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アマンダの日記を本邸から持ち出したあの日以来、キャスリーンは本邸へは一歩も足を踏み入れていなかった。
侯爵家の家政は今もキャスリーンが手掛けているが、それらはロアンやフランツを介していたし、あのアルフォンが今ではキャスリーンの様子を伺おうと度々離れを訪れていたから、キャスリーンの生活は離れの邸で完結していた。
気掛かりは図書室であった。
アルフォンからその管理を任されたまでは良かったが、アマンダ嬢の突入劇に始まりキャスリーンの離れへの移転とそれに続く懐妊で、すっかり手付かずのままになっていた。
侯爵邸には東の居住区に多くの蔵書を誇る図書室があるが、対する西側の図書室は年代の古い書物を収める閉架書庫の役割を果たしていた。
残念なのは、それら価値の高い書物や古書の数々が存在を忘れ去られて打ち捨てられる様に放置されていた事である。
偶々偶然その存在を知ったキャスリーンであったが、図書室は孤独なキャスリーンに侯爵家で生きる喜びと意義を齎した。何よりアマンダの黒革の日記はそこに埋もれていたのである。
キャスリーンが本邸にいた頃に自身のアイデンティティを保てたのは、アマンダとあの図書室が存在したからだろう。
その図書室の整備がアルフォンの手により始まっていると聞いたのは、当の本人であるアルフォンの口からであった。
レオナルドが状態を把握しているからと、アルフォンは彼に全てを一任しているのだが、掛かる費用もアルフォンから賄われているという。
それにより、図書室はキャスリーンの手を離れた。同時に、キャスリーンが持つ本邸での役割と居場所も消えてしまったと思われた。
目を閉じれば鮮やかな記憶が蘇る。
あの暗がりで緞帳を上げた途端に差し込む日の光、淀んだ空気に舞う埃と鼻腔を擽る古書の匂い。壁を覆う書物の背の色。
キャスリーンは、記憶の彼方に図書室での思い出を落とし込んだ。
こうしてキャスリーンの本邸での居場所は消えて、本邸へ残す想いも完全に消失したのである。
「キャスリーン。変わりは無いか。」
嫁いだ当初は冷遇とまではいかないまでも、距離のある冷めた対応を取り続けていたアルフォンが、今や足繁くキャスリーンの私室を訪れる。
離れに押しやった本妻への気不味さからなのか、キャスリーンの体調やら不足が無いのかやら、家政に負担を感じてはいないかやら、毎回何某かの理由で訪う。流石にアマンダ嬢を気にしてか、泊まって行く事は無い。
キャスリーンが本邸にいた折には、アルフォンは週の幾日かをこの離れでアマンダ嬢と過ごしていた。離れに住まうアマンダこそが最愛であると、内にも外にも隠す事も無かった。お陰でキャスリーンは不遇のお飾り妻と揶揄されて、社交での身の置きどころに苦労した。
そのキャスリーンは、今は孤独に放置される夫人ではない。
アルフォンに最愛があるように、キャスリーンも最愛の男性に巡り会えた。腹には彼の子を宿している。
アルフォンからは離縁を拒絶されていたし、何より義母との対面の後に、キャスリーンは彼女の意志と提案に思うところがあった。
生まれ出ずる我が子を、侯爵家の籍で育てる。
一見、血を違える暴挙に思われるも、現当主と前当主の夫人がそれを認め望んでいる。
これからは先の代ではアダムの血を受け継ぐ子が本流となって、侯爵家に新たな息吹を吹き込む。
それはまるで冬枯れの大地に春を迎える新芽が芽吹く様だと思われた。これから侯爵家はアダムから続く血を連綿と引き継いで行くのだ。
キャスリーンは、目の前に展望が開けて明るい未来が訪れる眩しい予感を覚た。
傘下の一門は義母が抑えるというからそちらは任せて、只ひたすらに腹に育つ我が子を慈しんだ。
凍てつく冬は日に日に温み、夜明けが早く訪れる様になった。
春が来る。
長いトンネルを通り抜けたように、キャスリーンは暗闇が後ろへ後ろへと退くのが解った。
キャスリーンの懐妊は、社交では一足先に懐妊していたアマンダ嬢と共に格好の話題となった筈が、面白いほどその声はキャスリーンの耳には届かなかった。
まるで箝口令が敷かれた様に、お喋り雀達の口を塞いでいる。
それが侯爵家の力なのかアダムの威力なのかは解らないが、お陰でキャスリーンは心やすく過ごせていた。
今はただ、我が子が男児であるのか女児であるのか、名は何としよう、アダムな何と考えているだろう、そんな幸福な悩み事に心の中はを埋め尽くされていた。
離れの邸は赤髪の令嬢アマンダの為の城であった。愛と言う名の下に彼女を囲う美しい茨の城である。
そこには今やキャスリーンが主となって、彼女の数えるほどしか無い大切な人や物だけを側にして暮らしている。
キャスリーンが離れを棲家としてから、ここには珍客ばかりが訪れる。
「随分張って来たわね。腰が苦しいのでは?階段には十分気を付けなくてはいけないわ。」
アンソニー王太子殿下が先触れ無しに訪れるのにはもう慣れた。
「そうそう、これよ。東の国の茶葉なのよ。紅茶と同じ茶葉なのに緑の色をいているの。若々しい爽やかな味よ。試してごらんなさい。」
婚姻初期から距離を置かれた戸籍上の夫なら、今では日に一度は訪れる。午前と午後の二度訪れる事もある。
「もう名前は決めたの?アダム様は何と仰っておられるのかしら。」
「まあ、アマンダ。貴女、こんな所に隠れていたの?道理で本邸に気配を感じなかった筈よ。そうね、ここは貴女には懐かしい住まいですもの。どう?戻って来られた感想は。」
キャスリーンが主となった離れの私室に足を踏み入れたテレーゼ夫人は、キャスリーンの背後に微笑むアマンダの肖像画に語り掛けた。
その言葉にアマンダは、はにかむ様な笑みを浮かべているのだった。。
侯爵家の家政は今もキャスリーンが手掛けているが、それらはロアンやフランツを介していたし、あのアルフォンが今ではキャスリーンの様子を伺おうと度々離れを訪れていたから、キャスリーンの生活は離れの邸で完結していた。
気掛かりは図書室であった。
アルフォンからその管理を任されたまでは良かったが、アマンダ嬢の突入劇に始まりキャスリーンの離れへの移転とそれに続く懐妊で、すっかり手付かずのままになっていた。
侯爵邸には東の居住区に多くの蔵書を誇る図書室があるが、対する西側の図書室は年代の古い書物を収める閉架書庫の役割を果たしていた。
残念なのは、それら価値の高い書物や古書の数々が存在を忘れ去られて打ち捨てられる様に放置されていた事である。
偶々偶然その存在を知ったキャスリーンであったが、図書室は孤独なキャスリーンに侯爵家で生きる喜びと意義を齎した。何よりアマンダの黒革の日記はそこに埋もれていたのである。
キャスリーンが本邸にいた頃に自身のアイデンティティを保てたのは、アマンダとあの図書室が存在したからだろう。
その図書室の整備がアルフォンの手により始まっていると聞いたのは、当の本人であるアルフォンの口からであった。
レオナルドが状態を把握しているからと、アルフォンは彼に全てを一任しているのだが、掛かる費用もアルフォンから賄われているという。
それにより、図書室はキャスリーンの手を離れた。同時に、キャスリーンが持つ本邸での役割と居場所も消えてしまったと思われた。
目を閉じれば鮮やかな記憶が蘇る。
あの暗がりで緞帳を上げた途端に差し込む日の光、淀んだ空気に舞う埃と鼻腔を擽る古書の匂い。壁を覆う書物の背の色。
キャスリーンは、記憶の彼方に図書室での思い出を落とし込んだ。
こうしてキャスリーンの本邸での居場所は消えて、本邸へ残す想いも完全に消失したのである。
「キャスリーン。変わりは無いか。」
嫁いだ当初は冷遇とまではいかないまでも、距離のある冷めた対応を取り続けていたアルフォンが、今や足繁くキャスリーンの私室を訪れる。
離れに押しやった本妻への気不味さからなのか、キャスリーンの体調やら不足が無いのかやら、家政に負担を感じてはいないかやら、毎回何某かの理由で訪う。流石にアマンダ嬢を気にしてか、泊まって行く事は無い。
キャスリーンが本邸にいた折には、アルフォンは週の幾日かをこの離れでアマンダ嬢と過ごしていた。離れに住まうアマンダこそが最愛であると、内にも外にも隠す事も無かった。お陰でキャスリーンは不遇のお飾り妻と揶揄されて、社交での身の置きどころに苦労した。
そのキャスリーンは、今は孤独に放置される夫人ではない。
アルフォンに最愛があるように、キャスリーンも最愛の男性に巡り会えた。腹には彼の子を宿している。
アルフォンからは離縁を拒絶されていたし、何より義母との対面の後に、キャスリーンは彼女の意志と提案に思うところがあった。
生まれ出ずる我が子を、侯爵家の籍で育てる。
一見、血を違える暴挙に思われるも、現当主と前当主の夫人がそれを認め望んでいる。
これからは先の代ではアダムの血を受け継ぐ子が本流となって、侯爵家に新たな息吹を吹き込む。
それはまるで冬枯れの大地に春を迎える新芽が芽吹く様だと思われた。これから侯爵家はアダムから続く血を連綿と引き継いで行くのだ。
キャスリーンは、目の前に展望が開けて明るい未来が訪れる眩しい予感を覚た。
傘下の一門は義母が抑えるというからそちらは任せて、只ひたすらに腹に育つ我が子を慈しんだ。
凍てつく冬は日に日に温み、夜明けが早く訪れる様になった。
春が来る。
長いトンネルを通り抜けたように、キャスリーンは暗闇が後ろへ後ろへと退くのが解った。
キャスリーンの懐妊は、社交では一足先に懐妊していたアマンダ嬢と共に格好の話題となった筈が、面白いほどその声はキャスリーンの耳には届かなかった。
まるで箝口令が敷かれた様に、お喋り雀達の口を塞いでいる。
それが侯爵家の力なのかアダムの威力なのかは解らないが、お陰でキャスリーンは心やすく過ごせていた。
今はただ、我が子が男児であるのか女児であるのか、名は何としよう、アダムな何と考えているだろう、そんな幸福な悩み事に心の中はを埋め尽くされていた。
離れの邸は赤髪の令嬢アマンダの為の城であった。愛と言う名の下に彼女を囲う美しい茨の城である。
そこには今やキャスリーンが主となって、彼女の数えるほどしか無い大切な人や物だけを側にして暮らしている。
キャスリーンが離れを棲家としてから、ここには珍客ばかりが訪れる。
「随分張って来たわね。腰が苦しいのでは?階段には十分気を付けなくてはいけないわ。」
アンソニー王太子殿下が先触れ無しに訪れるのにはもう慣れた。
「そうそう、これよ。東の国の茶葉なのよ。紅茶と同じ茶葉なのに緑の色をいているの。若々しい爽やかな味よ。試してごらんなさい。」
婚姻初期から距離を置かれた戸籍上の夫なら、今では日に一度は訪れる。午前と午後の二度訪れる事もある。
「もう名前は決めたの?アダム様は何と仰っておられるのかしら。」
「まあ、アマンダ。貴女、こんな所に隠れていたの?道理で本邸に気配を感じなかった筈よ。そうね、ここは貴女には懐かしい住まいですもの。どう?戻って来られた感想は。」
キャスリーンが主となった離れの私室に足を踏み入れたテレーゼ夫人は、キャスリーンの背後に微笑むアマンダの肖像画に語り掛けた。
その言葉にアマンダは、はにかむ様な笑みを浮かべているのだった。。
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