36 / 55
【36】
しおりを挟む
だらだらと十年も続いた縁が、切れるのは一瞬の事である。
これまでも傘下の貴族達にイザベルの処遇を求められて来た侯爵も、漸く彼女の放逐を決めた。
リシャールが望むのならばとあれほど目溢しを続けて、グレースとの離縁の際にもリシャールの子が宿っているからとイザベルの存在を認めた侯爵夫妻も、度重なる彼女の愚行にとうとう匙を投げた。
イザベルが王城で騒ぎを起こしたのはこれで二度目だ。此度は王家から監督の責を問う文まで届けられてしまった。 明日は参内して、これまでの非を詫びねばならぬだろう。
隣国の第三王女を受け入れる事で、前回の醜聞、夜会の場で己の懐妊を告げて夫人に離縁を求めるなどという醜態を晒した騒動について、責を問わぬものとしてもらえた。
あの夜会の顛末は、本妻のグレースを手放す結果となった上に、伯爵家からも事業の提携を解かれてしまった。痛手なんて軽い言葉では済まされない。
多くを犠牲にした切っ掛けの腹の子が早々に流れてしまったのだから、イザベルをもっと早く放逐すべきであったのだと傘下の貴族家からも突き上げられた。父侯爵の意志は硬く、既にイザベルに掛ける情けは無い。
全て姫様の言った通りだ。
これ程上手く行くだなんて。
イザベルを漸く切れる。今晩の内に荷を纏めてもらおう。生家があるのだから、そこへ帰れば良いだろう。
この十年で買い与えた衣装も宝石もくれてやる。それくらいあれば、生涯食うには困らぬ筈だろう。
姫様は凄いな。
全てお見通しであったのだな。
グレースを失ってからぐらぐらと揺らいで塞いだ心が、今は確かな礎を得て居場所が定まる様であった。
両親を面前に、隣で青く震えるイザベルにリシャールは声を掛けた。
「イザベル。」
優しい声音で名を呼べば、イザベルは瞳を潤ませ縋る眼差しを向けて来る。現にリシャールの腕を掴んで離さない。
「今晩中に荷物を纏めてね。無理なら後から運ぶのも許すよ。馬車を貸してあげる。けれども君は、明日の朝には出て行ってもらうよ。ああ、朝餉は摂って行くんだよ。腹を空かせるのは可哀想だからね。」
思いやりいっぱいと云う風に、目の前で震える恋人の縋る腕を外して、リシャールは十年越しの恋人に別れを告げたのである。
荷物は侍女達が夜のうちには纏めてしまった。その様子を呆然と見つめているうちに朝を迎えて、食堂ではなくて空になった部屋に食事が運ばれて来た。
砂を噛むような食事をどうにか終えれば、荷を運ぶ為の馬車は邸を出ようとしているではないか。慌てて駆け出し声を張り上げ止まってもらう。漸く馬車に追いついて、荷物と一緒に生家の子爵家へ向かった。
リシャールに囲われてから、生家に戻ることは無かった。夜会の席で遠目に両親と兄を見て、元気なんだなと思う程度であった。
だから、その様変わりに戸惑った。
庭園はすっかり荒れて野草が伸びたまま冬枯れしている。玄関ポーチに迎える人は無く、そういえばここは子爵家で侯爵家では無いのだ。生家は元より経済的な余裕は無く、使用人も少なかったと思い出す。
それにしても、執事がいたはずだけれどどうしたのか。それより、兄は仕事だろうが母は?お茶会かしら、と見渡すと、邸内は薄暗く何だか埃臭い。
床に足跡が付いている。
照明に灯りが無い。朝だから?
何だか饐えた嫌な匂いがして、すんすんと嗅いでしまった。
壁はこんなにぽっかりと空間が空いていただろうか。確か絵画が飾られていた筈だった。
母は花が好きであったから、季節を問わずささやかではあるが花や緑が飾られていた。それが無いのは今が冬の最中であるからか。
十年近く前の記憶を手繰り寄せて、パズルを嵌めるように当て嵌めるも、パーツはどれもこれも遠い記憶と一致しない。
どかどか音を立てて、イザベルの荷物が乱雑に運ばれる。あっという間にもうもうと埃が立って、思わず咳き込んでしまった。
目の中にも塵が入ったらしく、眼を瞬かせているうちに荷運びは終わってしまい、使用人は振り返る事も挨拶することも無く去って行った。
その後ろ姿を呆然と見つめている後頭部に、これまで知らぬ鈍い痛みと衝撃を感じた。無防備に立っていた身体に力など入っておらず、衝撃をもろに受け止めたまま横倒れしてしまう。
埃まみれの床に手をついて、痛む頭を触れば、「痛っ」切るような鋭い痛みを感じた。
思わず後ろを振り返る。
多分父であろう男が立っていた。
木っ端切れのような棒を手にしている。
あの棒で殴られたのだ、真逆これは父ではなく暴漢なのか、父も母も兄も、この暴漢に襲われたのか。
痛む頭が瞬時に思い描いた最悪を、誰でも無い目の前の暴漢が打ち消した。
「イザベル、」
「お、お父様?」
目の前の汚く煤けた男は父であった。
髭は伸びて手入れもしていない。
頬が削げているのが髭面でも解る。
髪はベトベトと脂に塗れて固まって見えた。
表情は憤怒、憤怒一色である。
憤怒の表情で父は、手に持つ棒で強かに娘を打ち据えたのだ。
「この役立たずが!お前のせいで何もかもお終いだ!どうしてくれよう!この淫売が!」
リシャールに十年近くも囲われて呆気なく捨てられた娘を、父は淫売め、淫売めと叫びながら再び三度打ち据えた。
侯爵家から運ばれた荷は、イザベルが身に着ける前に見知らぬ男達ががやがや押し掛けそのまま持って行ってしまった。それで金銭を受け取ったらしい父は、酒瓶を片手に自室に籠もったまま出て来ない。
幾度も強かに打ち据えられたイザベルは、頭も背も薄っすら血が滲み、動こうものなら途端に痛みが走って蹲ってしまった。
時を置かず再び現れた男達に引き摺られるように邸から出されて、無理矢理馬車に乗せられた。
カタカタと歯の根も合わぬほど恐怖に震える。
一体我が身に何が起こったのか。
そんな事は、考えたくとも考える事すら許されなかった。
漸く止まった馬車から降ろされた建物は、凍てつく冬の最中にあって、男達に果てる事のない春を売る楽園であったから。
これまでも傘下の貴族達にイザベルの処遇を求められて来た侯爵も、漸く彼女の放逐を決めた。
リシャールが望むのならばとあれほど目溢しを続けて、グレースとの離縁の際にもリシャールの子が宿っているからとイザベルの存在を認めた侯爵夫妻も、度重なる彼女の愚行にとうとう匙を投げた。
イザベルが王城で騒ぎを起こしたのはこれで二度目だ。此度は王家から監督の責を問う文まで届けられてしまった。 明日は参内して、これまでの非を詫びねばならぬだろう。
隣国の第三王女を受け入れる事で、前回の醜聞、夜会の場で己の懐妊を告げて夫人に離縁を求めるなどという醜態を晒した騒動について、責を問わぬものとしてもらえた。
あの夜会の顛末は、本妻のグレースを手放す結果となった上に、伯爵家からも事業の提携を解かれてしまった。痛手なんて軽い言葉では済まされない。
多くを犠牲にした切っ掛けの腹の子が早々に流れてしまったのだから、イザベルをもっと早く放逐すべきであったのだと傘下の貴族家からも突き上げられた。父侯爵の意志は硬く、既にイザベルに掛ける情けは無い。
全て姫様の言った通りだ。
これ程上手く行くだなんて。
イザベルを漸く切れる。今晩の内に荷を纏めてもらおう。生家があるのだから、そこへ帰れば良いだろう。
この十年で買い与えた衣装も宝石もくれてやる。それくらいあれば、生涯食うには困らぬ筈だろう。
姫様は凄いな。
全てお見通しであったのだな。
グレースを失ってからぐらぐらと揺らいで塞いだ心が、今は確かな礎を得て居場所が定まる様であった。
両親を面前に、隣で青く震えるイザベルにリシャールは声を掛けた。
「イザベル。」
優しい声音で名を呼べば、イザベルは瞳を潤ませ縋る眼差しを向けて来る。現にリシャールの腕を掴んで離さない。
「今晩中に荷物を纏めてね。無理なら後から運ぶのも許すよ。馬車を貸してあげる。けれども君は、明日の朝には出て行ってもらうよ。ああ、朝餉は摂って行くんだよ。腹を空かせるのは可哀想だからね。」
思いやりいっぱいと云う風に、目の前で震える恋人の縋る腕を外して、リシャールは十年越しの恋人に別れを告げたのである。
荷物は侍女達が夜のうちには纏めてしまった。その様子を呆然と見つめているうちに朝を迎えて、食堂ではなくて空になった部屋に食事が運ばれて来た。
砂を噛むような食事をどうにか終えれば、荷を運ぶ為の馬車は邸を出ようとしているではないか。慌てて駆け出し声を張り上げ止まってもらう。漸く馬車に追いついて、荷物と一緒に生家の子爵家へ向かった。
リシャールに囲われてから、生家に戻ることは無かった。夜会の席で遠目に両親と兄を見て、元気なんだなと思う程度であった。
だから、その様変わりに戸惑った。
庭園はすっかり荒れて野草が伸びたまま冬枯れしている。玄関ポーチに迎える人は無く、そういえばここは子爵家で侯爵家では無いのだ。生家は元より経済的な余裕は無く、使用人も少なかったと思い出す。
それにしても、執事がいたはずだけれどどうしたのか。それより、兄は仕事だろうが母は?お茶会かしら、と見渡すと、邸内は薄暗く何だか埃臭い。
床に足跡が付いている。
照明に灯りが無い。朝だから?
何だか饐えた嫌な匂いがして、すんすんと嗅いでしまった。
壁はこんなにぽっかりと空間が空いていただろうか。確か絵画が飾られていた筈だった。
母は花が好きであったから、季節を問わずささやかではあるが花や緑が飾られていた。それが無いのは今が冬の最中であるからか。
十年近く前の記憶を手繰り寄せて、パズルを嵌めるように当て嵌めるも、パーツはどれもこれも遠い記憶と一致しない。
どかどか音を立てて、イザベルの荷物が乱雑に運ばれる。あっという間にもうもうと埃が立って、思わず咳き込んでしまった。
目の中にも塵が入ったらしく、眼を瞬かせているうちに荷運びは終わってしまい、使用人は振り返る事も挨拶することも無く去って行った。
その後ろ姿を呆然と見つめている後頭部に、これまで知らぬ鈍い痛みと衝撃を感じた。無防備に立っていた身体に力など入っておらず、衝撃をもろに受け止めたまま横倒れしてしまう。
埃まみれの床に手をついて、痛む頭を触れば、「痛っ」切るような鋭い痛みを感じた。
思わず後ろを振り返る。
多分父であろう男が立っていた。
木っ端切れのような棒を手にしている。
あの棒で殴られたのだ、真逆これは父ではなく暴漢なのか、父も母も兄も、この暴漢に襲われたのか。
痛む頭が瞬時に思い描いた最悪を、誰でも無い目の前の暴漢が打ち消した。
「イザベル、」
「お、お父様?」
目の前の汚く煤けた男は父であった。
髭は伸びて手入れもしていない。
頬が削げているのが髭面でも解る。
髪はベトベトと脂に塗れて固まって見えた。
表情は憤怒、憤怒一色である。
憤怒の表情で父は、手に持つ棒で強かに娘を打ち据えたのだ。
「この役立たずが!お前のせいで何もかもお終いだ!どうしてくれよう!この淫売が!」
リシャールに十年近くも囲われて呆気なく捨てられた娘を、父は淫売め、淫売めと叫びながら再び三度打ち据えた。
侯爵家から運ばれた荷は、イザベルが身に着ける前に見知らぬ男達ががやがや押し掛けそのまま持って行ってしまった。それで金銭を受け取ったらしい父は、酒瓶を片手に自室に籠もったまま出て来ない。
幾度も強かに打ち据えられたイザベルは、頭も背も薄っすら血が滲み、動こうものなら途端に痛みが走って蹲ってしまった。
時を置かず再び現れた男達に引き摺られるように邸から出されて、無理矢理馬車に乗せられた。
カタカタと歯の根も合わぬほど恐怖に震える。
一体我が身に何が起こったのか。
そんな事は、考えたくとも考える事すら許されなかった。
漸く止まった馬車から降ろされた建物は、凍てつく冬の最中にあって、男達に果てる事のない春を売る楽園であったから。
2,531
お気に入りに追加
3,095
あなたにおすすめの小説
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。
ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。
即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。
そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。
国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。
⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎
※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。
旦那様は大変忙しいお方なのです
あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。
しかし、その当人が結婚式に現れません。
侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」
呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。
相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。
我慢の限界が――来ました。
そちらがその気ならこちらにも考えがあります。
さあ。腕が鳴りますよ!
※視点がころころ変わります。
※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる