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商会に注文していた舞踏会の衣装が届いた。
商会は先代侯爵からの付き合いで、義母にも信用出来ると勧められていた。
王家へも装飾品を納めている為に、貴族から重用されている。
「奥様、どうぞお当てになってお確かめ下さい。」
侍女が二人すかさずドレスを持ち上げ、鏡の前に立つキャスリーンに宛がう。
白い肌に虹彩を帯びたモスグリーンが良く映える。
新種の蚕子から拠った絹糸は、外商が薦めた通り光沢が美しく、艶も滑らかな手触りも申し分ない。
若い夫人の肌によく馴染み、際立って美しい容姿だと思った事は無かったが、自分でも良く似合っていると思えた。
キャスリーンとフランツに任せると言っていたアルフォンの衣装も、多分彼に似合う事だろう。
アルフォンは長身の恵まれた体躯に容姿まで優れた美丈夫である。そのアルフォンがこの衣装を纏う姿をキャスリーンが目にするのは、舞踏会の当日になるだろう。二人で衣装合わせをするなどこれまでも無かった。
寸法に間違いがないかをフランツが確認して、アルフォンの衣装はこのまま衣装部屋に収められる。
衣装に合わせたシャンパンゴールドのチーフもシトリンのカフスも、モスグリーンの生地に合っている。
侯爵家の血を引く者が持つプラチナブロンドの髪色にシトリンの瞳は、モスグリーンの衣装に引き立てられて美しい事だろう。
美丈夫の夫と正面から顔を合わせることの少ないキャスリーンは、夫の美しさまで何処か距離を置いて見ている。
憂鬱な舞踏会が迫っている。
煩わしい人の目に触れ面白可笑しく噂をされるのは、若いキャスリーンには忍耐がいる。
そうだ、会場で兄を見付けたらご一緒させてもらおうか。それでは婚約者のキャロライン様に失礼になるだろうか。
いや、キャロライン様なら快く受け入れてくれるだろう。
「奥様、他にはご用命はございませんでしょうか。」
外商の言葉に、思考から現実に引き戻される。
「ええ、こちらで十分よ。美しいドレスを仕立てて頂いて有難う。舞踏会でもきっと皆様に何処で仕立てたのか聞かれるわね。貴方の商会だと話しておくわ。」
「勿体ないお言葉です。わたくし共も奥様にご贔屓頂けまして鼻が高うございます。どうぞ些細なご用で結構です。何時でもお気軽にご用命下さいませ。真っ先に馳せ参じさせて頂きます。」
人当たりの良い外商は、そう言って帰って行った。
「キャスリーン様、宜しかったので?旦那様からはお好みの物があったら買い足す様にと申し使っておりましたが。」
「良いのよ、フランツ。ドレスは十分あるし、舞踏会にはそう出席する事は無いのですもの。必要の無いものに散財するのは控えたいの。」
それよりも、あの図書室を整備したい。書架を整え、破損本を修理し、温度と湿度を整える設備が欲しい。そんな事は望める理由もないが。
「旦那様はキャスリーン様のお衣装代を無用などとはお考えではございません。」
「有難う、フランツ。フランツは優しいのね。」
まだ何か言いたそうなフランツであったが、アルフォンの衣装をそのままにする訳にもいかず、主人の衣装部屋へと向かった。
アルフォンは侍女を付けない。
彼の身の回りは侍従とフランツが繕っている。アルフォンは徹底して身の回りに女性を置かないのだ。そんなところも愛人だけに心を寄せる彼らしい。
新調した衣装にも、侍女達は手を付けることは許されないので、今日の様にフランツが運ぶのが常であった。
キャスリーンの衣装は、こちらは侍女達が収納してくれる。
素敵なお衣装ですわとか、キャスリーン様のお肌に良くお似合いですとか、華やかな賑わいがあるのもこんな時ならではであった。
衣装の確認に思いのほか時間を取られた。
