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「グレース様。」
ジョージの声を抑えた呼び掛けに、何か起こったのだと予想する。
「どうしたの?」
珍しくジョージは一瞬逡巡する様子を見せた。
「ギャラリーにお客様がお見えなのですが、」
商品の購入を希望する来客なのだろうが、そこで何か問題でもあったのだろうか。
「リシャール様の別邸の御婦人でいらっしゃいます。」
真逆のイザベルであった。リシャールのいる侯爵家の商会ではなく、態々本妻であるグレースが経営する商会を訪れたのは何か理由があるのだろうか。
「彼女が購入を望んでいるのは?」
関わりたくないが聞かない訳には行かぬだろう。
「ドレスです。先日、グレース様が夜会でお召しになられた。」
公爵家での夜会でグレースが纏ったドレスは、グレースに合わせて作られたオートクチュールの一点ものである。ギャラリーには、それを元に量産したプレタポルテのドレスが陳列されており、こちらは量販品である為に価格も求めやすいものになっている。
そのプレタポルテのドレスをイザベルが購入したいという。
グレースは、今まで彼女と直接対面した事は一度も無かった。なるべくならこれからもそうでありたいと願っていた。
全く全然気が進まない。けれども顧客であるなら受けねばならない。
彼女がイザベルであると名乗らぬまま購入してくれるならグレースは知らぬフリを通せるのを、何故態々名乗るのか。
今までイザベルがグレースの商会を訪れた事など一度も無かった。グレースがリシャールの別邸での暮らしに口を出さない様に、リシャールもグレースの商会には関わらない。互いに不可侵な領域を弁えて、触れず立ち入らず線引きをしてきたのを、それをイザベルが踏み込んだ。
「彼女一人?」
「ええ、お一人でいらっしゃいました。」
「であれば、そのままご希望の品をお買い上げ頂いて頂戴。」
「それが、」
そこでまたジョージが口籠る。
「どうしたの?」
「ええ、それが、お支払いをリシャール様へ回して欲しいと。」
「え?真逆。」
グレースは驚いてしまった。
別邸の暮らしは、リシャールが侯爵家より割り当てられる財にて賄われている。
嫡男ではあるが未だ当主ではないリシャールが、侯爵家の財を自由にする事は許されていない。月々、決まった金額をリシャールに渡して、彼はそれを別邸での恋人との暮らしに充てがっていた。
嫡男であるリシャールに充てがわれる金額はそれなりの額であったから、その枠の中で賄うのならと、侯爵当主もグレースもこれまで口出しをする事はなかった。しかし、それとイザベル個人の遊行費とはお話しが別である。
イザベルが言うリシャールへの請求とは、イザベルが侯爵家へ支払いを託すのと同義なのである。
この商会はグレースが経営するものであるから、そこでの支払いを侯爵家の財の管理を担うグレースに求めている矛盾をイザベルは理解しているのだろうか。
学生時代からの関係だと言って、リシャールとは婚外の間柄であるのだし、イザベルがグレースと対等な立場を求めたとしてもそれは貴族の常識では認められない。
ここでグレースは、イザベルと話をすべきなのか、少しばかり考えた。
「私が出て行くべきではないのだけれど。でもお支払い頂かなくては困るわね。」
「はい。グレース様はお出にならない方が宜しいかと。」
グレースとジョージが互いに同意見なのを確かめて、さて、どうイザベルに対処しようか考えていると、
「私が行こう。」
側で成り行きを見守っていたロバートが言った。
「ロバート様、それでは貴方にご迷惑が、」
「いや、顧客対応も仕事の内さ。」
それだけ言うとロバートは、椅子に掛けていたジャケットを羽織り階下のギャラリーへと降りて行く。
グレースもその後ろを付いて、ギャラリーへの通用口となる扉の側で様子を伺う事にした。
「レディ、何か御用でしょうか?」
ロバートは、真っ直ぐにイザベルの下へ歩みを進めた。
「これはエヴァントン子爵令嬢、本日は如何なさった?」
ロバートがイザベルに用件を聞いている。イザベルはエヴァントン子爵家の息女である。
「ドレスを購入しに来ましたの。」
イザベルの固い声が聞こえる。
そおっと顔を出して覗き見るグレースは、何だか悪戯を仕掛けるような居心地の悪さを感じるも確かめずにはいられない。
「ほお、それは有難い。どのドレスをお望みで?」
「あ、あちらの黒いドレスよ。」
戸惑い気味にイザベルが指し示したのは、やはり先日グレースが着用したドレスのプレタポルテ製品であった。
「ご試着は?」
「ええ、させて頂いたわ。」
「では、ご購入と言うことですな。」
「ええ、勿論。」
「それでは、こちらへ。」
支払いの為にカウンターへ誘うロバートに、
「あのっ、請求はリシャールへ回して頂戴。」
イザベルが徐ろに言い放った。
少しばかり声が大きくて、周りで聞き耳を立てていたらしい御婦人方が振り返る。
愛人が、恋人の名を爵位も付けず名呼びにしている。イザベルは子爵家の子女であるから、恋人であっても侯爵家次期当主のリシャールを公の場で名呼びするのは常識を大きく外れている。
そうしてこの店が、そのリシャールの本妻が経営するものであるのは、当然皆の知るところである。愛人が本妻の店で、その支払いを恋人の家に乞う姿を周りはどう見るか。
「はて、君は子爵家のご令嬢であったね。であれば、請求はご生家へ回そう。」
「いえ、そうではなくてっ」
「可怪しいだろう。侯爵家は我が商会の会頭宅であるのに。」
ロバートとグレースが会頭である商会に、単身訪れた会頭の夫の愛人。その愛人が本妻が纏ったドレスのレプリカを購入して支払いを侯爵家へ強請っている。
周りでそれを目撃している御婦人方が目を輝かせているのが、離れているグレースにも手に取るように分かった。次の茶会での格好の話題が出来たと、皆ほくそ笑んでいるのだろう。
グレースは、それが解ってしまって気が重くなった。
ジョージの声を抑えた呼び掛けに、何か起こったのだと予想する。
「どうしたの?」
珍しくジョージは一瞬逡巡する様子を見せた。
「ギャラリーにお客様がお見えなのですが、」
商品の購入を希望する来客なのだろうが、そこで何か問題でもあったのだろうか。
「リシャール様の別邸の御婦人でいらっしゃいます。」
真逆のイザベルであった。リシャールのいる侯爵家の商会ではなく、態々本妻であるグレースが経営する商会を訪れたのは何か理由があるのだろうか。
「彼女が購入を望んでいるのは?」
関わりたくないが聞かない訳には行かぬだろう。
「ドレスです。先日、グレース様が夜会でお召しになられた。」
公爵家での夜会でグレースが纏ったドレスは、グレースに合わせて作られたオートクチュールの一点ものである。ギャラリーには、それを元に量産したプレタポルテのドレスが陳列されており、こちらは量販品である為に価格も求めやすいものになっている。
そのプレタポルテのドレスをイザベルが購入したいという。
グレースは、今まで彼女と直接対面した事は一度も無かった。なるべくならこれからもそうでありたいと願っていた。
全く全然気が進まない。けれども顧客であるなら受けねばならない。
彼女がイザベルであると名乗らぬまま購入してくれるならグレースは知らぬフリを通せるのを、何故態々名乗るのか。
今までイザベルがグレースの商会を訪れた事など一度も無かった。グレースがリシャールの別邸での暮らしに口を出さない様に、リシャールもグレースの商会には関わらない。互いに不可侵な領域を弁えて、触れず立ち入らず線引きをしてきたのを、それをイザベルが踏み込んだ。
「彼女一人?」
「ええ、お一人でいらっしゃいました。」
「であれば、そのままご希望の品をお買い上げ頂いて頂戴。」
「それが、」
そこでまたジョージが口籠る。
「どうしたの?」
「ええ、それが、お支払いをリシャール様へ回して欲しいと。」
「え?真逆。」
グレースは驚いてしまった。
別邸の暮らしは、リシャールが侯爵家より割り当てられる財にて賄われている。
嫡男ではあるが未だ当主ではないリシャールが、侯爵家の財を自由にする事は許されていない。月々、決まった金額をリシャールに渡して、彼はそれを別邸での恋人との暮らしに充てがっていた。
嫡男であるリシャールに充てがわれる金額はそれなりの額であったから、その枠の中で賄うのならと、侯爵当主もグレースもこれまで口出しをする事はなかった。しかし、それとイザベル個人の遊行費とはお話しが別である。
イザベルが言うリシャールへの請求とは、イザベルが侯爵家へ支払いを託すのと同義なのである。
この商会はグレースが経営するものであるから、そこでの支払いを侯爵家の財の管理を担うグレースに求めている矛盾をイザベルは理解しているのだろうか。
学生時代からの関係だと言って、リシャールとは婚外の間柄であるのだし、イザベルがグレースと対等な立場を求めたとしてもそれは貴族の常識では認められない。
ここでグレースは、イザベルと話をすべきなのか、少しばかり考えた。
「私が出て行くべきではないのだけれど。でもお支払い頂かなくては困るわね。」
「はい。グレース様はお出にならない方が宜しいかと。」
グレースとジョージが互いに同意見なのを確かめて、さて、どうイザベルに対処しようか考えていると、
「私が行こう。」
側で成り行きを見守っていたロバートが言った。
「ロバート様、それでは貴方にご迷惑が、」
「いや、顧客対応も仕事の内さ。」
それだけ言うとロバートは、椅子に掛けていたジャケットを羽織り階下のギャラリーへと降りて行く。
グレースもその後ろを付いて、ギャラリーへの通用口となる扉の側で様子を伺う事にした。
「レディ、何か御用でしょうか?」
ロバートは、真っ直ぐにイザベルの下へ歩みを進めた。
「これはエヴァントン子爵令嬢、本日は如何なさった?」
ロバートがイザベルに用件を聞いている。イザベルはエヴァントン子爵家の息女である。
「ドレスを購入しに来ましたの。」
イザベルの固い声が聞こえる。
そおっと顔を出して覗き見るグレースは、何だか悪戯を仕掛けるような居心地の悪さを感じるも確かめずにはいられない。
「ほお、それは有難い。どのドレスをお望みで?」
「あ、あちらの黒いドレスよ。」
戸惑い気味にイザベルが指し示したのは、やはり先日グレースが着用したドレスのプレタポルテ製品であった。
「ご試着は?」
「ええ、させて頂いたわ。」
「では、ご購入と言うことですな。」
「ええ、勿論。」
「それでは、こちらへ。」
支払いの為にカウンターへ誘うロバートに、
「あのっ、請求はリシャールへ回して頂戴。」
イザベルが徐ろに言い放った。
少しばかり声が大きくて、周りで聞き耳を立てていたらしい御婦人方が振り返る。
愛人が、恋人の名を爵位も付けず名呼びにしている。イザベルは子爵家の子女であるから、恋人であっても侯爵家次期当主のリシャールを公の場で名呼びするのは常識を大きく外れている。
そうしてこの店が、そのリシャールの本妻が経営するものであるのは、当然皆の知るところである。愛人が本妻の店で、その支払いを恋人の家に乞う姿を周りはどう見るか。
「はて、君は子爵家のご令嬢であったね。であれば、請求はご生家へ回そう。」
「いえ、そうではなくてっ」
「可怪しいだろう。侯爵家は我が商会の会頭宅であるのに。」
ロバートとグレースが会頭である商会に、単身訪れた会頭の夫の愛人。その愛人が本妻が纏ったドレスのレプリカを購入して支払いを侯爵家へ強請っている。
周りでそれを目撃している御婦人方が目を輝かせているのが、離れているグレースにも手に取るように分かった。次の茶会での格好の話題が出来たと、皆ほくそ笑んでいるのだろう。
グレースは、それが解ってしまって気が重くなった。
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