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離れの馬車止めには、既にフランツが待っていた。
速度を落とした馬車の窓からそれを認めて、キャスリーンは隣の男を見上げた。
「アダム様、お送り頂きまして有難うございます。そろそろ馬車が止まります。」
「うん。」
キャスリーンの言葉に確かに首肯した筈なのに、アダムは腰に回した手を離さない。
キャスリーンは、大きなアダムに抱え込まれる様に座っていたのだが、とうとう完全に止まった馬車に、いよいよ別れの言葉を掛けた。
「三日後に伺います。」
「ああ。」
それだけ答えて、アダムはキャスリーンの額に口づけた。
侍女が美しく化粧を施したその紅を落としてはならないと、彼なりに気を遣ったらしい。
アダムは自身を欲深で腹黒いと称したが、キャスリーンにとってはどこまでも温かく頼もしくそして可愛い男であった。
青い瞳がキャスリーンを見つめる。
それからどうしても我慢ならなかったらしく、あれ程侍女頭に言い含められていたのに綺麗に紅を塗られた唇を奪った。
少し長めの口吻から解放されて、キャスリーンは指先でそっとアダムの口角を拭う。
キャスリーンの紅が移っていた。このまま邸に戻ったなら、アダムは侍女頭に叱られてしまうだろう。
「ふふ、」
「なんだ?」
「いいえ、何でもありませんわ。私の真実の旦那様。」
まるで年若の妻に翻弄される風に、アダムは釈然としない顔をした。それがどこか少年の様で、キャスリーンは胸の奥から何かが沸き起こるのを感じた。それが慈愛なのだと後から気付くのだが、愛に疎いキャスリーンはまだそれには気付かない。
いよいよ御者がヤキモキするだろう頃合いになって、アダムは馬車の扉を開けた。
離れの馬車止めとは云え、此処は既に侯爵家の敷地内であったから、アダムが外に出ることはない。
フランツが既に扉の前に控えており、ステップを降りるのにキャスリーンに手を差し伸べた。
「キャスリーンを頼むよ。」
アダムがフランツに声を掛ければ、
「承知致しました。」
フランツはそれに頭を垂れて答えた。
遠ざかる馬車を見送る。
愛する男が帰って行く。
次の逢瀬まで三日。これから切ない三日になるだろう。
馬車が小さくなって完全に見えなくなった。それでも暫くその方向を見送っていたキャスリーンが、漸く諦めが付いたようにフランツへ振り返る。
「フランツ、有難う。色々と手間を掛けさせてしまったわね。」
「いいえ、キャスリーン様。」
「何か変わったことは?」
「何もございません。キャスリーン様のご不在もあちらにはお伝えしておりません。」
「貴方にも気を遣わせてしまったわね。有難う。お陰で得難い時間を得られたわ。ねえ、フランツ。」
キャスリーンはそこで少しだけ考える風を見せてから、
「私、子を授かったと思うの。」
そうフランツに告げた。
フランツはそこでぐっと何かを呑み込んだ。それから、
「お目出度うございます。」
そう言って、傍目には解らぬ程に浅く頭を下げた。
「確かな訳ではないのよ。影も形も解らないのですもの。ただ、そう思うの。そうではないかも知れないわ。」
「母君の勘とは侮ることは出来ません。」
「そうなら嬉しいのだけれど。」
離れの玄関ホールまでを声を抑えて二人で話しながら進む。
「罪だと思う?」
キャスリーンの問い掛けに、フランツはその意味をよくよく考えた後で、
「貴女様に罪を問える人間など、この侯爵家には一人としておりません。」
そう答えた。
「有難う。フランツはやっぱり優しいわ。」
フランツはそれには答えずキャスリーンの後ろに控えて歩みを進める。
離れの玄関ホールに入れば、侍女や護衛らに出迎えられた。
「留守を有難う。ジェントルは?」
キャスリーンが問えば、
「元気にしておりますが、キャスリーン様のお姿が見えず寂しがっておりました。」
侍女がそう答えた。
「まあ!それは可哀想な事をしたわ。」
キャスリーンは先程までの会話の余韻も捨て去って、心なし急ぎ足に私室に向かった。
「ジェントル。」
扉を開けると同時にジェントルを呼べば、
「ぴっ!」とジェントルが答えた。
「ああ、ジェントル、ごめんなさいね。寂しかったでしょう?もう大丈夫よ、帰って来たわ。」
鳥籠の小さな扉を開けば、ジェントルがよっこらしょと扉の縁に乗り、それから勢いをつけてキャスリーンの肩へ飛んで来た。
いつかのアダムがされていたように、キャスリーンの髪の毛を啄む。
「まあ、有難う、ジェントル。毛繕いをしてくれるのね。優しい子ね。いい子、「イイコ」
「え?ジェントル?」
「イイコ」
「まあ、ジェントル!貴方、お話しが出来る様になったのね!」
あれ程アダムと離れ難く寂しく思っていたのに、思わぬジェントルの成長に寂しさも何もかもが吹き飛んだ。
「アダム様にお伝えしなくては。」
ほんの半刻程前に分かれたばかりであるのに、キャスリーンは文箱を手にして、それからアダムに文を書くのであった。
キャスリーンは、週の一日か二日をチェイスター伯爵邸を訪いアダムと過ごした。
アダムが使用人達にどう指示をしたのかキャスリーンには知り得ないが、伯爵邸の使用人達は皆、まるで夫人に傅く様にキャスリーンに接してくれた。
いつの間に整えたのか、伯爵邸にはキャスリーンの部屋が設けられていた。そこはアダムの部屋と寝室を挟んだ、所謂夫人の部屋であった。
キャスリーンは、チェイスター伯爵邸に於いて、アダムの真実の妻と見做されている。
