今日も空は青い空

桃井すもも

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路上で起きた決闘騒ぎの巻き添えに合い、侯爵令息夫人が負傷した。

夫人は、ついひと月前に隣国から嫁いだばかりの第三王女殿下であった。母国を離れて他国の侯爵家へ降嫁された。

令息は二度目の婚姻であったが、年の頃も近く仲睦まじい若夫婦であった。
夫も夫人も見目が頗る美しい貴人であったから、仲の宜しい麗しい夫妻を周りは熱に当てられながら微笑ましく眺めていた。

夫にも夫人にも、過去に纏わる醜聞が聞こえるも、微笑み合う二人の前ではそれらは過ぎ去った遠い記憶として、いつか消えてなくなると思われた。

夫の侯爵家では商会を経営しており、その月、季節を先取りした衣装が届いたばかりであったから、夫は夫人にドレスを贈ろうと、その日は夫人を伴って商会に向かったのだと云う。

痛ましい事故はそこで起こった。
何故、あの大通りで昼の最中から決闘騒ぎなど起こったのか。

向かい合う男が二人、剣を構えて互いを刃で狙い定めていたのが、一人が剣を振りかぶり、一人がそれを避けて身を翻した。

相手に逃れられた男の刃は振り降ろした勢いもそのままに、偶々向こう側にいた夫人の顔面を切り裂いたのだと言う。



夫人の傷は深かった。
何せ顔面は、眉間から左眼に続き頬をそして口蓋を真っ二つに切り裂いてしまったのだから。

勢いが付いていたのだろう。前歯の二本は割れていたと言う。それほどの衝撃を柔らかく可憐なお顔が受け止めたのだから、その傷の深さが伺われる。

夫人は三日三晩意識が戻らず高熱に魘された。血飛沫が泉の如く吹き上がったというから、大量の血を失ったのだろう。

四日目に漸く意識が戻るも、それからは激痛との戦いで、痛みに涙を零せば潰れた左眼ばかりでなく、眉間も頬も歪む口元まで更に痛む。

漸く傷が塞がって抜糸を終えた頃に、夫人は気が付いた。部屋に鏡が無い。

左眼は頭から包帯を巻かれていたから、それが外されてからも尚、視界が開けず視野が右側だけであるのを不審に思った。

発語し難いのは、未だ傷が癒えていないからだろう。舌先の感覚も無いのだからよく解らない。

周囲が止めるのを無理矢理に鏡を持ってこさせて、それを覗いた夫人は声の限りに叫んだから、折角塞がった唇は傷が再び開いてしまった。

気も狂わんばかりに泣き叫び、それが更なる痛みを呼び起こす。欠けた前歯から息が漏れて、歪んだ唇から漏れる言葉は歯の抜けた老婆のそれと変わらない。

王家の誇る可憐な美貌、天使と謳われたかんばせは御伽噺の魔女の様に変わり果てていたから、夫人は死にたいと声を枯らして泣き叫んだ。
生き地獄とはこの事であろう。

しかし、夫人は幸運であった。
これ程の不幸な惨劇に見舞われて何が幸運というのか。その気持ちは良く解る。しかしながら、夫人はやはり幸運であった。
夫が夫人への愛を失わなかったのだから。

婚礼から僅かひと月しか経っていなかったのに、二人の間には揺がぬ愛が確かにあって、夫は化け物と化した妻を励まし労り、自ら看護し食事を与えて湯浴みすら侍女に任せず自ら清めた。

朝も昼も夜も、一日の全ての時間を夫人の側にいて、手を取り涙を拭いて優しく慰め続けた。

嫁いだばかりだと言うのに、美しい顔面を無残に割られて、夫人は婚礼の日以降、唯の一度も夜会も茶会も舞踏会にも姿を現す事は無かった。
社交にも一切顔を見せない。

そうして夫も妻に侍って、あれほど社交的で華やかな青年貴族であったのに、やはり社交界から姿を消した。

王家主催の催しには、夫のみが始まりの僅かな時間訪れるも、王族への挨拶を済ませた後はその足で帰ってしまう。

夫は変わらず美丈夫で穏やかな気質もそのままに、優美な姿は彼の過去を知らぬ若きご令嬢達の頬を染めさせた。

夫人のお加減は如何であろうかと、気遣い心配される言葉には、妻は元気です。酷く恥ずかしがり屋であるから失礼承知で社交は控えさせております。可愛い妻ですから、私も妻を人の目に触れさせたくは無いのです。幾つになっても姫様はお可愛いらしくて、私は天使の様な妻を得られた果報者なのです。

そう、聞く人のほうが赤くなりそうな惚気を漏らした。その顔に偽りは見えない。真実夫人を愛する姿であった。

若き頃は妾に溺れ最初の妻とは離縁となった。夫人も姫君時代には、幼さから来る過ぎた悪戯もあったらしい。

そんな過去など霞む程、固い絆で結ばれた若夫婦を、貴族達は真実の愛と呼んで褒め称えた。



「姫様、今日は御身体の加減は如何でしょうか。」

リシャールは、温かな湯で湿らせた柔らかな布で、妻の顔を優しく撫でる。撫でるように拭いてやる。

その手つきも声音も真心込もった優しいもので、目元は穏やかな笑みを浮かべ細められている。

「だいしょうふ。」
「ああ、それは良かった。安心致しました。」

それから妻の夜着をゆっくり脱がせて、汗ばむ身体も柔らかな布で清めていく。

「姫様、痒い所は御座いませんか?」
「きもしいいふぁ。」
「ああ、気持ちが宜しいのですね。それなら、」

リシャールは笑みをそのままに裸の妻の身体をゆっくり倒してゆく。

「それなら今宵も愛し合いましょう。」

涎が漏れてしまう唇に、優しく口付けを落とす。すっかり傷は癒えているから、痛みを感じる事は無いだろう。

額から左眼を抉り頬を切り裂き唇を割ったその傷跡を、優しく指でなぞって行く。

「ああ、僕の姫様、なんて可憐で愛らしい。僕は幸せ者だ、天使を妻に娶ったのだから。」

そう言えば、妻は涙を零す。潰れた左眼からも涙が流れ落ちる。

リシャールはそれを口付けで飲み込んで、それからはゆっくりと一晩掛けて妻の身体を愛でるのだ。

前歯が無くとも唇が可怪しな方向に歪もうとも、漏れる悦びの声は変わらない。
妻の悦ぶ声に歓喜しながら、リシャールは益々愛が深まるのを感じていた。

ああ、姫様、姫様。僕だけの姫様。
この世に貴女が舞い降りて僕の妻になって下さった。生きておられるだけで幸福だ。生涯貴女だけを愛するよ。

この命すら捧げたいけど、それでは姫様のお世話が出来ない。悦びも与えられない。
だから姫様より長生きをして、貴女に生涯仕えるよ。

何の補償なのか、国からは月々金銭が渡される。リシャールは勤労も貴族の務めも社交さえも、何もかもを放棄して、愛する姫君と恵まれた暮らしを送っていられる。

首から下は傷を負っていないから、姫君の身体はどこまでも柔らかく甘く艶めかしい。愛すれば愛するほど応えてくれて、涙と涎に濡れるかんばせまで胸を打つ。

この世に唯二人、裸のままに愛し合い歳を取っていける幸せ。

姫様は何処もかしこも美しい。
血飛沫を天高く吹き上げて仰け反る姿さえ神々しかった。痛みに歪み絶望に慄く表情も、全て全て美しい。

歪んだ愛が留まることは無い。
それに縋る姫君の愛も益々深まり、愛し合う二人は王国の貴族の邸の一室で変わらぬ愛を育み続ける。

姫君を愛おしげに見下ろして、リシャールはうっそりと微笑んだ。



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