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リシャールの行動は早かった。直ぐ様侯爵邸を訪れた。
「グレース。」
邸に戻れば、既にリシャールが訪れていた。義父はどう説明したのだろう。リシャールはそれをどう受け止めたのだろう。
リシャールの言葉を待つグレースに、
「その、イザベルが失礼した。」
リシャールは恋人の為にグレースに頭を下げて詫びた。
リシャールの口から恋人の名が呼ばれるのを聞くのは初めての事だった。
夫が真の愛を抱く人がいるのを、目の前で夫の口から証明されるのを聞いている。
それを思った以上に寂しく感じたのは、グレースがリシャールを夫と認めて確かな愛情を抱いていたからだろう。
彼女の存在を隠すことの無かったリシャールも、だからと言って態々それをグレースの前で持ち出すような事はしなかった。穏やかな海原に荒波を立てるほどリシャールは愚かではなかった。なかった筈なのだ。
「旦那様。申し訳ありませんが、お支払は我が家ではお受け出来ませんわ。」
少しばかり改まってグレースが言えば、リシャールがぐっと何かを飲み込んで、それから
「駄目だろうか。」
グレースは信じられなかった。話せば通じる筈だと信じて疑わなかった。だが、どうやらそうではなかったらしい。
その言い分とは、正しく愛人の為の衣装を妻のグレースに用立てさせるのと同じ事だった。
失望とはこう言う感情を言うのだろうか。グレースがこれまで二人の関係に口出ししなかったのを、夫はどうやら履き違えている様だ。グレースが夫へ愛を抱いているのを承知の上で、その愛が夫の為なら何でも許す免罪符だと思うらしい。
「御冗談を。」
グレースの言葉に、はっとした表情のリシャールが思わずと云う風に面を上げた。
温々と温かで穏やかで、何処までも自分を甘やかす優しい妻しか知らない夫である。
「旦那様。侯爵家では貴方様が愛するお方と暮らすための資金なら毎月お渡ししております。今月も家令が既にお届けした筈です。お受け取りになられたでしょう?」
雪解けの清水の様な静かな冷ややかさを含んだ声音に、部屋の温度まで下がったと思うのか、側に控える家令も執事も、グレースに侍るフランシスさえも寒さを覚えた。
「ああ、承知している。ただ、その、今月は他にも衣装を揃えたりで何かと入り用が嵩んで、」
「...」
「グレース、」
「お引き取りを。」
ここはリシャールの邸であるのにも関わらず、グレースは退室を願う。
そのまま席を立って部屋を出ようとするグレースを、慌てて向かい側から回り込んだリシャールが引き止める。
「グレース!待ってくれ!悪かった、頼むから話を聞いてくれ。」
無言でリシャールを見つめるグレースには、どうやら表情が無いらしい。家令も流石に加勢出来ずにいる。
「頼む、グレース。」
グレースの腕を掴んで離さないのだから動ける筈も無い。その力が些か強くて、グレースが痛みに顔を顰めた。
「旦那様、お離し下さい。グレース様が痛みをお感じです。」
あろう事かフランシスがリシャールの腕を掴んで、ゆっくりとグレースから引き離した。従者にあるまじき行為であるのを、それが正しいが為に誰も引き止める事が出来ない。
「あ、ああ、済まなかった。」
そこで漸くグレースが口を開いた。
「フランシス、有難う。」
それからグレースは、立ち上がった姿勢から再びソファに座り直す。
「旦那様、何を仰りたいのでしょう。」
それを許しと思ったらしいリシャールも、腰を下ろした。
「その、」
一言目を言い淀んでからリシャールは言う。
「その、失礼をしたのは解っている。けれども、イザベルが可哀想でっ、」
「可哀想。」
リシャールは、これ程まで表情の無いグレースを知らない。
「旦那様。何故そうお思いに?」
グレースの真っ直ぐこちらを見つめる瞳に、まるで痛みを感じた様にリシャールは視線をずらした。
「彼女の、どこを、何を以て可哀想だと仰るのでしょう?務めも課せられず家政も為さず、衣食住の全てを侯爵家から賄われて只只管旦那様に愛されておられる、その何処が可哀想だと仰るのでしょうか?」
「その、あの男に酷い事を言われたと!」
「ロバート様は世間一般、極常識的な事をお話ししたのです。
旦那様。私は貴方がイザベル様を愛するのを咎めているのではないのです。貴方とあの方の仲をどうこうしようと言っているのではないのです。
けれども旦那様。越えてはいけないものがあるのです。あのお方はそれを越えてしまわれた。私がドレスの代金を惜しむのではないのだと、旦那様は解って下さいますか?」
「それが酷い言葉であったらしい。令嬢相手であるのに!イザベルは泣いていたんだ!」
「私もその場におりました。」
「?!」
「ロバート様に失言は無かったと思います。寧ろ、」
リシャールが色を無くした顔でこちらを見るのを真正面から見据えて、
「寧ろ、弁えられない愛人様が愚かであるとお見受けしました。」
「言い過ぎだ!失礼だろう!」
「どちらが?」
グレースが小さく笑みを漏らした。彼女が夫に初めて見せる表情に、リシャールは言葉を失う。
「旦那様。私がこれまで何も思わず感じずにいたとお思いなのでしょうか。
もし私が貴方の前で涙を見せたら、貴方は私の為にお心を乱されるのでしょうか?私が傷付いたりしないのだと本当に思っていらっしゃるのですか?」
「あのお方は、貴方の妻である私の商会を訪れて、多くのご婦人方が彼女が誰であるのかを知って窺い見るその面前で、侯爵令息の貴方を爵位もないまま名呼びなさいました。
そうして私と同じドレスが欲しいから、代金は侯爵家で賄ってドレスだけ寄越して頂戴と仰ったのです。その侯爵家の財を管理しているのは私です。彼女はそれをご理解なさっておられるのでしょうか。
私は、貴方が彼女をお連れになって貴方の私財でお買い上げなさるなら、お求めのドレスをお渡ししたのです。貴方が彼女の暮らしを賄うのに、私が何か申したことがあったでしょうか。
あの方を飾るものは全て貴方が賄われたものでしょう?それが侯爵家から捻出されているのを分かっておられて何故あのような要求が出来るのでしょう。」
「私の商会は、侯爵家のものでも、貴方のものでも、ましてやイザベル様のものでもないのです。
貴方が彼女を大切に思う様に、私も私の商会を大切に育てて来たのです。
私の売るドレスはどれも、私と私の信頼するパートナーと職人たちが心血注いで作り上げた、そういうものなのです。それを得るために貴方達は何を対価になさるのでしょう?真逆旦那様、貴方とあの方は私達に、強請っていらっしゃるの?」
グレースがゆっくり吐き出した言葉に、身動きひとつ出来ずリシャールは、蒼白な顔を晒している。
話はこれまでである。
夫は解ってくれただろうか。
何の解決も見ない、無駄な時間になったのだろうか。
家令も執事も一言も発する事が出来ない。これ程のグレースを見たことが無い。
グレースは矜持を知る貴族であり経営者である。契約事に道理を通すのは必然で、与えたなら受け取る対価が発生するのを当然の事だと捉えている。
その道理を無下にして、己の主張だけを捲し立ててもグレースの胸には届かない。
それでは駄々をこねて泣く子と同じ、愚か者の愚行であって、それを夫に見せられる気持ちを誰が理解できるだろう。誰よりも夫には解って欲しかった。
グレースが席を立つ。すかさずフランシスが側に侍りその手を取った。
従者にエスコートを受けたグレースは、この侯爵家という小さな王国の女王の風格で、未だ座したまま動く事の叶わない夫を見下して、
「お引き取りを。」
静かにそう告げた。
心の芯まで凍える声音で言い置いて、グレースはそのまま部屋を後にした。
部屋を出たところでフランシスが扉を閉める。
「グレース様。温かなお茶をご用意致します。」
「有難う、フランシス。」
あの愚かな空間から、グレースをエスコートして退出させたフランシスに、グレースは眉を下げて笑みを見せた。
フランシスはそれを、なんて寂しそうな笑みなのだろうと思った。
「グレース。」
邸に戻れば、既にリシャールが訪れていた。義父はどう説明したのだろう。リシャールはそれをどう受け止めたのだろう。
リシャールの言葉を待つグレースに、
「その、イザベルが失礼した。」
リシャールは恋人の為にグレースに頭を下げて詫びた。
リシャールの口から恋人の名が呼ばれるのを聞くのは初めての事だった。
夫が真の愛を抱く人がいるのを、目の前で夫の口から証明されるのを聞いている。
それを思った以上に寂しく感じたのは、グレースがリシャールを夫と認めて確かな愛情を抱いていたからだろう。
彼女の存在を隠すことの無かったリシャールも、だからと言って態々それをグレースの前で持ち出すような事はしなかった。穏やかな海原に荒波を立てるほどリシャールは愚かではなかった。なかった筈なのだ。
「旦那様。申し訳ありませんが、お支払は我が家ではお受け出来ませんわ。」
少しばかり改まってグレースが言えば、リシャールがぐっと何かを飲み込んで、それから
「駄目だろうか。」
グレースは信じられなかった。話せば通じる筈だと信じて疑わなかった。だが、どうやらそうではなかったらしい。
その言い分とは、正しく愛人の為の衣装を妻のグレースに用立てさせるのと同じ事だった。
失望とはこう言う感情を言うのだろうか。グレースがこれまで二人の関係に口出ししなかったのを、夫はどうやら履き違えている様だ。グレースが夫へ愛を抱いているのを承知の上で、その愛が夫の為なら何でも許す免罪符だと思うらしい。
「御冗談を。」
グレースの言葉に、はっとした表情のリシャールが思わずと云う風に面を上げた。
温々と温かで穏やかで、何処までも自分を甘やかす優しい妻しか知らない夫である。
「旦那様。侯爵家では貴方様が愛するお方と暮らすための資金なら毎月お渡ししております。今月も家令が既にお届けした筈です。お受け取りになられたでしょう?」
雪解けの清水の様な静かな冷ややかさを含んだ声音に、部屋の温度まで下がったと思うのか、側に控える家令も執事も、グレースに侍るフランシスさえも寒さを覚えた。
「ああ、承知している。ただ、その、今月は他にも衣装を揃えたりで何かと入り用が嵩んで、」
「...」
「グレース、」
「お引き取りを。」
ここはリシャールの邸であるのにも関わらず、グレースは退室を願う。
そのまま席を立って部屋を出ようとするグレースを、慌てて向かい側から回り込んだリシャールが引き止める。
「グレース!待ってくれ!悪かった、頼むから話を聞いてくれ。」
無言でリシャールを見つめるグレースには、どうやら表情が無いらしい。家令も流石に加勢出来ずにいる。
「頼む、グレース。」
グレースの腕を掴んで離さないのだから動ける筈も無い。その力が些か強くて、グレースが痛みに顔を顰めた。
「旦那様、お離し下さい。グレース様が痛みをお感じです。」
あろう事かフランシスがリシャールの腕を掴んで、ゆっくりとグレースから引き離した。従者にあるまじき行為であるのを、それが正しいが為に誰も引き止める事が出来ない。
「あ、ああ、済まなかった。」
そこで漸くグレースが口を開いた。
「フランシス、有難う。」
それからグレースは、立ち上がった姿勢から再びソファに座り直す。
「旦那様、何を仰りたいのでしょう。」
それを許しと思ったらしいリシャールも、腰を下ろした。
「その、」
一言目を言い淀んでからリシャールは言う。
「その、失礼をしたのは解っている。けれども、イザベルが可哀想でっ、」
「可哀想。」
リシャールは、これ程まで表情の無いグレースを知らない。
「旦那様。何故そうお思いに?」
グレースの真っ直ぐこちらを見つめる瞳に、まるで痛みを感じた様にリシャールは視線をずらした。
「彼女の、どこを、何を以て可哀想だと仰るのでしょう?務めも課せられず家政も為さず、衣食住の全てを侯爵家から賄われて只只管旦那様に愛されておられる、その何処が可哀想だと仰るのでしょうか?」
「その、あの男に酷い事を言われたと!」
「ロバート様は世間一般、極常識的な事をお話ししたのです。
旦那様。私は貴方がイザベル様を愛するのを咎めているのではないのです。貴方とあの方の仲をどうこうしようと言っているのではないのです。
けれども旦那様。越えてはいけないものがあるのです。あのお方はそれを越えてしまわれた。私がドレスの代金を惜しむのではないのだと、旦那様は解って下さいますか?」
「それが酷い言葉であったらしい。令嬢相手であるのに!イザベルは泣いていたんだ!」
「私もその場におりました。」
「?!」
「ロバート様に失言は無かったと思います。寧ろ、」
リシャールが色を無くした顔でこちらを見るのを真正面から見据えて、
「寧ろ、弁えられない愛人様が愚かであるとお見受けしました。」
「言い過ぎだ!失礼だろう!」
「どちらが?」
グレースが小さく笑みを漏らした。彼女が夫に初めて見せる表情に、リシャールは言葉を失う。
「旦那様。私がこれまで何も思わず感じずにいたとお思いなのでしょうか。
もし私が貴方の前で涙を見せたら、貴方は私の為にお心を乱されるのでしょうか?私が傷付いたりしないのだと本当に思っていらっしゃるのですか?」
「あのお方は、貴方の妻である私の商会を訪れて、多くのご婦人方が彼女が誰であるのかを知って窺い見るその面前で、侯爵令息の貴方を爵位もないまま名呼びなさいました。
そうして私と同じドレスが欲しいから、代金は侯爵家で賄ってドレスだけ寄越して頂戴と仰ったのです。その侯爵家の財を管理しているのは私です。彼女はそれをご理解なさっておられるのでしょうか。
私は、貴方が彼女をお連れになって貴方の私財でお買い上げなさるなら、お求めのドレスをお渡ししたのです。貴方が彼女の暮らしを賄うのに、私が何か申したことがあったでしょうか。
あの方を飾るものは全て貴方が賄われたものでしょう?それが侯爵家から捻出されているのを分かっておられて何故あのような要求が出来るのでしょう。」
「私の商会は、侯爵家のものでも、貴方のものでも、ましてやイザベル様のものでもないのです。
貴方が彼女を大切に思う様に、私も私の商会を大切に育てて来たのです。
私の売るドレスはどれも、私と私の信頼するパートナーと職人たちが心血注いで作り上げた、そういうものなのです。それを得るために貴方達は何を対価になさるのでしょう?真逆旦那様、貴方とあの方は私達に、強請っていらっしゃるの?」
グレースがゆっくり吐き出した言葉に、身動きひとつ出来ずリシャールは、蒼白な顔を晒している。
話はこれまでである。
夫は解ってくれただろうか。
何の解決も見ない、無駄な時間になったのだろうか。
家令も執事も一言も発する事が出来ない。これ程のグレースを見たことが無い。
グレースは矜持を知る貴族であり経営者である。契約事に道理を通すのは必然で、与えたなら受け取る対価が発生するのを当然の事だと捉えている。
その道理を無下にして、己の主張だけを捲し立ててもグレースの胸には届かない。
それでは駄々をこねて泣く子と同じ、愚か者の愚行であって、それを夫に見せられる気持ちを誰が理解できるだろう。誰よりも夫には解って欲しかった。
グレースが席を立つ。すかさずフランシスが側に侍りその手を取った。
従者にエスコートを受けたグレースは、この侯爵家という小さな王国の女王の風格で、未だ座したまま動く事の叶わない夫を見下して、
「お引き取りを。」
静かにそう告げた。
心の芯まで凍える声音で言い置いて、グレースはそのまま部屋を後にした。
部屋を出たところでフランシスが扉を閉める。
「グレース様。温かなお茶をご用意致します。」
「有難う、フランシス。」
あの愚かな空間から、グレースをエスコートして退出させたフランシスに、グレースは眉を下げて笑みを見せた。
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