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港街は美しかった。噂以上であった。
王都に近過ぎるだとか、見知った人と出会いそうだとか、四の五のマイナス点を数えていたのが、それもこれも到着したその日に霧散した。
それ程大きな街ではないが、入江の形状が内海の湾を形成しており、そこに犇めくように色とりどりの家屋や建造物が建ち並んでいる。
昼中は目が覚める様な青い空が、夕暮れ時には桃色から濃い紫に色を変え、やがて夜の帳が下りる頃には深い藍色に染まる。日が沈むと同時に街の灯りがちらちらと瞬きはじめて、それらが水面に反射して目に映り、じきに視界いっぱいに瞬く淡い光に覆われた。
鷗という白く大きな鳥が悠々と空を飛ぶ。独特の鳴き声が旅情を誘って切なさを覚える。
海から延びる山の急峻な斜面は、張り付くように建ち並ぶ鮮やかな色の屋根に覆われて、それらはまるで玩具箱から零れて落ちた様な、雑多で賑やかで楽しい眺めであった。
内海の湾の波は穏やかで、静かに揺れる水面が鏡になって、岸辺の街路灯や酒場や住まう家々の灯りを映している。眺めているだけでコレットは、すっかりこの街の景色と空気に馴染んで心を奪われた。
人の言うことには一理有るものだ。
あんなに不平で胸の内を染めていたのに、自分は意外と現金な人間なのだなと思った。
海の幸は勿論、港を経由して国内外からの物流で潤う街は、珍しい食材や美しい装飾品で溢れていた。
時折客船が寄港するらしく、それらは近隣の港に停留しながら国内を周遊するのだという。
船で旅をするなど、考えた事もなかった。
泳げないコレットは水が怖い。
落ちちゃったらどうするのかしら、と海に恐怖を覚えるのに、人生のほんの僅かな日々を船の上で暮らすなんて、なんて素敵な事だろう、月に照らされる夜の海はどんな色をしているのだろうと思いを馳せた。
これだけ建物が溢れているのだから、独り住まいの小さな邸の一つくらい難なく探せそうに思えた。
山頂まで子供の足でも登れるそうだし、麓から迫り上がる家々の灯りを見て、そのうちのひとつが自分の邸の灯りになるのだと想像すると、もうこのままこの街に居付いて、伯爵邸には戻らなくてもよいのではないかと思えて来た。
コレットの心はすっかりこの街の住人であった。
それが迂闊で愚かな考えだと夢から引き戻されたのは、夫の到着があったからだ。
多忙なエドガーが旅に合流した。
そんな事は万に一つも想定していなかったので、コレットは軽く絶望した。
旦那様は何をしにこの街へ来たのだろう。
観光?真逆!
であれば、件の未亡人も一緒ではなかろうか。きっと多分そうであろう。
何と云うこと。
楽しむなら二人でゆっくり別の日を選んで欲しかった。せめてコレットが滞在している間くらいは遠慮して欲しかった。
そんな気持ちでいっぱいになったコレットは、宿に現れたエドガーにまともな笑みすら向けられなかった。
彼女の元へ行くのなら早く行ってほしい。晩餐を共にしながら、これが終わったら未亡人の所へ戻ってくれるのだろうと、そればかり考えて折角の料理もろくすっぽ楽しめなかった。
だから、その夜寝室でエドガーに組み敷かれて、何故、今、夫と睦み合っているのか、衝撃とショックが大きくて、その後の事を上手く思い出せなかった。
王都に近過ぎるだとか、見知った人と出会いそうだとか、四の五のマイナス点を数えていたのが、それもこれも到着したその日に霧散した。
それ程大きな街ではないが、入江の形状が内海の湾を形成しており、そこに犇めくように色とりどりの家屋や建造物が建ち並んでいる。
昼中は目が覚める様な青い空が、夕暮れ時には桃色から濃い紫に色を変え、やがて夜の帳が下りる頃には深い藍色に染まる。日が沈むと同時に街の灯りがちらちらと瞬きはじめて、それらが水面に反射して目に映り、じきに視界いっぱいに瞬く淡い光に覆われた。
鷗という白く大きな鳥が悠々と空を飛ぶ。独特の鳴き声が旅情を誘って切なさを覚える。
海から延びる山の急峻な斜面は、張り付くように建ち並ぶ鮮やかな色の屋根に覆われて、それらはまるで玩具箱から零れて落ちた様な、雑多で賑やかで楽しい眺めであった。
内海の湾の波は穏やかで、静かに揺れる水面が鏡になって、岸辺の街路灯や酒場や住まう家々の灯りを映している。眺めているだけでコレットは、すっかりこの街の景色と空気に馴染んで心を奪われた。
人の言うことには一理有るものだ。
あんなに不平で胸の内を染めていたのに、自分は意外と現金な人間なのだなと思った。
海の幸は勿論、港を経由して国内外からの物流で潤う街は、珍しい食材や美しい装飾品で溢れていた。
時折客船が寄港するらしく、それらは近隣の港に停留しながら国内を周遊するのだという。
船で旅をするなど、考えた事もなかった。
泳げないコレットは水が怖い。
落ちちゃったらどうするのかしら、と海に恐怖を覚えるのに、人生のほんの僅かな日々を船の上で暮らすなんて、なんて素敵な事だろう、月に照らされる夜の海はどんな色をしているのだろうと思いを馳せた。
これだけ建物が溢れているのだから、独り住まいの小さな邸の一つくらい難なく探せそうに思えた。
山頂まで子供の足でも登れるそうだし、麓から迫り上がる家々の灯りを見て、そのうちのひとつが自分の邸の灯りになるのだと想像すると、もうこのままこの街に居付いて、伯爵邸には戻らなくてもよいのではないかと思えて来た。
コレットの心はすっかりこの街の住人であった。
それが迂闊で愚かな考えだと夢から引き戻されたのは、夫の到着があったからだ。
多忙なエドガーが旅に合流した。
そんな事は万に一つも想定していなかったので、コレットは軽く絶望した。
旦那様は何をしにこの街へ来たのだろう。
観光?真逆!
であれば、件の未亡人も一緒ではなかろうか。きっと多分そうであろう。
何と云うこと。
楽しむなら二人でゆっくり別の日を選んで欲しかった。せめてコレットが滞在している間くらいは遠慮して欲しかった。
そんな気持ちでいっぱいになったコレットは、宿に現れたエドガーにまともな笑みすら向けられなかった。
彼女の元へ行くのなら早く行ってほしい。晩餐を共にしながら、これが終わったら未亡人の所へ戻ってくれるのだろうと、そればかり考えて折角の料理もろくすっぽ楽しめなかった。
だから、その夜寝室でエドガーに組み敷かれて、何故、今、夫と睦み合っているのか、衝撃とショックが大きくて、その後の事を上手く思い出せなかった。
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