9 / 55
【9】
しおりを挟む
アーバンノット伯爵の美術蒐集は有名である。
年代の古いのもさることながら、伯爵の確かな審美眼によって見出された品々はどれも価値が高く、それを目にする機会に恵まれたことはその人物が伯爵の御眼鏡に適うと認められた事を意味しており、大変名誉なことでもあった。
「これは、」
グレースはそれ以上は言葉が出ない。
流石に伯爵の蒐集を知っていたグレースは、案内された扉の前で足が竦んでしまった。
奥の部屋とは伯爵家の宝物庫の事であった。
邸内に飾る絵画を見せてもらえるのだと気軽に考えていたのだが、それは思い違いも甚だしかった。
伯爵家自慢の宝物庫。
そこに整然と収められているのは、絵画に彫刻、剣に甲冑、宝飾品に異国の青磁器、どれも美術館で目にしても可怪しくない秀逸な作品の数々であった。
「ロバート様。」
声も自ずと潜めてしまう。
「こんな所に私を通して宜しかったのですか?」
「父が許したのだから良いんだよ。」
ロバートは何でもなさそうに軽く答える。
再び視線を戻して、グレースはランプの灯りに照らされた品々に目を凝らす。
「案内しよう。」
ロバートに伴われて、ひとつひとつ、その由来から蒐集のエピソードまでを説明されながら、それが伯爵家に何代も前から継承されて来た希少な遺物とも言える品々なのだと理解した。
「素晴らしいわ。もうこんな素晴らしい機会に恵まれる事は無いでしょう。今日の名誉を私、生涯忘れませんわ。」
テラスに戻り香り高いお茶で饗されながら、グレースはつい漏れてしまう溜息を止められない。
「まあ、それ程にお喜び頂けたかしら。」
「勿論ですわ。」
夫人に尋ねられて、幾分食い気味に答えてしまった。
「はは、もっと早く君を案内したかった。」
「伯爵様にどうぞ宜しくお伝え下さいませ。」
「父の事なら気にしなくとも良いよ。解ってもらえる人物に見せびらかすのが趣味なのさ。」
「まあ、そんな。」
ロバートの軽口にグレースも思わず笑みが零れた。
「お蔭様で良い勉強をさせて頂きました。何より心が晴れました。」
「それなら良かった。」
ロバートと夫人に今日の礼を述べて伯爵邸を後にする。帰りの馬車の中でも興奮が冷めやらない。ついつい溜息が漏れてしまう。
「素晴らしかったわ、フランシス。」
「それは良うございました。」
こんな感動を共有出来るのは、グレースにはフランシスだけである。
生家にいた時には、晩餐の席で両親や兄姉と話題と感動を共有出来た。
なんてことの無い日常であったのに、今はそれが無性に懐かしく思い出される。
邸に戻ってから締め付けの無い楽なワンピースに着替えた。
晩餐は私室で軽く済ませよう。ゆっくり今日の感動の一場面一場面を思い出しながら味わい直そうと思った。
それで侍女にもそう伝えて、便箋を取り出す。
今日の事を母に伝えたい。マリア夫人と茶会で会うだろうし、その際に母からもお礼を述べてもらおう。何よりあの宝物の素晴らしさときたら。きっと母も驚き羨む事だろう。
手紙を書きながら思わず笑みが零れる。
書き終えた手紙を封に入れて、封蝋を垂らし印を押す。
封筒を侍女に頼もうと部屋を出ると、廊下の向こうからこちらへ向かって来る人物に気付いて、思わず「まあ」と声が出てしまった。
彼がこちらに着くのを待って声を掛けた。
「旦那様、如何なさったの?」
週に二度も邸を訪うなんて。いや、昨夜を合わせれば三日連続となる。
「何処へ行ってたの?」
どうやらまだご機嫌が戻っていなかったらしい夫に尋ねてくる。
「薔薇を観賞に王城の庭園へ行っておりました。」
「一人で?」
「ええ。」
この際フランシスの事は言わずとも良いだろう。
「今まで?」
今日は殊更に追求して来る。
「その後に美術館へ。」
「一人で?」
「ええ。」
憮然とする夫は、多分昨夜部屋に通さなかった事を責めているのだろう。そんな日もあるのだと流してくれる気は無いらしい。
一人ゆっくり部屋での食事を楽しもうと思っていたが、
「旦那様、お食事は如何なさいますの?」
「食べるに決まっているだろう。此処は私の邸なんだから。」
どうやらそれは無理であるらしい。
リシャールは朗らかな気質である。
