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その日、アルフォンは邸に戻らなかった。城に泊まる時は事前にフランツから知らされるのだが、今日は何も聞いていない。
問えばフランツは正しく答えてくれるだろう。けれども、彼も他の使用人達も、アルフォンが離れを訪う事でキャスリーンが悋気を起こすことは無いと分かっている。
問われる前に伝えないのは、キャスリーンがそれを必要としていない事を理解しているからだろう。
数日ぶりに自室の寝台に横になる。
夏の蒸し暑さが嘘のように、初秋のさらりと乾いた夜気が心地良い。
今日、キャスリーンはアルフォンの帰りを心待ちにしていた。それは彼を求めてではなく、あの図書室の管理をキャスリーンの家政に加えて欲しいと許可を得たかった為である。
フランツが話してくれると解っていても、自分の耳で確かめたかった。
本邸に戻った時に改めて願い出よう。今日のところはそう諦めたのであった。
耳を澄ませば夜だけ鳴く鳥の囀りが聴こえる。羽根を鳴らす虫の音も。
太り始めた月明かりがバルコニーから部屋の中まで照らしている。
こんな夜は、ランプの灯りが無くとも部屋の中を造作なく歩くことが出来る。
寝台に横になっていたのだが、誰にも邪魔されない独りの夜である。折角だから月を眺めてみようか、そんな気になってガウンを羽織り、音を立てないように気を付けながらバルコニーに出た。
此処は三階だから、他の部屋よりも空が近い。手を伸ばせば零れ落ちる流れ星を受け止められるかも知れない。
そんな幼子のような気持ちが起こったのも、若く柔らかな心で生きたアマンダの面影に触れたからか。
月から星々に視線を移す流れで離れの方向に目が行った。このバルコニーからは木立ちの向こうに離れが見える。
二階であろう窓がぼんやり明るく浮かんでいる。貴重な蝋燭を夜中まで灯せる部屋。二人が今宵を過ごす部屋なのだろう。
「ご苦労な事ね。」
言うとも無しに言葉が出て、部屋に戻ることにした。
アルフォンの妻となって半年が過ぎた。
アルフォンは、キャスリーンとの閨事に間を置かない。
彼は愛人を隣に住まわせるほど恥知らずであるが、貴族の役割を放棄するほど阿呆ではない。キャスリーンの懐妊を望んでいる筈である。
妾腹が認知される事はままある事だが、後継は正妻の腹から生まれるのが鉄則だ。
愛人アマンダも男爵令嬢であるから、彼女の生む子も貴族の血を受け継ぐが、正妻の腹が上位でなければ正統な血脈を後世に残せない。
王家でさえ順番を守るのだ。
側室は正室の輿入れから二年を経てからと王室典範に定められている。
婚姻と同時に愛人を囲う誰かとは違うのだ。そんな男を信頼して側に侍らせる王族の気が知れない。
燦めく金の髪にロイヤルブルーの瞳が美しかった王子の目が曇っていないことを願いたい。
折角の月夜であったが、キャスリーンはもう寝床に入る事にした。
アルフォンはまた数日後にはキャスリーンを求めて来るだろう。彼だってしたくてそうする訳ではない。お互い不幸な境遇である。
次の晩で孕んでしまいたい。
そうして後継となる子を得たなら、アルフォンは心置きなく離れに移れる。
キャスリーンは我が子を慈しみ後継教育を施し侯爵夫人として家と子と使用人達を守って行く。
真っ平らな腹を擦る。
早くおいで、私の子。
愛されずに育った自分が、果たして我が子を愛せるのか分からない。けれども、この広い侯爵邸で肩身の狭い思いも人目に晒される苦しさも、そんな経験は決してさせない。
アマンダ、貴女の様な悲しみをこの子には経験させないわ。
まだ影も形もない空っぽの腹を、キャスリーンは優しく撫でた。
「キャスリーン様。馬車の支度が整っております。」
