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侯爵家へ嫁いだ伯爵家の令嬢は、妻となっても冷遇されているらしい。令息は本邸には寄り付かないのだという。
我が娘こそ令息の最愛であるのが、元は同じ羊より益を得て今なお羽振りの良い伯爵家への密かな報復に思えて、子爵は内心優越感を覚えた。
侯爵家令息の妻となった伯爵令嬢は、父親譲りの商才があると云う。
生家の取引先である伯爵家の令息と共同で商会を立ち上げて、それが王家にも覚えも目出度いと言うから、少しばかり面白くない。
一層の事、本妻は夫に冷遇されたまま娘こそが後継を孕んでくれれば良い。妻の座ごと侯爵家を奪い取って欲しいとまで望んでいた。
だから、娘の懐妊に天下を取った如く喜んだ。
何を間違えたのだろう。
何処から間違えたのだろう。
娘が王女殿下の生誕祝いの夜会で、本妻に懐妊を告げた。
そうして侯爵令息に代わって離縁を突き付けた。
胸のすく思いであった。
でかした、良くやった。いよいよ娘の時代がやって来る。
漸く侯爵令息夫人として表舞台に立てるのだ。
貴族達の面前で、未だ子をなせぬ石女の妻を引き摺り降ろして、娘こそが令息の本妻であり最愛なのだと知らしめた。
グレースが、伯爵家の令息と逃げる様に夜会会場を出て行くのを見届けて、その後は息子に任せて子爵は邸へ戻った。
取っておきのワインを取り出して、一人美酒に酔いしれる。父の失敗、領地の不運。苦しい暮らしに喘いだ日々が漸く報われる。感無量であった。
娘は未来の侯爵夫人だ。
生家である我が子爵家の未来は安泰だ。
遅れて戻った息子と妻が青い顔で、王家に陳謝せねば伯爵家へ詫びねば、果ては侯爵家に仔細を確かめなければと五月蝿いが、そんな必要は無用と黙らせた。
十年だ。学園生以来十年の年月を、娘は令息に身を捧げ愛されて来たのだ。最早、娘こそが真実の妻と言って良いだろう。
今まで散々日陰者に甘んじていたのが可怪しいのだ。娘盛りを令息に囲われて、今更他家へ嫁げる筈も無い。侯爵家には責任を取ってもらって当然である。
祝いの美酒が過ぎたのか、翌朝は遅く目覚めた。
妻は夫人の寝室で寝たのだろう。道理で起こしてくれなかった訳だ。
起床を知らせて身支度を済ませ、階下に降りる途中で異変に気付いた。
「静かだな。」
先に起きている筈の妻も息子も見当たらない。食堂に向かおうとした所で、執事に呼び止められた。
昨晩のうちに、妻と息子は領地に向かったと言う。なんの為に?ああ、さては、娘の幸事を領地の縁者に知らせに行ったか。
それなら文でも良かろうに。いや、妻の実家もあるから、あちこち文を出すよりも直接話す方が早いと思ったか。であれば一言断ってから出掛ければ良いものを。
憮然としながら、独り遅い朝食を摂る。
旨いと味わいながら食べた食事は、思えばこれが最後であった。
ロバートはその日、いつもより早く商会に出向いた。早朝であるにも関わらず、先にジョージが来ており既に鍵を開けていた。
来る途中で新聞を数紙買って来た。ジョージが珈琲を淹れるのを待つ間、新聞に目を通す。
「ふん。」
「何か目新しい記事がございましたか?」
珈琲のカップを執務机に置きながら、ジョージが尋ねる。
「恥知らずの貴族家が一つ没落したそうだ。」
「ああ、取引先から見限られた家ですか。」
ジョージは、波が引くように取引先を失った家に心当りを得たらしく、嗚呼と頷く。
「商売人が愛人業で利を得ようとするから失敗するんだ。貴族の本懐を忘れたのだろう。」
「思い切って娼館でも商っていたなら食い扶持に困る事も無かったでしょうね。」
「ふん、道理の解らぬ娼婦が一人に泥舟に乗った客一人。それでは商売にもなるまい。何より真実身体を張って稼ぐ娼婦達に失礼だろう。」
「仰る通りですね。」
「グレースには見せぬ様に。」
「承知致しました。」
ジョージが新聞を片付ける。
「グレース様はいつものお時間に?」
「ゆっくり来るように言ってある。昨晩の舞踏会も盛況であったからな。少し休ませてやりたい。」
先程までの冷淡な表情が、グレースの名を口にすると途端に柔らかな笑みを浮かべるのであった。
子爵家は爵位を返上した。領地は王家預かりとなり、親族は引続き代官として王家の管轄の下に置かれた。
今は平民となった元子爵の妻と令息は、その代官の下に身を寄せて、羊の世話や雑務など仕事を選ばず勤しんで、倹しく質素に暮らしている。
令息には王都に婚約者がいた。
同じ子爵家の末娘で、長い婚約期間にも仲睦まじい二人であった。
母と二人領地に引き上げ下働きも厭う事なく務めた息子は、これより数年の後に元貴族令嬢の妻を得た。
不遇な年月を耐えた二人は、程なく子にも恵まれて、王都の喧騒を離れ穏やかな暮らしを得たのは何よりの幸いである。
父であった元子爵は、没落後は深酒から来る病を得て、その後救護院に引き取られるも長く時を置かず没したと言う。
亡骸は、王都の共同墓地に埋葬された。
我が娘こそ令息の最愛であるのが、元は同じ羊より益を得て今なお羽振りの良い伯爵家への密かな報復に思えて、子爵は内心優越感を覚えた。
侯爵家令息の妻となった伯爵令嬢は、父親譲りの商才があると云う。
生家の取引先である伯爵家の令息と共同で商会を立ち上げて、それが王家にも覚えも目出度いと言うから、少しばかり面白くない。
一層の事、本妻は夫に冷遇されたまま娘こそが後継を孕んでくれれば良い。妻の座ごと侯爵家を奪い取って欲しいとまで望んでいた。
だから、娘の懐妊に天下を取った如く喜んだ。
何を間違えたのだろう。
何処から間違えたのだろう。
娘が王女殿下の生誕祝いの夜会で、本妻に懐妊を告げた。
そうして侯爵令息に代わって離縁を突き付けた。
胸のすく思いであった。
でかした、良くやった。いよいよ娘の時代がやって来る。
漸く侯爵令息夫人として表舞台に立てるのだ。
貴族達の面前で、未だ子をなせぬ石女の妻を引き摺り降ろして、娘こそが令息の本妻であり最愛なのだと知らしめた。
グレースが、伯爵家の令息と逃げる様に夜会会場を出て行くのを見届けて、その後は息子に任せて子爵は邸へ戻った。
取っておきのワインを取り出して、一人美酒に酔いしれる。父の失敗、領地の不運。苦しい暮らしに喘いだ日々が漸く報われる。感無量であった。
娘は未来の侯爵夫人だ。
生家である我が子爵家の未来は安泰だ。
遅れて戻った息子と妻が青い顔で、王家に陳謝せねば伯爵家へ詫びねば、果ては侯爵家に仔細を確かめなければと五月蝿いが、そんな必要は無用と黙らせた。
十年だ。学園生以来十年の年月を、娘は令息に身を捧げ愛されて来たのだ。最早、娘こそが真実の妻と言って良いだろう。
今まで散々日陰者に甘んじていたのが可怪しいのだ。娘盛りを令息に囲われて、今更他家へ嫁げる筈も無い。侯爵家には責任を取ってもらって当然である。
祝いの美酒が過ぎたのか、翌朝は遅く目覚めた。
妻は夫人の寝室で寝たのだろう。道理で起こしてくれなかった訳だ。
起床を知らせて身支度を済ませ、階下に降りる途中で異変に気付いた。
「静かだな。」
先に起きている筈の妻も息子も見当たらない。食堂に向かおうとした所で、執事に呼び止められた。
昨晩のうちに、妻と息子は領地に向かったと言う。なんの為に?ああ、さては、娘の幸事を領地の縁者に知らせに行ったか。
それなら文でも良かろうに。いや、妻の実家もあるから、あちこち文を出すよりも直接話す方が早いと思ったか。であれば一言断ってから出掛ければ良いものを。
憮然としながら、独り遅い朝食を摂る。
旨いと味わいながら食べた食事は、思えばこれが最後であった。
ロバートはその日、いつもより早く商会に出向いた。早朝であるにも関わらず、先にジョージが来ており既に鍵を開けていた。
来る途中で新聞を数紙買って来た。ジョージが珈琲を淹れるのを待つ間、新聞に目を通す。
「ふん。」
「何か目新しい記事がございましたか?」
珈琲のカップを執務机に置きながら、ジョージが尋ねる。
「恥知らずの貴族家が一つ没落したそうだ。」
「ああ、取引先から見限られた家ですか。」
ジョージは、波が引くように取引先を失った家に心当りを得たらしく、嗚呼と頷く。
「商売人が愛人業で利を得ようとするから失敗するんだ。貴族の本懐を忘れたのだろう。」
「思い切って娼館でも商っていたなら食い扶持に困る事も無かったでしょうね。」
「ふん、道理の解らぬ娼婦が一人に泥舟に乗った客一人。それでは商売にもなるまい。何より真実身体を張って稼ぐ娼婦達に失礼だろう。」
「仰る通りですね。」
「グレースには見せぬ様に。」
「承知致しました。」
ジョージが新聞を片付ける。
「グレース様はいつものお時間に?」
「ゆっくり来るように言ってある。昨晩の舞踏会も盛況であったからな。少し休ませてやりたい。」
先程までの冷淡な表情が、グレースの名を口にすると途端に柔らかな笑みを浮かべるのであった。
子爵家は爵位を返上した。領地は王家預かりとなり、親族は引続き代官として王家の管轄の下に置かれた。
今は平民となった元子爵の妻と令息は、その代官の下に身を寄せて、羊の世話や雑務など仕事を選ばず勤しんで、倹しく質素に暮らしている。
令息には王都に婚約者がいた。
同じ子爵家の末娘で、長い婚約期間にも仲睦まじい二人であった。
母と二人領地に引き上げ下働きも厭う事なく務めた息子は、これより数年の後に元貴族令嬢の妻を得た。
不遇な年月を耐えた二人は、程なく子にも恵まれて、王都の喧騒を離れ穏やかな暮らしを得たのは何よりの幸いである。
父であった元子爵は、没落後は深酒から来る病を得て、その後救護院に引き取られるも長く時を置かず没したと言う。
亡骸は、王都の共同墓地に埋葬された。
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