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ロバートは、リシャールとイザベルとは学園時代の同窓であるから、当然互いに面識がある。
カフェで鉢合わせた際にも、愛人云々の会話からリシャールがロバートに決闘を申し込む勢いであったのを、側でイザベルも見ていただろう。
「イザベル嬢、何か思い違いをしていないか。君とリシャール殿との関係はどうでも良い。但し、君が侯爵家の金を自由に使い、我が商会を利用したいというのは聞き入れ難い事だよ。ここが何処かも理解出来ない世間知らずなご令嬢に、我が商会がお売り出来る品は無い。他所を当たってくれたまえ。」
ロバートの歯に衣着せぬ物言いは、その低く艶のある声音で店内に静かに響いた。
「し、失礼なお店ね!」
細い声であるのに甲高い為か、離れているグレースにもはっきり届いた。
グレースは、既に扉の陰からひょっこり顔が出ているのだが、ここは是非とも最後まで見届けたい。
頬を紅潮させるイザベルは、年齢よりも若々しく幼く見えた。グレースよりも四つ年上の彼女であるが、学園を出てからはずっとリシャールに囲われていたから、彼女が社交の場で貴族達とどんな関係を築いて来たのか予想が付く。
愛人の立場が卑しいものだとはグレースは考えていない。世の中には公妾も存在すれば、彼女達が確かな知識と魅力を持ってサロンや社交の華となっている。
所謂愛人という名の下に、広く経済界で話題を集め活躍する婦人が存在するのも知っている。
では、彼女等とイザベルとで何が違うのだろう。立場云々ではなくて、どんな矜持を元に生きるのか、それが彼女達の価値を決めているのではないだろうか。
リシャールとの婚姻は、最初からイザベルとの関係が暗黙のまま有耶無耶にされた契約婚であった。グレースはそれを承知で輿入れして来たから、これまでも夫と愛人の関係に口を出したことは無かった。
そうして互いが互いの領域に踏み込まぬよう、しっかりと棲み分けをしていたから、これまでの三年間を平穏に過ごせて来た。
社交の場で、自分達の関係が面白可笑しく噂されている事は知っている。それを聞こえぬ体で聞き流して来たのだが、ここに来て元より危うかった均衡が愈々崩れ始めたのを感じずにはいられなかった。
夫の愛人関係に於いて、妻への遠慮や配慮を妻側から夫に望むのは、貴族の間でも容易いこととは言い難い。
爵位を持つのは夫であり妻とは無位であるのだから、その妻にどれほどの発言権があるかはその家次第である。
しかしグレースの場合は、婚姻時にその棲み分けを守ることが約束であったから、そこばかりは二人には弁えてもらわねばならない。そこが肝心の愛人には理解出来ていないのだろう。
美しい顔を紅く染めて店を出て行くイザベルの後ろ姿を見つめて、グレースはこれをそのままにしておいては駄目なのだろう、面倒な事だと溜め息をついた。
「ロバート様、お手を煩わせてしまいました。申し訳ありません。」
「君が謝る事では無いよ。ただ、余りに身勝手で見苦しかったからね。彼女とて成人貴族の一人だ。立場はどうあれ世間の常識を知っていて当然だろう。ものを知らぬと云うのがあれ程に愚かな事なのかと、正直私も驚いている。」
ロバートの物言いはいつになく辛辣である。彼とて愛人の存在を認められないなどと潔癖な事は考えていないだろう。寧ろその存在が貴族社会に少なく無い事も承知しているだろうし、婚姻が契約である貴族が外に愛を求めるのも理解した上でイザベルの言動を「愚か」と言い捨てた。
「はあ、義父の耳にも入れるべきなのでしょうね。」
「まあ、そうだろうね。」
厄介ではあるが、約束を違えたのはあちらなのだから仕方が無い。
「侯爵家の商会に行って参ります。」
「私も同行しよう。我が商会での出来事であるから、私にとっても無関係とは言えないからね。」
結局、一部始終を見守っていたフランシスも伴って、グレースとロバートは侯爵家の商会を訪った。リシャールが不在であったのは幸いであった。
「ああ、その、ロバート殿にも迷惑を掛けた。申し訳無い。」
流石の義父も、イザベルの行動に渋い顔をする。
リシャール達が学園を出でから既に八年。これまで息子達を放任していたことが、イザベルに内縁の妻なのだと思わせ立場を弁えさせぬまま思い違いに至らせたのを、この義父は何と考えているのだろう。
「旦那様にはお義父様からお話しなさいますか?」
「ああ、そうしよう。その方が良かろう。」
義父の表情は硬い。
「グレース、今更ではあるがリシャールを悪く思わないでくれないか。いや、恥ずべき事は分かっているんだ。だが、あれも君を憎からず思っているんだよ。」
「ヴィリアーズ侯爵、それは無理があるのでは?」
途中、ロバートが会話に入って来る。
「御子息にはそろそろ決断が必要かと。ヴィリアーズ侯爵家の将来を考えるならば。」
「あ、ああ、理解している。」
息子と同い年の青年に詰られて、義父はたじたじである。
ここ暫くはリシャールは邸を訪れていなかったが、これは家令と執事にも話しておかねばなるまい。
