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それから後は父の独壇場であった。
娘がきっちり幕引きしたのを認めて侯爵家を訪えば、当主と令息をきりきりと吊り上げた。
約束を違えておりますぞ。その一言でサインをもぎ取る。
今にも泣き出しそうな令息が目の前にいるのも見えない風であったのに、サインの時ばかりはその正面に書類を広げ、ここがサインする場所だと指でトントン指し示した。
これ程の早業を成せる父が、何故に今迄手を拱いていたのか。
グレースがリシャールと対峙する場面を待っていた?グレースにはそうとしか思えなかった。娘本人の手で、自身を縛り付けた呪縛から解放させようとしていたのか。
父の腹の内はグレース如きには全く読めない。
フランシスが父にも劣らぬ早業で、伯爵家の使用人達をぞろぞろと引き連れてものの一刻程で夫人の部屋を空にした。
そうして目出度くグレースは、侯爵家次期当主夫人からエバーンズ伯爵家令嬢に舞い戻ったのであった。
流石のグレースも少しの間大人しくしていようかと思ったが、世間はそれを許さない。
離縁と云う女の不幸に見舞われたグレースを余所に、商会の販売するプレタポルテドレスは大盛況であった。
王女殿下が婚約前の顔合わせで着用したドレスは、王女の御名を冠にプリンセス・クレアの名で商品化されて、貴族令嬢ばかりでなく平民富裕層の子女らにも人気を博していた。
グレースが夜会で纏ったドレスが原型であるのだが、深く切り込まれた胸元と背中は淑女らしく浅めにデザインを変更したから、間違っても胸のまろみが覗くなんて事はない。
襟ぐりをフラットに浅くした分、肩にかけて立ち上がるシルエットがすっきりと美しく、そこに大粒真珠を短めに繋ぎ合わせた首飾り添えれば清楚可憐な令嬢の装いとなる。
ドレスに合わせたシンプルなバロックパールの首飾りと揃いの耳飾りは令嬢のマストアイテムとなっていた。
婦人服専門店 R&G商会の会頭の一人であるグレースとは、先頃までは侯爵家の次期当主夫人であったが、夫の不貞により婚外子が出来たが為にそれを原因に離縁をした伯爵令嬢である。
過去には愛人が店に商品を強請りに来る珍事があり、またこの愛人は、王女殿下の生誕祝いの席で、不義の子を身籠った事を逆手に取って夫人に離縁を求めた強心臓の持ち主であるらしい。
世間のグレースの評判とは、大体こんなものであった。
噂に戸は立てられない。父の言う通りである。けれどもやはり父の言う通り、グレースの商会との縁を欲する者は、口さがない話しには乗らずにいた。
才気溢れるグレースは、まだまだ若く美しい。直ぐにも次の縁を望まれるであろうと噂された。
王都に一つの子爵家があった。
エヴァントン子爵家は毛織物や羊肉の卸商会を営んでいる。元は領地にて羊の放牧から精肉・羊毛加工を産業として興していたのを、先代が王都に卸専門の商会を立ち上げた。
先代には商才があったらしく、小規模ながら商会経営を軌道に乗せ、順調に利益を上げて行った。嫡男に家督を譲る頃には、領地は実弟を代官として任せて、自身は拠点を完全に王都へ移した。
王都に邸宅を構え貴族達との繋がりも得て、次世代の為に財を得たいと少しばかり欲を出した。投資に手を出しそこで大損をする。堅実な商いが得意であったのに、泡銭を求めての投資には才が無かったらしい。
領地がどれほど産業に励んでも、王都の商会経営で収益を上げても、一瞬で生み出した負債を補うのは至難の技で、結果負債は嫡男へと引き継がれた。
嫡男が当主となってからは、苦難の連続であった。父が生み出した負債を只管返済する日々。
不運は重なり、商会を支える領地に家畜の疫病が流行る。罹患した羊は、肉も羊毛も当然ながら売り物には出来ず、健康に見える羊達も隣接する他領への感染を恐れて、国より処分を求められた。
