黒革の日記

桃井すもも

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「キャスリーン様。私共の力が及ばず貴女様をこの様なお立場に立たせてしまい、私は貴女様にお詫びしても仕切れません。」

離れのキャスリーンの私室を訪れたフランツは、心なし痩せて見えた。

昨日の騒動がどんなであったのか、実はキャスリーンはよく分らない。
アンソニーが本邸でどれほど冷ややかであったか、物々しくこの離れにやって来たのか、私室で行き成りアンソニーを迎える事になったキャスリーンには、この部屋での出来事しか分からないのである。

王城に出仕するアルフォンを見送ったのだろう。キャスリーンの私室に訪れたフランツは空手であった。
いつもは家政や執務の書類箱を携えているのがそれらしき物は無い。
どうやらフランツもロアンも、これ以上キャスリーンに家政を担わせてはならないと判断したらしい。

「今月の寄進に神殿へ参ります。」
「キャスリーン様..」
「これが最後です。後は宜しくお願いしますね。」
「お伴をさせて頂きます。」



フランツと共に神殿を訪えば、麗しい銀髪の麗人に迎えられた。

「キャスリーン夫人。随分と大変なご様子だね。神は貴女の献身を見過ごす事はない。」

クリストファー大神官はそう言って、キャスリーンの額にロザリオの十字架を当てがった。

「貴女に神のご加護があらん事を。」

キャスリーンがノーマン侯爵家の夫人として寄進に訪れるのはこれが最後であるのを述べると、クリストファーはフランツに向かって

「可能であれば次からは貴方がいらして下さい。」

暗に新たな夫人の訪いを遠慮する風な発言をした。

「全ての命は神の祝福の下にある。愛の形は様々だ。その愛が裁かれることはない。だが、他者の培った賜物をそれに得るにそぐわない者が掠め取るのには相応の責があろう。神の御心は広く寛大で愚かしい罪さえお許しになる。しかし、未熟な私にはどうにも耐えられそうに無い。」

常に無い静かな怒りを感じて、大神官にもこんな強い感情があるのだとキャスリーンは意外に思った。
そうして神が全てをご覧になっているのなら、これからの生き方を誠実に生きてゆかねばならないと肝に銘じた。


クリストファーに別れの挨拶を述べて、神官に案内されて礼拝堂に入る。久しぶりの神の膝元である。
礼拝堂で跪き祈りを捧げる。

キャスリーンは感謝の祈りを捧げた。
侯爵邸で赤髪の令嬢、親愛なるアマンダに出会えた事。
彼女の記した日記に出会えた事。
彼女の恋したアダムと同じ色を纏った、キャスリーンの想い人アダムに出会えた事。
ジェントルに出会えた事。
そうしてアンソニーと云う身分も性別も超えた得難い友情を得られている事。

全ての幸福な巡り合わせに、キャスリーンは感謝しながら祈る。
そうしていつかキャスリーンが侯爵家を去る時にも、どうか親愛なる赤髪のアマンダが幸せであるように、彼女の魂が幸福であるように心からの祈りを捧げた。



神殿とは誠に不思議な場である。
神の庭は人智の及ばぬ場所なのだろう。
だからアンソニーと出くわした時の様に、こんな有り得ない偶然に見舞われる。
もう会えないと思っていた。
その面影だけを胸に抱いてこれからを生きていこうと思っていた。

「キャスリーン。」
その声に飛び上がるように振り向いたキャスリーンは、この人生でこれほどの幸福はもう二度と訪れないのではないかと思った。

「君は執事だね。夫人は私が送り届けよう。と言っても、夫人を引き止める理由は今の侯爵家には無いだろうね。」

可哀想なフランツは、大神官にも大臣にも、仕える主家の為に皮肉な文句を浴びせられて恐縮させられてばかりいる。

「大丈夫よ、フランツ。ジェントルの世話を頼んで頂戴。侍女でもメイドでも。」

その言葉でフランツは馬車へと戻って行く。その背中を見送っていたキャスリーンに、アダムは再び声を掛けた。

「キャスリーン、これから少し私の邸に寄ってもらえないだろうか。」

「承知致しました。その前にアダム様、外務大臣へご就任お目出度うございます。」

アダムはあの後直ぐに大臣に就任していた。その祝いとジェントルを譲り受けた御礼に、キャスリーンは万年筆とそれに添えてハンカチを贈っていた。
群青の羽色のジェントル。青い小鳥を刺繍したハンカチである。


北風が冷たく頬を撫でる。
吐く息が白い。
けれども心の内は忘れようと手放した火が再び灯って瞬く間に胸のうちを熱く焦がす。
一目会っただけなのに、もうそれだけでアダムに惹き付けられてしまう自分はどこか可怪しいのだろうか。

馬車まで続く道は真っ白な玉砂利が敷き詰められている。丸い砂利に足を取られて歩きにくい。何故こんなふうな道にしたのか不思議に思っていたが、今日はこの道に感謝している。

アダムにエスコートされている。
足元が良くないから掴まってと言われて、アダムの差し出した腕にそっと手を添えれば、もっとしっかり掴まってと再び言われた。それすら嬉しくて頬が染まるのは、凍える風が頬に当たっているからだと思って欲しい。


馬車のステップもアダムに手を添えられてキャスリーンが先に車内に入り、後からアダムが乗り込んだ。
大柄な体躯は車内にあっては更に大きく見えて、小柄なキャスリーンは圧倒された。

大臣職にあるアダムには護衛が一人付いていたが、彼を御者の隣に移させて、馬車の中にはアダムとキャスリーンの二人きり、向かい合わせに座っている。

「ああ、キャスリーン。突然すまない。驚かせてしまったなら申し訳ない。」

神殿でばったり会った時に感じた硬さは既に解れていた。

「君の青い紳士は元気だろうか。」

そうしてアダムはジェントルの様子を聞いてきた。






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