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グレースは鉛を飲み込んだ様な気持ちになった。上手く飲み込めずに喉から胸を通り越して胃の腑の奥にずっしり沈む。
こんな話、聞かずに済めば良かったのに。
「大丈夫か?グレース。」
今は帰路の途中の馬車にいた。
グレース達の帰宅に備えて馬車に控えていたフランシスは、舞踏会の出来事の顛末を知らない。
イザベルと何某かトラブルがあったのまでは周囲から聞き知ったが、王太子殿下との別室でのやり取りは知り得ないのだから、ロバートに付き添われるグレースの青い顔色を心配げに窺っている。
あの重い話をアレックス殿下から聞かされて、足取りまで重く王城を後にした。殿下恨みますわよ。あんな話を態々聞かせるだなんて。
「アレックス殿下が恨めしいか?」
「聞かずに済んでいられたら良かったとは思います。」
「ねえ、グレース。」
ロバートらしくない呼び掛けに、グレースははっと面を上げた。
「どうなさいましたの?ロバート様。」
ロバートの眉が下がっている。
まるで迷子になった幼子ではないか。
「ロバート様、如何なされたの?」
グレースに呼び掛けたまま口を噤んだロバートを、グレースは促した。
「グレース。殿下の話、あれは警告だと思うよ。」
「警告?」
「ああ。今の内に逃げろと。」
「逃げる?誰が?」
「君と私だ。」
「え!」
「な、何故?」
グレースの問い掛けに、ロバートは再び逡巡する様子を見せた。フランシスも固唾を呑んで見守っている。
「自惚れだと笑ってくれても良い。」
ロバートが語り始める。
「私の見目は、どうやら令嬢に持て囃されるものらしい。」
ロバートは精悍な面立ちが凛々しい美丈夫である。
「隣国王女が嫁いで来たなら、初めこそはリシャール殿に夢中になるだろう。初めこそは。」
含んだ物言いに胸騒ぎがする。
「学園生の折から幾人も男を侍らせていた。その王女がリシャール殿一人で満足出来るかな?彼女は何れ、他にも目を付ける。そうして私にも。そうなれば、きっと君を排除しようと考えるだろう。君は私に最も近い女性で、リシャール殿の前の妻だ。」
今度はグレースが口を噤む番となった。二人の常ならぬ様子を窺っていたフランシスは息を詰めている。
「その上で、私達の商会ごと欲しがるかもしれない。けれども、私達に手出し出来ない壁があるとしたら?」
「え、そんなこと、」
「あるんだ。ひとつだけ。」
ロバートは眉ばかりでなく眦まで下げている。まるで懇願する様に。
「君が私の妻であれば、王家が私達を守ってくれる。妻帯している貴族家に、王家は手出しを許さないだろう。」
「真逆、そんな、」
「こんな形で言いたくは無かった。けれどもどうか言わせてくれ。」
「グレース、私の妻になって欲しい。」
見上げれば青い空が広がっている。冬の最中にこんな抜ける様な青空が見られるだなんて。
聖夜を迎えれば年の瀬が、年の瀬を迎えれば年明けが、急かすように後から後から追って来る。
あれよあれよと年を越して、王城では今年最初の年始の夜会が催される。
商会としては格好のお披露目の舞台であるのを、グレースは今宵の夜会を断らざるを得なかった。やむにやまれぬ要件があったからだ。王家からは既に欠席を許されている。
何故ならその日はグレースの、婚礼の日であったから。
誰と?そんな人物、この世の中に一人しか居ない。
「グレース、美しいよ。」
神への誓いを済ませた男が、グレースのベールを捲り上げ、小さく囁いた。愛してる、と。
そんな真逆、この婚姻は私達が逃げる口実でしょう?そんな事は、
ある訳ないとは言わせてもらえなかった。誓いのそれにしては少しばかり長い口付けに、後の言葉は全て呑み込まれてしまったから。
過去に経験したどんな事より早業であった。何せ聖夜の前日、あの王城での夜会から僅か二週間しか経っていない。
あの夜ロバートは、グレースと共にエバーンズ伯爵家を訪った。同じく舞踏会に参加していた両親も兄も既に邸に戻っており、またまたイザベルに巻き込まれたトラブルに立腹しながらも、王太子殿下に連れられて行ったグレース達を案じていたらしい。
そこで、アレックス殿下から聞かされたイザベルの現状と、これは極秘であるからと念押しした上でのリシャールと隣国王女との婚姻話しに流石の父も眉を潜めた。
大凡の説明はそれまでグレースがしていたのだが、そこから先はロバートが代わった。
隣国第三王女の評判は、両親も兄夫婦も知るところであった。だから、それを充てがわれるリシャールの今後を心底気の毒に思う様であった。
そうして流石の両親は、そこで何やら気づいた様子で、二人揃ってロバートを見つめた。
ロバートにも何れ悪手が伸びるのではと、そうなれば最も身近にいるグレースに危険が及ぶだろう事を、この僅かな話しで推察したらしい。
翌日早朝、先触れとほぼ同時にアーバンノット伯爵邸を訪れたエバーンズ伯爵当主であったが、執務室に籠もった両伯爵当主は昼食時まで部屋を出ることはなかった。
漸く部屋を出て来た二人はそれから、別室に控えていたロバートとグレースを呼び、そのまま二人に婚姻の誓約書へサインをさせた。
婚姻式は二週間後、年明け最初の週を越した祝日であった。それは王家の年始めの夜会の日であったが、婚姻式を理由に欠席を願う事となった。
隣国第三王女はリシャールの様子を見ようと、密かに夜会を訪れるだろう。
そこで王女の目にロバートを触れさせず、親族にも他の貴族家への知らせも後日に回して、ひっそりと二家の家族だけが参列する婚姻式を執り行う事にしたのである。
この知らせに王太子殿下は、手を打って大笑いしたと云う。件の阿婆擦れ王女に愚行と言うには軽すぎるツケを払ってもらおうと、王太子は密かに画策していたから。
こんな話、聞かずに済めば良かったのに。
「大丈夫か?グレース。」
今は帰路の途中の馬車にいた。
グレース達の帰宅に備えて馬車に控えていたフランシスは、舞踏会の出来事の顛末を知らない。
イザベルと何某かトラブルがあったのまでは周囲から聞き知ったが、王太子殿下との別室でのやり取りは知り得ないのだから、ロバートに付き添われるグレースの青い顔色を心配げに窺っている。
あの重い話をアレックス殿下から聞かされて、足取りまで重く王城を後にした。殿下恨みますわよ。あんな話を態々聞かせるだなんて。
「アレックス殿下が恨めしいか?」
「聞かずに済んでいられたら良かったとは思います。」
「ねえ、グレース。」
ロバートらしくない呼び掛けに、グレースははっと面を上げた。
「どうなさいましたの?ロバート様。」
ロバートの眉が下がっている。
まるで迷子になった幼子ではないか。
「ロバート様、如何なされたの?」
グレースに呼び掛けたまま口を噤んだロバートを、グレースは促した。
「グレース。殿下の話、あれは警告だと思うよ。」
「警告?」
「ああ。今の内に逃げろと。」
「逃げる?誰が?」
「君と私だ。」
「え!」
「な、何故?」
グレースの問い掛けに、ロバートは再び逡巡する様子を見せた。フランシスも固唾を呑んで見守っている。
「自惚れだと笑ってくれても良い。」
ロバートが語り始める。
「私の見目は、どうやら令嬢に持て囃されるものらしい。」
ロバートは精悍な面立ちが凛々しい美丈夫である。
「隣国王女が嫁いで来たなら、初めこそはリシャール殿に夢中になるだろう。初めこそは。」
含んだ物言いに胸騒ぎがする。
「学園生の折から幾人も男を侍らせていた。その王女がリシャール殿一人で満足出来るかな?彼女は何れ、他にも目を付ける。そうして私にも。そうなれば、きっと君を排除しようと考えるだろう。君は私に最も近い女性で、リシャール殿の前の妻だ。」
今度はグレースが口を噤む番となった。二人の常ならぬ様子を窺っていたフランシスは息を詰めている。
「その上で、私達の商会ごと欲しがるかもしれない。けれども、私達に手出し出来ない壁があるとしたら?」
「え、そんなこと、」
「あるんだ。ひとつだけ。」
ロバートは眉ばかりでなく眦まで下げている。まるで懇願する様に。
「君が私の妻であれば、王家が私達を守ってくれる。妻帯している貴族家に、王家は手出しを許さないだろう。」
「真逆、そんな、」
「こんな形で言いたくは無かった。けれどもどうか言わせてくれ。」
「グレース、私の妻になって欲しい。」
見上げれば青い空が広がっている。冬の最中にこんな抜ける様な青空が見られるだなんて。
聖夜を迎えれば年の瀬が、年の瀬を迎えれば年明けが、急かすように後から後から追って来る。
あれよあれよと年を越して、王城では今年最初の年始の夜会が催される。
商会としては格好のお披露目の舞台であるのを、グレースは今宵の夜会を断らざるを得なかった。やむにやまれぬ要件があったからだ。王家からは既に欠席を許されている。
何故ならその日はグレースの、婚礼の日であったから。
誰と?そんな人物、この世の中に一人しか居ない。
「グレース、美しいよ。」
神への誓いを済ませた男が、グレースのベールを捲り上げ、小さく囁いた。愛してる、と。
そんな真逆、この婚姻は私達が逃げる口実でしょう?そんな事は、
ある訳ないとは言わせてもらえなかった。誓いのそれにしては少しばかり長い口付けに、後の言葉は全て呑み込まれてしまったから。
過去に経験したどんな事より早業であった。何せ聖夜の前日、あの王城での夜会から僅か二週間しか経っていない。
あの夜ロバートは、グレースと共にエバーンズ伯爵家を訪った。同じく舞踏会に参加していた両親も兄も既に邸に戻っており、またまたイザベルに巻き込まれたトラブルに立腹しながらも、王太子殿下に連れられて行ったグレース達を案じていたらしい。
そこで、アレックス殿下から聞かされたイザベルの現状と、これは極秘であるからと念押しした上でのリシャールと隣国王女との婚姻話しに流石の父も眉を潜めた。
大凡の説明はそれまでグレースがしていたのだが、そこから先はロバートが代わった。
隣国第三王女の評判は、両親も兄夫婦も知るところであった。だから、それを充てがわれるリシャールの今後を心底気の毒に思う様であった。
そうして流石の両親は、そこで何やら気づいた様子で、二人揃ってロバートを見つめた。
ロバートにも何れ悪手が伸びるのではと、そうなれば最も身近にいるグレースに危険が及ぶだろう事を、この僅かな話しで推察したらしい。
翌日早朝、先触れとほぼ同時にアーバンノット伯爵邸を訪れたエバーンズ伯爵当主であったが、執務室に籠もった両伯爵当主は昼食時まで部屋を出ることはなかった。
漸く部屋を出て来た二人はそれから、別室に控えていたロバートとグレースを呼び、そのまま二人に婚姻の誓約書へサインをさせた。
婚姻式は二週間後、年明け最初の週を越した祝日であった。それは王家の年始めの夜会の日であったが、婚姻式を理由に欠席を願う事となった。
隣国第三王女はリシャールの様子を見ようと、密かに夜会を訪れるだろう。
そこで王女の目にロバートを触れさせず、親族にも他の貴族家への知らせも後日に回して、ひっそりと二家の家族だけが参列する婚姻式を執り行う事にしたのである。
この知らせに王太子殿下は、手を打って大笑いしたと云う。件の阿婆擦れ王女に愚行と言うには軽すぎるツケを払ってもらおうと、王太子は密かに画策していたから。
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