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「君が度々邸を空けていると聞く。何処へ行ってる?」
この方はこんな所にいて良いのだろうか。
本邸では最愛の方が待っているだろう。
「答えるんだ、キャスリーン。」
大きな体躯の男に見下ろされて、キャスリーンの顔に影が降りた。アルフォンはキャスリーンを見下ろすほど近くにいた。
今は離れの私室で、キャスリーンは夕餉を取っていた。当然、本邸でも晩餐の時間であるから、アマンダ嬢も食堂でアルフォンの訪れを待っている筈である。
カトラリーから手を外し膝の上に揃えてから、キャスリーンはアルフォンを見上げた。
「旦那様、それを誰から聞きましたの?」
「ロアンだ。」
「まあ。」
そうだろう。彼はアルフォンに忠実だ。
「君が度々外泊していると。何処に行っている。誰と会っている。」
キャスリーンは、秘しておく必要を感じなかった。彼女にとってアダムとの関係はタブーではなかった。寧ろ、アルフォンが最愛のアマンダを隠すことが無い様に、キャスリーンにとってもアダムとの関係は純粋な愛情から生まれた関係で、それを誇らしく思うのだった。
「チェイスター伯爵様ですわ。」
「何?!」
「アダム・マクドネル・チェイスター様です。」
「何を言っているんだ、」
「私の最愛のお方です。」
「何だって。」
アルフォンは声を潜めた。それが彼が激しい感情を抑える術であったのだが、キャスリーンはそんな彼の癖を知らなかった。
「君は不貞を働いているのか。」
「不貞?」
「そうだろう。他に何と云う。」
キャスリーンは椅子に座したまま、キャスリーンに手の届くほど近く立ち竦むアルフォンのシトリンの瞳を見つめた。
「不貞とは、心を他に移すと云うことなのでしょうか。」
「そうだ。」
「であれば、私は不貞など起こしておりません。貴方も私も。
だって、貴方と私は初めから互いに心など持ち合わせていなかったではありませんか。」
「何を言っている?」
「貴方は初めからアマンダ様を愛していらした。そうして私はアダム様を愛した。初めから心を別々に持っているのなら、それの何処に不貞の誹りを受けるのでしょう。」
「君は、」
「旦那様。良い機会です。アマンダ様を正式に妻としてお迎えになられては如何でしょうか。お二人とも私に関わるのは面白く無い事ばかりでしょう。私は台風の目になりたい訳ではないのです。」
「私の妻は君だ。」
「何故そこに拘るのです?世間では貴方の真の妻がどなたであるのか、既に承知の事実であるというのに。」
「君は私を愛していないのか?」
「どうしてそれをお尋ねになります?貴方と交わるのは身体ばかりであったのに。」
「何?」
「貴方様がお望みならば離縁を受け入れます、旦那様。今のままでは、貴方もアマンダ様も幸せではないでしょう。」
「...、君もそうなのか?」
「いいえ。」
そこでキャスリーンは青い瞳を細めた。
あどけなさの残る笑みが浮かぶ。
「私はとても幸せです。この世の最愛の方に出会えましたもの。何処にいても、離れていても、私があのお方を忘れる事などございません。今世ばかりではありませんのよ。来世まであの方を愛すると神に誓っておりますもの。」
アルフォンは、その言葉に何かを根こそぎ落とした様な蒼白な顔をした。それからゆるりと腰が降りて膝立ちをする姿勢となった。
少し前にもこんな姿を見た記憶が蘇る。
今度もどうやら泣いてはいない様だ。
キャスリーンは、アルフォンの色を無くした顔を見守った。
「大丈夫ですか?旦那様。」
「...ああ」
どうやらキャスリーンの声は聴こえているらしい。
「キャスリーン、」
「はい。」
「キャスリーン、」
「はい。何でございましょう。」
「君とは離縁などしない、」
「まあ。」
「別れたくない、」
「...ですが、アマンダ様は、」
「いいんだ、彼女はいいんだ。」
キャスリーンは椅子に座ったまま膝立ちするアルフォンを見つめる。アルフォンの視線は虚空を見つめていた。二人の視線が合うことはない。
視線の合わぬまま、アルフォンは続けた。
「君はここに居るんだ。ここに居てくれ。居るだけでいいんだ。」
アルフォンはそこで漸くキャスリーンに視線を合わせた。
