黒革の日記

桃井すもも

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緞帳を上げたフランツが扉の前に護衛を残して退室すると、キャスリーンは扉を閉めた。

古紙と書物の匂い。埃臭いのに何処か懐かしい匂いを吸い込む。

それから部屋の角、古書が積まれたローテブルの方へ歩みを進めた。
あの黒革の日記は、昨日そのまま古書の手前に置いて来た。

フランツは気に入ったものがあったら持ち出しても大丈夫だと言っていたが、キャスリーンは日記を持ち出さなかった。

誰の目にも触れさせたく無い。
アマンダの瞳と同じ黒い日記帳。
部屋を整えるメイドにも、身支度をしてくれる侍女の目にも、あの黒革の日記の存在を知られたくなかった。

喩え、誰も中身を見ないのだとしても、この世に黒革の日記が存在している事実は、キャスリーンだけが知っていたかったのである。

だからキャスリーンは、アマンダの日記をこの図書室の中だけで読む事に決めた。
アマンダとキャスリーンだけの秘密。

「アマンダ。貴女の心を読む事を許してね。誰にも口外しないと誓うわ。私の胸の中に仕舞うから。私と貴女だけの秘密よ。」

窓際のソファーに日記を持って移動する。日記の他に何冊か適当に選んだ本も一緒に持った。
フランツが来た時に、日記を読んでいる事実を伏せたい。ダミーの書物をテーブルに置いておく。


アマンダの黒革の日記。
その表紙を、キャスリーンは指先でそっと撫でた。
それからゆっくり表紙を開く。
見開きと何も書かれていないページが見える。経年を感じさせる薄い染みがある。

ページをめくれば、褪せた青いインクの文字が目に入った。
アマンダが綴った、その日の出来事、その日の心。
いつかあったその日の空気がふわりと広がるように思えた。



『貴方の青い瞳が好き。私の黒い瞳にも、貴方の瞳がとても美しい青に映って見えるわ。こんな真っ黒な瞳でも貴方の髪と同じ色だと思うと、貴方の色をこの身に纏っているようで幸せな気持ちになるの。』


日記のはじまりは、恋する心が記されていた。
その日が何日で季節がいつなのか、他には何一つ記されていない。
黒髪に青い瞳の男に恋心を抱いている。その心情が短く記されていた。


『貴方は私の事を気が強い娘だと思うかしら。この赤い髪が、貴方の目に苛烈な女だと映らなければよいのだけれど。』

『貴方が何処にいても、私は貴方を誰よりも早く見付けられる。貴方の黒髪は艶やかで煌めいているもの。貴方は私の事を見付けられるかしら。』

『スザンヌ様が、私を本当にお父様の子なのか怪しいと言った。あんな所で言うのだもの大勢の生徒が聴いていたことでしょう。どうか貴方の耳には聴こえていませんように。』

『私は誰にも何も話していないのに、ゴーント伯爵家から謝罪の文が届いた。お父様が何かなさったのかも知れない。』


アマンダは、どうやら学園生であるらしかった。
言葉の端々に若さが滲んでいた。そして、恋心を抱く相手も同じ学園に通う生徒なのだろう。

キャスリーンもつい半年前まで学園生であったから、彼女の置かれた環境が手に取るように解った。

白金の一群の中に一点の染みのように混ざる赤い髪。ノーマンの血を受け継ぐ者は皆プラチナブロンドの髪色であるのに、彼女ばかりが赤髪である理由。
言われなくとも解ってしまうその意味。

彼女はその出自を疑われていたのだろう。
侯爵家の令嬢であるのに、伯爵家の令嬢に嘲られた。それを大勢の貴族子女が聴いている。
なんて馬鹿な事を仕出かすのだろう。
若さとは時に無知であり罪である。

キャスリーンは、まるで己の面前で、このあり得ない出来事が起こっているような錯覚を覚えた。腹の底から怒りが湧くもそれをどうにか鎮める。

これは全て終わった出来事なのだ。
いつの時代のことか分からないが、もう過ぎ去って追い付けない、遠い過去の事なのだ。

今直ぐアマンダに駆け寄って慰めてあげたい。彼女を侮った愚かな令嬢の頬を張ってやりたい。
貴女の赤い髪はとても美しいわと伝えてあげたい。


どれくらい時が経ったのか、気が付くと昂ぶる感情も落ち着きを取り戻していた。

冷静な感覚が戻って来ると思考の視野も広がって、彼女の状況を少しばかり俯瞰の目線で見ることが出来た。

父親は、彼女の状況を正しく把握していたに違いない。娘を辱めた令嬢の家に抗議をしたのだろう。侯爵家から伯爵家へ抗議するその意味。

貴族のパワーバランスは鉄壁の城塞だ。
高位貴族は絶対的な力を持つからこそ、滅多なことではその権力を振るわない。次第によっては格下の家は容易く影響を受けてしまう。
それを理解していたから、アマンダは誰にも何も言わなかったのだろう。

スザンヌ嬢の生家である伯爵家はその後どうなったのだろう。
キャスリーンがそう考えたのは、ここ最近の貴族名鑑にゴーント伯爵家の名を見た記憶が無かったからである。

アマンダの父は何某かの報復をしたのかもしれない。

それだけの事をする程、父親はアマンダを愛していたのだろうか。そうであれば良い。そうであって欲しい。

父親は慈しんでくれたとしても、周囲がそうとは限らない。一族はどう考えていたか。少なくとも肖像画が残されているのだから、アマンダはノーマン侯爵家の令嬢として生きていた筈である。

容姿の差異から出自を疑われる。そんな話は貴族にはよくある事で、キャスリーンの周りにも同じような子女達はいたし、中には庶子であるが認知をされて正式な令息令嬢と認められている者も幾人かいた。


感情が平坦だと評される自分が、アマンダに関してはこれ程までに意識を奪われている事に、キャスリーンは疑問を抱いていなかった。




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