10 / 55
【10】
しおりを挟む
身を清める間も無かった。
先に浴室へ向かおうとするグレースの手を取ったかと思うと、リシャールにそのまま強い力で寝室まで手を引かれた。
先を歩くリシャールは、部屋に入る前に侍女も下がらせてしまった。
グレースが部屋に入った途端、音を立てて扉を閉めるものだから、温厚なリシャールらしくない荒々しい行動に、グレースは思わず肩を竦めてしまった。
扉に気を取られていた視線を前に戻せば、すかさず唇を奪われた。
いつになく強引で性急な口付けに思わず背中をタップする。
漸く唇を離されて、大きく息を吸い込んだ。
リシャールが常に無い強い視線を向けるのを、グレースも鼻先がぶつかる程の距離から見つめる。
「どうなさったの?旦那様。」
そう問いかけても、リシャールは答えない。相変わらず睨み付けてくる。残念ながらあまり怖くはないが。
「言葉で仰って頂かないと分からないわ。」
グレースは根気強く促す。
「君は僕の事を何だと思ってるの?」
そのまま返したい質問であるが、ここで言っても通用しないのがリシャールである。
「貴方は私の旦那様よ。」
「そんな当たり前の事では無くて!」
不貞腐れた子供が癇癪を起こす様なものである。
「旦那様、何かお飲みになる?」
ワインかブランデーをと聞いてみても、
「いらない。」
今日はどこまでも頑なな夫が答える。
「きゃっ、」
リシャールを見上げていたグレースを縦抱きに抱き上げて、リシャールは乱暴にもそのままグレースを寝台に放り投げた。
そうして目を回すグレースに徐ろに伸し掛かる。
急に浮遊し落下した視界に軽く目眩を起こしたグレースは、そのまま唇ごと飲み込まれた。
口付けは執拗で、頬へ瞼へ耳元からそのまま耳朶を喰む。
熱い掌に太腿を撫で上げられて、その手を迎え入れた。
リシャールは体躯が大きい。手の平も大きくて熱くて、その手で背を撫でられ腰を掴まれると小柄なグレースはその熱に浮かされて為すがままになってしまう。
「グレース、グレース、」
低く唸る様に名を呼ばれる。
何が夫を苛立たせるのか。多分、ロバートにイザベルの事を突かれたのが面白くなかったのだとは分かるものの、それはもう今更である。
寧ろ、グレースの方が不快感を示して許されるのに、この男の常識はそうではない。
求められるまま委ねて受け入れた。
昼間の余韻どころでなく、夫の意味不明な苛立ちに巻き込まれて、折角の一日が残念な終わり方をした様に思う自分は冷たい妻なのだろうか。
そんな事を考えながら、荒波が鎮まるのを待った。
「グレース、君が僕の子を産んでくれたら、」
それを言うのは反則である。
週に一度か十日に一度、邸に戻ってその時ばかりは閨を共にしたとして、月に数日の交わりで身籠れるのならグレースとて悩みはしない。
グレースが子を成したなら、婚姻の義務を果たしたからと、それからはイザベルとの暮らしに没頭するのだろうか。
そんな都合の良い事を妻を前に口にする夫の狡猾さが、グレースを傷付けているのだと分からない。
もしリシャールとの間に子が得られたなら、この愛しくも小憎らしい夫の事を忘れて、グレースも漸く家族を得られたと喜べるのだろうか。仮にグレースはそれで報われるとして、果たして子は幸せだろうか。
多忙であっても家族を大切にする両親の元で育ったグレースには、歪な家族の姿が想像出来ない。けれどもグレース自身が、独りぼっちのこの家で真の家族を望んでいるのもまた事実であった。
「グレース、」
グレースに伸し掛かったまま、今なおきつく抱き締めてくるリシャールが名を呼ぶのを、何も答える事が出来ずにいると、
「グレースは僕の事が嫌いになったの?」
夫が情けない事を言い出す。
婚姻前からの恋人を最愛として邸にも戻らず、家政も夫人の責任も何もかもをグレースに背負わせて、それでどうして嫌われないと思えるのか。
確かにグレースは、リシャールに愛を覚えてそんな我が儘を受け入れて来た。けれどもそれはグレースの心の内に思うことで、リシャールが妻はそれで平気でいると決めつけるのは間違いである。
妻の心を慮ることの出来ないリシャールに、最近グレースはこうして心が冷えてしまう事が増えたように思う。
覚悟が足りなかったのだろうか。
昼間に見た、青空へ向かい大輪の花を咲かせる薔薇に心を奮い立たせた気持ちまでもが揺らぐのだった。
どうしようもない夫である。
愛は誰からもふんだんに向けられて、我が儘は容易く通ると信じている。
貴族の矜持も役割も放棄している夫に、微妙な按配で張られた糸がキリキリと限界まで引き攣って、今にもぷつんと切れてしまうのではないかと思われた。
父に相談すべき時が来たのだろうか。いや、最初からそう云う契約の婚姻であった。
迷い無くここまで来たつもりでいたのに心が移ろい揺らぐのは、この婚姻がもうすぐ三年を迎えるからだろうか。子を成せない妻に後は無い。
思えばこの三年も、この邸でずっと独りで生きて来た。今更独り身になったとして、現実は何も変わらないのかもしれない。
先の見えないこの先の未来に、夫の熱い体温を感じながらどこか心が醒めるのを覚えて、グレースは荒い息を整えていた。
先に浴室へ向かおうとするグレースの手を取ったかと思うと、リシャールにそのまま強い力で寝室まで手を引かれた。
先を歩くリシャールは、部屋に入る前に侍女も下がらせてしまった。
グレースが部屋に入った途端、音を立てて扉を閉めるものだから、温厚なリシャールらしくない荒々しい行動に、グレースは思わず肩を竦めてしまった。
扉に気を取られていた視線を前に戻せば、すかさず唇を奪われた。
いつになく強引で性急な口付けに思わず背中をタップする。
漸く唇を離されて、大きく息を吸い込んだ。
リシャールが常に無い強い視線を向けるのを、グレースも鼻先がぶつかる程の距離から見つめる。
「どうなさったの?旦那様。」
そう問いかけても、リシャールは答えない。相変わらず睨み付けてくる。残念ながらあまり怖くはないが。
「言葉で仰って頂かないと分からないわ。」
グレースは根気強く促す。