益を生み出す原資を失い、それを補う羊の購入代金として新たな負債を重ねて、それでも領地を守る親族達と力を合わせてどうにか家の存続を図って来た。
息子が一人、娘が一人。それぞれ教育を施して、嫡男は次期当主として人並みに育ったと思う。娘の教育費は苦しい懐事情では容易い事では無かったが、妻譲りの見目の良い娘であるから、学園で良縁を得られたならと、カツカツの家計から学費を捻出した。
その娘が良い仕事をした。
そこそこ見目が良い程度と然程期待をしていなかったのが、学園に入学すると直ぐに侯爵家の嫡男と懇意になった。
これ程の僥倖は無い。不運続きの当主は娘の手柄を喜んだ。
娘に子爵家の将来を託して期待を掛けたが果たして、この令息とは婚姻には至らなかった。侯爵家こそ事業経営に翳りが見えて、他家からの援助を必要としていたからである。
思い合う二人を添わせても、侯爵家にも子爵家にも益を齎すものなど一つも無く、明るい未来は望めない。
子爵はこの縁を泣く泣く諦めたのであった。
ところが娘の強運は続く。
手広く商会経営を行う伯爵家との事業提携が功を奏して、侯爵家の経営状況が少しずつ上向きになると、その頃には学園を卒業していた令息も侯爵に倣い経営に携わる様になった。
そうして令息は娘への愛を忘れる事なく、侯爵家の別邸に娘を囲った。
妻は、それではまるで愛人ではないか、縁談にも差し障るし、何より他家の貴族達にも領地の縁者達にも恥ずかしいと嘆いたが、子爵はそれも女の処世術であるとこれを歓迎した。
数年そうして過ごす内に、子爵家も元ほどでは無いが益を得られる様になって来た。丁度その頃、侯爵家の令息が事業提携する伯爵家のご令嬢と婚姻する事になった。
妻も嫡男も、最早引き時であるから娘を呼び戻そうと言ったが、肝心の娘が諾としない。侯爵令息も妻を得たと言うのに変わらず別邸を棲家として、娘を捨てる気は無いらしかった。
愛人?良いではないか、侯爵家に食わせてもらえるのならそれこそ僥倖である。
子爵はこれを幸いだと見過ごした。
娘がきっちり幕引きしたのを認めて侯爵家を訪えば、当主と令息をきりきりと吊り上げた。
約束を違えておりますぞ。その一言でサインをもぎ取る。
今にも泣き出しそうな令息が目の前にいるのも見えない風であったのに、サインの時ばかりはその正面に書類を広げ、ここがサインする場所だと指でトントン指し示した。
これ程の早業を成せる父が、何故に今迄手を拱いていたのか。
グレースがリシャールと対峙する場面を待っていた?グレースにはそうとしか思えなかった。娘本人の手で、自身を縛り付けた呪縛から解放させようとしていたのか。
父の腹の内はグレース如きには全く読めない。
フランシスが父にも劣らぬ早業で、伯爵家の使用人達をぞろぞろと引き連れてものの一刻程で夫人の部屋を空にした。
そうして目出度くグレースは、侯爵家次期当主夫人からエバーンズ伯爵家令嬢に舞い戻ったのであった。
流石のグレースも少しの間大人しくしていようかと思ったが、世間はそれを許さない。
離縁と云う女の不幸に見舞われたグレースを余所に、商会の販売するプレタポルテドレスは大盛況であった。
王女殿下が婚約前の顔合わせで着用したドレスは、王女の御名を冠にプリンセス・クレアの名で商品化されて、貴族令嬢ばかりでなく平民富裕層の子女らにも人気を博していた。
グレースが夜会で纏ったドレスが原型であるのだが、深く切り込まれた胸元と背中は淑女らしく浅めにデザインを変更したから、間違っても胸のまろみが覗くなんて事はない。
襟ぐりをフラットに浅くした分、肩にかけて立ち上がるシルエットがすっきりと美しく、そこに大粒真珠を短めに繋ぎ合わせた首飾り添えれば清楚可憐な令嬢の装いとなる。
ドレスに合わせたシンプルなバロックパールの首飾りと揃いの耳飾りは令嬢のマストアイテムとなっていた。
婦人服専門店 R&G商会の会頭の一人であるグレースとは、先頃までは侯爵家の次期当主夫人であったが、夫の不貞により婚外子が出来たが為にそれを原因に離縁をした伯爵令嬢である。
