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新婚早々、絶望的なほど夫との関係は破綻していた。破綻も何も、初めから構築すらされていない。
けれどもキャスリーンは、この婚姻がとても恵まれたものだと思っていた。
キャスリーンは若い。花の盛りでありながら夫にないがしろにされるキャスリーンに、邸の使用人達は心を砕いて仕えてくれる。
財を蓄え豊かな生家にも使用人は教育が行き届いた者が揃っていたが、ノーマン侯爵邸に仕える者達は、そこにキャスリーンへの労りや気遣いが加わって、朝目覚めた時から宵に床に入るまで心を尽くして仕えてくれる。
食事にしても、どうして分かってくれるのか、言葉の少ないキャスリーンの好みを把握した美味しい料理が並ぶのであった。
美味しくてついつい食べ過ぎてしまう。
このままでは春に仕立てたばかりのドレスを仕立て直ししなければならない。
キャスリーンの悩みはそれ位のものであった。
建国の祖の時代より続くノーマン侯爵家は、王国有数の歴史と格式を誇る貴族の名家である。
何故そこにキャスリーンとの縁が結ばれたのか、父はキャスリーンに説明してはくれなかった。
けれどもキャスリーンは今現在、名門貴族の当主の妻である。
そこに愛情があるとか云々はキャスリーンの判断材料には加わらない。
家令も執事も従者達も、等しくキャスリーンを主の妻と認めて、夫以上に執務に関わりつつあるキャスリーンにあらゆる知識を伝授するのであった。
先日招待された茶会への礼状を書いて、来週招待されている別の茶会に皆で持ち寄ろうと言うことになっていた刺繍をハンカチに刺して、その他細々とした要件を熟す内に昼になった。
昼はスコーンやサンドウィッチといった軽食で済ますキャスリーンは、軽く空腹を満たしてミルクを多目にしたお茶を飲んでから邸内を歩く。
侯爵邸は広い。邸内を歩くだけで、午前中座りっぱなしであった足を伸ばすには丁度よい散策となる。
邸の西側、その一階と二階にはそれぞれ貴賓室があって来客を持て成す仕様になっている。
絵画や調度品は年代の下るものも多く、此処を訪った者は一人残らず足を止めずにいられない。
一階から二階へ続く大階段は上がり切った場が小規模なホールとなっており、そこに侯爵家代々の当主に血族、縁(ゆかり)の深い人物の肖像画が飾られている。
アルフォンがそうである様に、ノーマン一族は皆プラチナブロンドの髪を持つ。
一族以外の他家からも夫人を得るのだから、そちらの家系の色があってもよいところを、生まれるのは揃いも揃って淡い白金の髪色なのである。
肖像にして並ぶと一目瞭然で、絵の具の加減か瞳の色には違いがあるものの、一族は連綿とプラチナブロンドを継承しているのである。
そこで一際目を引くのが一人の令嬢であった。
遠目でも直ぐに分かる。違和感を拭えない。
時代によって大小まちまちな肖像画の一群の中に、小さな雫が一滴落ちるようにその絵はあった。若い令嬢の胸から上の肖像画である。年若のまま儚くなったのだろうか。
それだけでも涙を誘う様々な物語を思い起こさせるのに、異質を感じさせるのは彼女の髪色である。
鮮やかな紅色。赤髪なのだ。
それを態々引き立てるように瞳の色は漆黒である。
意志を持った表情は、今にも絵から抜け出て何かを語り掛けてきそうに思える。
肖像画の右下にAmandaと小さく署名が書き込まれて、それが画家の名なのかそれともこの赤髪の令嬢のものなのか分からない。
けれどもキャスリーンは、それを彼女の名だと思う事にした。
アマンダと呼びかけたなら『なあに』と返事が返ってきそうである。
夫も義父母も淡く輝く髪色で、間違い無く何れここに並ぶ人物であるが、輿入れしたキャスリーンは濃い焦げ茶の髪色をしている。この一族の場に相応しくない髪色の上に、瞳ばかりは鮮やかな青色なのだ。