「君は僕の事を何だと思ってるの?」
そのまま返したい質問であるが、ここで言っても通用しないのがリシャールである。
「貴方は私の旦那様よ。」
「そんな当たり前の事では無くて!」
不貞腐れた子供が癇癪を起こす様なものである。
「旦那様、何かお飲みになる?」
ワインかブランデーをと聞いてみても、
「いらない。」
今日はどこまでも頑なな夫が答える。
「きゃっ、」
リシャールを見上げていたグレースを縦抱きに抱き上げて、リシャールは乱暴にもそのままグレースを寝台に放り投げた。
そうして目を回すグレースに徐ろに伸し掛かる。
急に浮遊し落下した視界に軽く目眩を起こしたグレースは、そのまま唇ごと飲み込まれた。
口付けは執拗で、頬へ瞼へ耳元からそのまま耳朶を喰む。
熱い掌に太腿を撫で上げられて、その手を迎え入れた。
リシャールは体躯が大きい。手の平も大きくて熱くて、その手で背を撫でられ腰を掴まれると小柄なグレースはその熱に浮かされて為すがままになってしまう。
「グレース、グレース、」
低く唸る様に名を呼ばれる。
何が夫を苛立たせるのか。多分、ロバートにイザベルの事を突かれたのが面白くなかったのだとは分かるものの、それはもう今更である。
寧ろ、グレースの方が不快感を示して許されるのに、この男の常識はそうではない。
求められるまま委ねて受け入れた。
昼間の余韻どころでなく、夫の意味不明な苛立ちに巻き込まれて、折角の一日が残念な終わり方をした様に思う自分は冷たい妻なのだろうか。
そんな事を考えながら、荒波が鎮まるのを待った。
「グレース、君が僕の子を産んでくれたら、」
それを言うのは反則である。
週に一度か十日に一度、邸に戻ってその時ばかりは閨を共にしたとして、月に数日の交わりで身籠れるのならグレースとて悩みはしない。
グレースが子を成したなら、婚姻の義務を果たしたからと、それからはイザベルとの暮らしに没頭するのだろうか。
そんな都合の良い事を妻を前に口にする夫の狡猾さが、グレースを傷付けているのだと分からない。
もしリシャールとの間に子が得られたなら、この愛しくも小憎らしい夫の事を忘れて、グレースも漸く家族を得られたと喜べるのだろうか。仮にグレースはそれで報われるとして、果たして子は幸せだろうか。
多忙であっても家族を大切にする両親の元で育ったグレースには、歪な家族の姿が想像出来ない。けれどもグレース自身が、独りぼっちのこの家で真の家族を望んでいるのもまた事実であった。
「グレース、」
グレースに伸し掛かったまま、今なおきつく抱き締めてくるリシャールが名を呼ぶのを、何も答える事が出来ずにいると、
「グレースは僕の事が嫌いになったの?」
夫が情けない事を言い出す。
婚姻前からの恋人を最愛として邸にも戻らず、家政も夫人の責任も何もかもをグレースに背負わせて、それでどうして嫌われないと思えるのか。
確かにグレースは、リシャールに愛を覚えてそんな我が儘を受け入れて来た。けれどもそれはグレースの心の内に思うことで、リシャールが妻はそれで平気でいると決めつけるのは間違いである。
妻の心を慮ることの出来ないリシャールに、最近グレースはこうして心が冷えてしまう事が増えたように思う。
覚悟が足りなかったのだろうか。
昼間に見た、青空へ向かい大輪の花を咲かせる薔薇に心を奮い立たせた気持ちまでもが揺らぐのだった。
どうしようもない夫である。
愛は誰からもふんだんに向けられて、我が儘は容易く通ると信じている。
貴族の矜持も役割も放棄している夫に、微妙な按配で張られた糸がキリキリと限界まで引き攣って、今にもぷつんと切れてしまうのではないかと思われた。
父に相談すべき時が来たのだろうか。いや、最初からそう云う契約の婚姻であった。
迷い無くここまで来たつもりでいたのに心が移ろい揺らぐのは、この婚姻がもうすぐ三年を迎えるからだろうか。子を成せない妻に後は無い。
思えばこの三年も、この邸でずっと独りで生きて来た。今更独り身になったとして、現実は何も変わらないのかもしれない。
先の見えないこの先の未来に、夫の熱い体温を感じながらどこか心が醒めるのを覚えて、グレースは荒い息を整えていた。
2,437
お気に入りに追加
3,095
あなたにおすすめの小説
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。
ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。
即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。
そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。
国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。
⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎
※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
旦那様は大変忙しいお方なのです
あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。
しかし、その当人が結婚式に現れません。
侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」
呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。
相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。
我慢の限界が――来ました。
そちらがその気ならこちらにも考えがあります。
さあ。腕が鳴りますよ!
※視点がころころ変わります。
※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる