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リシャールは、グレースとの離縁など考えた事も無かった。
イザベルは恋人であって妻ではないから、決して妊娠させぬ様に強い薬を与えていたのに、天の采配には敵わなかった。
あんなに愛したグレースに氷よりも冷たい視線で見下され、言い訳も聞いてもらえぬまま離縁となった。
それからは全てが色を失って、ひとつが崩れれば土台を損なった塔のように、社交も仕事も家も交友関係も全てが脆く崩れて行く。崩壊寸前での新たな婚姻は王命であった。
その頃には、恋人のイザベルのことが心底煩わしく面倒になっていた。
家政も出来ぬのに身を飾る事を好む。子爵の娘であるからだろう、よい歳をして貴族の礼儀を知らない。
茶会を開けば、リシャールには名も分からぬ令嬢ばかりが呼ばれている。聞けば皆男爵か準男爵の子女ばかりで、イザベルと同じ子爵家の令嬢すら一人も居ない。
若いうちには可愛く思えた失敗も、才媛と名高かった元妻を知ってしまえば、些細な身の熟し方すらがさつに見えて、一体、子爵家や学園で何を学んだのかと、こちらの方が恥ずかしくなる。
グレースとの縁を断ち切った原因の腹の子は、早々に流れてしまった。
グレースに気を使い過ぎて塞いだせいだとか、急な転居で無理をしただとか、慣れない使用人に囲まれて気疲れしたからだとか、イザベルは色々理由を並べたが、リシャールはそれすらどうでもよく思えた。
グレースは離縁した後も変わらず美しい。
夜会や舞踏会で遠目に見るグレース。あの欲を唆る身体も柔らかく温かな心も自分のものであったのに。
人々の賞賛を受けて微笑む笑みに心が軋む。隣にいつもあの男が侍っているのも気に食わない。
軽やかにダンスを踊る二人にいつしか目を奪われて、悔しさだけが苦く残るのであった。
イザベルの愚かさに悩まされる内に、すっかり呆れ果てて面倒になり、そのうち心底飽きてしまった。
何処かに行ってくれないかな。
不遜にも、そんな事を思う程であったから、王家から隣国の「阿婆擦れ王女」との婚姻を命じられた時に、イザベルを切る良い機会だと思った程であった。
王城に通され初めて会った王女は、儚く可憐な姫君であった。
阿婆擦れなどという人の噂は、きっと王女を妬んだやっかみだろう。
「初めまして。わたくしの夫君。」
そう言って微笑んだ王女の麗しい笑み。
小柄であるのに気品溢れる佇まいは、流石は王族である。
アレックス殿下にそこいらを散策しておいでよと促されて、寒さを避けて暖かな王宮内を案内しようとエスコートの手を差し出せば、見たこともないほど白く透ける小さく柔らかな手が乗せられた。
美しい。なんて儚く可憐なんだ。この世のものとは思えない。
王女の語る鈴の様な声音に、ふと漏らす笑みに、失った幸福が再び舞い降りて来たように思えた。
だから全てを壊す元凶のイザベルに、王命での婚姻であるからと別れを告げれば、ロバートの言う所の山猿の如くキーキー騒がれた。
リシャールは揉め事が大の苦手であった。争い事なら尚更である。
幼い頃から家令や執事、時には侍従や護衛がそれらを片付けてくれたから、悩まされる事など皆無であった。
グレースと婚姻してからは、家政は全て彼女が受け持ったから、面倒事など始めから無かった様に彼女が差配をしてくれた。
「リシャール。悩み事?」
初見の日からは、度々王城に呼ばれるようになっていた。
鷹揚に王女に問われて、リシャールはぺろりと容易くイザベルの存在を語ってしまった。
隣国王女は、冬の始め頃には母国を離れて王城に滞在していた。
王家主催の夜会の半月前には、王女との顔合わせも済んでおり、婚姻は王命で決められていたから、それをそのままイザベルにも伝えて別れを切り出していたのだ。
王女はイザベルについての話しを聞き終えて、その可憐な顔に笑みを浮かべた。それから甘やかな声音で言ったのだった。
「わたくしにお任せなさい。」
聖夜の前日は王家主催の夜会である。
侯爵家次期当主のリシャールは、当然この夜会に参加する。
グレースと離縁してからも、イザベルが五月蝿く騒ぐのが面倒で、夜会や舞踏会にはイザベルを伴っていた。
けれども、隣国王女との婚姻が内々で決まった今、イザベルを伴う事はあり得ない。それ以前に、早々に縁を切ってイザベルには邸を出て行ってもらわねば困るのだ。
王女との婚姻は未だ秘されている事だから、王女を伴う訳にはいかない。
今回は両親の後に付いて独りで出席しようと考えていた。
「その令嬢を連れてお行きなさいな。」
「え?姫様、貴女はそれで宜しいのですか?」
「ええ、宜しくてよ。そこで騒ぎを起こしたなら、その令嬢とやら、貴方の邸から放逐出来るでしょう?」
ううむ、とリシャールは考えた。
確かにそうであるかもしれない。
イザベルはグレースに異常な執着を見せていた。間近でグレースを見せたなら、また言い掛かりを付けるだろうか。けれども、そんなに上手く行くものか?