軽い食事を摂って、午後は昨日出席した茶会の礼状を書いた。本来なら午前中に出すべきものであったが、外商が珍しく約束の時刻よりも早く邸に着いたと聞いて、待たせるのも時間を無駄にさせるだろうとそのまま邸に迎え入れたのである。
平素であれば、礼状の方が遥かに優先されるが、昨日の茶会は学生時代に仲の良かった令嬢がホストであったから、礼が遅れた詫びの言葉を添えて、午後に出す事にしたのであった。
生家よりも格上の高位貴族に嫁いだ友人の夫人業を、彼女ならきっと慮ってくれるだろう。こんな風に甘えられる存在は得難いものである。婚姻して社交の海に投げ出されるのにも、時にはこんな浮き輪があるから凌げるのだろう。
そこで、昨日の茶会で耳に挟んだ話を思い出す。
長く帝国に駐在していた大使がいよいよ帰国するらしい。
ただそれだけの話題であったのだが、帝国という言葉が耳に残った。
アマンダが独学で学んだ言葉が帝国語であった。それが縁でアダムと言葉を交わし、教本を借りるまで仲を深めた。
「帝国か。どんなところなのかしら。」
大陸の覇権を握る大国。そんな帝国に長い間駐留した大使とは、余程有能な人物なのだろう。
機会があったら帝国について聞いてみたいものである。大使だなんて会える機会などそうそう有る筈も無い事だろうが。
秋は深まり、朝夕に肌に触れる空気は冷たく感じる。
日はどんどん短くなり、夕暮れが訪れるのも少し前の記憶よりも早くなった。
西の空に茜が射したと思ったら、瞬く内に夜の帳が降りてしまう。
「4時。もう今日は無理かしら。」
僅かでもあの黒い日記を開きたかった。
雑務にかまけている内にこんな時間になってしまった。
今日はアマンダの日記を読むのは諦めよう。明日は予定が無いから、ゆっくり読めることだろう。
せめて一目会っておきたい。
そう思って、キャスリーンは貴賓室のあるフロアへ向かう。
二階へと続く大階段を上がる。
一目だけ、アマンダに会いたかった。
商会は先代侯爵からの付き合いで、義母にも信用出来ると勧められていた。
王家へも装飾品を納めている為に、貴族から重用されている。
「奥様、どうぞお当てになってお確かめ下さい。」
侍女が二人すかさずドレスを持ち上げ、鏡の前に立つキャスリーンに宛がう。
白い肌に虹彩を帯びたモスグリーンが良く映える。
新種の蚕子から拠った絹糸は、外商が薦めた通り光沢が美しく、艶も滑らかな手触りも申し分ない。
若い夫人の肌によく馴染み、際立って美しい容姿だと思った事は無かったが、自分でも良く似合っていると思えた。
キャスリーンとフランツに任せると言っていたアルフォンの衣装も、多分彼に似合う事だろう。
アルフォンは長身の恵まれた体躯に容姿まで優れた美丈夫である。そのアルフォンがこの衣装を纏う姿をキャスリーンが目にするのは、舞踏会の当日になるだろう。二人で衣装合わせをするなどこれまでも無かった。
寸法に間違いがないかをフランツが確認して、アルフォンの衣装はこのまま衣装部屋に収められる。
衣装に合わせたシャンパンゴールドのチーフもシトリンのカフスも、モスグリーンの生地に合っている。
侯爵家の血を引く者が持つプラチナブロンドの髪色にシトリンの瞳は、モスグリーンの衣装に引き立てられて美しい事だろう。
美丈夫の夫と正面から顔を合わせることの少ないキャスリーンは、夫の美しさまで何処か距離を置いて見ている。
憂鬱な舞踏会が迫っている。
煩わしい人の目に触れ面白可笑しく噂をされるのは、若いキャスリーンには忍耐がいる。
そうだ、会場で兄を見付けたらご一緒させてもらおうか。それでは婚約者のキャロライン様に失礼になるだろうか。
いや、キャロライン様なら快く受け入れてくれるだろう。
「奥様、他にはご用命はございませんでしょうか。」
外商の言葉に、思考から現実に引き戻される。
「ええ、こちらで十分よ。美しいドレスを仕立てて頂いて有難う。舞踏会でもきっと皆様に何処で仕立てたのか聞かれるわね。貴方の商会だと話しておくわ。」
「勿体ないお言葉です。わたくし共も奥様にご贔屓頂けまして鼻が高うございます。どうぞ些細なご用で結構です。何時でもお気軽にご用命下さいませ。真っ先に馳せ参じさせて頂きます。」
人当たりの良い外商は、そう言って帰って行った。
「キャスリーン様、宜しかったので?旦那様からはお好みの物があったら買い足す様にと申し使っておりましたが。」
「良いのよ、フランツ。ドレスは十分あるし、舞踏会にはそう出席する事は無いのですもの。必要の無いものに散財するのは控えたいの。」
それよりも、あの図書室を整備したい。書架を整え、破損本を修理し、温度と湿度を整える設備が欲しい。そんな事は望める理由もないが。
「旦那様はキャスリーン様のお衣装代を無用などとはお考えではございません。」
「有難う、フランツ。フランツは優しいのね。」
まだ何か言いたそうなフランツであったが、アルフォンの衣装をそのままにする訳にもいかず、主人の衣装部屋へと向かった。
アルフォンは侍女を付けない。
彼の身の回りは侍従とフランツが繕っている。アルフォンは徹底して身の回りに女性を置かないのだ。そんなところも愛人だけに心を寄せる彼らしい。
新調した衣装にも、侍女達は手を付けることは許されないので、今日の様にフランツが運ぶのが常であった。
キャスリーンの衣装は、こちらは侍女達が収納してくれる。
素敵なお衣装ですわとか、キャスリーン様のお肌に良くお似合いですとか、華やかな賑わいがあるのもこんな時ならではであった。
衣装の確認に思いのほか時間を取られた。
軽い食事を摂って、午後は昨日出席した茶会の礼状を書いた。本来なら午前中に出すべきものであったが、外商が珍しく約束の時刻よりも早く邸に着いたと聞いて、待たせるのも時間を無駄にさせるだろうとそのまま邸に迎え入れたのである。
平素であれば、礼状の方が遥かに優先されるが、昨日の茶会は学生時代に仲の良かった令嬢がホストであったから、礼が遅れた詫びの言葉を添えて、午後に出す事にしたのであった。
生家よりも格上の高位貴族に嫁いだ友人の夫人業を、彼女ならきっと慮ってくれるだろう。こんな風に甘えられる存在は得難いものである。婚姻して社交の海に投げ出されるのにも、時にはこんな浮き輪があるから凌げるのだろう。
そこで、昨日の茶会で耳に挟んだ話を思い出す。
長く帝国に駐在していた大使がいよいよ帰国するらしい。
ただそれだけの話題であったのだが、帝国という言葉が耳に残った。
アマンダが独学で学んだ言葉が帝国語であった。それが縁でアダムと言葉を交わし、教本を借りるまで仲を深めた。
「帝国か。どんなところなのかしら。」
大陸の覇権を握る大国。そんな帝国に長い間駐留した大使とは、余程有能な人物なのだろう。
機会があったら帝国について聞いてみたいものである。大使だなんて会える機会などそうそう有る筈も無い事だろうが。
秋は深まり、朝夕に肌に触れる空気は冷たく感じる。
日はどんどん短くなり、夕暮れが訪れるのも少し前の記憶よりも早くなった。
西の空に茜が射したと思ったら、瞬く内に夜の帳が降りてしまう。
「4時。もう今日は無理かしら。」
僅かでもあの黒い日記を開きたかった。
雑務にかまけている内にこんな時間になってしまった。
今日はアマンダの日記を読むのは諦めよう。明日は予定が無いから、ゆっくり読めることだろう。
せめて一目会っておきたい。
そう思って、キャスリーンは貴賓室のあるフロアへ向かう。
二階へと続く大階段を上がる。
一目だけ、アマンダに会いたかった。
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