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侯爵家と伯爵家、両家で婚姻の取り決めをする際に、父は愛人の存在を確認した。侯爵はそれを清算させると言ったのだが、父は口約束を信用しない。
婚姻誓約書に、妻より先に婚外子を得た場合、この婚姻を破談とする旨を記載させた。侯爵当主もそれを受け入れて、リシャールにも説明しただろう。
リシャールは正しく理解した筈だ。だから恋人が子を成さぬ様に薬を飲ませていたのだろう。気を付けていたと彼は言ったが、気を付けて済むなら世の中の悲劇の多くは起こらない。
あの夜会の場でイザベルが子を孕んだと公言した瞬間、リシャールとの離縁は決まっていたのである。
それを四の五の引き伸ばしている侯爵に父は呆れて、この家と取引は出来ぬと匙を投げた。
父と関わる商会も経営者達もその事を知っていたから、あの夜会にいた者達は、エバーンズ伯爵家が袂を分かつ侯爵家とは今後は距離を置くべきと手を引く事を決めただろう。
これから侯爵家は、じわじわと波が引くように過去の栄華を失って行く。
それを背負わされるのは、不貞の末に本妻を追いやる結果を招いた罪なき婚外子である。
王家にしても、侯爵位が残ればそれで良いのだ。仮に侯爵家が没落したとして、爵位は王家預かりの後に王族が臣籍降下する先にと再利用されるだけなのだ。
一寸先も見えない霧の中にあって四方を敵に囲まれる。自身が絶体絶命の只中にいるのを侯爵親子は分かっているのか。
何の為の婚姻であったのか。何を守らねばならなかったのか。
最初から履き違えてしまった末の不履行に、父はグレースの様な目溢しは許さない。切り離し放逐する一択なのである。
それを理解出来ぬまま、愚かにも妻に直接交渉を求めた。世間知らずの雛鳥が、獅子に敵うと思うのか。
グレースは生え抜きの経営者である。父と母の下で鍛え上げられ侯爵家当主に見込まれた。
優しげな垂れ気味の目元が温情を感じさせ、現に情け深くあるのだが、目溢しするのは一度まで。二度目を許す事は無い。
リシャールは誤った。
グレースの愛を見誤った。
妻は何があっても自分を愛し許してくれる。
イザベルの存在を許し本邸に戻る夫を優しく抱き締め愛してくれる。甘くて可愛い妻なのだと。
だから愚かにも、商会からもロバートとの関係からも手を引けなどと言い放った。
それさえ無ければこんな形で妻を失う事はなかっただろう。グレースを一度でも幸せにしようと思ったなら、グレースはきっとそれに気が付いたことだろう。
心も身体も馴染んで愛でた妻から見放され、愛しているなどと二度と言えなくなるなんて。
「ヴィリアーズ侯爵ご令息。後程サインを頂きます。書類は父が既に用意しておりますから、貴方様から頂戴するのはサインのみで結構です。
本日中に私物は片付けます。後ほど伯爵家より使用人をやりますので、私が使っておりました部屋に通して下さい。
私の事はお気になさらず、どうぞイザベルの様を邸へお迎え下さいませ。私は決して貴方方を引き離したいと思っていた理由ではないのです。約束をお守り頂けるのなら、この先の未来もまたあるのかも知れないと、そう思っていたのです。
ですがそれもお仕舞いです。私が侯爵邸を訪う事は、今後二度とございません。イザベル様にもそうお伝え下さい。
大切なことなので改めて申します。これより伯爵家との事業提携は解除となります。信用を失った取引先とはそう云う事になりましょう。
今日この日をもちまして、貴方様と私は他人となります。以後、私の事は家名でお呼び下さい。
長々とお引き止めして申し訳ございません。フランシス、お客様がお帰りです、ご案内して頂戴。ヴィリアーズ侯爵ご令息、どうぞお帰りはあちらです。」
