衛下さい。 小説家になろうさんでも投稿します。

【完結】愛に裏切られた私と、愛を諦めなかった元夫

紫崎 藍華
恋愛
政略結婚だったにも関わらず、スティーヴンはイルマに浮気し、妻のミシェルを捨てた。 スティーヴンは政略結婚の重要性を理解できていなかった。 そのような男の愛が許されるはずないのだが、彼は愛を貫いた。 捨てられたミシェルも貴族という立場に翻弄されつつも、一つの答えを見出した。

元妃は多くを望まない

つくも茄子
恋愛
シャーロット・カールストン侯爵令嬢は、元上級妃。 このたび、めでたく(?)国王陛下の信頼厚い側近に下賜された。 花嫁は下賜された翌日に一人の侍女を伴って郵便局に赴いたのだ。理由はお世話になった人達にある書類を郵送するために。 その足で実家に出戻ったシャーロット。 実はこの下賜、王命でのものだった。 それもシャーロットを公の場で断罪したうえでの下賜。 断罪理由は「寵妃の悪質な嫌がらせ」だった。 シャーロットには全く覚えのないモノ。当然、これは冤罪。 私は、あなたたちに「誠意」を求めます。 誠意ある対応。 彼女が求めるのは微々たるもの。 果たしてその結果は如何に!?

元婚約者が愛おしい

碧桜 汐香
恋愛
いつも笑顔で支えてくれた婚約者アマリルがいるのに、相談もなく海外留学を決めたフラン王子。 留学先の隣国で、平民リーシャに惹かれていく。 フラン王子の親友であり、大国の王子であるステファン王子が止めるも、アマリルを捨て、リーシャと婚約する。 リーシャの本性や様々な者の策略を知ったフラン王子。アマリルのことを思い出して後悔するが、もう遅かったのだった。 フラン王子目線の物語です。

夜会の顛末

豆狸
恋愛
「今夜の夜会にお集まりの皆様にご紹介させてもらいましょう。俺の女房のアルメと伯爵令息のハイス様です。ふたりはこっそり夜会を抜け出して、館の裏庭で乳繰り合っていやがりました」

旦那様に離縁をつきつけたら

cyaru
恋愛
駆け落ち同然で結婚したシャロンとシリウス。 仲の良い夫婦でずっと一緒だと思っていた。 突然現れた子連れの女性、そして腕を組んで歩く2人。 我慢の限界を迎えたシャロンは神殿に離縁の申し込みをした。 ※色々と異世界の他に現実に近いモノや妄想の世界をぶっこんでいます。 ※設定はかなり他の方の作品とは異なる部分があります。

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

処理中です...