それから手を伸ばし、膝に置かれていたキャスリーンの手を握る。剣を持つ手は大きく温かく剣ダコがザラリと触れた。
「君はここに居てくれるだけでいいんだ。」
「承知致しました。旦那様。」
キャスリーンにとって、アルフォンもアマンダ嬢も、ノーマン侯爵家も一族も、何もかもどうでも良かった。
キャスリーンが居ようと居まいと此処は何一つ変わらない。ノーマン侯爵家はこれからも権勢を振るい繁栄し続けることだろう。そこにキャスリーンは夫人として名を残すだけで、大きな一族の傘の下にキャスリーンが入る訳ではない。
キャスリーンとは初めからアマンダ嬢を迎える為に飾られた妻であって、そんな夫や義母の思惑に関わる必要はもう無いと思われた。
義母はアマンダ嬢を義父の命が続く限り侯爵家に留め置くだろう。何より彼女はアルフォンの最愛だ。
侯爵家にアマンダ嬢は必須の存続であるのなら、そちらはそちらで好きに愛と復讐劇を繰り広げてくれれば良い。
「ええ、それでは私は変わらずこれからもこちらにおりましょう。」
キャスリーンはアマンダが過ごしたこの部屋にいて、アダムを愛しアダムの愛を一身に受けて我が身の内に生まれる命に愛を注いで生きて行く。赤髪のアマンダと共に生きて行く。
アルフォンは救われた様な顔をしてキャスリーンを見上げた。
「ああ、君はここに居てくれ。それだけでいい、それだけでいいんだ。」
そう言って握ったキャスリーンの手に額を押し当てた。救いを求める罪びとが慈悲を願い縋る様に、大きな背が震えて見えた。
その晩。
キャスリーンは独り寝の寝台に横たわり、純白の飾り模様が広がる天井を見上げていた。
アマンダが死の間際に見上げただろう天井。
浮き上がるように彫られた花弁模様は時の経過を感じさせない。美しい天井は無垢の天界を思わせる。
「あ、」
そこでキャスリーンは感じ取った。確かな予感。
「ああ、アマンダ。」
横たわるキャスリーンの身体にアマンダの気配が降り立って二人の身体が沁み込む様に重なりあう。
「アマンダ、貴女も解った?」
この身の微かな兆しをアマンダも解っただろうか。
キャスリーンは真っ平らな腹を優しく撫でた。
この方はこんな所にいて良いのだろうか。
本邸では最愛の方が待っているだろう。
「答えるんだ、キャスリーン。」
大きな体躯の男に見下ろされて、キャスリーンの顔に影が降りた。アルフォンはキャスリーンを見下ろすほど近くにいた。
今は離れの私室で、キャスリーンは夕餉を取っていた。当然、本邸でも晩餐の時間であるから、アマンダ嬢も食堂でアルフォンの訪れを待っている筈である。
カトラリーから手を外し膝の上に揃えてから、キャスリーンはアルフォンを見上げた。
「旦那様、それを誰から聞きましたの?」
「ロアンだ。」
「まあ。」
そうだろう。彼はアルフォンに忠実だ。
「君が度々外泊していると。何処に行っている。誰と会っている。」
キャスリーンは、秘しておく必要を感じなかった。彼女にとってアダムとの関係はタブーではなかった。寧ろ、アルフォンが最愛のアマンダを隠すことが無い様に、キャスリーンにとってもアダムとの関係は純粋な愛情から生まれた関係で、それを誇らしく思うのだった。
「チェイスター伯爵様ですわ。」
「何?!」
「アダム・マクドネル・チェイスター様です。」
「何を言っているんだ、」
「私の最愛のお方です。」
「何だって。」
アルフォンは声を潜めた。それが彼が激しい感情を抑える術であったのだが、キャスリーンはそんな彼の癖を知らなかった。
「君は不貞を働いているのか。」
「不貞?」
「そうだろう。他に何と云う。」
キャスリーンは椅子に座したまま、キャスリーンに手の届くほど近く立ち竦むアルフォンのシトリンの瞳を見つめた。
「不貞とは、心を他に移すと云うことなのでしょうか。」
「そうだ。」
「であれば、私は不貞など起こしておりません。貴方も私も。
だって、貴方と私は初めから互いに心など持ち合わせていなかったではありませんか。」
「何を言っている?」
「貴方は初めからアマンダ様を愛していらした。そうして私はアダム様を愛した。初めから心を別々に持っているのなら、それの何処に不貞の誹りを受けるのでしょう。」
「君は、」
