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「...リーン、キャスリーン、」
キャスリーンははっと我に返った。
「どうしたキャスリーン、ぼうっとして。」
「申し訳ございません。少し考え事をしておりました。」
「最近の君は少し、その、」
「何でもございませんわ。ご不快な思いをさせてしまいましたわね。」
席を外した方が良いだろうか。
僅かに腰を浮かせたキャスリーンに、給仕の者がぎょっとする。晩餐はまだ途中であるから、夫人がそれを中座するのに驚くのは仕方のない事だろう。
「いや、責めているのではない。席に着いてくれないか。」
珍しくアルフォンが慌てる。
キャスリーンは満腹ではなかったが、既に食欲は失っていた。このまま自室に戻っても構わなかった。
浮かしかけた腰を戻すも、もう食指は動かない。
「旦那様、申し訳ございません。どうにも食欲が湧きませんの。本日は下がらせて頂いても宜しいでしょうか。」
「体調が優れないのか?」
「いえ。食欲が無いだけです。午後のお茶請けを頂き過ぎたのでしょう。以後は気を付けます。」
「いや、それなら良いのだが。その、殿下に何か言われたのか?」
「え?」
何故そこでアンソニーの名が出たのか、キャスリーンは理解が及ばず声が出た。
「ああ、いや、気にしないでくれ。何も無ければそれで良いんだ。」
「ええ。殿下からは特別な事は言われておりません。」
「...」
アルフォンと愛人の事は、キャスリーンにとっては特別なことでは無い。この婚姻とセットでキャスリーンの下にやって来た。
アルフォンが何も言わないので、キャスリーンは退席する事にした。
席を外す際も「お休みなさいませ」と断って、それに何も返されなかったから良いのだろう。
廊下に出ると直ぐにフランツが後を追って来た。どうしたのかとキャスリーンが振り返れば、フランツは少しばかり慌てた様子を見せた。
「キャスリーン様、何処かお加減がお悪いのでしょうか。」
「いいえ、何でも無いわ。食欲が無いだけなの。」
「それは...」
珍しくフランツが表情を曇らせている。
「本当に何でもないの。もう今日はこのまま休みます。」
「何か軽いものをお持ち致します。」
「大丈夫よ。明日の朝餉を楽しみにしているわ。料理長に折角のお食事を途中にしてしまって申し訳なかったと伝えて頂戴。」
そこまで言えば、流石のフランツも引き下がった。夫人の私室まで送ってくれたフランツは、扉を閉める時まで心配げな表情を変えることは無かった。
程なくして侍女が軽食と温かなお茶を携えてやって来た。
使用人の心遣いは嬉しいものである。軽食を食べてお茶も頂く。食欲を感じていなかった筈が、しっかり美味しく平らげた。
それから侍女は、簡単に身を清めてくれた後退室した。
夜着に着替えて、まだ就寝には早い時間であったが寝台に横になる。
天井を見上げて考えるのは、あの黒革の日記の事であった。アマンダの記した日記帳。
愛も情も通わない、ただ夫人の務めを熟すだけの生活を不幸せだと思ってはいない。仮面を被った夫婦など他所にもいるし、何なら両親がそうであった。それでも彼らは不幸そうには見えなかった。
夫は愛の深い人である。だから唯一愛する人以外に愛を覚えられないのは至極当然の事だ。それで良い。
平坦な変化の乏しい色の無い暮らし。
子がいたなら姦しく刺激も多いのだろうが、残念ながらキャスリーンの周りは練れた大人の使用人達ばかりで、頭を悩まされることも心を乱される事も何一つ無い。
そんな暮らしに突然現れた黒革の日記。
それは鮮烈な赤髪の令嬢が、瑞々しい恋心を記した日記であった。
キャスリーンはアマンダの日記に同調するに従ってその状況に順応するのに思考が深まっていたらしく、夫との晩餐の席でも呆けて見えたらしい。
「明日から気を付けよう。」
キャスリーンは変化を望んでいる訳では無い。下手な関心を引いて、行動を制限されるのは避けたかった。
家政に間違いを起こしてしまっては元も子もない。
アマンダの心に触れるのは、今のキャスリーンにとって最も心を弾ませる。
何もかも手抜かりなく熟して、そうして誰にも邪魔されずあの日記を開いて彼女と心を同期するのだ。
瞼を閉じると、赤い髪と黒い髪、黒い瞳と青い瞳が交差する。
二人はあれからどうしたのかしら。
目が合って微笑み合う。その後は?
心を通わせる事が出来たのかしら。会話の様子からは、彼らは同じ学年なのだろう事が窺われる。クラスは?互いの友人との繋がりは?
思考が深まるにしたがって、キャスリーンは深い眠りに陥った。
「体調は大丈夫なのか?」
いつもであれば、キャスリーンが朝の挨拶をするのに「ああ」と返すだけのアルフォンが、珍しく先に言葉を掛けて来た。
お早うの挨拶を先にすべきか、体調に不調が無い事を話すべきか。
少し考えた後、
「お早うございます、旦那様。体調は何処も不調はございません。ご心配をお掛けして申し訳ございませんでした。」
全て一時に言いきった。
可怪しな事に、非日常の夫はその後も非日常であった。
「これまで務めが忙しく君との時間を取れなかった。これからは君と過ごせるように留意しよう。」
何を今更仰っているの?それは困ります、旦那様。貴方はそのままご自分の愛に忠実でいて下さい。
だからキャスリーンはそのまま伝える事にした。
「旦那様、お心遣いを有難うございます。ですが、お心だけで十分でございます。お城のお勤めは大切なお仕事ですから。私に不足な事は何一つございません。
ですから旦那様は今迄通りにお過し下さいませ。」
これで伝わっただろうか。
アルフォンには愛する人と末永く愛し合ってもらいたい。何故ならアルフォンは愛の深い人なのだから。アマンダと同じ情の深い血が流れているのだから。
料理長がキャスリーンの好物を盛り合わせた朝餉を楽しむ。
キャスリーンは、夫ばかりか側に控える使用人達までが息を飲んだのには気付かなかった。
キャスリーンははっと我に返った。
「どうしたキャスリーン、ぼうっとして。」
「申し訳ございません。少し考え事をしておりました。」
「最近の君は少し、その、」
「何でもございませんわ。ご不快な思いをさせてしまいましたわね。」
席を外した方が良いだろうか。
僅かに腰を浮かせたキャスリーンに、給仕の者がぎょっとする。晩餐はまだ途中であるから、夫人がそれを中座するのに驚くのは仕方のない事だろう。
「いや、責めているのではない。席に着いてくれないか。」
珍しくアルフォンが慌てる。
キャスリーンは満腹ではなかったが、既に食欲は失っていた。このまま自室に戻っても構わなかった。
浮かしかけた腰を戻すも、もう食指は動かない。
「旦那様、申し訳ございません。どうにも食欲が湧きませんの。本日は下がらせて頂いても宜しいでしょうか。」
「体調が優れないのか?」
「いえ。食欲が無いだけです。午後のお茶請けを頂き過ぎたのでしょう。以後は気を付けます。」
「いや、それなら良いのだが。その、殿下に何か言われたのか?」
「え?」
何故そこでアンソニーの名が出たのか、キャスリーンは理解が及ばず声が出た。
「ああ、いや、気にしないでくれ。何も無ければそれで良いんだ。」
「ええ。殿下からは特別な事は言われておりません。」
「...」
アルフォンと愛人の事は、キャスリーンにとっては特別なことでは無い。この婚姻とセットでキャスリーンの下にやって来た。
アルフォンが何も言わないので、キャスリーンは退席する事にした。
席を外す際も「お休みなさいませ」と断って、それに何も返されなかったから良いのだろう。
廊下に出ると直ぐにフランツが後を追って来た。どうしたのかとキャスリーンが振り返れば、フランツは少しばかり慌てた様子を見せた。
「キャスリーン様、何処かお加減がお悪いのでしょうか。」
「いいえ、何でも無いわ。食欲が無いだけなの。」
「それは...」
珍しくフランツが表情を曇らせている。
「本当に何でもないの。もう今日はこのまま休みます。」
「何か軽いものをお持ち致します。」
「大丈夫よ。明日の朝餉を楽しみにしているわ。料理長に折角のお食事を途中にしてしまって申し訳なかったと伝えて頂戴。」
