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「グレース、大丈夫か。」
グレースは未だロバートの腕の中にいた。低い声音が響いて聞こえて、グレースはその呼び掛けにはっと我に返る。
「え?え、ええ、ロバート様、大丈夫です。」
大丈夫なのかどうかはっきり分からない。それくらいには混乱していた。けれどここで大丈夫と言わずにいたら、きっとロバートは心配するだろう。
「このまま侯爵邸に戻るつもりか?」
そうだ。帰らねばならない。グレースにはやらねばならない事がある。なのに、
「...まだ、帰りたくない。」
今こそしっかりしなければいけないのに、あの邸に帰りたくなかった。帰ってしまったら、グレースは立ち向かわねばならなくなる。立ち止まる事も蹲る事も許されない。やらねばならない事があり過ぎる。
けれども今はリシャールに会いたくなかった。彼はきっとグレースに詫びるだろう。あの情けない顔をして。グレースはそれに心を揺さぶられてしまうのだろうか。
生家へ戻らねば。咄嗟にそう考えた。父に相談しなければならない。夜会の会場には両親も義父母も招待されていたのだから、あの騒ぎの詳細を今頃は確認していることだろう。
これからの事を両親達と話し合わねばならない。
「ならば、今夜は私の邸に来てくれ。父も母も承知してくれるだろう。このまま侯爵家に戻るよりも、今は我が邸で落ち着くのを待った方が良い。侯爵家へは私から連絡を入れよう。」
グレースは頭が上手く回らない。考えているつもりで、何も考えられずにいた。だから、信頼出来るロバートの言葉が心に響いた。
「ご迷惑では?」
迷った後に尋ねれば、
「そんな訳ある筈ないだろう。」
ロバートの眼差しは温かい。いつでもグレースを受け止めてくれる。
「まあ、私ったら!」
そこで未だロバートに抱えられたままであるのに気が付いた。
「そのままで良いよ。暴れて落ちて痛いのは君だぞ?」
ロバートの穏やかな声音と笑みに、心を覆う靄が薄くなる様に思えた。抱き上げられた腕の温もりを今更感じて恥じ入るも、その温かさが揺れる心を落ち着かせてくれる。
今夜はロバートの言葉に甘えさせてもらおう。
甘えを知らないグレースは、何故かロバートには甘えられる自分に気が付いた。
馬車がアーバンノット伯爵邸に着く。ロバートはグレースを抱き抱えたまま馬車を降りた。そのまま玄関ポーチまで進みホールの手前で降ろしてくれた。
ロバートが家令と侍女に何やら指示をして、その後グレースは客間に通された。支度が整うまで少々お待ち下さいと言われたが、それ程待たされることはなかった。
それから侍女達の手を借りて手早く装飾を外し、ドレスを脱ぐ。
「何て素敵な首飾りなのでしょう、ドレスも溜め息が出るほど素敵でございますね。」と侍女達が溜息を漏らすのを、これはロバートが携わった品なのだと話してあげたかったのだが、ここは客人らしく大人しくしていた。
夫人のものなのか客人用なのか、ドレスが用意されていた。令嬢のいない邸であるのに急な訪問にも関わらず不足なく整えられて申し訳ない気持ちになる。
今頃、侯爵邸はどうなっているのだろう。ロバートが知らせてくれると言っていたが、戻らない夫人に慌てている筈である。
義父母が夜会の騒ぎを知らせるだろうから、皆案じているかも知れない。
そこまで考えるのと同時に、間もなくあの邸を出ることになる。荷物を纏めねばならないと、忙しく頭の中で考える。
フランシスが先に戻っているから彼に差配を頼もう。父に話して実家から使用人を借りねばならない。
鏡に向かい身を整えられながら、思考だけは止まること無くこれから熟さねばならぬ事を考えていた。
身支度が終わると温かなお茶が運ばれて、そこで漸く心の強張りも解れた頃に、伯爵夫妻が邸に戻って来た。急な訪いを詫びようとグレースは玄関ホールに出る。
「ああ、グレース。」
グレースが言葉を発する前に、駆け寄った夫人に抱き締められた。
「大変だったわね、大丈夫?」
「マリア様、伯爵様、急な訪問を申し訳ございません。」
「そんな事、気にしないで頂戴。ああそうだわ、貴女のご生家にもお伝えしましょう。」
「母上、それはもう済ませているよ。」
母に先回ってロバートが既に使いを送ってくれていた。
「うむ。グレース夫人、今晩はゆっくりして行くと良い。」