イザベルとの関係が無ければ二人で楽しく暮らせたのかも知れない。話題選びも上手く、人を楽しませる話術に長けている。
なのに、今日の晩餐の席はやけに静かだ。こちらから話し掛けようかと思ったが、グレースは素晴らしい美術品に触れた今日の余韻を楽しみたかった。
無理に会話をせずともこんな静かな晩餐も偶には良いだろう。そう思いながら食事に没頭した。
食後のお茶を頂いて、そろそろ夫は別邸へ帰るのだろうと思っていると、
「もう部屋に戻ろう。」
こちらに泊まると言うので、少しばかり驚いた。グレースの表情からそれを読み取ったらしいリシャールが、
「此処は僕の家だよ?」
別に責めている訳ではない。勝手に別邸にいて帰ってこないのは夫自身である。
なんだか今更な事を言うリシャールに、グレースは調子が狂うのであった。
年代の古いのもさることながら、伯爵の確かな審美眼によって見出された品々はどれも価値が高く、それを目にする機会に恵まれたことはその人物が伯爵の御眼鏡に適うと認められた事を意味しており、大変名誉なことでもあった。
「これは、」
グレースはそれ以上は言葉が出ない。
流石に伯爵の蒐集を知っていたグレースは、案内された扉の前で足が竦んでしまった。
奥の部屋とは伯爵家の宝物庫の事であった。
邸内に飾る絵画を見せてもらえるのだと気軽に考えていたのだが、それは思い違いも甚だしかった。
伯爵家自慢の宝物庫。
そこに整然と収められているのは、絵画に彫刻、剣に甲冑、宝飾品に異国の青磁器、どれも美術館で目にしても可怪しくない秀逸な作品の数々であった。
「ロバート様。」
声も自ずと潜めてしまう。
「こんな所に私を通して宜しかったのですか?」
「父が許したのだから良いんだよ。」
ロバートは何でもなさそうに軽く答える。
再び視線を戻して、グレースはランプの灯りに照らされた品々に目を凝らす。
「案内しよう。」
ロバートに伴われて、ひとつひとつ、その由来から蒐集のエピソードまでを説明されながら、それが伯爵家に何代も前から継承されて来た希少な遺物とも言える品々なのだと理解した。
「素晴らしいわ。もうこんな素晴らしい機会に恵まれる事は無いでしょう。今日の名誉を私、生涯忘れませんわ。」
テラスに戻り香り高いお茶で饗されながら、グレースはつい漏れてしまう溜息を止められない。
「まあ、それ程にお喜び頂けたかしら。」
「勿論ですわ。」
夫人に尋ねられて、幾分食い気味に答えてしまった。
「はは、もっと早く君を案内したかった。」
「伯爵様にどうぞ宜しくお伝え下さいませ。」
「父の事なら気にしなくとも良いよ。解ってもらえる人物に見せびらかすのが趣味なのさ。」
「まあ、そんな。」
ロバートの軽口にグレースも思わず笑みが零れた。
「お蔭様で良い勉強をさせて頂きました。何より心が晴れました。」
「それなら良かった。」
ロバートと夫人に今日の礼を述べて伯爵邸を後にする。帰りの馬車の中でも興奮が冷めやらない。ついつい溜息が漏れてしまう。
「素晴らしかったわ、フランシス。」
「それは良うございました。」
こんな感動を共有出来るのは、グレースにはフランシスだけである。
生家にいた時には、晩餐の席で両親や兄姉と話題と感動を共有出来た。
なんてことの無い日常であったのに、今はそれが無性に懐かしく思い出される。
邸に戻ってから締め付けの無い楽なワンピースに着替えた。
晩餐は私室で軽く済ませよう。ゆっくり今日の感動の一場面一場面を思い出しながら味わい直そうと思った。
それで侍女にもそう伝えて、便箋を取り出す。
今日の事を母に伝えたい。マリア夫人と茶会で会うだろうし、その際に母からもお礼を述べてもらおう。何よりあの宝物の素晴らしさときたら。きっと母も驚き羨む事だろう。
手紙を書きながら思わず笑みが零れる。
書き終えた手紙を封に入れて、封蝋を垂らし印を押す。
封筒を侍女に頼もうと部屋を出ると、廊下の向こうからこちらへ向かって来る人物に気付いて、思わず「まあ」と声が出てしまった。
彼がこちらに着くのを待って声を掛けた。
「旦那様、如何なさったの?」
週に二度も邸を訪うなんて。いや、昨夜を合わせれば三日連続となる。
