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「何があったの?」
エレンが尋ねる。
訪れた伯爵邸のいつもと違う空気を察知したらしい。
人払いをして二人きり、声を潜めて話す。
後でエドガーに報告されるだろうが、構わないと思った。
「夫へ離縁を願ったの。」
「本気なの?」
「ええ」
「離縁してどうするの?」
「個人資産で家を買うわ。そこでマナー教室でも開いて細々と生きて行くわ」
ああ、とエレンが漏らす。
マナーやピアノの教師を呼んでいたのもこの為かと思い至った。
貴族夫人が平民となり、市井で一人暮らすのは容易いことでは無い。
十分な資産とバックボーンがあればこその悠々自適な生活なのだ。
夫の不貞など目を瞑って貴族の地位に縋るのは、プライドだけではなく切実な命の保証があるからだ。
コレットはまだ若い。
けれども非力である。
今迄、散々誰かの庇護の下にいたのである。
良好な間柄とは言い難くても両親がいたし、婚姻後は夫に養われていた。
それ程世間に明るくない貴族の元夫人が、独り生きるのは口で言うほど簡単な事ではないのだ。
コレットもそれを覚悟で離縁を望んでいるのだとエレンにも解った。
エドガーの不貞の噂は有名であり、それは随分前からエレンも耳にしていた。
果たして、純粋な結婚時代はどれほどの期間であったろうか。
コレットの決して長くはない結婚生活の大半が、夫の不貞の噂で塗りつぶされている。
「伯爵様はなんと?」
「聞いて頂けなかったわ。」
コレットは、多少の折衷はあれど、離縁が拒否されるとは思ってもみなかった。エドガーとは話し合いで離縁へ至ると思っていた。寧ろ、エドガーから言い渡されるものと受け身で覚悟をしていたのである。
久しぶりに会った友に、誰にも打ち明けられぬ心の内を、コレットは明かした。
コレット自身も気持ちが定まらぬまま、思うに任せて言葉にするのを、エレンは静かに耳を傾けていた。
エドガーが離縁を拒むのは、果たして世間への体裁からなのだろうか。
コレットの知るエドガーは、物事を取り繕う人間ではない。未亡人との関係も、コレットが問い質す事は無かったからと言って、エドガーが隠していたとは思えなかった。
以前から感じていた、世間の語るエドガーとコレットの知るエドガーとの乖離に、コレットは戸惑いを感じていた。
何れにしても、エドガーの心が件の未亡人の下にあり、その関係が長く、もしかしたらそれがコレットとの婚姻前からの関係だとしたら、この婚姻は目眩ましの為に成された事になる。
ウイリーが妻を迎えるために生家を出されて、
恋人との関係を隠すために婚姻を結ばれて。
親にも初恋の人にも夫にも搾取された事実がコレットを傷付けた。
非力であるが為に低く見られて搾取される。
コレットはもう十分だと思った。
この身も心も誰にも渡さず、己が唯一人の宝だと、大切に生きて行きたいと思った。
エドガーがコレットを騙し切ってくれたなら、気付かないで済んだのだろうかという考えに、いや、彼は不実ではあったが嘘は付かない人であったと取り消した。
搾取され続ける人生に、歯止めを掛ける切っ掛けを得たのだと、自分は幸運であったのだと思う事にした。
エレンが尋ねる。
訪れた伯爵邸のいつもと違う空気を察知したらしい。
人払いをして二人きり、声を潜めて話す。
後でエドガーに報告されるだろうが、構わないと思った。
「夫へ離縁を願ったの。」
「本気なの?」
「ええ」
「離縁してどうするの?」
「個人資産で家を買うわ。そこでマナー教室でも開いて細々と生きて行くわ」
ああ、とエレンが漏らす。
マナーやピアノの教師を呼んでいたのもこの為かと思い至った。
貴族夫人が平民となり、市井で一人暮らすのは容易いことでは無い。
十分な資産とバックボーンがあればこその悠々自適な生活なのだ。
夫の不貞など目を瞑って貴族の地位に縋るのは、プライドだけではなく切実な命の保証があるからだ。
コレットはまだ若い。
けれども非力である。
今迄、散々誰かの庇護の下にいたのである。
良好な間柄とは言い難くても両親がいたし、婚姻後は夫に養われていた。
それ程世間に明るくない貴族の元夫人が、独り生きるのは口で言うほど簡単な事ではないのだ。
コレットもそれを覚悟で離縁を望んでいるのだとエレンにも解った。
エドガーの不貞の噂は有名であり、それは随分前からエレンも耳にしていた。
果たして、純粋な結婚時代はどれほどの期間であったろうか。
コレットの決して長くはない結婚生活の大半が、夫の不貞の噂で塗りつぶされている。
「伯爵様はなんと?」
「聞いて頂けなかったわ。」
コレットは、多少の折衷はあれど、離縁が拒否されるとは思ってもみなかった。エドガーとは話し合いで離縁へ至ると思っていた。寧ろ、エドガーから言い渡されるものと受け身で覚悟をしていたのである。
久しぶりに会った友に、誰にも打ち明けられぬ心の内を、コレットは明かした。
コレット自身も気持ちが定まらぬまま、思うに任せて言葉にするのを、エレンは静かに耳を傾けていた。
エドガーが離縁を拒むのは、果たして世間への体裁からなのだろうか。
コレットの知るエドガーは、物事を取り繕う人間ではない。未亡人との関係も、コレットが問い質す事は無かったからと言って、エドガーが隠していたとは思えなかった。
以前から感じていた、世間の語るエドガーとコレットの知るエドガーとの乖離に、コレットは戸惑いを感じていた。
何れにしても、エドガーの心が件の未亡人の下にあり、その関係が長く、もしかしたらそれがコレットとの婚姻前からの関係だとしたら、この婚姻は目眩ましの為に成された事になる。
ウイリーが妻を迎えるために生家を出されて、
恋人との関係を隠すために婚姻を結ばれて。
親にも初恋の人にも夫にも搾取された事実がコレットを傷付けた。
非力であるが為に低く見られて搾取される。
コレットはもう十分だと思った。
この身も心も誰にも渡さず、己が唯一人の宝だと、大切に生きて行きたいと思った。
エドガーがコレットを騙し切ってくれたなら、気付かないで済んだのだろうかという考えに、いや、彼は不実ではあったが嘘は付かない人であったと取り消した。
搾取され続ける人生に、歯止めを掛ける切っ掛けを得たのだと、自分は幸運であったのだと思う事にした。
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