そんな自分は場違いにも思えるのに、ここには既に異質な存在があって、そこにキャスリーンは親近感を覚えたのかも知れない。
それくらいしか理由が思い付かないのだ。
この絵の存在を知ってから、毎日毎日足を運ばずにはいられない。
「アマンダ」と語り掛けずにはいられない。
奇しくもその名が、夫アルフォンが愛する女性と同じ名だとしても。
夫はこの事実に気付いているだろうか。
多分知らないだろう。
まるで幼子が秘密を一つ得たように、キャスリーンはAmandaの文字を見つめる。
黒い瞳は真っ直ぐこちらを見据えている。
僅かに笑みを湛えた口元は控えめな淡い色が乗せられて、髪色ばかりが鮮烈な印象を与えるのだ。
「来月、王家主催の舞踏会がある。用意しておいてくれ。衣装はフランツと決めると良い。」
フランツとは侯爵邸の執事の名である。
後で夫と揃いの衣装を手配せねばならない。そういう時にフランツの助言は心強い。
先週、月のものが終わって、久ぶりに身体を合わせる。
言葉も笑みもくれない夫は、だからと言ってキャスリーンに冷たい態度を取ったり冷遇したりはしない。必要があれば夫人として社交の場にも伴うし、家政も任せてくれている。
三文芝居のセリフのような「お前を愛する事は無い!」だなんて馬鹿げた事は一度も言われたことがない。
言っても言わなくても愛さないのに変わりはないが、態々娶って冷遇するのは時間と労力の無駄であろう。
人生は短い。軋轢は少ない方が良いに決まっている。
だから、甘い言葉を掛けられなくても、夫がキャスリーンを求めて欲を慰めるのにキャスリーンは嫌悪を抱かないのだ。
閨の夫の手は優しい。
初めての硬い身体を暴くのに、手に汗を握り歯を食いしばるキャスリーンを、時間を掛けて解してそのうちとろかして、終いは甘い快楽を教え込んだ。
キャスリーンはこの暮らしに不満は無かった。
けれどもキャスリーンは、この婚姻がとても恵まれたものだと思っていた。
キャスリーンは若い。花の盛りでありながら夫にないがしろにされるキャスリーンに、邸の使用人達は心を砕いて仕えてくれる。
財を蓄え豊かな生家にも使用人は教育が行き届いた者が揃っていたが、ノーマン侯爵邸に仕える者達は、そこにキャスリーンへの労りや気遣いが加わって、朝目覚めた時から宵に床に入るまで心を尽くして仕えてくれる。
食事にしても、どうして分かってくれるのか、言葉の少ないキャスリーンの好みを把握した美味しい料理が並ぶのであった。
美味しくてついつい食べ過ぎてしまう。
このままでは春に仕立てたばかりのドレスを仕立て直ししなければならない。
キャスリーンの悩みはそれ位のものであった。
建国の祖の時代より続くノーマン侯爵家は、王国有数の歴史と格式を誇る貴族の名家である。
何故そこにキャスリーンとの縁が結ばれたのか、父はキャスリーンに説明してはくれなかった。
けれどもキャスリーンは今現在、名門貴族の当主の妻である。
そこに愛情があるとか云々はキャスリーンの判断材料には加わらない。
家令も執事も従者達も、等しくキャスリーンを主の妻と認めて、夫以上に執務に関わりつつあるキャスリーンにあらゆる知識を伝授するのであった。
先日招待された茶会への礼状を書いて、来週招待されている別の茶会に皆で持ち寄ろうと言うことになっていた刺繍をハンカチに刺して、その他細々とした要件を熟す内に昼になった。
昼はスコーンやサンドウィッチといった軽食で済ますキャスリーンは、軽く空腹を満たしてミルクを多目にしたお茶を飲んでから邸内を歩く。
侯爵邸は広い。邸内を歩くだけで、午前中座りっぱなしであった足を伸ばすには丁度よい散策となる。
邸の西側、その一階と二階にはそれぞれ貴賓室があって来客を持て成す仕様になっている。