「そう。では参りましょう。」
神殿への寄進は、前々侯爵夫人、アルフォンの祖母が行っていた。彼女は信仰心が厚かったらしく、自ら神殿に赴き寄進の後は祈りの時間を取っていたという。
アルフォンの母は寄進については引き継ぐも、神殿に届ける事は執事に任せて、彼女自身が神殿を訪問する事は滅多に無かったらしい。
その理由を確かめた事は無い。
社交に忙しかったのかも知れないし、そもそも信仰心が薄かったのかも知れない。
キャスリーンの知る義母は、一見して穏やかな争い事を好まない人柄に思えた。けれども世間の評判では、曲がったことを嫌う貴族らしい苛烈な面もあるのだと言う。
だからと言って、息子が婚姻と同時に隣接する離れに愛人を住まわせる事を黙認する理由にはならないが。
侯爵邸に於いて、真実常識が理解出来るのは使用人達だけであるとキャスリーンは思っている。
義母の務めを代行して、これまで神殿を訪って来たのがフランツであった。
キャスリーンは家政の説明を受けた際に、自分の代ではキャスリーン自身が寄進に出向くと申し出た。邸に籠もり切りにはなりたくなかった。
フランツも家令のロアンも、それが宜しいでしょうとキャスリーンの申し出を認めてくれた。
元より夫人の家政であるから、アルフォンに断る必要は無い。
月に一度神殿に赴き、折角の機会であるからとキャスリーンも神の御前で祈りを捧げるのであった。
神殿は王城の直ぐ隣にある。
神殿が祀る神の教えは、古くから国教と定められて民からの信仰も厚い。
神官には王族の血筋もおり、神事は王家と深く結びついている。
侯爵家は公爵に次いで王城近くに邸宅を構えている。馬車を使えば然程時間を要する事なく神殿へ着いてしまう。
この僅かな距離を、何故義母は厭うていたのか。
今迄気にしたことも無い事が思い浮かぶも、馬車が停止したことでそれも霧散した。
どうやら神殿に到着したらしい。
問えばフランツは正しく答えてくれるだろう。けれども、彼も他の使用人達も、アルフォンが離れを訪う事でキャスリーンが悋気を起こすことは無いと分かっている。
問われる前に伝えないのは、キャスリーンがそれを必要としていない事を理解しているからだろう。
数日ぶりに自室の寝台に横になる。
夏の蒸し暑さが嘘のように、初秋のさらりと乾いた夜気が心地良い。
今日、キャスリーンはアルフォンの帰りを心待ちにしていた。それは彼を求めてではなく、あの図書室の管理をキャスリーンの家政に加えて欲しいと許可を得たかった為である。
フランツが話してくれると解っていても、自分の耳で確かめたかった。
本邸に戻った時に改めて願い出よう。今日のところはそう諦めたのであった。
耳を澄ませば夜だけ鳴く鳥の囀りが聴こえる。羽根を鳴らす虫の音も。
太り始めた月明かりがバルコニーから部屋の中まで照らしている。
こんな夜は、ランプの灯りが無くとも部屋の中を造作なく歩くことが出来る。
寝台に横になっていたのだが、誰にも邪魔されない独りの夜である。折角だから月を眺めてみようか、そんな気になってガウンを羽織り、音を立てないように気を付けながらバルコニーに出た。
此処は三階だから、他の部屋よりも空が近い。手を伸ばせば零れ落ちる流れ星を受け止められるかも知れない。
そんな幼子のような気持ちが起こったのも、若く柔らかな心で生きたアマンダの面影に触れたからか。
月から星々に視線を移す流れで離れの方向に目が行った。このバルコニーからは木立ちの向こうに離れが見える。
二階であろう窓がぼんやり明るく浮かんでいる。貴重な蝋燭を夜中まで灯せる部屋。二人が今宵を過ごす部屋なのだろう。
「ご苦労な事ね。」
言うとも無しに言葉が出て、部屋に戻ることにした。
