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身体に纏わりつく長い手足の拘束を漸く解いて、グレースはやっとのことで寝台から起き上がった。
金の髪を無造作に散らして、未だ夢の住人である夫を見れば、美丈夫であるのにあどけなさが残る寝顔を無防備に晒している。
「旦那様、お食事は?」
耳元でそう囁けば、途端に長い腕が伸びてきて胸の中に閉じ込められた。
「君を食べてからにする。」
すんすんとグレースの首元の薫りを嗅ぎ、不埒な手が胸元をまさぐる。そうして夜の続きを始めるのだ。
汗ばむ身体を漸く起こして、今度こそは起きねばと、まだ絡まろうとする夫から逃れて先に湯を浴びる。
この侯爵家には、湯殿に温かな湯が出るシャワーが取り付けられており、時を選ばず侍女の手を煩わせずに、いつでも湯浴みが出来るのが素晴らしい。貴族夫人であるのに誰の手も借りずに身を清められるのは、職業婦人であるグレースには有難い事であった。
湯浴みを終えてタオルで髪を拭い櫛を通す。乾き始めた頃に香油を塗って、何度も梳いて艶を出す。
手短かに頬に粉をはたいて眉を整え、目元にも色粉を僅かに塗って、それから仕上げに頬紅をブラシで乗せる。
小指の先で紅を取って下唇にひと塗り、上唇の中心にほんの少しの乗せてから馴染ませた。
若い肌に薄化粧は良く映える。
乾ききった髪を軽く束ねて、大きめの髪留めで留めれば侯爵夫人グレースの出来上がりである。
生家でも、身支度は極力自分で熟すように躾けられた。
いついかなる時にも旅先でも、自身で美しく身支度出来ることは装いの基本と教えられた。母も姉も、夜会や茶会以外は自分で身繕いをしていた。そしてその姿はとても美しかった。
そんなグレースに、嫁いだ当初は侍女達も戸惑っていたが、それが自分のスタイルなのだと言えばそう云うものかと従ってくれている。使用人達は、愛人宅に入り浸るとんでもない夫を見放さずにいてくれるこの夫人を、得難いものと心得て良く仕えてくれるのであった。
すっかり支度を整えてから、二度目の眠りに入った夫を起こす。
そっと肩を揺すって起きなければ、ゆっくりと胸元を揺すってやる。大抵はそれで目覚めるが無理であるなら、
「旦那様、起きて。」
耳元で囁いてやる。
朝の弱い夫も漸く瞼を開いてくれる。澄んだ翠の瞳が現れた。
「おはよう、グレース。美しいね。」
リシャールが綺麗な爪の指先でグレースの頬をなぞる。夫は女の心を捉えるのが上手い。グレースはそんなところも憎み切れずに可愛く思っている。
「もう起きて下さいな。お食事が整っているわ。」
寝ぼける夫の手を引いて上半身を起こしてやれば忽ち抱き締められて、不埒な夫は先程の続きに持ち込もうとする。
可愛い夫であるがきりが無い。触れるだけの口付けをして諦めてもらう。
紅の移ってしまった唇を指先でそっと拭ってやって、さあ支度をなさってと今度こそ起こすのだ。
夫のいる日は、朝から大仕事である。
細身であるのに、リシャールは朝からしっかりよく食べる。
厚切りのベーコンにたっぷりの温野菜。卵は2個をサニーサイドにして。甘めのパンケーキを好むのを知っている料理長は、今日もふわふわと揺れて湯気を上げるパンケーキを用意してくれた。
溶かしたチーズとベリーのジャムが添えられて、其々の味を楽しみながら朝から旺盛な食欲を見せるリシャールを、母が子を見るような眼差しで見守るグレース。
夫は昨晩の不機嫌はどこへやら、ご機嫌に朝餉を楽しみグレースに話し掛ける。
一週間ぶりであるから、話題は尽きない。
ユーモア混じりのリシャールの話は楽しい。くりくりと好奇心を覗かせる瞳も愛らしい。四つも年上であるのに、ついつい構ってしまう愛嬌があるから、この夫を投げ出せずに今日まで来たのだ。
