今日も空は青い空

桃井すもも

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「そこで私は申しました。

『旦那様、お離し下さい。グレース様が痛みをお感じです。』

 そうして旦那様のお手を掴みグレース様からゆるりと引き離しました。
すると旦那様は青いお顔を更に青くなさって、

『あ、ああ、済まなかった。』

 と仰ったのです。」


「あーははははっ!」

 貴族にあるまじき大口を開けて、ロバートが高笑いをする。ジョージもそれを止められずにいる。

「はあ、あははは、はぁ、」
 と、未だ笑いを止められず、終いには涙を浮かべるロバートに、

「余りお笑いにならないで下さいな。」
 仕方無しにグレースが声を掛けた。

「あー、失礼、失礼。あはっ、これが、はは、笑わずに居られるか。はぁ」

 笑うか話すかどちらかにして欲しい。目尻を指で拭うロバートに、グレースがハンカチを差し出した。

 グレースが義父に会った後、空かさずリシャールが邸を訪れたことをロバートに話せば、平素は寡黙であるフランシスが、グレースが話すのを補う様に事の顛末を説明した。

 グレースがリシャールと語った会話の内、リシャールと対峙する場面を切り取って、講談師よろしく勢いを付けて二割ほどマシマシにフランシスは語って聞かせた。
 じりじりと追い詰められてヘタれてしまった男のその様を、軽快な口調と巧みな話術で語るフランシスは、この先男優にも劇作家にでもなれるだろう。

 そうして優しいフランシスは、虚しいばかりのあの場所で悲しみに暮れたグレースの記憶を、涙を流す笑い話しに塗り替えてくれたのであった。

 現に、ジョージは笑い転げる主を止められないばかりか、自分まで笑いを堪えるのに必死であるから、臨場感いっぱいのフランシスの演技がそれ程に見事であったのだろう。


 フランシスはこの調子で、義父を訪ねたグレースに侍り、侯爵当主の前でもこの才能を披露した。堂に入った熱演に侯爵は顔を青くするばかりであった。

 ついでに言えば、これは耳に入れる必要があろうと、グレースが生家の父を訪って夫の実情を報告した際も、え?貴方あのフランシス?と思う程には生き生きと、見事な再現力を発揮した。

 やはり大笑いした父であったが、それは娘の嫁ぎ先での愚夫と愛人の愚かさを笑ったのではなくて、娘の言うところの吟遊詩人か舞台俳優宜しく、その表情も生き生きと娘夫婦の対峙の様を話して聞かせるフランシスが、可笑しくて可笑しくて堪らなかったからである。


「フランシス、貴方、何処ででも食べて行けるわね。劇作家にもなれそうだし舞台俳優にもそれから吟遊詩人にも。」

「お褒め頂き光栄でございます。」

「いや、職を失ったら私が雇うよ。得難い人材だ。」
 涙を拭き終えロバートが言う。

「真逆。フランシスは私の従者ですわ。手離すなんてあり得ません。」
 憮然と答えるグレース。

「で、君。これからどうするんだ?」

 ロバートの問い掛けに、グレースは口を噤む。
 どうしたら良いのだろう。実のところ、これからの事をまだ考えられずにいた。

 見得を切ってあの場を後にした。どうやらリシャールは、その後程なくして別邸へ帰った様だった。以来、彼とは顔を合わせていない。

 職業婦人らしく、後を引かぬ様に気持ちを切り替えたグレースは、使用人にも常と変わらず接している。
 そんなグレースに、坊っちゃんを詰った事を諌めることなく、家令も執事も侍女達も今迄と変わらず仕えていた。

 夫との関係を見直すべきなのか。
 愛人についてを見直すべきなのか。
 一層、この婚姻を見直すべきなのか。

 何れにしても、何かを見直さねばならない。このまま過ぎた事には出来ない。仮にいま目を瞑ったとして、グレースの気持ちなど頭の隅にも置かない二人が、果たしてこれから何も起こさないなんて考えられない。

 途方に暮れる顔をしていたらしいグレースをロバートが見つめている。だからするりと本音を漏らしてしまった。

「どうしたら良いのでしょうね。」

 室内には静寂な時が流れている。

「君はどうしたい。」

 真っ直ぐこちらを見つめたロバートがグレースに問い掛ける。

「質問を変えよう。君は今、幸せなのか?」

 幸せ?

 女の幸せについてを考えない訳では無い。けれどそれは、自分が求める事を許された類のものだと思わなかった。貴族の身分で望めぬ願いなのだと思っていた。
 直ぐ側に、その幸せだけを追い求める恋人達がいるというのに。

 親が決めた婚姻が初めから契約にまみれたものだと理解して、自分の思うまま事業を展開出来る舞台を与えられたつもりで輿入れした。

 思いも掛けずリシャールが自分にも情を見せてくれたから、グレース自身もすっかり絆されて、気付けば愛しい夫だと目を瞑った。どうしようもない有り様なのだと解っていても、可愛いひとなのだと許してしまった。

 けれどもそれは、イザベルが侯爵家に対して自由に振る舞うのを認めた訳では無い。

 イザベルはリシャールが用意した温かな籠の中にいて、グレースの領域を侵害しない。そう互いに理解しているのだと、その一点ではリシャールを信じていたのである。

 愚かなのはイザベルか、リシャールか。彼等を信じたグレースか。

 そのグレースは「幸せか?」と問われて、そうだと答えられないでいる。

 この婚姻には元よりグレースの為の幸せなど用意はされていなかった。それを不幸だと思わないだけの事だった。
 今の自分を不幸かと問えば、決してそうでは無いと思う。けれどもこれ以上どこまで付き合えばよいのか。侯爵家に、夫に、愛人に。

「引き際、なのでしょうか。」

 呟くともなく呟いた言葉を、真正面から見つめる男は聞き漏らさなかった。

「その引き際、手を貸そう。」

 え?と顔を上げて男を見れば、濃いビリジアンの瞳に射すくめられた。

 漆黒の髪と深海の底を覗くビリジアンの瞳。自身の力で確かな歩みを重ねて、貴族として経営者として厚みを増した信頼出来るグレースのパートナー。

 思いも掛けないその言葉に、ロバートの瞳をグレースは暫し見つめるのであった。




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