出口を手で指し示し、貴族の微笑で別れの挨拶をするグレースを、グレース以外は誰も止める事が出来ない。
呆然としたリシャールをフランシスが促して、そのまま馬車の前まで連れ出した。
グレースは、確かにリシャールに愛を抱いていた。最初から馬鹿げた婚姻ではあったが、それでもリシャールの底抜けな素直さを気に入っていた。底抜けだけに大切なものまで底から抜けて零れて漏れた。
燦めく金の髪も鮮やかな翠の瞳も、疑いを知らぬ幼子のような愚かさも、そのどれもがグレースが持たぬものであった。
腹の底を探れぬあけすけな人種は、それまでグレースの周りにはいなかった。そんな所も愛しく思った。
もしもイザベルに矜持があって互いの領域を侵害しない道を選んだなら、この関係はもう少し長く続いていただろう。
愛した夫であったが、心の隅にいつもあった覚悟をグレースが忘れる事は無かった。
初手が頓挫した時に備えて、二の手、三の手を考えるのは商人の性である。懐の深さと情け深さが仇となって一度は目溢ししたが、父に言わせればそれは二度目を呼び寄せる甘さでしかない。
人間、そうそう変わらない。
一度誤った事は二度誤る。
だから人間なのだと父は言う。
グレースは元の令嬢には戻れない。
曰く付きの家に嫁いで、手痛い裏切りの後に離縁した。立派な傷物であるから、これから生涯、自分の身は自分で立てて生きていかねばならない。
若さの盛りを過ぎて、その身も既に男を受け入れた後では次の良縁など望める筈もない。自ら育てた商会を拠り所にして、これから生きる覚悟を決めた。
「グレース、幕引きご苦労。見事だったよ。」
ビリジアンの瞳に見つめられて、そこでやっと身体じゅうの強張りがほどけるのが解った。思った以上に気を張っていたらしい。
「ロバート様。私、これでも旦那様を愛していたの。あんなお方だけれど、可愛い夫だと思っていたの。」
もう二度と呼べぬ呼び方で、グレースは可愛い夫に別れを告げた。
婚姻誓約書に、妻より先に婚外子を得た場合、この婚姻を破談とする旨を記載させた。侯爵当主もそれを受け入れて、リシャールにも説明しただろう。
リシャールは正しく理解した筈だ。だから恋人が子を成さぬ様に薬を飲ませていたのだろう。気を付けていたと彼は言ったが、気を付けて済むなら世の中の悲劇の多くは起こらない。
あの夜会の場でイザベルが子を孕んだと公言した瞬間、リシャールとの離縁は決まっていたのである。
それを四の五の引き伸ばしている侯爵に父は呆れて、この家と取引は出来ぬと匙を投げた。
父と関わる商会も経営者達もその事を知っていたから、あの夜会にいた者達は、エバーンズ伯爵家が袂を分かつ侯爵家とは今後は距離を置くべきと手を引く事を決めただろう。
これから侯爵家は、じわじわと波が引くように過去の栄華を失って行く。
それを背負わされるのは、不貞の末に本妻を追いやる結果を招いた罪なき婚外子である。
王家にしても、侯爵位が残ればそれで良いのだ。仮に侯爵家が没落したとして、爵位は王家預かりの後に王族が臣籍降下する先にと再利用されるだけなのだ。
一寸先も見えない霧の中にあって四方を敵に囲まれる。自身が絶体絶命の只中にいるのを侯爵親子は分かっているのか。
何の為の婚姻であったのか。何を守らねばならなかったのか。
最初から履き違えてしまった末の不履行に、父はグレースの様な目溢しは許さない。切り離し放逐する一択なのである。
それを理解出来ぬまま、愚かにも妻に直接交渉を求めた。世間知らずの雛鳥が、獅子に敵うと思うのか。
グレースは生え抜きの経営者である。父と母の下で鍛え上げられ侯爵家当主に見込まれた。
優しげな垂れ気味の目元が温情を感じさせ、現に情け深くあるのだが、目溢しするのは一度まで。二度目を許す事は無い。