だからその晩、邸に戻ったリシャールは少しばかりイザベルを煽った。王女に言われた通りに。
『前妻は離縁の際に、令嬢に挨拶をしたのかしら。
長の恋人を訪いもせずに離縁したのなら、一言挨拶があっても良いわよね。
そう云う風にその令嬢に言ってやりなさい。礼を欠く行いは正さねばならないと、そう煽ってやりなさい。
そうすればその令嬢、王家の夜会で実行するでしょう。』
リシャールは、真逆王女の言葉通りの事が起こるだなんてと軽く考えていた。
だから王家の夜会でイザベルがグレースに突っかかるなどという珍事を起こすだなんてことは、真実思いもしなかった。
グレースのビジネスパートナーが、イザベルを山猿呼ばわりしたのを、言われて仕方が無いだろうと内心同意する自分は、果たして冷たい人間なのだろうか。
王女の予想以上の騒ぎになって、近衛騎士が現れた次には王太子殿下まで出張ってしまったものだから、リシャールは大慌てに慌ててしまった。
それは動揺のあまり、イザベルを庇ってしまう程であった。
イザベルは恋人であって妻ではないから、決して妊娠させぬ様に強い薬を与えていたのに、天の采配には敵わなかった。
あんなに愛したグレースに氷よりも冷たい視線で見下され、言い訳も聞いてもらえぬまま離縁となった。
それからは全てが色を失って、ひとつが崩れれば土台を損なった塔のように、社交も仕事も家も交友関係も全てが脆く崩れて行く。崩壊寸前での新たな婚姻は王命であった。
その頃には、恋人のイザベルのことが心底煩わしく面倒になっていた。
家政も出来ぬのに身を飾る事を好む。子爵の娘であるからだろう、よい歳をして貴族の礼儀を知らない。
茶会を開けば、リシャールには名も分からぬ令嬢ばかりが呼ばれている。聞けば皆男爵か準男爵の子女ばかりで、イザベルと同じ子爵家の令嬢すら一人も居ない。
若いうちには可愛く思えた失敗も、才媛と名高かった元妻を知ってしまえば、些細な身の熟し方すらがさつに見えて、一体、子爵家や学園で何を学んだのかと、こちらの方が恥ずかしくなる。
グレースとの縁を断ち切った原因の腹の子は、早々に流れてしまった。
グレースに気を使い過ぎて塞いだせいだとか、急な転居で無理をしただとか、慣れない使用人に囲まれて気疲れしたからだとか、イザベルは色々理由を並べたが、リシャールはそれすらどうでもよく思えた。
グレースは離縁した後も変わらず美しい。
夜会や舞踏会で遠目に見るグレース。あの欲を唆る身体も柔らかく温かな心も自分のものであったのに。
人々の賞賛を受けて微笑む笑みに心が軋む。隣にいつもあの男が侍っているのも気に食わない。
軽やかにダンスを踊る二人にいつしか目を奪われて、悔しさだけが苦く残るのであった。
イザベルの愚かさに悩まされる内に、すっかり呆れ果てて面倒になり、そのうち心底飽きてしまった。
何処かに行ってくれないかな。
不遜にも、そんな事を思う程であったから、王家から隣国の「阿婆擦れ王女」との婚姻を命じられた時に、イザベルを切る良い機会だと思った程であった。
王城に通され初めて会った王女は、儚く可憐な姫君であった。
阿婆擦れなどという人の噂は、きっと王女を妬んだやっかみだろう。
「初めまして。わたくしの夫君。」
そう言って微笑んだ王女の麗しい笑み。
小柄であるのに気品溢れる佇まいは、流石は王族である。
アレックス殿下にそこいらを散策しておいでよと促されて、寒さを避けて暖かな王宮内を案内しようとエスコートの手を差し出せば、見たこともないほど白く透ける小さく柔らかな手が乗せられた。