過去には愛人が店に商品を強請りに来る珍事があり、またこの愛人は、王女殿下の生誕祝いの席で、不義の子を身籠った事を逆手に取って夫人に離縁を求めた強心臓の持ち主であるらしい。
世間のグレースの評判とは、大体こんなものであった。
噂に戸は立てられない。父の言う通りである。けれどもやはり父の言う通り、グレースの商会との縁を欲する者は、口さがない話しには乗らずにいた。
才気溢れるグレースは、まだまだ若く美しい。直ぐにも次の縁を望まれるであろうと噂された。
王都に一つの子爵家があった。
エヴァントン子爵家は毛織物や羊肉の卸商会を営んでいる。元は領地にて羊の放牧から精肉・羊毛加工を産業として興していたのを、先代が王都に卸専門の商会を立ち上げた。
先代には商才があったらしく、小規模ながら商会経営を軌道に乗せ、順調に利益を上げて行った。嫡男に家督を譲る頃には、領地は実弟を代官として任せて、自身は拠点を完全に王都へ移した。
王都に邸宅を構え貴族達との繋がりも得て、次世代の為に財を得たいと少しばかり欲を出した。投資に手を出しそこで大損をする。堅実な商いが得意であったのに、泡銭を求めての投資には才が無かったらしい。
領地がどれほど産業に励んでも、王都の商会経営で収益を上げても、一瞬で生み出した負債を補うのは至難の技で、結果負債は嫡男へと引き継がれた。
嫡男が当主となってからは、苦難の連続であった。父が生み出した負債を只管返済する日々。
不運は重なり、商会を支える領地に家畜の疫病が流行る。罹患した羊は、肉も羊毛も当然ながら売り物には出来ず、健康に見える羊達も隣接する他領への感染を恐れて、国より処分を求められた。
益を生み出す原資を失い、それを補う羊の購入代金として新たな負債を重ねて、それでも領地を守る親族達と力を合わせてどうにか家の存続を図って来た。
息子が一人、娘が一人。それぞれ教育を施して、嫡男は次期当主として人並みに育ったと思う。娘の教育費は苦しい懐事情では容易い事では無かったが、妻譲りの見目の良い娘であるから、学園で良縁を得られたならと、カツカツの家計から学費を捻出した。
その娘が良い仕事をした。
そこそこ見目が良い程度と然程期待をしていなかったのが、学園に入学すると直ぐに侯爵家の嫡男と懇意になった。
これ程の僥倖は無い。不運続きの当主は娘の手柄を喜んだ。
娘に子爵家の将来を託して期待を掛けたが果たして、この令息とは婚姻には至らなかった。侯爵家こそ事業経営に翳りが見えて、他家からの援助を必要としていたからである。
思い合う二人を添わせても、侯爵家にも子爵家にも益を齎すものなど一つも無く、明るい未来は望めない。
子爵はこの縁を泣く泣く諦めたのであった。
ところが娘の強運は続く。
手広く商会経営を行う伯爵家との事業提携が功を奏して、侯爵家の経営状況が少しずつ上向きになると、その頃には学園を卒業していた令息も侯爵に倣い経営に携わる様になった。
そうして令息は娘への愛を忘れる事なく、侯爵家の別邸に娘を囲った。
妻は、それではまるで愛人ではないか、縁談にも差し障るし、何より他家の貴族達にも領地の縁者達にも恥ずかしいと嘆いたが、子爵はそれも女の処世術であるとこれを歓迎した。
数年そうして過ごす内に、子爵家も元ほどでは無いが益を得られる様になって来た。丁度その頃、侯爵家の令息が事業提携する伯爵家のご令嬢と婚姻する事になった。
妻も嫡男も、最早引き時であるから娘を呼び戻そうと言ったが、肝心の娘が諾としない。侯爵令息も妻を得たと言うのに変わらず別邸を棲家として、娘を捨てる気は無いらしかった。
愛人?良いではないか、侯爵家に食わせてもらえるのならそれこそ僥倖である。
子爵はこれを幸いだと見過ごした。
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