「何処へ行ってたの?」
どうやらまだご機嫌が戻っていなかったらしい夫に尋ねてくる。
「薔薇を観賞に王城の庭園へ行っておりました。」
「一人で?」
「ええ。」
この際フランシスの事は言わずとも良いだろう。
「今まで?」
今日は殊更に追求して来る。
「その後に美術館へ。」
「一人で?」
「ええ。」
憮然とする夫は、多分昨夜部屋に通さなかった事を責めているのだろう。そんな日もあるのだと流してくれる気は無いらしい。
一人ゆっくり部屋での食事を楽しもうと思っていたが、
「旦那様、お食事は如何なさいますの?」
「食べるに決まっているだろう。此処は私の邸なんだから。」
どうやらそれは無理であるらしい。
リシャールは朗らかな気質である。
イザベルとの関係が無ければ二人で楽しく暮らせたのかも知れない。話題選びも上手く、人を楽しませる話術に長けている。
なのに、今日の晩餐の席はやけに静かだ。こちらから話し掛けようかと思ったが、グレースは素晴らしい美術品に触れた今日の余韻を楽しみたかった。
無理に会話をせずともこんな静かな晩餐も偶には良いだろう。そう思いながら食事に没頭した。
食後のお茶を頂いて、そろそろ夫は別邸へ帰るのだろうと思っていると、
「もう部屋に戻ろう。」
こちらに泊まると言うので、少しばかり驚いた。グレースの表情からそれを読み取ったらしいリシャールが、
「此処は僕の家だよ?」
別に責めている訳ではない。勝手に別邸にいて帰ってこないのは夫自身である。
なんだか今更な事を言うリシャールに、グレースは調子が狂うのであった。
2,412
お気に入りに追加
3,095
あなたにおすすめの小説
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。
ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。
即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。
そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。
国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。
⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎
※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
あなたが選んだのは私ではありませんでした 裏切られた私、ひっそり姿を消します
矢野りと
恋愛
旧題:贖罪〜あなたが選んだのは私ではありませんでした〜
言葉にして結婚を約束していたわけではないけれど、そうなると思っていた。
お互いに気持ちは同じだと信じていたから。
それなのに恋人は別れの言葉を私に告げてくる。
『すまない、別れて欲しい。これからは俺がサーシャを守っていこうと思っているんだ…』
サーシャとは、彼の亡くなった同僚騎士の婚約者だった人。
愛している人から捨てられる形となった私は、誰にも告げずに彼らの前から姿を消すことを選んだ。
旦那様は大変忙しいお方なのです
あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。
しかし、その当人が結婚式に現れません。
侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」
呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。
相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。
我慢の限界が――来ました。
そちらがその気ならこちらにも考えがあります。
さあ。腕が鳴りますよ!
※視点がころころ変わります。
※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる