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「旦那様、私はそんな事を望んでおりません。ファニーはこの家で育てますから、どうかお連れにならないで下さいませ。」

「何を言っているんだい?ファニーを花屋の娘で終わらせるのかい?これほど可憐で愛らしいのに。まるで出会った頃の君の様だ。」

「ですが貴族の籍に入っては、奥様にご迷惑になります。貴族学園などとそんな無理は仰らないで下さい。」

「妻はこのところ体調が思わしくなくてね。ファニーの様な可愛い娘が側にいたなら、あれもきっと励まされるよ。君の事は私が生涯大切にすると誓うから、心配しないでファニーを預けてくれないか。」

子爵はファニーを認知する事を望んだ。
いつか幼いファニーに語って聞かせたような、王太子殿下の妃などと、そんな妄想はこれっぽっちも抱いていない。あれは娘に聞かせた御伽噺であるのだから。

けれども、これほど愛らしく華やかに育った娘であれば、貴族令嬢としてどこも欠ける所は無いと思われた。
数ヶ月ガヴァネスに付いてもらって、早々に学園に編入させよう。読み書きは教わっていると言うから、あとは習うより慣れろと言う事だし、学園に通いながら身の熟しも慣れてくれれば良い。

子爵家でも男爵家でも、釣り合いの取れた家に嫁入り出来れば、これ程の器量良しだ、生涯愛され幸福であるのは間違い無いだろう。

子爵は本心からそう思った。だから長年連れ添った妻に、そう告白をした。
市井に庶子が一人いる。娘である。大変器量に優れた愛らしい子であるから、どうか娘として迎えてくれまいか。

愛なら変わらず君にある。
余所に子を儲けたことは済まないと思っている。けれども、君ならきっと許して受け入れてくれるのだと信じて今日まで来たのだ。
もっと早く打ち明けたかった。けれども君の体調が思わしくない日が多かったから、身体に障ってはと案じていたのだ。私を信じて許してくれないか。

夫の裏切りに二晩を泣き明かした子爵夫人は、果たして娘を受け入れた。
さぬ仲の娘であるが、愛する夫の血が通う。息子とは異母兄妹であるのだし、既に十七歳になると云うなら、一、二年で嫁入りもあろう。
そう幾度も幾度も自分自身に言い聞かせて、夫の思わぬ裏切りに目を瞑ったのである。

それは、嫡男以外を生めなかった夫への後ろめたさもあったからで、決して容易く許せた訳ではないのであるが、どうやら夫はそんな妻の繊細な心を慮る事は出来なかったらしい。
夫とは、これ程薄情な男であったろうかと、妻はこの日確かに失望したのであった。


「お義母様、初めまして。ファニーと言います。お世話になります。」

小柄でほっそりした身体は何処も彼処も色白で、花屋の娘と聞いていたが、見目は紛う事なき貴族の令嬢に見えた。
作法はからっきしであるが、教師を付ければ何とかなろう。メイドなども皆平民であるが、最低限のマナー位は覚えるのだから。

夫人は思考を切り替えた。
夫が認知をしたのなら、育てるしかないのである。幸い嫡男クリスは立派に成人してくれたから、息子に後を頼めるだろう。

家庭教師を付ければ何とかなろう、そう思って数ヶ月、教師は思った以上に手こずる様であった。夏を迎えても芳しい結果は表れない。

そうであるのに、夫は義娘を貴族学園に編入させると言う。あと半月ほどで夏休みと云う時期に慌てずともよいのではと言えば、今のうちに友人を得られれば夏休みには茶会へ招かれる事もあろうなどと夫は言う。

夫人は頭が痛くなった。今の義娘では到底無理な話である。幼女を大人の茶会に出すようなものであったから。


「ええっと、お義母様。お身体が優れないと聞きました。これは生薬なのですが、宜しければ飲んでみて下さい。附子ぶすって言います。実家の花屋にある花から作りました。」

「おお、ファニーや、お前は優しい子だな。生薬か。それはきっと効くだろう。どうだろう、お前の身体に良さそうだ。」

「附子って冷えに良く効くんですって。きっと直ぐに良くなります!」

夫人は訝しく思った。
医者でもないのに花屋の娘が寄越した訳の解らぬ薬を、夫は大層嬉しそうに受け取って、それを飲んでみろと言う。

可怪しいと思わないのだろうか。側で一緒に聞いている息子のクリスまで、それは良いなどと云う顔をしている。

夫や息子は血が繋がっているから不思議に思わないのだろうが、生さぬ仲の自分は、どうにもこの娘が小気味悪く思えてしまう。

夫の不貞と裏切りを許せぬ心がそう思わせるのか。それとも自分の心が狭すぎるのか。
今まで家族であると疑わなかった夫と息子が、これ程他人に思えた事など無かった。
果たしてこれで、これから上手くやっていけるのだろうか。

夫人は、何処からとも無く湧いてくる不安を払拭する事が出来なかった。


「何でしょう。いつもと味が違う様な、」

夫人がはっきりと発語したのはそれが最後であった。
直ぐに嘔吐したかと思うと、手足を震わせ痙攣した。慌てて医師が呼ばれて診察を受ければ、毒を得たのではないかと言う。

神経毒と思われる。ほんの僅かな摂取量であったか、若しくは直ぐに嘔吐したのが幸いしてか、命は落とさず済んではいるが、残念ながら後遺症が残るのは確実だろうと云う見立てであった。

意識はあるが口が痺れて発語がままならない。手足に麻痺が起こって立ち上がる事すら出来なかった。これよりは領地に移って療養させよう。いつか会話だけでも出来る様になるかも知れない。

子爵と嫡男はそう相談して、妻は間もなく領地へ移った。元より子爵は王都と領地を行き来していたから、これからも変わらず妻と子供達の邸宅を往復しながら、家族との暮らしは続く。

附子は鳥兜とりかぶとの塊根を乾燥させた生薬であるが、定められ方法で溶液に浸し水に晒し複雑な工程を経て処方される。とても一介の花屋の娘が作ることの出来る代物ではない。

観賞用に鳥兜を扱う花屋であるが、娘はそれを猛毒と解っていたのか、花や茎を附子と信じていたのか。
そうして誰が夫人のお茶に娘の持ち込んだ薬を混ぜたのか。夫人の断りを得たのか、果たして良かれと思ったのか。

何故か誰もその真相を探ろうとする者はいなかった。いつの間にか薬の在処も分からなくなっていた。

夫人が去った王都の屋敷で、娘の鈴の音の様な声が話すのを、父も義兄も耳を澄ませて心地よさげに聴き入るばかりであった。



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