「旦那様。良い機会です。アマンダ様を正式に妻としてお迎えになられては如何でしょうか。お二人とも私に関わるのは面白く無い事ばかりでしょう。私は台風の目になりたい訳ではないのです。」
「私の妻は君だ。」
「何故そこに拘るのです?世間では貴方の真の妻がどなたであるのか、既に承知の事実であるというのに。」
「君は私を愛していないのか?」
「どうしてそれをお尋ねになります?貴方と交わるのは身体ばかりであったのに。」
「何?」
「貴方様がお望みならば離縁を受け入れます、旦那様。今のままでは、貴方もアマンダ様も幸せではないでしょう。」
「...、君もそうなのか?」
「いいえ。」
そこでキャスリーンは青い瞳を細めた。
あどけなさの残る笑みが浮かぶ。
「私はとても幸せです。この世の最愛の方に出会えましたもの。何処にいても、離れていても、私があのお方を忘れる事などございません。今世ばかりではありませんのよ。来世まであの方を愛すると神に誓っておりますもの。」
アルフォンは、その言葉に何かを根こそぎ落とした様な蒼白な顔をした。それからゆるりと腰が降りて膝立ちをする姿勢となった。
少し前にもこんな姿を見た記憶が蘇る。
今度もどうやら泣いてはいない様だ。
キャスリーンは、アルフォンの色を無くした顔を見守った。
「大丈夫ですか?旦那様。」
「...ああ」
どうやらキャスリーンの声は聴こえているらしい。
「キャスリーン、」
「はい。」
「キャスリーン、」
「はい。何でございましょう。」
「君とは離縁などしない、」
「まあ。」
「別れたくない、」
「...ですが、アマンダ様は、」
「いいんだ、彼女はいいんだ。」
キャスリーンは椅子に座ったまま膝立ちするアルフォンを見つめる。アルフォンの視線は虚空を見つめていた。二人の視線が合うことはない。
視線の合わぬまま、アルフォンは続けた。
「君はここに居るんだ。ここに居てくれ。居るだけでいいんだ。」
アルフォンはそこで漸くキャスリーンに視線を合わせた。
それから手を伸ばし、膝に置かれていたキャスリーンの手を握る。剣を持つ手は大きく温かく剣ダコがザラリと触れた。
「君はここに居てくれるだけでいいんだ。」
「承知致しました。旦那様。」
キャスリーンにとって、アルフォンもアマンダ嬢も、ノーマン侯爵家も一族も、何もかもどうでも良かった。
キャスリーンが居ようと居まいと此処は何一つ変わらない。ノーマン侯爵家はこれからも権勢を振るい繁栄し続けることだろう。そこにキャスリーンは夫人として名を残すだけで、大きな一族の傘の下にキャスリーンが入る訳ではない。
キャスリーンとは初めからアマンダ嬢を迎える為に飾られた妻であって、そんな夫や義母の思惑に関わる必要はもう無いと思われた。
義母はアマンダ嬢を義父の命が続く限り侯爵家に留め置くだろう。何より彼女はアルフォンの最愛だ。
侯爵家にアマンダ嬢は必須の存続であるのなら、そちらはそちらで好きに愛と復讐劇を繰り広げてくれれば良い。
「ええ、それでは私は変わらずこれからもこちらにおりましょう。」
キャスリーンはアマンダが過ごしたこの部屋にいて、アダムを愛しアダムの愛を一身に受けて我が身の内に生まれる命に愛を注いで生きて行く。赤髪のアマンダと共に生きて行く。
アルフォンは救われた様な顔をしてキャスリーンを見上げた。
「ああ、君はここに居てくれ。それだけでいい、それだけでいいんだ。」
そう言って握ったキャスリーンの手に額を押し当てた。救いを求める罪びとが慈悲を願い縋る様に、大きな背が震えて見えた。
その晩。
キャスリーンは独り寝の寝台に横たわり、純白の飾り模様が広がる天井を見上げていた。
アマンダが死の間際に見上げただろう天井。
浮き上がるように彫られた花弁模様は時の経過を感じさせない。美しい天井は無垢の天界を思わせる。
「あ、」
そこでキャスリーンは感じ取った。確かな予感。
「ああ、アマンダ。」
横たわるキャスリーンの身体にアマンダの気配が降り立って二人の身体が沁み込む様に重なりあう。
「アマンダ、貴女も解った?」
この身の微かな兆しをアマンダも解っただろうか。
キャスリーンは真っ平らな腹を優しく撫でた。
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