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アーバンノット伯爵の美術蒐集は有名である。
年代の古いのもさることながら、伯爵の確かな審美眼によって見出された品々はどれも価値が高く、それを目にする機会に恵まれたことはその人物が伯爵の御眼鏡に適うと認められた事を意味しており、大変名誉なことでもあった。
「これは、」
グレースはそれ以上は言葉が出ない。
流石に伯爵の蒐集を知っていたグレースは、案内された扉の前で足が竦んでしまった。
奥の部屋とは伯爵家の宝物庫の事であった。
邸内に飾る絵画を見せてもらえるのだと気軽に考えていたのだが、それは思い違いも甚だしかった。
伯爵家自慢の宝物庫。
そこに整然と収められているのは、絵画に彫刻、剣に甲冑、宝飾品に異国の青磁器、どれも美術館で目にしても可怪しくない秀逸な作品の数々であった。
「ロバート様。」
声も自ずと潜めてしまう。
「こんな所に私を通して宜しかったのですか?」
「父が許したのだから良いんだよ。」
ロバートは何でもなさそうに軽く答える。
再び視線を戻して、グレースはランプの灯りに照らされた品々に目を凝らす。
「案内しよう。」
ロバートに伴われて、ひとつひとつ、その由来から蒐集のエピソードまでを説明されながら、それが伯爵家に何代も前から継承されて来た希少な遺物とも言える品々なのだと理解した。
「素晴らしいわ。もうこんな素晴らしい機会に恵まれる事は無いでしょう。今日の名誉を私、生涯忘れませんわ。」
テラスに戻り香り高いお茶で饗されながら、グレースはつい漏れてしまう溜息を止められない。
「まあ、それ程にお喜び頂けたかしら。」
「勿論ですわ。」
夫人に尋ねられて、幾分食い気味に答えてしまった。
「はは、もっと早く君を案内したかった。」
「伯爵様にどうぞ宜しくお伝え下さいませ。」
「父の事なら気にしなくとも良いよ。解ってもらえる人物に見せびらかすのが趣味なのさ。」
「まあ、そんな。」
ロバートの軽口にグレースも思わず笑みが零れた。
「お蔭様で良い勉強をさせて頂きました。何より心が晴れました。」
「それなら良かった。」
ロバートと夫人に今日の礼を述べて伯爵邸を後にする。帰りの馬車の中でも興奮が冷めやらない。ついつい溜息が漏れてしまう。
「素晴らしかったわ、フランシス。」
「それは良うございました。」
こんな感動を共有出来るのは、グレースにはフランシスだけである。
生家にいた時には、晩餐の席で両親や兄姉と話題と感動を共有出来た。
なんてことの無い日常であったのに、今はそれが無性に懐かしく思い出される。
邸に戻ってから締め付けの無い楽なワンピースに着替えた。
晩餐は私室で軽く済ませよう。ゆっくり今日の感動の一場面一場面を思い出しながら味わい直そうと思った。
それで侍女にもそう伝えて、便箋を取り出す。
今日の事を母に伝えたい。マリア夫人と茶会で会うだろうし、その際に母からもお礼を述べてもらおう。何よりあの宝物の素晴らしさときたら。きっと母も驚き羨む事だろう。
手紙を書きながら思わず笑みが零れる。
書き終えた手紙を封に入れて、封蝋を垂らし印を押す。
封筒を侍女に頼もうと部屋を出ると、廊下の向こうからこちらへ向かって来る人物に気付いて、思わず「まあ」と声が出てしまった。
彼がこちらに着くのを待って声を掛けた。
「旦那様、如何なさったの?」
週に二度も邸を訪うなんて。いや、昨夜を合わせれば三日連続となる。
「何処へ行ってたの?」
どうやらまだご機嫌が戻っていなかったらしい夫に尋ねてくる。
「薔薇を観賞に王城の庭園へ行っておりました。」
「一人で?」
「ええ。」
この際フランシスの事は言わずとも良いだろう。
「今まで?」
今日は殊更に追求して来る。
「その後に美術館へ。」
「一人で?」
「ええ。」
憮然とする夫は、多分昨夜部屋に通さなかった事を責めているのだろう。そんな日もあるのだと流してくれる気は無いらしい。
一人ゆっくり部屋での食事を楽しもうと思っていたが、
「旦那様、お食事は如何なさいますの?」
「食べるに決まっているだろう。此処は私の邸なんだから。」
どうやらそれは無理であるらしい。
リシャールは朗らかな気質である。
イザベルとの関係が無ければ二人で楽しく暮らせたのかも知れない。話題選びも上手く、人を楽しませる話術に長けている。
なのに、今日の晩餐の席はやけに静かだ。こちらから話し掛けようかと思ったが、グレースは素晴らしい美術品に触れた今日の余韻を楽しみたかった。
無理に会話をせずともこんな静かな晩餐も偶には良いだろう。そう思いながら食事に没頭した。
食後のお茶を頂いて、そろそろ夫は別邸へ帰るのだろうと思っていると、
「もう部屋に戻ろう。」
こちらに泊まると言うので、少しばかり驚いた。グレースの表情からそれを読み取ったらしいリシャールが、
「此処は僕の家だよ?」
別に責めている訳ではない。勝手に別邸にいて帰ってこないのは夫自身である。
なんだか今更な事を言うリシャールに、グレースは調子が狂うのであった。