美しい。なんて儚く可憐なんだ。この世のものとは思えない。
王女の語る鈴の様な声音に、ふと漏らす笑みに、失った幸福が再び舞い降りて来たように思えた。
だから全てを壊す元凶のイザベルに、王命での婚姻であるからと別れを告げれば、ロバートの言う所の山猿の如くキーキー騒がれた。
リシャールは揉め事が大の苦手であった。争い事なら尚更である。
幼い頃から家令や執事、時には侍従や護衛がそれらを片付けてくれたから、悩まされる事など皆無であった。
グレースと婚姻してからは、家政は全て彼女が受け持ったから、面倒事など始めから無かった様に彼女が差配をしてくれた。
「リシャール。悩み事?」
初見の日からは、度々王城に呼ばれるようになっていた。
鷹揚に王女に問われて、リシャールはぺろりと容易くイザベルの存在を語ってしまった。
隣国王女は、冬の始め頃には母国を離れて王城に滞在していた。
王家主催の夜会の半月前には、王女との顔合わせも済んでおり、婚姻は王命で決められていたから、それをそのままイザベルにも伝えて別れを切り出していたのだ。
王女はイザベルについての話しを聞き終えて、その可憐な顔に笑みを浮かべた。それから甘やかな声音で言ったのだった。
「わたくしにお任せなさい。」
聖夜の前日は王家主催の夜会である。
侯爵家次期当主のリシャールは、当然この夜会に参加する。
グレースと離縁してからも、イザベルが五月蝿く騒ぐのが面倒で、夜会や舞踏会にはイザベルを伴っていた。
けれども、隣国王女との婚姻が内々で決まった今、イザベルを伴う事はあり得ない。それ以前に、早々に縁を切ってイザベルには邸を出て行ってもらわねば困るのだ。
王女との婚姻は未だ秘されている事だから、王女を伴う訳にはいかない。
今回は両親の後に付いて独りで出席しようと考えていた。
「その令嬢を連れてお行きなさいな。」
「え?姫様、貴女はそれで宜しいのですか?」
「ええ、宜しくてよ。そこで騒ぎを起こしたなら、その令嬢とやら、貴方の邸から放逐出来るでしょう?」
ううむ、とリシャールは考えた。
確かにそうであるかもしれない。
イザベルはグレースに異常な執着を見せていた。間近でグレースを見せたなら、また言い掛かりを付けるだろうか。けれども、そんなに上手く行くものか?
だからその晩、邸に戻ったリシャールは少しばかりイザベルを煽った。王女に言われた通りに。
『前妻は離縁の際に、令嬢に挨拶をしたのかしら。
長の恋人を訪いもせずに離縁したのなら、一言挨拶があっても良いわよね。
そう云う風にその令嬢に言ってやりなさい。礼を欠く行いは正さねばならないと、そう煽ってやりなさい。
そうすればその令嬢、王家の夜会で実行するでしょう。』
リシャールは、真逆王女の言葉通りの事が起こるだなんてと軽く考えていた。
だから王家の夜会でイザベルがグレースに突っかかるなどという珍事を起こすだなんてことは、真実思いもしなかった。
グレースのビジネスパートナーが、イザベルを山猿呼ばわりしたのを、言われて仕方が無いだろうと内心同意する自分は、果たして冷たい人間なのだろうか。
王女の予想以上の騒ぎになって、近衛騎士が現れた次には王太子殿下まで出張ってしまったものだから、リシャールは大慌てに慌ててしまった。
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