グレースは一仕事増えたようで、どっと疲れを感じるのであった。
カフェで鉢合わせた際にも、愛人云々の会話からリシャールがロバートに決闘を申し込む勢いであったのを、側でイザベルも見ていただろう。
「イザベル嬢、何か思い違いをしていないか。君とリシャール殿との関係はどうでも良い。但し、君が侯爵家の金を自由に使い、我が商会を利用したいというのは聞き入れ難い事だよ。ここが何処かも理解出来ない世間知らずなご令嬢に、我が商会がお売り出来る品は無い。他所を当たってくれたまえ。」
ロバートの歯に衣着せぬ物言いは、その低く艶のある声音で店内に静かに響いた。
「し、失礼なお店ね!」
細い声であるのに甲高い為か、離れているグレースにもはっきり届いた。
グレースは、既に扉の陰からひょっこり顔が出ているのだが、ここは是非とも最後まで見届けたい。
頬を紅潮させるイザベルは、年齢よりも若々しく幼く見えた。グレースよりも四つ年上の彼女であるが、学園を出てからはずっとリシャールに囲われていたから、彼女が社交の場で貴族達とどんな関係を築いて来たのか予想が付く。
愛人の立場が卑しいものだとはグレースは考えていない。世の中には公妾も存在すれば、彼女達が確かな知識と魅力を持ってサロンや社交の華となっている。
所謂愛人という名の下に、広く経済界で話題を集め活躍する婦人が存在するのも知っている。
では、彼女等とイザベルとで何が違うのだろう。立場云々ではなくて、どんな矜持を元に生きるのか、それが彼女達の価値を決めているのではないだろうか。
リシャールとの婚姻は、最初からイザベルとの関係が暗黙のまま有耶無耶にされた契約婚であった。グレースはそれを承知で輿入れして来たから、これまでも夫と愛人の関係に口を出したことは無かった。
そうして互いが互いの領域に踏み込まぬよう、しっかりと棲み分けをしていたから、これまでの三年間を平穏に過ごせて来た。
社交の場で、自分達の関係が面白可笑しく噂されている事は知っている。それを聞こえぬ体で聞き流して来たのだが、ここに来て元より危うかった均衡が愈々崩れ始めたのを感じずにはいられなかった。
夫の愛人関係に於いて、妻への遠慮や配慮を妻側から夫に望むのは、貴族の間でも容易いこととは言い難い。
爵位を持つのは夫であり妻とは無位であるのだから、その妻にどれほどの発言権があるかはその家次第である。
しかしグレースの場合は、婚姻時にその棲み分けを守ることが約束であったから、そこばかりは二人には弁えてもらわねばならない。そこが肝心の愛人には理解出来ていないのだろう。
美しい顔を紅く染めて店を出て行くイザベルの後ろ姿を見つめて、グレースはこれをそのままにしておいては駄目なのだろう、面倒な事だと溜め息をついた。
「ロバート様、お手を煩わせてしまいました。申し訳ありません。」
「君が謝る事では無いよ。ただ、余りに身勝手で見苦しかったからね。彼女とて成人貴族の一人だ。立場はどうあれ世間の常識を知っていて当然だろう。ものを知らぬと云うのがあれ程に愚かな事なのかと、正直私も驚いている。」
ロバートの物言いはいつになく辛辣である。彼とて愛人の存在を認められないなどと潔癖な事は考えていないだろう。寧ろその存在が貴族社会に少なく無い事も承知しているだろうし、婚姻が契約である貴族が外に愛を求めるのも理解した上でイザベルの言動を「愚か」と言い捨てた。
「はあ、義父の耳にも入れるべきなのでしょうね。」
「まあ、そうだろうね。」
厄介ではあるが、約束を違えたのはあちらなのだから仕方が無い。
「侯爵家の商会に行って参ります。」
「私も同行しよう。我が商会での出来事であるから、私にとっても無関係とは言えないからね。」
結局、一部始終を見守っていたフランシスも伴って、グレースとロバートは侯爵家の商会を訪った。リシャールが不在であったのは幸いであった。
「ああ、その、ロバート殿にも迷惑を掛けた。申し訳無い。」
流石の義父も、イザベルの行動に渋い顔をする。
リシャール達が学園を出でから既に八年。これまで息子達を放任していたことが、イザベルに内縁の妻なのだと思わせ立場を弁えさせぬまま思い違いに至らせたのを、この義父は何と考えているのだろう。
「旦那様にはお義父様からお話しなさいますか?」
「ああ、そうしよう。その方が良かろう。」
義父の表情は硬い。
「グレース、今更ではあるがリシャールを悪く思わないでくれないか。いや、恥ずべき事は分かっているんだ。だが、あれも君を憎からず思っているんだよ。」
「ヴィリアーズ侯爵、それは無理があるのでは?」
途中、ロバートが会話に入って来る。
「御子息にはそろそろ決断が必要かと。ヴィリアーズ侯爵家の将来を考えるならば。」
「あ、ああ、理解している。」
息子と同い年の青年に詰られて、義父はたじたじである。
ここ暫くはリシャールは邸を訪れていなかったが、これは家令と執事にも話しておかねばなるまい。
グレースは一仕事増えたようで、どっと疲れを感じるのであった。
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