そこまで言えば、流石のフランツも引き下がった。夫人の私室まで送ってくれたフランツは、扉を閉める時まで心配げな表情を変えることは無かった。
程なくして侍女が軽食と温かなお茶を携えてやって来た。
使用人の心遣いは嬉しいものである。軽食を食べてお茶も頂く。食欲を感じていなかった筈が、しっかり美味しく平らげた。
それから侍女は、簡単に身を清めてくれた後退室した。
夜着に着替えて、まだ就寝には早い時間であったが寝台に横になる。
天井を見上げて考えるのは、あの黒革の日記の事であった。アマンダの記した日記帳。
愛も情も通わない、ただ夫人の務めを熟すだけの生活を不幸せだと思ってはいない。仮面を被った夫婦など他所にもいるし、何なら両親がそうであった。それでも彼らは不幸そうには見えなかった。
夫は愛の深い人である。だから唯一愛する人以外に愛を覚えられないのは至極当然の事だ。それで良い。
平坦な変化の乏しい色の無い暮らし。
子がいたなら姦しく刺激も多いのだろうが、残念ながらキャスリーンの周りは練れた大人の使用人達ばかりで、頭を悩まされることも心を乱される事も何一つ無い。
そんな暮らしに突然現れた黒革の日記。
それは鮮烈な赤髪の令嬢が、瑞々しい恋心を記した日記であった。
キャスリーンはアマンダの日記に同調するに従ってその状況に順応するのに思考が深まっていたらしく、夫との晩餐の席でも呆けて見えたらしい。
「明日から気を付けよう。」
キャスリーンは変化を望んでいる訳では無い。下手な関心を引いて、行動を制限されるのは避けたかった。
家政に間違いを起こしてしまっては元も子もない。
アマンダの心に触れるのは、今のキャスリーンにとって最も心を弾ませる。
何もかも手抜かりなく熟して、そうして誰にも邪魔されずあの日記を開いて彼女と心を同期するのだ。
瞼を閉じると、赤い髪と黒い髪、黒い瞳と青い瞳が交差する。
二人はあれからどうしたのかしら。
目が合って微笑み合う。その後は?
心を通わせる事が出来たのかしら。会話の様子からは、彼らは同じ学年なのだろう事が窺われる。クラスは?互いの友人との繋がりは?
思考が深まるにしたがって、キャスリーンは深い眠りに陥った。
「体調は大丈夫なのか?」
いつもであれば、キャスリーンが朝の挨拶をするのに「ああ」と返すだけのアルフォンが、珍しく先に言葉を掛けて来た。
お早うの挨拶を先にすべきか、体調に不調が無い事を話すべきか。
少し考えた後、
「お早うございます、旦那様。体調は何処も不調はございません。ご心配をお掛けして申し訳ございませんでした。」
全て一時に言いきった。
可怪しな事に、非日常の夫はその後も非日常であった。
「これまで務めが忙しく君との時間を取れなかった。これからは君と過ごせるように留意しよう。」
何を今更仰っているの?それは困ります、旦那様。貴方はそのままご自分の愛に忠実でいて下さい。
だからキャスリーンはそのまま伝える事にした。
「旦那様、お心遣いを有難うございます。ですが、お心だけで十分でございます。お城のお勤めは大切なお仕事ですから。私に不足な事は何一つございません。
ですから旦那様は今迄通りにお過し下さいませ。」
これで伝わっただろうか。
アルフォンには愛する人と末永く愛し合ってもらいたい。何故ならアルフォンは愛の深い人なのだから。アマンダと同じ情の深い血が流れているのだから。
料理長がキャスリーンの好物を盛り合わせた朝餉を楽しむ。
キャスリーンは、夫ばかりか側に控える使用人達までが息を飲んだのには気付かなかった。
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