アルフォンの妻となって半年が過ぎた。
アルフォンは、キャスリーンとの閨事に間を置かない。
彼は愛人を隣に住まわせるほど恥知らずであるが、貴族の役割を放棄するほど阿呆ではない。キャスリーンの懐妊を望んでいる筈である。
妾腹が認知される事はままある事だが、後継は正妻の腹から生まれるのが鉄則だ。
愛人アマンダも男爵令嬢であるから、彼女の生む子も貴族の血を受け継ぐが、正妻の腹が上位でなければ正統な血脈を後世に残せない。
王家でさえ順番を守るのだ。
側室は正室の輿入れから二年を経てからと王室典範に定められている。
婚姻と同時に愛人を囲う誰かとは違うのだ。そんな男を信頼して側に侍らせる王族の気が知れない。
燦めく金の髪にロイヤルブルーの瞳が美しかった王子の目が曇っていないことを願いたい。
折角の月夜であったが、キャスリーンはもう寝床に入る事にした。
アルフォンはまた数日後にはキャスリーンを求めて来るだろう。彼だってしたくてそうする訳ではない。お互い不幸な境遇である。
次の晩で孕んでしまいたい。
そうして後継となる子を得たなら、アルフォンは心置きなく離れに移れる。
キャスリーンは我が子を慈しみ後継教育を施し侯爵夫人として家と子と使用人達を守って行く。
真っ平らな腹を擦る。
早くおいで、私の子。
愛されずに育った自分が、果たして我が子を愛せるのか分からない。けれども、この広い侯爵邸で肩身の狭い思いも人目に晒される苦しさも、そんな経験は決してさせない。
アマンダ、貴女の様な悲しみをこの子には経験させないわ。
まだ影も形もない空っぽの腹を、キャスリーンは優しく撫でた。
「キャスリーン様。馬車の支度が整っております。」
「そう。では参りましょう。」
神殿への寄進は、前々侯爵夫人、アルフォンの祖母が行っていた。彼女は信仰心が厚かったらしく、自ら神殿に赴き寄進の後は祈りの時間を取っていたという。
アルフォンの母は寄進については引き継ぐも、神殿に届ける事は執事に任せて、彼女自身が神殿を訪問する事は滅多に無かったらしい。
その理由を確かめた事は無い。
社交に忙しかったのかも知れないし、そもそも信仰心が薄かったのかも知れない。
キャスリーンの知る義母は、一見して穏やかな争い事を好まない人柄に思えた。けれども世間の評判では、曲がったことを嫌う貴族らしい苛烈な面もあるのだと言う。
だからと言って、息子が婚姻と同時に隣接する離れに愛人を住まわせる事を黙認する理由にはならないが。
侯爵邸に於いて、真実常識が理解出来るのは使用人達だけであるとキャスリーンは思っている。
義母の務めを代行して、これまで神殿を訪って来たのがフランツであった。
キャスリーンは家政の説明を受けた際に、自分の代ではキャスリーン自身が寄進に出向くと申し出た。邸に籠もり切りにはなりたくなかった。
フランツも家令のロアンも、それが宜しいでしょうとキャスリーンの申し出を認めてくれた。
元より夫人の家政であるから、アルフォンに断る必要は無い。
月に一度神殿に赴き、折角の機会であるからとキャスリーンも神の御前で祈りを捧げるのであった。
神殿は王城の直ぐ隣にある。
神殿が祀る神の教えは、古くから国教と定められて民からの信仰も厚い。
神官には王族の血筋もおり、神事は王家と深く結びついている。
侯爵家は公爵に次いで王城近くに邸宅を構えている。馬車を使えば然程時間を要する事なく神殿へ着いてしまう。
この僅かな距離を、何故義母は厭うていたのか。
今迄気にしたことも無い事が思い浮かぶも、馬車が停止したことでそれも霧散した。
どうやら神殿に到着したらしい。
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