伯爵がそう言えば、
「いいえ、落ち着くまで幾日でも貴女をお預りするわ。ご生家も慌ただしくなるでしょうから。」
確かにそうかもしれない。父も兄も侯爵家との交渉に忙しくなるだろう。
こんな時であるのに、リシャールのグレースを呼ぶ声が思い出された。
「うむ。落ち着くまで幾日でもゆっくりして行くと良い。」
妻に倣ったらしい伯爵がそう言えば、
「フランシスが侯爵家に向かっている。当面の必要な物は彼が持ち出すだろうから、君は何も心配しなくても大丈夫だ。」
ロバートは、グレースが思っていた通りの手配を既にしてくれていた。我が身の事でいっぱいいっぱいになっていたグレースは、ロバートとフランシスが先回って動いてくれていることに感謝した。
「グレース、落ち着けというのも無理な話だろうが、今日は取り敢えず横になった方がいい。何か眠れるものを用意しよう。」
そう言ってロバートはブランデーを部屋に用意させた。温めて蜂蜜を垂らしてあるホットブランデーであった。
ひと口、ゆっくり口に含む。甘さと苦さが舌を痺れさせて、温められた蒸留酒の芳醇な香りが鼻腔に残る。
酒精が身体と心の強張りを解してくれて、自然と欠伸がひとつ出た。
自分が思う以上に気を張っていたらしい。気持ちが落ち着いた途端、眠気が起こる。とても眠たい。
あの後、夜会会場はどうなったのだろう。今宵は王女殿下の祝いの夜会であった。グレースにとっても誇らしい披露目の席で、その成功の喜びをロバートと分かち合ったばかりであった。
それなのに、婚家との恥ずかしい諍い事であの場を汚す事になってしまった。グレースが引き起こした騒ぎではないが、間違いなく渦中にいる一人である。
喜びの余韻は一瞬で霧散してしまった。
商会を挙げて今日の為に準備をして来た。
ロバートも、ジョージも、フランシスも。職人達も皆励んでくれた。
そこに黒いインクに垂らされたような気持ちになる。
あれもこれもと散らかった思考も間もなく猛烈な眠気に襲われて、到頭考えることすら覚束なくなって来る。そうして、そのまま眠りに入り沈み込むように暗い闇に落ちて行く。
落ちて沈んで行きながら、グレースの名を呼ぶ夫の声が再び蘇って聴こえた気がした。
グレースは未だロバートの腕の中にいた。低い声音が響いて聞こえて、グレースはその呼び掛けにはっと我に返る。
「え?え、ええ、ロバート様、大丈夫です。」
大丈夫なのかどうかはっきり分からない。それくらいには混乱していた。けれどここで大丈夫と言わずにいたら、きっとロバートは心配するだろう。
「このまま侯爵邸に戻るつもりか?」
そうだ。帰らねばならない。グレースにはやらねばならない事がある。なのに、
「...まだ、帰りたくない。」
今こそしっかりしなければいけないのに、あの邸に帰りたくなかった。帰ってしまったら、グレースは立ち向かわねばならなくなる。立ち止まる事も蹲る事も許されない。やらねばならない事があり過ぎる。
けれども今はリシャールに会いたくなかった。彼はきっとグレースに詫びるだろう。あの情けない顔をして。グレースはそれに心を揺さぶられてしまうのだろうか。
生家へ戻らねば。咄嗟にそう考えた。父に相談しなければならない。夜会の会場には両親も義父母も招待されていたのだから、あの騒ぎの詳細を今頃は確認していることだろう。
これからの事を両親達と話し合わねばならない。
「ならば、今夜は私の邸に来てくれ。父も母も承知してくれるだろう。このまま侯爵家に戻るよりも、今は我が邸で落ち着くのを待った方が良い。侯爵家へは私から連絡を入れよう。」
グレースは頭が上手く回らない。考えているつもりで、何も考えられずにいた。だから、信頼出来るロバートの言葉が心に響いた。
「ご迷惑では?」
迷った後に尋ねれば、
「そんな訳ある筈ないだろう。」
ロバートの眼差しは温かい。いつでもグレースを受け止めてくれる。
「まあ、私ったら!」
そこで未だロバートに抱えられたままであるのに気が付いた。
「そのままで良いよ。暴れて落ちて痛いのは君だぞ?」
ロバートの穏やかな声音と笑みに、心を覆う靄が薄くなる様に思えた。抱き上げられた腕の温もりを今更感じて恥じ入るも、その温かさが揺れる心を落ち着かせてくれる。
今夜はロバートの言葉に甘えさせてもらおう。
甘えを知らないグレースは、何故かロバートには甘えられる自分に気が付いた。
