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第十二章
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学園では自由を望んだノックスだが、それでソレイユを蔑ろにするつもりはないようだった。
妃教育の後にはノックスとの茶会があるのだが、ノックスは毎回、時間に遅れることもキャンセルすることもなかった。
だが、妃教育を受けるソレイユの下に、顔を出すこともまた一度もなかった。だから今日がその「一度目」となった。
「兄上、なぜここに?」
「やあ、ノックス。剣の稽古はもう終わったのか?」
「ええ、終わりました」
「へえ。今日はゆっくり鍛錬するのかと思っていたよ」
「どういう意味です?」
「来てたじゃないか、ご令嬢が」
二人のやり取りを黙して見ていたソレイユにも、二人の間に漂う空気が一瞬ぴりりとしたのがわかった。そして、「ご令嬢」という言葉は貴族令嬢の誰にでも当てはまるのに、ソレイユが思い浮かべたのはただ一人だった。
「ご令嬢?」
「気をつけるんだな。いつまでも子供ではないのだと。まあ、ご令嬢はわかっているんだろうがな」
そこでカイルスは、向かい合って立ったままでいたソレイユを見下ろした。ソレイユはどんな顔をしていたのだろう、きっと情けない顔をしていたのだろう。そんなソレイユに、カイルスはふっと笑みを漏らした。
「なあ、ノックス。嫌なら代わってやろうか?」
「何を仰っておられるのですか」
「お前、馴染みの令嬢を娶ればよかろう」
「どういう意味ですか?」
「そのままだよ。私は言ったよな?ソレイユのダンスレッスンがあると。知ってるか?ノックス。ダンスは独りでは踊れないんだ。パートナーが要るんだよ」
もしかしたらカイルスは、ソレイユの練習相手にとノックスに声を掛けてくれたのだろうか。それでノックスの姿がなかったことで自らパートナーを買って出たのではないか。
「私がソレイユを貰おう」
「兄上には婚約者がおありだ」
「そんなこと、なんとでもなる。ソレイユなら身分に不足はない」
「兄上、ソレイユはっ」
思わず何かを言い掛けたノックスだった。それをカイルスは目溢しをしなかった。
「お前、まさか、己の疵をソレイユにも当てはめているのか?ソレイユと叔父上が無関係なのを状況証拠で理解できない愚か者がここにもいたとはな。疑惑のためにどれほどの思いをしたのか自分が一番わかっていながら、婚約者の噂に疑問を抱けないとは呆れたものだ。少し考えればすぐわかる。調べることもできただろう。それも理解できない盲目なら、黙って馴染みの令嬢を選んだほうが良いのではないか?どちらにしても伯爵位だ。ならば馴染んだ女が良いだろう」
ノックスと伯爵令嬢エリスとの交流を、カイルスは知っているのだ。それでノックスを厳しい言葉で窘めている。エリスとの婚姻を勧めるような皮肉を込めて叱責している。
感情が揺さぶられることに慣れていないソレイユに理解できたのは、ノックスとエリスのことで胸の奥底に生じた感情が「惨め」と名のつくものということだった。
そして同時に、胸の内に巣食った感情を全てカイルスが代弁してくれたことに爽快感を覚えていた。嫌な感情の澱みが静かに沈んでいく。
「そんなこと、考えてるわけがないでしょう」
思わぬ低い声音にソレイユは驚いた。獣が呻いたのかと危うく錯覚しそうになった。
「兄上のお言葉こそ全て的を外しておられる。当てずっぽうに矢を放たれては迷惑です」
ソレイユは、初めて人が言い争う様を目にして、微動だにできずにいた。ソレイユの暮らした空間は平穏で、領地の邸は静けさに満ちていた。
ざわめきは鳥たちの囀りや風が木々の葉を揺らす音だった。争う声をソレイユは知らない。
人と人が啀み合う目の前の光景に、思考が上手く定まらない。そんなソレイユに気がついたのはカイルスだった。
「ソレイユ。心配いらない。ただの兄弟喧嘩だ」
「兄弟喧嘩?」
「そうだよ、些細なことだ。君が哀しまずとも良いんだよ」
「ソレイユ」
反射的に声のほうへと振り返って目にしたノックスの瞳は、温度を無くして酷く冷たいものに見えた。
ソレイユはカイルスに何も答えてはいないのだが、あまりに強さを孕んだ声音に叱られたように思った。
ノックスは、そんなソレイユの表情に眉根を顰めた。そして足早に近づいたと思うと徐ろにソレイユの手首を掴んだ。
「レッスンは終わったのだろう?」
それは息を殺して一連の出来事を静観していたダンス講師に向けた言葉だった。
講師が頷いたのを確かめて、ノックスはソレイユを引き寄せ、そのまま部屋の出口へ向かって歩き出した。
「兄上、僕らはこれで失礼します」
自身とソレイユを「僕ら」と一括りにしたノックスに、ソレイユは小さな反発を覚えた。
思い掛けず強い力に引っ張られて、ソレイユの足が追いつかない。当然、腕より頭のほうが後になって、それで意図せずカイルスと視線が合った。
カイルスは、いつものように少し小首を傾げてソレイユたちを見ていた。薄っすら笑みを浮かべている。
「チッ」
「え?」
それは生まれて初めて聞いた舌打ちだった。今日は初めてばかりを知る。
「失礼」
自分の乱暴な行為を恥じたのか、ノックスは小声で詫びた。
護衛騎士が扉を開き、ノックスに続いてソレイユも扉から回廊へ出た。後ろからオーガスタスがついてくるのが気配でわかった。
ノックスは、ソレイユを振り返ることもせずにどんどん回廊の先を歩く。その間も掴んだ手首を離してくれない。とても熱い掌に手首を掴まれて、ソレイユの体温まで高くなるように身体が火照った。
ノックスはこちらを振り返ることをしなかったが、なぜわかるのか歩幅はソレイユに合わせていた。闇雲に歩くのではなくて、ソレイユに無理がない歩幅を窺っている。
なぜか両耳が真っ赤に染まっていて、それがソレイユにもはっきりと見えていた。
妃教育の後にはノックスとの茶会があるのだが、ノックスは毎回、時間に遅れることもキャンセルすることもなかった。
だが、妃教育を受けるソレイユの下に、顔を出すこともまた一度もなかった。だから今日がその「一度目」となった。
「兄上、なぜここに?」
「やあ、ノックス。剣の稽古はもう終わったのか?」
「ええ、終わりました」
「へえ。今日はゆっくり鍛錬するのかと思っていたよ」
「どういう意味です?」
「来てたじゃないか、ご令嬢が」
二人のやり取りを黙して見ていたソレイユにも、二人の間に漂う空気が一瞬ぴりりとしたのがわかった。そして、「ご令嬢」という言葉は貴族令嬢の誰にでも当てはまるのに、ソレイユが思い浮かべたのはただ一人だった。
「ご令嬢?」
「気をつけるんだな。いつまでも子供ではないのだと。まあ、ご令嬢はわかっているんだろうがな」
そこでカイルスは、向かい合って立ったままでいたソレイユを見下ろした。ソレイユはどんな顔をしていたのだろう、きっと情けない顔をしていたのだろう。そんなソレイユに、カイルスはふっと笑みを漏らした。
「なあ、ノックス。嫌なら代わってやろうか?」
「何を仰っておられるのですか」
「お前、馴染みの令嬢を娶ればよかろう」
「どういう意味ですか?」
「そのままだよ。私は言ったよな?ソレイユのダンスレッスンがあると。知ってるか?ノックス。ダンスは独りでは踊れないんだ。パートナーが要るんだよ」
もしかしたらカイルスは、ソレイユの練習相手にとノックスに声を掛けてくれたのだろうか。それでノックスの姿がなかったことで自らパートナーを買って出たのではないか。
「私がソレイユを貰おう」
「兄上には婚約者がおありだ」
「そんなこと、なんとでもなる。ソレイユなら身分に不足はない」
「兄上、ソレイユはっ」
思わず何かを言い掛けたノックスだった。それをカイルスは目溢しをしなかった。
「お前、まさか、己の疵をソレイユにも当てはめているのか?ソレイユと叔父上が無関係なのを状況証拠で理解できない愚か者がここにもいたとはな。疑惑のためにどれほどの思いをしたのか自分が一番わかっていながら、婚約者の噂に疑問を抱けないとは呆れたものだ。少し考えればすぐわかる。調べることもできただろう。それも理解できない盲目なら、黙って馴染みの令嬢を選んだほうが良いのではないか?どちらにしても伯爵位だ。ならば馴染んだ女が良いだろう」
ノックスと伯爵令嬢エリスとの交流を、カイルスは知っているのだ。それでノックスを厳しい言葉で窘めている。エリスとの婚姻を勧めるような皮肉を込めて叱責している。
感情が揺さぶられることに慣れていないソレイユに理解できたのは、ノックスとエリスのことで胸の奥底に生じた感情が「惨め」と名のつくものということだった。
そして同時に、胸の内に巣食った感情を全てカイルスが代弁してくれたことに爽快感を覚えていた。嫌な感情の澱みが静かに沈んでいく。
「そんなこと、考えてるわけがないでしょう」
思わぬ低い声音にソレイユは驚いた。獣が呻いたのかと危うく錯覚しそうになった。
「兄上のお言葉こそ全て的を外しておられる。当てずっぽうに矢を放たれては迷惑です」
ソレイユは、初めて人が言い争う様を目にして、微動だにできずにいた。ソレイユの暮らした空間は平穏で、領地の邸は静けさに満ちていた。
ざわめきは鳥たちの囀りや風が木々の葉を揺らす音だった。争う声をソレイユは知らない。
人と人が啀み合う目の前の光景に、思考が上手く定まらない。そんなソレイユに気がついたのはカイルスだった。
「ソレイユ。心配いらない。ただの兄弟喧嘩だ」
「兄弟喧嘩?」
「そうだよ、些細なことだ。君が哀しまずとも良いんだよ」
「ソレイユ」
反射的に声のほうへと振り返って目にしたノックスの瞳は、温度を無くして酷く冷たいものに見えた。
ソレイユはカイルスに何も答えてはいないのだが、あまりに強さを孕んだ声音に叱られたように思った。
ノックスは、そんなソレイユの表情に眉根を顰めた。そして足早に近づいたと思うと徐ろにソレイユの手首を掴んだ。
「レッスンは終わったのだろう?」
それは息を殺して一連の出来事を静観していたダンス講師に向けた言葉だった。
講師が頷いたのを確かめて、ノックスはソレイユを引き寄せ、そのまま部屋の出口へ向かって歩き出した。
「兄上、僕らはこれで失礼します」
自身とソレイユを「僕ら」と一括りにしたノックスに、ソレイユは小さな反発を覚えた。
思い掛けず強い力に引っ張られて、ソレイユの足が追いつかない。当然、腕より頭のほうが後になって、それで意図せずカイルスと視線が合った。
カイルスは、いつものように少し小首を傾げてソレイユたちを見ていた。薄っすら笑みを浮かべている。
「チッ」
「え?」
それは生まれて初めて聞いた舌打ちだった。今日は初めてばかりを知る。
「失礼」
自分の乱暴な行為を恥じたのか、ノックスは小声で詫びた。
護衛騎士が扉を開き、ノックスに続いてソレイユも扉から回廊へ出た。後ろからオーガスタスがついてくるのが気配でわかった。
ノックスは、ソレイユを振り返ることもせずにどんどん回廊の先を歩く。その間も掴んだ手首を離してくれない。とても熱い掌に手首を掴まれて、ソレイユの体温まで高くなるように身体が火照った。
ノックスはこちらを振り返ることをしなかったが、なぜわかるのか歩幅はソレイユに合わせていた。闇雲に歩くのではなくて、ソレイユに無理がない歩幅を窺っている。
なぜか両耳が真っ赤に染まっていて、それがソレイユにもはっきりと見えていた。
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