年代の古いのもさることながら、伯爵の確かな審美眼によって見出された品々はどれも価値が高く、それを目にする機会に恵まれたことはその人物が伯爵の御眼鏡に適うと認められた事を意味しており、大変名誉なことでもあった。
「これは、」
グレースはそれ以上は言葉が出ない。
流石に伯爵の蒐集を知っていたグレースは、案内された扉の前で足が竦んでしまった。
奥の部屋とは伯爵家の宝物庫の事であった。
邸内に飾る絵画を見せてもらえるのだと気軽に考えていたのだが、それは思い違いも甚だしかった。
伯爵家自慢の宝物庫。
そこに整然と収められているのは、絵画に彫刻、剣に甲冑、宝飾品に異国の青磁器、どれも美術館で目にしても可怪しくない秀逸な作品の数々であった。
「ロバート様。」
声も自ずと潜めてしまう。
「こんな所に私を通して宜しかったのですか?」
「父が許したのだから良いんだよ。」
ロバートは何でもなさそうに軽く答える。
再び視線を戻して、グレースはランプの灯りに照らされた品々に目を凝らす。
「案内しよう。」
ロバートに伴われて、ひとつひとつ、その由来から蒐集のエピソードまでを説明されながら、それが伯爵家に何代も前から継承されて来た希少な遺物とも言える品々なのだと理解した。
「素晴らしいわ。もうこんな素晴らしい機会に恵まれる事は無いでしょう。今日の名誉を私、生涯忘れませんわ。」
テラスに戻り香り高いお茶で饗されながら、グレースはつい漏れてしまう溜息を止められない。
「まあ、それ程にお喜び頂けたかしら。」
「勿論ですわ。」
夫人に尋ねられて、幾分食い気味に答えてしまった。
「はは、もっと早く君を案内したかった。」
「伯爵様にどうぞ宜しくお伝え下さいませ。」
「父の事なら気にしなくとも良いよ。解ってもらえる人物に見せびらかすのが趣味なのさ。」
「まあ、そんな。」
ロバートの軽口にグレースも思わず笑みが零れた。
「お蔭様で良い勉強をさせて頂きました。何より心が晴れました。」
「それなら良かった。」
ロバートと夫人に今日の礼を述べて伯爵邸を後にする。帰りの馬車の中でも興奮が冷めやらない。ついつい溜息が漏れてしまう。
「素晴らしかったわ、フランシス。」
「それは良うございました。」
こんな感動を共有出来るのは、グレースにはフランシスだけである。
生家にいた時には、晩餐の席で両親や兄姉と話題と感動を共有出来た。
なんてことの無い日常であったのに、今はそれが無性に懐かしく思い出される。
邸に戻ってから締め付けの無い楽なワンピースに着替えた。
晩餐は私室で軽く済ませよう。ゆっくり今日の感動の一場面一場面を思い出しながら味わい直そうと思った。
それで侍女にもそう伝えて、便箋を取り出す。
今日の事を母に伝えたい。マリア夫人と茶会で会うだろうし、その際に母からもお礼を述べてもらおう。何よりあの宝物の素晴らしさときたら。きっと母も驚き羨む事だろう。
手紙を書きながら思わず笑みが零れる。
書き終えた手紙を封に入れて、封蝋を垂らし印を押す。
封筒を侍女に頼もうと部屋を出ると、廊下の向こうからこちらへ向かって来る人物に気付いて、思わず「まあ」と声が出てしまった。
彼がこちらに着くのを待って声を掛けた。
「旦那様、如何なさったの?」
週に二度も邸を訪うなんて。いや、昨夜を合わせれば三日連続となる。
「何処へ行ってたの?」
どうやらまだご機嫌が戻っていなかったらしい夫に尋ねてくる。
「薔薇を観賞に王城の庭園へ行っておりました。」
「一人で?」
「ええ。」
この際フランシスの事は言わずとも良いだろう。
「今まで?」
今日は殊更に追求して来る。
「その後に美術館へ。」
「一人で?」
「ええ。」
憮然とする夫は、多分昨夜部屋に通さなかった事を責めているのだろう。そんな日もあるのだと流してくれる気は無いらしい。
一人ゆっくり部屋での食事を楽しもうと思っていたが、
「旦那様、お食事は如何なさいますの?」
「食べるに決まっているだろう。此処は私の邸なんだから。」
どうやらそれは無理であるらしい。
リシャールは朗らかな気質である。
イザベルとの関係が無ければ二人で楽しく暮らせたのかも知れない。話題選びも上手く、人を楽しませる話術に長けている。
なのに、今日の晩餐の席はやけに静かだ。こちらから話し掛けようかと思ったが、グレースは素晴らしい美術品に触れた今日の余韻を楽しみたかった。
無理に会話をせずともこんな静かな晩餐も偶には良いだろう。そう思いながら食事に没頭した。
食後のお茶を頂いて、そろそろ夫は別邸へ帰るのだろうと思っていると、
「もう部屋に戻ろう。」
こちらに泊まると言うので、少しばかり驚いた。グレースの表情からそれを読み取ったらしいリシャールが、
「此処は僕の家だよ?」
別に責めている訳ではない。勝手に別邸にいて帰ってこないのは夫自身である。
なんだか今更な事を言うリシャールに、グレースは調子が狂うのであった。
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