黒革の日記

桃井すもも

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【53】

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離れの客間、アルフォンとテーブルを挟んでキャスリーンは下座に座っている。
部屋の隅にはフランツが控えていた。

「旦那様。」

キャスリーンは隠し切れぬ喜びから、微かに笑みを浮かべた。

「私、子を宿しましたの。」
「今、何と言った、」

「ですから子を「誰の、」
「アダム様でございます。」

アルフォンはそこで口を噤んだ。
感情の浮かばぬ顔は神話の戦士の様に美しい。

微動だにしない夫を見つめる。叱責なら受ける覚悟であるし、罪だと責められたならそれも受け止めるつもりである。

喩え貴族婦人の評判を失っても、アダムとの子を得られた喜びに優る事など他には無く、キャスリーンにとってそれ以外は何を失っても怖くはなかった。


「旦那様。私は貴方様の妻に相応しくはありません。」

精巧な銅像のように固まったまま動かないアルフォンに、キャスリーンは静かに語り掛けた。

「いや、いいんだ。」
「え?」
「いいんだ、君はそのままで、いいんだ、ここに居てくれ、」
「旦那様?」
「ああ、」

何処か呆けてしまった様なアルフォンに違和感を覚えて、キャスリーンは戸惑った。

するとアルフォンは徐ろに立ち上がり、そうしてテーブルを回り込んでキャスリーンへ近付く。
フランツがそれを緊張の面持ちで見つめている。キャスリーンにも僅かに緊張が走った。

アルフォンはキャスリーンの直ぐ側まで来ると、いつかの様にキャスリーンの膝下に跪いた。

「触れても良いか、」

アルフォンの思わぬ言葉にキャスリーンは一瞬驚いたが、直ぐに「ええ」と答えた。

アルフォンはゆっくりと手を伸ばし、そうして大きな掌をキャスリーンの腹に当てる。

「まだ何も感じませんわ。とても小さいのだそうです。親指ほどに。」
「親指ほど?」
「ええ。勾玉の様な形でいるのだそうです。」
「そうか、」

アルフォンはゆっくりと掌を左右に動かし、キャスリーンのまだ膨らんでいない腹を撫でた。

「楽しみだな。君に似たなら美しいだろう。」
「..楽しみにして下さいますの?」
「ああ」
「有難うございます。旦那様。」

それは思いも掛けない言葉であった。
不貞の責を問われての離縁もあろうと思っていた。それなのにアルフォンは、楽しみにしていると言う。

「君の子か。君が生むのだから、この子は侯爵家の子だ。」
「旦那様、それは、」
「キャスリーン、この子は、侯爵家の子だ。」

キャスリーンはそれには答えなかった。
侯爵家には先にアマンダ嬢の子が生まれる。最愛の女性が生むのだから、嫡子はアマンダの子だろう。

キャスリーンが生む子に侯爵家の血は一滴も流れていない。アダムの生家である公爵家の血を引く子をノーマン一族に取り込むことになる。
他家から嫁いだキャスリーンが、侯爵家の名の下に子を生むのは托卵そのものと言える。

それはまるで過去のアマンダを彷彿とさせた。キャスリーンは我が子にアマンダと同じ立場を望んではいない。

「頼む、キャスリーン。ここで子を生んでくれ。君は私の妻だ。君の生む子は私の子だ。君だけが、」

そこまで言ってアルフォンは、キャスリーンに腕を伸ばしてその腰を抱き寄せた。端から見れば、それはまるで縋る様に見えた。

そうしてアルフォンはキャスリーンの腹に頬を寄せて、まだ聞こえぬ心音を確かめるように耳を澄ませた。

「旦那様、この子は貴方の血筋では、」
「いや、君は私の妻だ。君が生むなら私の子だ。」

キャスリーンの腹に耳を押し付けながら、アルフォンは今度ははっきりと言った。

「私はこの子に肩身の狭い思いはさせたくはありません。父が誰であるのかも知っていて欲しいと。」

アルフォンはゆっくりと面を上げて、見下ろすキャスリーンの瞳を見つめた。

「認知はさせない。」
「それは、」
「この子は我がノーマン侯爵家の子だ。誰が何と言おうと。」

「伯爵などに渡さない。」
尚もキャスリーンの腰を抱き締めたまま、アルフォンは呟いた。

まるでその言葉だけが意志を持つようにキャスリーンの耳に響いた。

キャスリーンはアルフォンに離縁を求められたなら、直ぐさま承知するつもりであったが、だからと言ってアダムとの婚姻を望むのかと云えばそうではなかった。

アダムは国の政を担う重席にある。
彼が醜聞めいた世間の耳目に触れる事をキャスリーンは望んではいなかった。アダムと真実愛し合えるのならそれだけで良く、婚姻などと云う決め事にアダムを嵌め込む事など考えてもいない。

婚姻が守られるべき約束事で真実清廉な縛りであるのなら、キャスリーンの無意味な婚姻生活は初めから起こらなかった筈である。

本心を言えば、貴族の常識を恥も外聞も無く覆し、隠すことなくアマンダを優先して本妻であるキャスリーンを蔑ろにした侯爵家に、キャスリーンの行為を責められる謂れはないと思っている。

キャスリーンにとっては、生まれる我が子がアダムの子である事だけが大切なのであった。


「認知はさせない。」
「そこはアダ厶様とお話し致します。」
「それには及ばない。私が直接話す。」
「私はこの子には真実の父を伝えます。」
「構わない。」


アルフォンは抱き寄せたキャスリーンから身を離して、それからゆっくりと立ち上がった。

その表情は先程とは打って変わって、キャスリーンが知るいつものアルフォンのであった。


アルフォンとアダムとの間にどんな話し合いがなされたのか、キャスリーンは聞くことは叶わなかった。

いつの間に話し合いが持たれたのか、数日後に離れに訪れたアルフォンから、アダムが承知したと聞かされた。

「侯爵家の子として不足なく育てる事を誓う。彼にもそう話しを通した。」

そう言ったアルフォンをキャスリーンは信じるしか無かった。
アルフォンはキャスリーンに対して不誠実な夫であったが、偽りを述べた事は無い。

程なくしてアダムから文が届いた。 

暫くは侯爵家に預けるが、僅かでも不遇を認めたならその時には即座に我が子として引き取るから、君もそのつもりでいる様に。その際には遠慮なく君を伯爵家に迎え入れる。
そう書かれていた。

その勢いのある言い草に、まあ、アダム様ったら遠慮をなさっていらっしゃったの?とキャスリーンからは笑みが零れるのであった。



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