馬車がアーバンノット伯爵邸に着く。ロバートはグレースを抱き抱えたまま馬車を降りた。そのまま玄関ポーチまで進みホールの手前で降ろしてくれた。
ロバートが家令と侍女に何やら指示をして、その後グレースは客間に通された。支度が整うまで少々お待ち下さいと言われたが、それ程待たされることはなかった。
それから侍女達の手を借りて手早く装飾を外し、ドレスを脱ぐ。
「何て素敵な首飾りなのでしょう、ドレスも溜め息が出るほど素敵でございますね。」と侍女達が溜息を漏らすのを、これはロバートが携わった品なのだと話してあげたかったのだが、ここは客人らしく大人しくしていた。
夫人のものなのか客人用なのか、ドレスが用意されていた。令嬢のいない邸であるのに急な訪問にも関わらず不足なく整えられて申し訳ない気持ちになる。
今頃、侯爵邸はどうなっているのだろう。ロバートが知らせてくれると言っていたが、戻らない夫人に慌てている筈である。
義父母が夜会の騒ぎを知らせるだろうから、皆案じているかも知れない。
そこまで考えるのと同時に、間もなくあの邸を出ることになる。荷物を纏めねばならないと、忙しく頭の中で考える。
フランシスが先に戻っているから彼に差配を頼もう。父に話して実家から使用人を借りねばならない。
鏡に向かい身を整えられながら、思考だけは止まること無くこれから熟さねばならぬ事を考えていた。
身支度が終わると温かなお茶が運ばれて、そこで漸く心の強張りも解れた頃に、伯爵夫妻が邸に戻って来た。急な訪いを詫びようとグレースは玄関ホールに出る。
「ああ、グレース。」
グレースが言葉を発する前に、駆け寄った夫人に抱き締められた。
「大変だったわね、大丈夫?」
「マリア様、伯爵様、急な訪問を申し訳ございません。」
「そんな事、気にしないで頂戴。ああそうだわ、貴女のご生家にもお伝えしましょう。」
「母上、それはもう済ませているよ。」
母に先回ってロバートが既に使いを送ってくれていた。
「うむ。グレース夫人、今晩はゆっくりして行くと良い。」
伯爵がそう言えば、
「いいえ、落ち着くまで幾日でも貴女をお預りするわ。ご生家も慌ただしくなるでしょうから。」
確かにそうかもしれない。父も兄も侯爵家との交渉に忙しくなるだろう。
こんな時であるのに、リシャールのグレースを呼ぶ声が思い出された。
「うむ。落ち着くまで幾日でもゆっくりして行くと良い。」
妻に倣ったらしい伯爵がそう言えば、
「フランシスが侯爵家に向かっている。当面の必要な物は彼が持ち出すだろうから、君は何も心配しなくても大丈夫だ。」
ロバートは、グレースが思っていた通りの手配を既にしてくれていた。我が身の事でいっぱいいっぱいになっていたグレースは、ロバートとフランシスが先回って動いてくれていることに感謝した。
「グレース、落ち着けというのも無理な話だろうが、今日は取り敢えず横になった方がいい。何か眠れるものを用意しよう。」
そう言ってロバートはブランデーを部屋に用意させた。温めて蜂蜜を垂らしてあるホットブランデーであった。
ひと口、ゆっくり口に含む。甘さと苦さが舌を痺れさせて、温められた蒸留酒の芳醇な香りが鼻腔に残る。
酒精が身体と心の強張りを解してくれて、自然と欠伸がひとつ出た。
自分が思う以上に気を張っていたらしい。気持ちが落ち着いた途端、眠気が起こる。とても眠たい。
あの後、夜会会場はどうなったのだろう。今宵は王女殿下の祝いの夜会であった。グレースにとっても誇らしい披露目の席で、その成功の喜びをロバートと分かち合ったばかりであった。
それなのに、婚家との恥ずかしい諍い事であの場を汚す事になってしまった。グレースが引き起こした騒ぎではないが、間違いなく渦中にいる一人である。
喜びの余韻は一瞬で霧散してしまった。
商会を挙げて今日の為に準備をして来た。
ロバートも、ジョージも、フランシスも。職人達も皆励んでくれた。
そこに黒いインクに垂らされたような気持ちになる。
あれもこれもと散らかった思考も間もなく猛烈な眠気に襲われて、到頭考えることすら覚束なくなって来る。そうして、そのまま眠りに入り沈み込むように暗い闇に落ちて行く。
落ちて沈んで行きながら、グレースの名を呼ぶ夫の声が再び蘇って聴こえた気がした。
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