今日も空は青い空

桃井すもも

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 長く執拗な口付けだけで、既にグレースは息が上がって絶え絶えになるのを、まるで初めて女の身体に触れた様に、あらゆる場所を確かめられる。

 秘めた場所も露わにされて、その全てに口付けを落とさねば気が済まないとばかりに転がされ、天と地も分からぬままに、繋がれた手さえ溶け合ってしまうと思うほど互いに熱が極まって執拗な愛撫を受ける。

 もう何度気を遣ったか知れぬのに、余程余裕が無いらしく、男はグレースを追い求め攻め抜く。

「もう、」
「駄目だ、まだだ、」

 もう空が白み始めている。忙しい一日が間もなく始まる。
 今日為すべき仕事を頭の片隅で考えるのに、それを見越したように男に攻められて纏まりかけた思考も霧散してしまう。

「グレース、僕のグレース、誰にも渡さないっ」

 甘えているのか諌めているのかグレースには分からない。しかし、今自分を抱き締める男が、只この時ばかりは何も考えられずに自分を求めている。
 別邸に残してきた恋人も、まるで今だけは忘れ去っているように。


 あれからグレースは幾晩か悩み考えた。この先どうすべきか。
 貴族の立場も、生家も婚家も全て脇に置いて、己の心だけを見つめてみれば、情けない事に迷いを認めた。

 イザベルを発端とした一連の出来事は、確かにグレースを呆れさせ怒らせそして悲しませた。
 それに手を差し伸べる様に、この常識外れの婚姻を手放す為にロバートが手を貸してくれると言う。

 ここまで来て、父はグレースを引き止めることはしないだろう。思った通り父はお前に任せると言ってくれた。義父ばかりは今一度辛抱してくれないかと引き止めるのだった。

 義父がそう言う事は予想しない訳では無かったが、だからそれでグレースが思い留まる訳では無い。


 数日掛けてグレースは、自分自身の正直な気持ちと向き合った。そうしなければ、きっと後で後悔するのが解っていた。

 感情に任せて流された結果に最適解は得られない。一点でも迷いがある内は、その迷いの根本に目を向けて、そうして納得せねばならない。

 初めからではない。いつの間にか憎からず思っていた夫であった。思い掛けず心の内を擽られて、いつでも手放せるつもりでいたのに、いざそうなってみると確かな交わりや温かな交流や、朗らかに笑う笑みさえ思い出すから不思議である。

 恋人などではなかったし、婚約期間も僅かであった。人懐っこい笑みも情けない顔も、夜の闇にグレースを追い詰める雄々しい力も、結局愛していたから悩まされた。

 そうして考え抜いた末に、心の底ではリシャールを許せぬ気持ちは定まっているのに放りだす事が出来なかった。

 時を同じくして、再び邸に押しかけたリシャールが、土下座をする勢いで涙を落として詫びて来た。

 反省している、君と離縁だけはしたくない。

 イザベルをどうともする気も無いくせに、妻との関係だけは修復したい愚かで情けなくて、可愛いひと

 確かに失望を覚えたのに、あれ程冷酷に切り捨てた筈であるのに、結局切り捨てきれずに「一度だけ」と許す気持ちにさせられた。

 ただ一度許されただけなのに、夫は仔犬が懐に駆け込む様に飛び込みしがみついて離れない。
 愛人は愚かな行いをしたと思うが、それに目溢しする自分も大概愚かな女なのだろう。

 周りはそれをどう思うのか皆静観を貫いている。夫に一度のチャンスを与えた事を話せば、ロバートは「そうか」とだけ答えた。


 その後五日ほどを邸にいて、この世の終わりとばかりにグレースを抱き潰すリシャール。イザベルは、そんな恋人の帰りをあの別邸で待っているのだろう。

 あれからイザベルは、イザベルばかりか夫のリシャールも、二人合わせてグレースの商会では取引はしない事を決められた。
 喩え夫であろうとその愛人へは、ロバートとグレースの商会の商品は一切売ることはない。それがロバートとの約束であった。


 漸く微睡みに沈んだ夫を見つめる。この世に罪など知らぬ様な、あどけなさを残す寝顔。とんでも無く罪深い男であるのに美しい。

 妻にも恋人にもまともなけじめを付けられない。渡り鳥の様に陸地を求めて女ばかりを泣かせて歩く。

 とんでも無い男と婚姻してしまった。蟻地獄の様に執拗で蜂蜜の様に甘くて濃くてしつこい男。

 汗に濡れる前髪を梳いてやる。私はこの男にとって、身体を許す母親の様だ。
 この選択が正しいのでは無く、別の選択を選び切れなかった末の結果である。

「一度切りよ、旦那様。」

 グレースの声が夢の中でも聞こえたのか、ふるふると瞼が揺れる。
 起きなくて良いわ。眠りの中の貴方は悪さをしないもの。非常識な言動も考え無しな行動も、眠りの中では何も起きない。

 リシャールは確実にグレースとの子宝を願っている。もう充分であると言っても交わることを辞めてくれない。執拗な追い込み方に、早く孕んでくれという懇願を感じた。

 グレースとの間に後継を得られたとして、その後この夫はどうするのだろう。
 イザベルは女の盛りの終わりにいる。愛人として過ごした年月が長すぎて、他家の貴族からは妻としては嫌厭されてしまうだろう。

 その責任をどうするか。
 子は生まれれば成長するのに、その存在をどう教えるか。これが貴族の姿だなどと、グレースは我が子に絶対に教えたくない。

 誠実な関係を得られない結婚生活。まるでそれは谷に掛けられた枝の上を命綱すら得ずに、吹き上がる強風に右に左に揺らされながらじりじり進む姿に思えた。

 背中をひと押しされたなら立ちどころに深い谷底に落ちてしまう。グレースにはもう、深い谷底が見えている。

「幸せ、か。」

 心地良い眠りに沈む夫を横に、天井を見上げて呟く。

 幸せとは、望んだら手に入るものなのだろうか。それを望んでも良いのだろうか。
 だとしたら、私はどうしたい?どうなりたい?何が幸せ?

 取り留めのない思考のループに、グレースは抜け道を見つけられずにいる。




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