ご機嫌の夫はこのあと義父の経営する商会に顔を出して、それから恋人と過ごす別邸へ帰って行く。そう、帰って行くのだ。彼にとってはあちらが本来の住まいなのである。そうして残されたグレースは唯一人、この屋敷を女主人として守って過ごす。幸い自身の商会経営に奔走するグレースに、寂しさを感じる暇はない。
元からそんな男であるのは承知であったから、夫がいない夜を殊更寂しいと思った事は無い。
寧ろ、本邸にいてグレースと過ごすリシャールがこれ程好感を持てる男であるとは思わなかったから、夫は元々他に愛を得ているのだ、そんな夫に思いも掛けず好感の持てたことこそ儲けものなのだと割り切った。
決して寂しい訳では無いのだが、だからと孤独でないとは言い切れない。もし子を授かれたなら、その子と二人この邸で二人っ切りの暮らしを楽しめるのかも知れない。
それも良いかもしれないと、そんなことを思う自分も大概どこか感覚が鈍っているのだろう。それも全て解ってグレースは、早く我が子が訪れてくれないだろうかと願っている。
孤独な心にはそっと蓋をして、見て見ぬ振りを貫いている。
そうでなければ、三年の間をこの独りっきりの邸で暮らしては来られなかったろう。
次はいつ訪れるか知れない夫を見送って、軽く身なりを整えてからグレースも馬車に乗る。従者を一人付けた馬車には侍女も護衛も付いていない。
驚く程身軽な出立も、気軽で気楽な独り暮らしそのものに見えた。
信の置ける従者フランシスは、グレースの輿入れの際に生家から伴って来た。
フランシスはエバーンズ伯爵家傘下の子爵家の嫡男である。子爵家は代々エバーンズ伯爵家に仕えており、今も代官として伯爵領の差配を担っている。
フランシスはグレースの父の元で従者として仕えていたのを、婚姻の際に父がグレースの供にと付けてくれた。夫に頼る術の無い娘の未来を予期していたのだろう。
グレースは独りであるが、側に侍る従者も居れば使用人達も良く仕えてくれている。商会には信頼出来るパートナーも部下もいるし、偶に帰る夫はしつこいくらいに構って来る。
その僅かな触れ合いをこの婚姻の幸いだと認めて、グレースは今日も一日の始まりに青い空を仰ぎ見るのだった。
金の髪を無造作に散らして、未だ夢の住人である夫を見れば、美丈夫であるのにあどけなさが残る寝顔を無防備に晒している。
「旦那様、お食事は?」
耳元でそう囁けば、途端に長い腕が伸びてきて胸の中に閉じ込められた。
「君を食べてからにする。」
すんすんとグレースの首元の薫りを嗅ぎ、不埒な手が胸元をまさぐる。そうして夜の続きを始めるのだ。
汗ばむ身体を漸く起こして、今度こそは起きねばと、まだ絡まろうとする夫から逃れて先に湯を浴びる。
この侯爵家には、湯殿に温かな湯が出るシャワーが取り付けられており、時を選ばず侍女の手を煩わせずに、いつでも湯浴みが出来るのが素晴らしい。貴族夫人であるのに誰の手も借りずに身を清められるのは、職業婦人であるグレースには有難い事であった。
湯浴みを終えてタオルで髪を拭い櫛を通す。乾き始めた頃に香油を塗って、何度も梳いて艶を出す。
手短かに頬に粉をはたいて眉を整え、目元にも色粉を僅かに塗って、それから仕上げに頬紅をブラシで乗せる。
小指の先で紅を取って下唇にひと塗り、上唇の中心にほんの少しの乗せてから馴染ませた。
若い肌に薄化粧は良く映える。
乾ききった髪を軽く束ねて、大きめの髪留めで留めれば侯爵夫人グレースの出来上がりである。
生家でも、身支度は極力自分で熟すように躾けられた。
いついかなる時にも旅先でも、自身で美しく身支度出来ることは装いの基本と教えられた。母も姉も、夜会や茶会以外は自分で身繕いをしていた。そしてその姿はとても美しかった。
そんなグレースに、嫁いだ当初は侍女達も戸惑っていたが、それが自分のスタイルなのだと言えばそう云うものかと従ってくれている。使用人達は、愛人宅に入り浸るとんでもない夫を見放さずにいてくれるこの夫人を、得難いものと心得て良く仕えてくれるのであった。
すっかり支度を整えてから、二度目の眠りに入った夫を起こす。