リシャールは誤った。
グレースの愛を見誤った。
妻は何があっても自分を愛し許してくれる。
イザベルの存在を許し本邸に戻る夫を優しく抱き締め愛してくれる。甘くて可愛い妻なのだと。
だから愚かにも、商会からもロバートとの関係からも手を引けなどと言い放った。
それさえ無ければこんな形で妻を失う事はなかっただろう。グレースを一度でも幸せにしようと思ったなら、グレースはきっとそれに気が付いたことだろう。
心も身体も馴染んで愛でた妻から見放され、愛しているなどと二度と言えなくなるなんて。
「ヴィリアーズ侯爵ご令息。後程サインを頂きます。書類は父が既に用意しておりますから、貴方様から頂戴するのはサインのみで結構です。
本日中に私物は片付けます。後ほど伯爵家より使用人をやりますので、私が使っておりました部屋に通して下さい。
私の事はお気になさらず、どうぞイザベルの様を邸へお迎え下さいませ。私は決して貴方方を引き離したいと思っていた理由ではないのです。約束をお守り頂けるのなら、この先の未来もまたあるのかも知れないと、そう思っていたのです。
ですがそれもお仕舞いです。私が侯爵邸を訪う事は、今後二度とございません。イザベル様にもそうお伝え下さい。
大切なことなので改めて申します。これより伯爵家との事業提携は解除となります。信用を失った取引先とはそう云う事になりましょう。
今日この日をもちまして、貴方様と私は他人となります。以後、私の事は家名でお呼び下さい。
長々とお引き止めして申し訳ございません。フランシス、お客様がお帰りです、ご案内して頂戴。ヴィリアーズ侯爵ご令息、どうぞお帰りはあちらです。」
出口を手で指し示し、貴族の微笑で別れの挨拶をするグレースを、グレース以外は誰も止める事が出来ない。
呆然としたリシャールをフランシスが促して、そのまま馬車の前まで連れ出した。
グレースは、確かにリシャールに愛を抱いていた。最初から馬鹿げた婚姻ではあったが、それでもリシャールの底抜けな素直さを気に入っていた。底抜けだけに大切なものまで底から抜けて零れて漏れた。
燦めく金の髪も鮮やかな翠の瞳も、疑いを知らぬ幼子のような愚かさも、そのどれもがグレースが持たぬものであった。
腹の底を探れぬあけすけな人種は、それまでグレースの周りにはいなかった。そんな所も愛しく思った。
もしもイザベルに矜持があって互いの領域を侵害しない道を選んだなら、この関係はもう少し長く続いていただろう。
愛した夫であったが、心の隅にいつもあった覚悟をグレースが忘れる事は無かった。
初手が頓挫した時に備えて、二の手、三の手を考えるのは商人の性である。懐の深さと情け深さが仇となって一度は目溢ししたが、父に言わせればそれは二度目を呼び寄せる甘さでしかない。
人間、そうそう変わらない。
一度誤った事は二度誤る。
だから人間なのだと父は言う。
グレースは元の令嬢には戻れない。
曰く付きの家に嫁いで、手痛い裏切りの後に離縁した。立派な傷物であるから、これから生涯、自分の身は自分で立てて生きていかねばならない。
若さの盛りを過ぎて、その身も既に男を受け入れた後では次の良縁など望める筈もない。自ら育てた商会を拠り所にして、これから生きる覚悟を決めた。
「グレース、幕引きご苦労。見事だったよ。」
ビリジアンの瞳に見つめられて、そこでやっと身体じゅうの強張りがほどけるのが解った。思った以上に気を張っていたらしい。
「ロバート様。私、これでも旦那様を愛していたの。あんなお方だけれど、可愛い夫だと思っていたの。」
もう二度と呼べぬ呼び方で、グレースは可愛い夫に別れを告げた。
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