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翌朝まだ早い時間に、伯爵邸に文が届いた。グレースの生家、エバーンズ伯爵家からであった。
グレースの突然の訪いを詫び、本日の訪問を願うものであった。父が動く。いよいよ話し合いが始まる。
「グレース、今日はこのまま邸にいてくれ。私は一度商会に顔を出して生産予定を見直して来る。王女殿下のドレスも王宮から採寸の指示が届くだろうしね。ひと仕事片付けて来るよ。」
「こんな時に申し訳ありません。ジョージと職人達に宜しく伝えて下さいませ。王妃様と王女殿下からお褒め頂いた事も。」
「ああ、必ず伝える。グレース、何も心配いらない。君も商会も。」
「はい。」
ロバートの言葉に力付けられて、グレースは頷いた。
思考も感情も定まった訳ではない。けれども結果は一択で迷う道すら選べない。そのまま前へ進むしかないのだ。
朝食を終えて間もなく、父が伯爵邸を訪れた。その表情は常と変わらない。商いで鍛え抜かれた父は、娘が渦中にいる諍い事にも顔色を変えることは無い。
「グレース。離縁で良いな。」
父の言葉には迷いなど一欠片も感じられなかった。初めからこうなる事を分かっていたのだろう。
「はい。」
グレースは諾と答えた。それしか答えようが無かった。
「愛人の言葉は真であるらしい。リシャール殿はお前に黙っていたのか?」
リシャールは愛人の懐妊を黙していた。それは、幼子が仕出かしてしまった過ちを隠して誤魔化す様にも見えた。けれども幼い子供の隠し事が直ぐにバレると思わない。
「ええ。ここ暫くはお会いしておりませんでしたし。」
「勝手なものだ。三年待ったがお坊ちゃんは片付けも出来ぬらしい。お前は十分務めを果たした。もうよかろう。」
「はい。」
「未練があるか?」
未練があると言ったら何かが変わるのか。変わらないからグレースは答えるしかない。
「いいえ、ございません。約束を違えたのはリシャール様ですから。
お父様、あの後夜会は大丈夫だったのでしょうか。」
王女殿下の生誕を祝う祝賀の会であった。
「お前に非は無い。非常識はあの子爵の娘であろう。王女殿下はお前達の関係をご存知らしい。お前が咎められる事はないだろう。」
「貴族家の皆様は、」
「噂を気にしてどうなる。まあ暫くは騒々しかろうが、お前には商会があるだろう。お前とこれからも縁を得たい者は悪しざまな物言いはするまい。」
噂に戸は立てられない。それを気にして本分を見失うべきでは無いと父は言っている。
「お義父様はどう仰っておられるのでしょう。」
「うむ。あの方は経営者であるがどうやら契約の意味が解らぬらしい。息子可愛さに子爵の娘を放逐する気もお前を手放す気も無いようだ。今だにお前を引き止める事が出来ると考えている。世間とは上手いことを言うものだ。子は親の背中を見て育つというから、息子殿も当然そう育ったのだろう。」
ここまで来ても義父は、まだグレースに荷を背負わせ続けるつもりなのだろうか。
「リシャール様は如何なされておいでなのです?」
グレースの問い掛けに、父は今日初めて表情を変えて眉を顰めた。
「離縁は認めないと。」
「そんな馬鹿な。お子が出来たのですよ。」
「うむ。こればかりは譲れんな。お前は何も案ずるな。離縁の話は私に任せておきなさい。ロバート殿との商会もお前の経営で変わらない。侯爵家は手が出せない。」
そこまで言ってから父は、
「グレース。お前には要らぬ荷を背負わせたな。彼処の状況を解って嫁がせたがこれ程とは思わなかった。お前なら必ず結果を出すと思って輿入れさせたが、せずともよい苦労までさせてしまったな。もう自由になって良かろう。」
父はこの婚姻からも侯爵家からも手を引く事を決めた。
「お父様。私はそれなりに幸せでしたわ。余りご自分を責めないで下さい。それで、これから私は何をしたら良いのでしょう。」
グレースは父の決断を恨んではいなかった。初めから曰く付きの婚姻であったが、リシャールは妻としてグレースを求めてくれた。グレースもそのうち情が湧いてそれはいつしか愛情となった。歪な関係ではあったが夫のリシャールには確かな愛情を覚えていた。
「書類が整い次第持って来よう。サインだけで良い。」
父はどうやら、侯爵当主にもリシャールにも、今後グレースを会わせぬままに離縁の手続きを進めるつもりらしい。