絵画や調度品は年代の下るものも多く、此処を訪った者は一人残らず足を止めずにいられない。
一階から二階へ続く大階段は上がり切った場が小規模なホールとなっており、そこに侯爵家代々の当主に血族、縁(ゆかり)の深い人物の肖像画が飾られている。
アルフォンがそうである様に、ノーマン一族は皆プラチナブロンドの髪を持つ。
一族以外の他家からも夫人を得るのだから、そちらの家系の色があってもよいところを、生まれるのは揃いも揃って淡い白金の髪色なのである。
肖像にして並ぶと一目瞭然で、絵の具の加減か瞳の色には違いがあるものの、一族は連綿とプラチナブロンドを継承しているのである。
そこで一際目を引くのが一人の令嬢であった。
遠目でも直ぐに分かる。違和感を拭えない。
時代によって大小まちまちな肖像画の一群の中に、小さな雫が一滴落ちるようにその絵はあった。若い令嬢の胸から上の肖像画である。年若のまま儚くなったのだろうか。
それだけでも涙を誘う様々な物語を思い起こさせるのに、異質を感じさせるのは彼女の髪色である。
鮮やかな紅色。赤髪なのだ。
それを態々引き立てるように瞳の色は漆黒である。
意志を持った表情は、今にも絵から抜け出て何かを語り掛けてきそうに思える。
肖像画の右下にAmandaと小さく署名が書き込まれて、それが画家の名なのかそれともこの赤髪の令嬢のものなのか分からない。
けれどもキャスリーンは、それを彼女の名だと思う事にした。
アマンダと呼びかけたなら『なあに』と返事が返ってきそうである。
夫も義父母も淡く輝く髪色で、間違い無く何れここに並ぶ人物であるが、輿入れしたキャスリーンは濃い焦げ茶の髪色をしている。この一族の場に相応しくない髪色の上に、瞳ばかりは鮮やかな青色なのだ。
そんな自分は場違いにも思えるのに、ここには既に異質な存在があって、そこにキャスリーンは親近感を覚えたのかも知れない。
それくらいしか理由が思い付かないのだ。
この絵の存在を知ってから、毎日毎日足を運ばずにはいられない。
「アマンダ」と語り掛けずにはいられない。
奇しくもその名が、夫アルフォンが愛する女性と同じ名だとしても。
夫はこの事実に気付いているだろうか。
多分知らないだろう。
まるで幼子が秘密を一つ得たように、キャスリーンはAmandaの文字を見つめる。
黒い瞳は真っ直ぐこちらを見据えている。
僅かに笑みを湛えた口元は控えめな淡い色が乗せられて、髪色ばかりが鮮烈な印象を与えるのだ。
「来月、王家主催の舞踏会がある。用意しておいてくれ。衣装はフランツと決めると良い。」
フランツとは侯爵邸の執事の名である。
後で夫と揃いの衣装を手配せねばならない。そういう時にフランツの助言は心強い。
先週、月のものが終わって、久ぶりに身体を合わせる。
言葉も笑みもくれない夫は、だからと言ってキャスリーンに冷たい態度を取ったり冷遇したりはしない。必要があれば夫人として社交の場にも伴うし、家政も任せてくれている。
三文芝居のセリフのような「お前を愛する事は無い!」だなんて馬鹿げた事は一度も言われたことがない。
言っても言わなくても愛さないのに変わりはないが、態々娶って冷遇するのは時間と労力の無駄であろう。
人生は短い。軋轢は少ない方が良いに決まっている。
だから、甘い言葉を掛けられなくても、夫がキャスリーンを求めて欲を慰めるのにキャスリーンは嫌悪を抱かないのだ。
閨の夫の手は優しい。
初めての硬い身体を暴くのに、手に汗を握り歯を食いしばるキャスリーンを、時間を掛けて解してそのうちとろかして、終いは甘い快楽を教え込んだ。
キャスリーンはこの暮らしに不満は無かった。
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