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「パトリシア、体調はどう?」
「有難うアリアドネ。安定期に入って漸く落ち着いて来たの。食事が美味しいって幸せね。」

アリアドネは久しぶりにパトリシアの邸を訪っている。
パトリシアとブライアンは、アリアドネ達の後を追うように婚姻を結んだ。そうしてパトリシアは今、懐妊している。

「夫君等が毎晩毎晩遅いから、私達って未だ独り身の様な暮らしぶりよね。」

とても懐妊している夫人の言葉と思えない。

「ブライアン様もきっと後ろ髪を引かれる思いでお勤めに出ている筈よ。誰よりも貴女の身を案じていらっしゃるわ。」

「ええ、まあ、それは解っているのよ。文は日に何度も届くから。」

えっ、朝家を出て夜帰るまでに文が届くの?何度もって何処と何処のタイミングで?

ブライアンの重い愛にアリアドネは驚かされた。

「夫ばかりではなくてよ。ハデス様だって同じ事を考えている筈よ。」

「えーとそれは、早く帰ること?それとも何度も文を書く事?」

「両方に決まってるじゃない。」

えっ、ハデスの愛とはそれほど重いだろうか?重いだろうか、重いかも知れない。

「ヴィクトリアが羨ましいわ。」
「ええ、まあそうね。」

ヴィクトリアとギルバートは、タッチの差でアリアドネ達より早く婚姻していた。そうして今は、夫妻でフランシスとアンネマリーに仕えている。二人は家庭でも職場でも一緒なのだ。

「いよいよ来月ね。」
「そうね。アンネマリー様はきっとお美しい事でしょうね。」

フランシスとアンネマリーの婚姻の儀が翌月に迫っている。今朝は早く帰ると言っていた夫は、今日も帰りは夜半過ぎになるだろう。

「貴女はきっと、大役をお受けする事になるわね。」

アリアドネがそう言うと、パトリシアは一瞬その表情を引き締めた。
婚姻後アンネマリーが懐妊すれば、パトリシアは御子の乳母となる事が決まっていた。

「不安なの?」

「不安でないと言えば嘘になるわね。けれどもこんな誉れなお役目は他には無いでしょう?そうとなれば心してお仕えするわ。」

「先ずは貴女の身体が第一よ。大切にして頂戴。」

「有難う。アリアドネ。」



パトリシアとの茶会から邸に戻れば、執事が城からの知らせがあると言う。
思った通り、今日は戻れそうに無いらしい。夜半どころが翌朝まで帰らないようだ。

「旦那様にお着替えをお持ちしましょう。」

城に泊まる日にはハデスは知らせを寄越す。そうでなければ、アリアドネは寝ずにハデスを待っているのだ。
ハデスは、些細な事でもアリアドネに負荷が掛かることを良しとしない。アリアドネが自分の帰りを待っているのは嬉しい。嬉しいけれど、アリアドネが寝不足になってしまう。
自分が一番アリアドネを寝不足にさせて、身体にも大いなる負荷を掛けているのをまるっと無視して、ハデスはアリアドネが心安く暮らせる事を望んでいる。


アリアドネは、ハデスが城に泊まる日には、必ず着替えを届ける。さもなければ、夫は着替える事なく邸を出た時と同じ成りで帰って来る。激務に草臥れた夫の姿を見るのは辛い。何より今夜会えない夫に、僅かな時間でもその顔を見たいと思う妻の囁かな甘えである。


ハデスの着替えにチョコレートを忍ばせる。あんな表情の乏しい夫が、実は無類の甘味好きであるのを知ったのは、学園での件の騒動の後であった。

あの後、二人は度々時間を合わせて会う様になっていた。
時間とは作ろうと思わねば作れない。作ろうと思えばいくらでも作れるものだと言うことを、アリアドネはこの時に知った。

学園では勿論、フランシスとアンネマリーに侍るのに同じ空間にいるのだが、それ以外に休みの日もハデスはアリアドネの邸を訪れる事が増えていた。

何故だかハデスはアリアドネの私室を好んだ。客間もカフェテラスもあるのだが、東向きの日当たりの良い部屋が落ち着くのか、アリアドネの私室に案内されるのを好むようであった。
アリアドネとお茶を楽しみながら、壁側を見つめては「うむ」と一人満足気に頷くのである。

時には、二人きりで街に出掛ける事もあった。
ハデスは何故かアリアドネが観劇を好んでいないと思っていたのだが、何を言う!アリアドネは恋愛小説が大好物で、演劇鑑賞も大大好物なのである。

悲恋がテーマの舞台などは、ハンカチは常に二枚要する事となる。ヒロインの心情に没入するアリアドネは、感極まって涙が流れるのを止められない。
そこに何故か毎回ハデスが多めにハンカチを用意して、都度々これも持ってなさいとハンカチを手渡してくるのは謎であった。

そうしてそんな観劇の後は、二人して話題のカフェなどを覗いて歩くのである。
スコーンや焼き菓子を頂くのに、ハデスがチョコレートソースをたっぷり掛けたり甘々のココアにホイップを追加で頼んだりするのを見て、

「ハデス様。もしや貴方様、甘党?」

思わずアリアドネは聞いてしまった。

ハデスは例のように目元をほんのり染めながら

「わ、悪いか。」と言った。

可愛い青年ハデスの思い出である。


着替えとチョコレートを携えて王城へ上がる。互いに心得ているから、その時間にはハデスは大抵、到着を知らせる前に控室を訪れる。

「お務めお疲れ様でございます。お着替えはなさって下さいね。」
「ああ。」

言い含めなければ着替えもせぬまま働き詰めになる夫。

ハデスは安定の二文字でそう答えて、着替えを受け取りチラリと中身を確かめる。

「お好きでしょう?」
「ああ。チョコレートに罪は無い。」

素直でないのは理由があって、大好物のチョコレートは先日ロジャーから贈られたものであった。

ロジャーは学園を卒業した後、帝国の大学へ進んだ。そうして何となく気の合うアリアドネとは今も文での交流が続いており、時折珍しい帝国の品を贈ってくれる。チョコレートは帝国の名産である。

ハデスは、アリアドネとロジャーの距離が近いのを度々臍を曲げていたのだが、気の置けない友情と渋々認めている様であった。

彼が帝国に渡るのに、船で渡るロジャーをアリアドネが見送る際にもハデスはアリアドネに付いて来た。
ニコリともせずに出航する船に向かって手を振るハデスに、アリアドネはあの夢の事を思い出す。


あの長い夢の結末。
今にも泣き出しそうな笑顔のハデス。あんな笑みをハデスにさせずに済んだ現実に、アリアドネは心から安堵したのであった。





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