速度を落とした馬車の窓からそれを認めて、キャスリーンは隣の男を見上げた。
「アダム様、お送り頂きまして有難うございます。そろそろ馬車が止まります。」
「うん。」
キャスリーンの言葉に確かに首肯した筈なのに、アダムは腰に回した手を離さない。
キャスリーンは、大きなアダムに抱え込まれる様に座っていたのだが、とうとう完全に止まった馬車に、いよいよ別れの言葉を掛けた。
「三日後に伺います。」
「ああ。」
それだけ答えて、アダムはキャスリーンの額に口づけた。
侍女が美しく化粧を施したその紅を落としてはならないと、彼なりに気を遣ったらしい。
アダムは自身を欲深で腹黒いと称したが、キャスリーンにとってはどこまでも温かく頼もしくそして可愛い男であった。
青い瞳がキャスリーンを見つめる。
それからどうしても我慢ならなかったらしく、あれ程侍女頭に言い含められていたのに綺麗に紅を塗られた唇を奪った。
少し長めの口吻から解放されて、キャスリーンは指先でそっとアダムの口角を拭う。
キャスリーンの紅が移っていた。このまま邸に戻ったなら、アダムは侍女頭に叱られてしまうだろう。
「ふふ、」
「なんだ?」
「いいえ、何でもありませんわ。私の真実の旦那様。」
まるで年若の妻に翻弄される風に、アダムは釈然としない顔をした。それがどこか少年の様で、キャスリーンは胸の奥から何かが沸き起こるのを感じた。それが慈愛なのだと後から気付くのだが、愛に疎いキャスリーンはまだそれには気付かない。
いよいよ御者がヤキモキするだろう頃合いになって、アダムは馬車の扉を開けた。
離れの馬車止めとは云え、此処は既に侯爵家の敷地内であったから、アダムが外に出ることはない。
フランツが既に扉の前に控えており、ステップを降りるのにキャスリーンに手を差し伸べた。
「キャスリーンを頼むよ。」
アダムがフランツに声を掛ければ、
「承知致しました。」
フランツはそれに頭を垂れて答えた。
遠ざかる馬車を見送る。
愛する男が帰って行く。
次の逢瀬まで三日。これから切ない三日になるだろう。
馬車が小さくなって完全に見えなくなった。それでも暫くその方向を見送っていたキャスリーンが、漸く諦めが付いたようにフランツへ振り返る。
「フランツ、有難う。色々と手間を掛けさせてしまったわね。」
「いいえ、キャスリーン様。」
「何か変わったことは?」
「何もございません。キャスリーン様のご不在もあちらにはお伝えしておりません。」
「貴方にも気を遣わせてしまったわね。有難う。お陰で得難い時間を得られたわ。ねえ、フランツ。」
キャスリーンはそこで少しだけ考える風を見せてから、
「私、子を授かったと思うの。」
そうフランツに告げた。
フランツはそこでぐっと何かを呑み込んだ。それから、
「お目出度うございます。」
そう言って、傍目には解らぬ程に浅く頭を下げた。
「確かな訳ではないのよ。影も形も解らないのですもの。ただ、そう思うの。そうではないかも知れないわ。」
「母君の勘とは侮ることは出来ません。」
「そうなら嬉しいのだけれど。」
離れの玄関ホールまでを声を抑えて二人で話しながら進む。
「罪だと思う?」
キャスリーンの問い掛けに、フランツはその意味をよくよく考えた後で、
「貴女様に罪を問える人間など、この侯爵家には一人としておりません。」
そう答えた。
「有難う。フランツはやっぱり優しいわ。」
フランツはそれには答えずキャスリーンの後ろに控えて歩みを進める。
離れの玄関ホールに入れば、侍女や護衛らに出迎えられた。
「留守を有難う。ジェントルは?」
キャスリーンが問えば、
「元気にしておりますが、キャスリーン様のお姿が見えず寂しがっておりました。」
侍女がそう答えた。
「まあ!それは可哀想な事をしたわ。」
キャスリーンは先程までの会話の余韻も捨て去って、心なし急ぎ足に私室に向かった。
「ジェントル。」
扉を開けると同時にジェントルを呼べば、
「ぴっ!」とジェントルが答えた。
「ああ、ジェントル、ごめんなさいね。寂しかったでしょう?もう大丈夫よ、帰って来たわ。」
鳥籠の小さな扉を開けば、ジェントルがよっこらしょと扉の縁に乗り、それから勢いをつけてキャスリーンの肩へ飛んで来た。
いつかのアダムがされていたように、キャスリーンの髪の毛を啄む。
「まあ、有難う、ジェントル。毛繕いをしてくれるのね。優しい子ね。いい子、「イイコ」
「え?ジェントル?」
「イイコ」
「まあ、ジェントル!貴方、お話しが出来る様になったのね!」
あれ程アダムと離れ難く寂しく思っていたのに、思わぬジェントルの成長に寂しさも何もかもが吹き飛んだ。
「アダム様にお伝えしなくては。」
ほんの半刻程前に分かれたばかりであるのに、キャスリーンは文箱を手にして、それからアダムに文を書くのであった。
キャスリーンは、週の一日か二日をチェイスター伯爵邸を訪いアダムと過ごした。
アダムが使用人達にどう指示をしたのかキャスリーンには知り得ないが、伯爵邸の使用人達は皆、まるで夫人に傅く様にキャスリーンに接してくれた。
いつの間に整えたのか、伯爵邸にはキャスリーンの部屋が設けられていた。そこはアダムの部屋と寝室を挟んだ、所謂夫人の部屋であった。
キャスリーンは、チェイスター伯爵邸に於いて、アダムの真実の妻と見做されている。
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