そっと肩を揺すって起きなければ、ゆっくりと胸元を揺すってやる。大抵はそれで目覚めるが無理であるなら、
「旦那様、起きて。」
耳元で囁いてやる。
朝の弱い夫も漸く瞼を開いてくれる。澄んだ翠の瞳が現れた。
「おはよう、グレース。美しいね。」
リシャールが綺麗な爪の指先でグレースの頬をなぞる。夫は女の心を捉えるのが上手い。グレースはそんなところも憎み切れずに可愛く思っている。
「もう起きて下さいな。お食事が整っているわ。」
寝ぼける夫の手を引いて上半身を起こしてやれば忽ち抱き締められて、不埒な夫は先程の続きに持ち込もうとする。
可愛い夫であるがきりが無い。触れるだけの口付けをして諦めてもらう。
紅の移ってしまった唇を指先でそっと拭ってやって、さあ支度をなさってと今度こそ起こすのだ。
夫のいる日は、朝から大仕事である。
細身であるのに、リシャールは朝からしっかりよく食べる。
厚切りのベーコンにたっぷりの温野菜。卵は2個をサニーサイドにして。甘めのパンケーキを好むのを知っている料理長は、今日もふわふわと揺れて湯気を上げるパンケーキを用意してくれた。
溶かしたチーズとベリーのジャムが添えられて、其々の味を楽しみながら朝から旺盛な食欲を見せるリシャールを、母が子を見るような眼差しで見守るグレース。
夫は昨晩の不機嫌はどこへやら、ご機嫌に朝餉を楽しみグレースに話し掛ける。
一週間ぶりであるから、話題は尽きない。
ユーモア混じりのリシャールの話は楽しい。くりくりと好奇心を覗かせる瞳も愛らしい。四つも年上であるのに、ついつい構ってしまう愛嬌があるから、この夫を投げ出せずに今日まで来たのだ。
ご機嫌の夫はこのあと義父の経営する商会に顔を出して、それから恋人と過ごす別邸へ帰って行く。そう、帰って行くのだ。彼にとってはあちらが本来の住まいなのである。そうして残されたグレースは唯一人、この屋敷を女主人として守って過ごす。幸い自身の商会経営に奔走するグレースに、寂しさを感じる暇はない。
元からそんな男であるのは承知であったから、夫がいない夜を殊更寂しいと思った事は無い。
寧ろ、本邸にいてグレースと過ごすリシャールがこれ程好感を持てる男であるとは思わなかったから、夫は元々他に愛を得ているのだ、そんな夫に思いも掛けず好感の持てたことこそ儲けものなのだと割り切った。
決して寂しい訳では無いのだが、だからと孤独でないとは言い切れない。もし子を授かれたなら、その子と二人この邸で二人っ切りの暮らしを楽しめるのかも知れない。
それも良いかもしれないと、そんなことを思う自分も大概どこか感覚が鈍っているのだろう。それも全て解ってグレースは、早く我が子が訪れてくれないだろうかと願っている。
孤独な心にはそっと蓋をして、見て見ぬ振りを貫いている。
そうでなければ、三年の間をこの独りっきりの邸で暮らしては来られなかったろう。
次はいつ訪れるか知れない夫を見送って、軽く身なりを整えてからグレースも馬車に乗る。従者を一人付けた馬車には侍女も護衛も付いていない。
驚く程身軽な出立も、気軽で気楽な独り暮らしそのものに見えた。
信の置ける従者フランシスは、グレースの輿入れの際に生家から伴って来た。
フランシスはエバーンズ伯爵家傘下の子爵家の嫡男である。子爵家は代々エバーンズ伯爵家に仕えており、今も代官として伯爵領の差配を担っている。
フランシスはグレースの父の元で従者として仕えていたのを、婚姻の際に父がグレースの供にと付けてくれた。夫に頼る術の無い娘の未来を予期していたのだろう。
グレースは独りであるが、側に侍る従者も居れば使用人達も良く仕えてくれている。商会には信頼出来るパートナーも部下もいるし、偶に帰る夫はしつこいくらいに構って来る。
その僅かな触れ合いをこの婚姻の幸いだと認めて、グレースは今日も一日の始まりに青い空を仰ぎ見るのだった。
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