呆気ないものである。
三年とは決して短い時間では無い。三年を掛けてリシャールとの関係を築いてきた。リシャールを可愛い夫だと心を寄せた。だからイザベルの愚行を許すリシャールを直ぐには手放せず「一度だけ」だと許してしまった。
リシャールにイザベルという存在がいるのを始めから承知して、思いがけず情が通ってしまって、いざ離縁と云うところで迷いが生じた。
リシャールがグレースよりも先に愛人に子を授けた事で、この婚姻契約は終結したのである。
これから侯爵家を訪うであろう父の背を見送って玄関ポーチに出たグレースは、それから空を見上げた。
今日もよく晴れた青い空が広がっている。悩んでも悩まなくても、空は青く広がり世界は何も変わらない。
グレースはひとつ大きく息を吸い込み、それから息を吐き出した。胸のつかえも一緒に吐き出す様に。
午後にはロバートが伯爵邸に戻って来た。
その少し後に、フランシスがグレースの私物を持ち出して来てくれていた。
フランシスは、家令に執事、何よりリシャール本人に酷く引き止められてなかなか邸を抜け出す事が出来ず、午後まで掛かってしまったらしい。
リシャールが本邸にいる。愛人は身重であるが、もう別邸から本邸に移したのか。
「別邸の方はおいでではありません。リシャール様は昨晩から本邸におられました。」
グレースの心の内を読み取ったらしいフランシスが、疑問の全てに答えてくれた。
「グレース様がこちらにおいでなのをお気付きのようです。面会を望まれるかもしれません。」
「それは無いわ。父が全て請負うと言っていたから。」
「ならば宜しいのですが。」
珍しくフランシスが言い淀む。
「グレース、案ずる事は無い。ここには父も母もいる。勿論、私も。リシャール殿の勝手は通らないよ。」
グレースとフランシスの会話を聞いていたロバートが、グレースに言葉を掛ける。グレースを安心させようと思うらしい。
共同経営者というだけで、こんな他家の恥ずべき揉め事に巻き込んでしまった。
しかしグレースは、ロバートがいてくれる事に勇気を得た。ロバートと共に立ち上げた商会が残っているのだと勇気を得たのであった。
グレースの突然の訪いを詫び、本日の訪問を願うものであった。父が動く。いよいよ話し合いが始まる。
「グレース、今日はこのまま邸にいてくれ。私は一度商会に顔を出して生産予定を見直して来る。王女殿下のドレスも王宮から採寸の指示が届くだろうしね。ひと仕事片付けて来るよ。」
「こんな時に申し訳ありません。ジョージと職人達に宜しく伝えて下さいませ。王妃様と王女殿下からお褒め頂いた事も。」
「ああ、必ず伝える。グレース、何も心配いらない。君も商会も。」
「はい。」
ロバートの言葉に力付けられて、グレースは頷いた。
思考も感情も定まった訳ではない。けれども結果は一択で迷う道すら選べない。そのまま前へ進むしかないのだ。
朝食を終えて間もなく、父が伯爵邸を訪れた。その表情は常と変わらない。商いで鍛え抜かれた父は、娘が渦中にいる諍い事にも顔色を変えることは無い。
「グレース。離縁で良いな。」
父の言葉には迷いなど一欠片も感じられなかった。初めからこうなる事を分かっていたのだろう。
「はい。」
グレースは諾と答えた。それしか答えようが無かった。
「愛人の言葉は真であるらしい。リシャール殿はお前に黙っていたのか?」
リシャールは愛人の懐妊を黙していた。それは、幼子が仕出かしてしまった過ちを隠して誤魔化す様にも見えた。けれども幼い子供の隠し事が直ぐにバレると思わない。
「ええ。ここ暫くはお会いしておりませんでしたし。」
「勝手なものだ。三年待ったがお坊ちゃんは片付けも出来ぬらしい。お前は十分務めを果たした。もうよかろう。」
「はい。」
「未練があるか?」
未練があると言ったら何かが変わるのか。変わらないからグレースは答えるしかない。
「いいえ、ございません。約束を違えたのはリシャール様ですから。
お父様、あの後夜会は大丈夫だったのでしょうか。」
王女殿下の生誕を祝う祝賀の会であった。
「お前に非は無い。非常識はあの子爵の娘であろう。王女殿下はお前達の関係をご存知らしい。お前が咎められる事はないだろう。」
「貴族家の皆様は、」
「噂を気にしてどうなる。まあ暫くは騒々しかろうが、お前には商会があるだろう。お前とこれからも縁を得たい者は悪しざまな物言いはするまい。」
噂に戸は立てられない。それを気にして本分を見失うべきでは無いと父は言っている。
「お義父様はどう仰っておられるのでしょう。」
「うむ。あの方は経営者であるがどうやら契約の意味が解らぬらしい。息子可愛さに子爵の娘を放逐する気もお前を手放す気も無いようだ。今だにお前を引き止める事が出来ると考えている。世間とは上手いことを言うものだ。子は親の背中を見て育つというから、息子殿も当然そう育ったのだろう。」
ここまで来ても義父は、まだグレースに荷を背負わせ続けるつもりなのだろうか。
「リシャール様は如何なされておいでなのです?」
グレースの問い掛けに、父は今日初めて表情を変えて眉を顰めた。
「離縁は認めないと。」
「そんな馬鹿な。お子が出来たのですよ。」
「うむ。こればかりは譲れんな。お前は何も案ずるな。離縁の話は私に任せておきなさい。ロバート殿との商会もお前の経営で変わらない。侯爵家は手が出せない。」
そこまで言ってから父は、
「グレース。お前には要らぬ荷を背負わせたな。彼処の状況を解って嫁がせたがこれ程とは思わなかった。お前なら必ず結果を出すと思って輿入れさせたが、せずともよい苦労までさせてしまったな。もう自由になって良かろう。」
父はこの婚姻からも侯爵家からも手を引く事を決めた。
「お父様。私はそれなりに幸せでしたわ。余りご自分を責めないで下さい。それで、これから私は何をしたら良いのでしょう。」
グレースは父の決断を恨んではいなかった。初めから曰く付きの婚姻であったが、リシャールは妻としてグレースを求めてくれた。グレースもそのうち情が湧いてそれはいつしか愛情となった。歪な関係ではあったが夫のリシャールには確かな愛情を覚えていた。
「書類が整い次第持って来よう。サインだけで良い。」
父はどうやら、侯爵当主にもリシャールにも、今後グレースを会わせぬままに離縁の手続きを進めるつもりらしい。
呆気ないものである。
三年とは決して短い時間では無い。三年を掛けてリシャールとの関係を築いてきた。リシャールを可愛い夫だと心を寄せた。だからイザベルの愚行を許すリシャールを直ぐには手放せず「一度だけ」だと許してしまった。
リシャールにイザベルという存在がいるのを始めから承知して、思いがけず情が通ってしまって、いざ離縁と云うところで迷いが生じた。
リシャールがグレースよりも先に愛人に子を授けた事で、この婚姻契約は終結したのである。
これから侯爵家を訪うであろう父の背を見送って玄関ポーチに出たグレースは、それから空を見上げた。
今日もよく晴れた青い空が広がっている。悩んでも悩まなくても、空は青く広がり世界は何も変わらない。
グレースはひとつ大きく息を吸い込み、それから息を吐き出した。胸のつかえも一緒に吐き出す様に。
午後にはロバートが伯爵邸に戻って来た。
その少し後に、フランシスがグレースの私物を持ち出して来てくれていた。
フランシスは、家令に執事、何よりリシャール本人に酷く引き止められてなかなか邸を抜け出す事が出来ず、午後まで掛かってしまったらしい。
リシャールが本邸にいる。愛人は身重であるが、もう別邸から本邸に移したのか。
「別邸の方はおいでではありません。リシャール様は昨晩から本邸におられました。」
グレースの心の内を読み取ったらしいフランシスが、疑問の全てに答えてくれた。
「グレース様がこちらにおいでなのをお気付きのようです。面会を望まれるかもしれません。」
「それは無いわ。父が全て請負うと言っていたから。」
「ならば宜しいのですが。」
珍しくフランシスが言い淀む。
「グレース、案ずる事は無い。ここには父も母もいる。勿論、私も。リシャール殿の勝手は通らないよ。」
グレースとフランシスの会話を聞いていたロバートが、グレースに言葉を掛ける。グレースを安心させようと思うらしい。
共同経営者というだけで、こんな他家の恥ずべき揉め事に巻き込んでしまった。
しかしグレースは、ロバートがいてくれる事に勇気を得た。ロバートと共に立ち上げた商会が残っているのだと勇気を得たのであった。
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